高町飛鳥は夢をみる   作:御神の犬士

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第四話 この世は無情だね

 人間、普段と違う行動を行う際には、大小あれど緊張感を抱くものだ。これは、自身の経験にない未知の状態下に対する不安や警戒といった精神の不均衡化が原因である。

 それを取り除くためには不確定の状況に対する免疫、つまりは場慣れが必要不可欠なのだが、高町家の末女、なのはにはまだまだその場数が圧倒的に不足していた。

 

「そういうわけで、その、えぇっと……」

 

 向けられる視線に胸が痛い。悪事など何一つ働いていないのに、まるで針の(むしろ)に座るかのような居心地の悪さは何だろう。口の中にはいつまでも言葉が留まり、舌の上で溶けることなく転がり続ける。

 話の筋道はきちんと通っている、筈。ならば自分が言わんとしていることは皆、理解しているだろう。しかし、誰もが己の言葉を引き継いではくれない。

 自分の言葉を、高町なのはの言葉を待っているのだ。

 息を深く吸い込みゆっくりと、不安を混ぜ込みながら吐き出す。未だ脈拍は高域を維持し続けていたが、覚悟は決まった。

 少女は意を決し、重い唇を抉じ開け、肺腑を震わせ、そして告げる。

 

「そのフェ「なのは、早くしないと料理が冷めるぞ」…………」

 

 長い時間をかけて固めた覚悟は急速にその力を衰えさせていく。と同時に、何かが体の奥底から沸々と沸き上がってきた。その熱量の正体を少女は良く知っていた。

 それは怒りだ。

 自然に眉が釣り上がり、少女の瞳には義憤の炎が灯る。

 

「もう飛鳥、なのはが言おうとしていたのに茶々を入れるのは良くないよ」

 

 文句を言おうとするより先に隣から小言が飛び出す。なのはの姉にして高町家の長女、美由希だ。眼鏡の奥から、非難の視線が放たれる。

 しかし、問題の人物はまるで意に介しない。

 

「姉さん、そうは言ってもこのままでは折角の料理が冷めてしまう、と愚弟は進言します」

 

 トレーから配られる皿から香ばしい香りと湯気が立ち昇る。給仕人(ウェイター)のその言葉(みず)になのはの怒り(ほのお)が急速に萎んでいく。

 彼の言うとおり、いつまでも待たせては母がわざわざ出来立てを用意してくれたのに、その厚意を無碍にしてしまう。何処までも純粋な少女にはそれは、余りに罪な行為であった。

 

「だとしても、もう少し間を見計らっても良いだろう」

「お兄ちゃん……」

 

 美由希(あね)の隣に座る兄、恭也の意外な擁護になのはの胸に熱が戻る。飛鳥(おとうと)と共に自分をからかうことが多い兄だが、こうしてたまに庇ってもくれるものだがら、嫌いになれない。

 そもそも極度のお人好しであるなのはに人を嫌うなど到底無理な所業だが、肝心の当人はまるでその自覚がない。

 

「そうだぞ飛鳥。むしろあの瞬間(タイミング)を狙っていただろう」

「さて、なんのことでしょうか。生憎、私には覚えがありません」

 

 疑問ではなく確信を得ている父、士郎の視線は明らかに弟を咎めている。問題があるとすれば、一家の大黒柱の眼光にすら全く萎縮せず、どこぞの悪徳政治家の台詞を吐く少年の存在だろう。

 

「もう、飛鳥は少しは黙っててよ!」

「そうそう、もう少しだけ黙ってようね」

「そうだな」

 

 頬を膨らませるなのはに兄と姉が援護に回り、父も黙って頷く。見事なまでの一方展開(ワンサイドゲーム)だ。

 

「何という四面楚歌、この世には神も仏もいないのか……」

「そうやってなのはをからかうのは止めなさい、飛鳥。いくらなのはが可愛いからって悪戯ばかりしてはそのうち本当に嫌われるわよ?」

 

 黄昏る飛鳥(おとうと)にトドメを差したのは四面の最後の一角、高町家の要であるなのはの母、桃子の言葉だ。何処までも柔らかく、しかし確かな叱責を含ませたその言葉に、流石の問題児も折れた。

 

「それは困りますね」

 

 肩を竦めるその姿は何処までもふてぶてしく、されどその瞳には何処までも家族への親愛の情に溢れていた。

 

「悪かったよ、なのは」

「うん、分かればいいの」

 

 飛鳥の言葉をなのはは素直に受け取る。つい先程まで、あれほど不安定だった心はまるで嘘のように穏やかであり、その心はまるで小波一つない大海のようだ。

 その姉弟のやりとりを士郎たちは静かに見守る。彼らの目は何処までも穏やかだ。

 

「飛鳥、手伝いありがとう。私達も座りましょうか」

「えぇ」

 

 給仕を終えた飛鳥と桃子は自分の席へと腰を下ろす。一家全員、食卓に揃ったことで、再び視線がなのはへと集う。

 されど、少女が臆することはない。

 

「じゃあなのは、早く続きを言ってくれよ」

「うん、あのね――」

 

 飛鳥の言葉に誘われるようになのはは告げる。何処までも軽やかな心と共に。

 

 

 

 

 高町飛鳥は夢をみる 第四話 ~この世は無情だね~

 

 

 

 

「今日のすずかちゃん、凄かったね」

「そんなことないよ」

「後はアイツにトドメを刺せれば完璧だったのに! 惜しいことをしたわね、すずか」

「アリサちゃん……」

 

 親友の少々物騒な発言に苦笑しながら、学生の本分たる学業を終えたなのはたちはとある目的地へと向かっていた。

 

「すずかは悔しくないの、アイツに負けたのよ!?」

「アリサちゃんほどじゃないかな、結構良い勝負出来たからそれだけで満足だよ」

 

 髪を掻き乱すほど悔しがるアリサに負けたすずかが宥めると言った何とも奇妙な状況に、なのはは小さく溜息を零す。

 アリサの負けん気が人一倍強いのは長年通して嫌というほど痛感しているが、こと飛鳥に対してその度合いは桁違いの一言に尽きる。その倍率は脅威の三倍強、このまま行けばいずれ天元突破しそうな勢いだ。

 その理由は大よそ見当がつくが、どうにかならないだろうか。

 

「ならないだろうな~」

「何がよ?」

「ううん、何でもないよ。そういえばすずかちゃん、指大丈夫?」

 

 なのはの言葉に釣られ、アリサの視線もまたすずかの指へと向けられる。スラリと伸びた五指の内の一つに、その指に似合わぬ指輪が納まっていた。

 その指輪には装飾の類は一切なく、ただ装着者の身体の保護のみが求められる。

 

「大丈夫だよ、ちょっと血が出ちゃっただけだから。心配させてごめんね、なのはちゃん」

「ううん、むしろウチの弟が怪我させちゃって本当にごめんね」

「そんな、気にしないで。それに飛鳥君は何も悪くないよ、私が――」

「はいストップ、無限ループに入るからそこまで~」

 

 互いに頭を下げ合う両者の間に入って手で制するアリサに一同が沈黙し、そして笑い合う。

 

「でも意外よね、アイツが絆創膏なんて気の利くものを持ってるなんて」

「そうかな、飛鳥君って色々と気が利くと思うけどな」

 

 絆創膏を巻かれた指を見つめながら、すずかは本来の所持者を脳裏に思い浮かべる。その唇に優雅な曲線が描かれていることに少女はまるで気付いておらず、その様子をアリサは意に満たない様子で眺めていたが、ふと視線を隣のなのはへと向ける。

 

「なのははどう思う?」

「う~ん……剣の練習とかで結構怪我とかしているから、万が一の時のために持ってたんじゃないかな」

 

 一見、女の子にしか見えない飛鳥(おとうと)だが、その体には実は結構な傷の痕が残っている。といっても、傷痕など至近距離で見ないとまず分からない程度に薄いため、一目見ただけでは染み一つない体にしか見えない。

 

「そういやアイツ、剣道……いえ剣術だったかしら。習っているのよね?」

「うん、御神流って言うんだって、私もあんまり詳しいことは知らないんだ」

 

 弟が怪我をする九割以上の原因は鍛錬によるものだ。士郎(ちち)恭也(あに)も大小様々な傷を抱えて生きている。どうやら高町家の男系は傷とは切っても切れない縁らしい。

 不思議なことに美由希(あね)にはそういった傷とは無縁な体をしている。おそらく(しはんだい)が気を使っているのだろう、割と古風な人だから「嫁入り前の娘に傷痕など残せるか」などと考えているかもしれない。

 傷は男の勲章というが、なのはからすれば痛々しくて傷痕など、ないに越したことはないと思うのが正直な気持ちだ。

 特に飛鳥は自身と殆ど変わらぬ容姿をしているだけに、まるで自分が怪我ばかりしているようで余り良い気分はしない。だが、かと言って怪我をするなと無茶な要求をするほど、なのはも子供ではないつもりだ。

 

「ふ~ん、でアイツ強いの?」

「どうだろう……いつもお兄ちゃんとお姉ちゃんにコテンパンにやられてるから、そんなに強くないんじゃないかな?」

「そっかそっか……アイツ、そんなに負けてるの?」

 

 思い返してみるが、今日に至るまで飛鳥が兄達に勝った光景など一つとして存在しない。つまりは全敗だ。

 飛鳥が御神流を修める期間は、先人(きょうや)たちに比べ圧倒的に短い。同じ質の鍛錬を行っているのだ、その差が時間と比例するのは極めて当然といえる。それを縮めるには当人にはどうしようもない持って生れた資質、即ち才能が必要なのだが、残念ながら飛鳥の剣の才は天賦のものではないようだ。

 

「アリサちゃん、その顔止めた方がいいよ?」

「おっと、天下無敵のアリサちゃんがとんだ失態を犯してしまったわ。我ながら詰めが甘いわね」

 

 仇敵の弱みの一つを握った、と言わんばかりに会心の笑みを浮かべるアリサに、すずかはが即座に戒める。それが親友のためなのか、はたまた弟のためなのか、なのはにはまるで分からなかった。

 

「大丈夫よ、私がその程度で満足するわけないでしょ。今度こそ、アイツを倒してみせるわ!」

 

 アリサは拳を握り締め、改めて自身に誓約する。

 武力で飛鳥を退けるほど、少女に武術の才もなければ覚悟もない。彼女が自身の力で打倒することが出来るのは文武の、文だ。

 

「でもアリサちゃんと飛鳥はいつもテストで百点満点なんだから、勝負なんてつかないと思うけどな」

「なのはちゃん、余計なことを言わないの」

 

 口から思わず零れた本音をすずかが小声で忠告する。

 

「そうよ、今日も頑張って勉強して今度こそアイツを負かしてやるのよ。ほらなのは、すずか、さっさと塾に行くわよ!」

「「は~い」」

 

 幸いなことに、なのはの言葉は自分の世界に浸っていた学年主席の耳には届いていないようで、妙なやる気を出したアリサは塾に向かって先陣を切る。

 闊歩する親友の背を眺めながら、なのははこの場には居ない半身を想う。

 

 今年に入ってからアリサとすずかと共に同じ塾に通うことになった。その理由は己の学力に対する不安によるものではなく、二人から誘われたのがきっかけだ。

 その案を両親は快諾、晴れて親友達と同じ塾に通えることになった。この件は当然、飛鳥も含まれていたのだが、当人の希望で弟は塾には通っていない。

 確かに塾に通わずとも学年主席を維持しているのだ。特に問題があるわけもなく、父母もあっさり飛鳥の意見を尊重した。

 いくら双子とはいえ同じ人間ではないのだから、ずっと一緒にいることなど不可能であるのは当然なのだが、なのははまるで自身と距離をとられたかのような錯覚を覚え、塾に通う度に僅かな寂寥感が少女の胸に去来する。

 当人に理由を聞いてみたが、鍛錬の時間があるからと一蹴されてしまった。確かに、恭也(あに)たちも早朝の鍛錬に始まり、学校が終わってからも自宅で鍛錬を行っている。未だ骨格が出来ていないとかで練習メニューは違うらしいが、鍛える時間は彼らと何ら変わりない。

 確かにそのような生活サイクルでは塾に通うなど不可能だろう。

 

「飛鳥の……馬鹿」

 

 けれど、この気持ちは理屈ではないのだ。

 

「二人ともこっちこっち」

 

 暫し三人で談笑をしながら歩いていると、アリサが二人を呼び止める。彼女が指差すその先は普段自分達が使っていた通学路とはだいぶ違う。

 道路は舗装されておらず、大地が肌を晒しており、道を囲うように樹木が立ち並んでおり、外灯など皆無である。今は日が昇っているため通れるが、帰宅時には極力使いたくない、そう思える道が先へと続いていた。

 

「ちょっと道は悪いけど塾まで大分だいぶ距離短縮(ショートカット)出来るわよ。それではいざ勇往邁進よ!」

「ゆうおうまいしん?」

 

 三人の中でダントツで国語の成績が悪いなのはにとって、四文字熟語など鬼門に等しい。

 

「目的に向かって一直線ってことよ、ほらなのは、Here we go(行くわよ)!」

「日本人であるなのはより日本語を知っているアリサちゃん……この世は無情だね、すずかちゃん」

「な、なのはちゃん一緒に頑張ろう、ね!」

 

 背が煤けて見えるなのはのフォローに回るすずか、彼女の立ち位置に揺るぎはない。

 

「ほらなのは、何ぼさっとしてるの。私たちに立ち止まることは許されないのよ!」

 

 なのはに落ち込んでいる時間さえ許さないアリサ、彼女の立ち位置に揺るぎはない。

 

「は~い、行きます行きますよ~」

 

 親友の二人に支えられ平和を享受する高町なのは、彼女の立ち位置に揺るぎはない。

 

『―――――――助けて』

 

 筈だった、あの声を聞くまでは。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「ふぅ~」

 

 なのはは深く息を吐く。その表情には安堵の色が浮かんでおり、遣り遂げた達成感が胸に満ち溢れて今にも零れ落ちそうだ。

 あのあと聞こえた謎の声、アリサとすずかの耳にはまるで聞こえていない様子だが、ただ一人なのはだけは確かに、はっきりと聞こえていた。

 助けを呼ぶ声が。

 高町なのはは何処にでもいる小学3年生の女子でしかない、だがその胸には高町家が継ぐ義の心が確かに息衝いている。

 誰かが助けを求めている。気付けば少女の意識が向かうより先に体が既に声の発信源へと向かっていた。

 しかし、向かった先に居たのは人ではなかった。あれ程明瞭に聞こえていた声は確かに人によるものだった筈なのに。

 

「本当になんだったんだろう」

 

 その声は確かに今思い返してみても不可思議なものだった。

 声とは即ち音であり、音を捉えるのは五官の一つである耳の役割だ。外界の音という名の波を鼓膜が捉え、その振動が体内の器官を幾つも経由し、最終的に脳へと送られ、そこで初めて声を認識する。

 だがその《声》は違う。

 空気の流れを、振動を感じずに、されど確かになのははそれを《声》であると認知したのだ。それはまるで頭に直接語りかけてくるかのように、そう例えば――

 

念話(テレパシー)だったり?」

 

 ぽつりと呟いて寸秒、なのはは自身の言葉に吹き出した。まさか漫画やアニメの話ではあるまいし、こんなご近所にSF展開が転がっているというのか。

 

「飛鳥に言ったら何て反応するかな……」

 

 思いっきり怪しい視線を寄越すか、あるいは生暖かい眼差しを向けるか、二つに一つだろう。その光景が鮮明に映し出され、興奮状態から急速に右肩へと下がっていく。

 

「それにしても良かった」

 

 なのはが見知らぬ声に導かれて出逢ったのは人ではなく動物、しかも極めて小さい小型の哺乳動物であった。

 傷を負っていたその動物を見つけたなのはは、親友達がお世話になっているという動物病院へと急行し診断を依頼した。医師の診断結果は小さな怪我が数箇所あるものの命に別状はなく、身動き一つしないのは極度に衰弱していたためとのこと。

 首輪をつけていたところから、野生動物である可能性は低く。恐らく何処かで飼われていたところ、逃げ出してしまったまま迷子になってしまったと考えるのが自然の流れであり、小学生の無茶な要求に嫌な顔一つせず引き受けてくれた院長もなのはたちと同様の見解を示した。

 預かってくれると言ってくれたが、診断料も払っておらず早期に引き取らなければいけない。診断料や預かり先は親友たちが名乗りを上げてくれたが、いくら親しい間柄とはいえ礼儀というものがある。

 第一発見者は自分であり、その責任は自分が負うべきだ。

 しかし、なのはにその責任を履行できるほどの権限は有しておらず、この件については一家の大黒柱である士郎は勿論、家族全員に伝えなければならない。

 意を決して切り出したのは、つい小半時ほど前だ。

 

「フェレットか~」

 

 なのはは人差し指を見つめ小さく微笑む。診断後、僅かに意識を取り戻したフェレットは何故か自分を注視していた。最初に見つけたことを憶えていたのだろうか。

 舐められた感触を思い出し、緩む口角を止められない。ゴロゴロとベッドの上で転がりながら、次の朝日の到来を今から願う。

 暫くの間預かるという、なのはからすればかなりの無茶な願いを家族(みんな)は思いの他、あっさり受け入れた。

 これが飼うという話だったら、結果は別だったかもしれない。何しろ実家は洋菓子を製造販売している喫茶店であり、小動物の飼育などとてもではないが不可能であることくらい、なのはにも理解できた。

 

 ふと、勉強机に置かれた携帯電話をその視界に納めたなのはの眉間に皺が寄る。

 

「自力で起きられないなのはに飼育なんて出来るのか、だって……」

 

 弟の声色を真似ながら先の言葉を再生(リピート)したなのはは頬をリスのように膨らませながら、ジタバタと足で空を漕ぐ。

 

「出来るよ、出来るもん! 見てなさい飛鳥、お姉ちゃんの本気を!」

 

 と、いそいそと携帯電話のアラームの設定数値を弄る。いつもより音量を大きく、そして複数設定することで二度寝を防止、正に完璧な布陣(ラインナップ)。その非情の鉄壁っぷりに思わず戦慄するほどだ。

 

「今日は早めに寝ておこう」

 

 これで起きれなかったら飛鳥が増長するのは目に見えている。その鼻っ面を折るためにも、失敗は許されない。いつもより半時以上早いが背に腹はかえられない。

 明日の授業の教科書を鞄に入れると部屋の電気を消し、もぞもぞと愛すべき伴侶(ふとん)と同衾する――筈だった。

 

『――――――えますか』

 

 雑音(ノイズ)が部屋に、いや少女の意識に反響する。

 

『―――こえますか』

 

 それは徐々に鮮明に、明確に『音』から『声』へと変換される。

 

『聞こえますか』

 

「夕方の時の声!?」

 

 慌てて周囲を見渡してみるが、視界に入るのは見慣れた自室の風景であり、『声』の主と思しき存在は見当たらない。

 そして、その『声』からは何処か切迫した、緊張感を含んだものであり、なのはの意識は否応なく鋭さを増していく。カーテンで外界との情報を遮断していたが、見えずともその『声』がどちらから発せられているか意識を集中する。

 

『僕の声が聞こえる貴方、お願いです。僕に、少しだけ力を貸して下さい!』

 

 その方向から、『声』の正体が誰なのか。研ぎ澄まされた感覚が、ある存在を捉える。本来ならば一蹴されるだろう、しかしなのはは何故か確信を抱いていた。

 

「あの(フェレット)が喋っているの?」

 

 自分で言って信じられない内容なのに、少女の本能はそれを是としていた。

 

『お願い、僕のところに! 時間が、危険がもう――っ!!』

 

 ブツリと、強制的に回線を遮断したかのような不快感さがなのはの脳内に駆け巡り、思わず顔を顰める。突如として聞こえた『声』はまた唐突に途絶えた。

 何かが起こっている、それは間違いない。しかし余りに荒唐無稽、例え家族に伝えたとしても笑い話で終わってしまうだろう。

 だが、その声を確かに聴いた少女にとってはもはや笑い話では済まされない。あれほど逼迫した声をなのはは聞いたことがない。あるとしてもドラマや映画といったあくまで作り話(フィクション)の中でのものであり、このなのはが住む現実の世界では話は別だ。

 

「――やるしか、ないよね」

 

 何が起こっているのか、未だ全貌を知らない。けれど、助けを呼んでいるのだ、それだけで動く理由として充分の筈だ。例え、大した機転が利く頭脳を持っているわけでも、優れた身体能力を持っていなくても、自分にも何か出来ることがある。

 なのははそう、己に言い聞かせる。

 とりあえず、寝間着から動きやすい私服をタンスの中から引っ張り出して急いで着替えると、足音を殺して階段を下りる。

 顔を伸ばして周囲を見渡すと人影は見受けられない。

 時刻は九時を回っている。一人で外に出歩くには不自然な時間であり、もし家族の誰かに見られたら止められるのは明白だ。

 士郎(ちち)は恐らく入浴中、桃子(はは)は夕食の後片付けをしているのだろう、微かに食器が擦れる音が少女の耳朶に当たる。恭也(あに)美由希(あね)、そして飛鳥(おとうと)は言わずと知れた鍛錬の真っ最中の筈だ。

 

「それじゃ、ちょっと行ってきます」

 

 小声でそっと言い残すとなのははゆっくりと扉を閉める。

 空は漆黒に染まっており、点在する星達が静かに少女の頭上で瞬き続けている。

 

「よし!」

 

 頬を叩いて気合を入れるとなのはは一人、夜の道を駆け出す。逸る気持ちに後押しされて足を動かすが、その気持ちに体は適応出来ず、すぐに息が上がり始める。

 学校の体育という時間を他に、碌に体を動かしていないのだ。体力がないのは当然だ。

 荒くなる吐息と心臓の鼓動と戦いながら、なのはは直走る。

 目指す先は槙原動物病院、後の少女にとって生涯忘れえぬ場所の名だ。

 

「はぁ……はぁ……つ、着いたよ~」

 

 慣れない長距離マラソンに息絶え絶えのなのははどうにか目的地へと辿り着く。その到着時刻(タイム)を知ったら少女は驚いたことだろう。当人の身体能力を加味すれば中々の記録といえた。

 診断終了時間を優に過ぎた病院の中は当然、人影もなければ灯りもない。光のない建造物は何故か本能的に恐怖を引き起こす。

 しかし、尻込むわけには行かない。『声』は確かに此処から聞こえたのだ。

 

「――――またこの音」

 

 敷居を跨いだ瞬間、なのはは思わず耳を塞ぐ。超高音の周波、例えるなら黒板を爪で引っ掻くような不快音が脳裏に反響する。先の『声』を聴いたときも同様の現象が起こっていた。

 その原因をなのはが知る筈がない。

 

「一体何なの」

 

 少女の疑問に答えてくれる者はおらず、奇想天外な展開が次々になのはを襲う。

 思わず脳裏に響く音に耐え切れずに目を閉じていたなのはが瞼を開けると、景色が一変していた。

 昼夜が一瞬にして逆転したというわけではなく、夜空から星々が姿を晦ましたわけでもない。ただ、周囲の色が不思議な色に塗り潰されていた。

 それだけではない、人影はなけれど周辺にあった生命の波動が突如まるで感じられなくなってしまった。まるで廃墟に一人佇んでいるかのような圧倒的な孤独感になのはは体を小さく震わせた。

 

 寸陰、病院内で突如轟音が鳴り響く。

 

「な、何、何なの!?」

 

 なのはが今まで聞いたことのない人為的な破壊音に、身を竦ませその発信源へ目を向けると僅かに開かれていた窓の隙間から小さな影が一つ、飛び出す。

 その正体を少女は知っていた。

 

「あのフェレット!」

 

 超常現象のオンパレードについていけず思考が停止しかけていたなのはにとって、それは最良の気付け薬となった。

 棒立ちとなっていた足に突如力が戻り、慌てて駆け寄ろうとした瞬間、窓が甲高い音を立てて砕け散った。

 何かが強引に飛び出してきたのだ。

 

 それを目にした瞬間、体が金縛りにあったかのように動かず、なのはは思わず唾を飲み込む。それが一体なのか、少女の理解の範疇を遥かに超えていた。

 生物として当然ある筈の輪郭が定かではなく、まるで炎のように常に揺れ動いている。禍々しい瞳と獰猛な牙は見えるのに、腕もなければ脚もなく、代わりに触手の様なものが絶えず揺れていた。

 そもそも、あれが本当に()()なのか、なのはには確信を持てない。

 

「流石に、病院に運ばれた患者さん、じゃないよね?」

 

 氷の彫像のように凍ってしまった顔の筋肉が引き付けを起こす。

 なのはの理解など置き去りにして、事態は急転し続ける。正体不明の生物は明らかにあのフェレットを狙っていた。未だ痛々しい包帯を身につけたフェレットをまるで極上の獲物のように、執拗に牙を剥く。

 

「あ、危ない!?」

 

 なのはの言葉に反応したのか、フェレットは跳躍する。寸時、フェレットが立っていた樹木が圧し折れる。事態はそれだけでは済まされない、木を粉砕し、その向こう側にあったコンクリートの外壁すら易々と破壊する。

 まるでトラックが激突したかのような惨事を眼前でまざまざと見せ付けられ、少女の体は完全に大地に縛り付けられてしまう。

 

「わわっ!?」

 

 軽やかな宙返りを決めたフェレットが懐の中に納まる。その生命の熱に、恐怖に凍り付いていた精神が僅かに持ち直す。

 

「来て、くれたの?」

「…………えっ」

 

 しかし、その精神をあろうことか眼下の存在が木っ端微塵にしてくれた。

 

「喋った!?」

 

 フェレットが、日本語を、そんな馬鹿な、漫画じゃあるまいし、でも日本人より日本語が出来る日系ハーフがいるのだ、日本語を喋るフェレットがいることだって別に可笑しくは――

 

「あるに決まってるよ!?」

 

 頭を抱えたくなる事態の連続に、なのはの頭脳が過熱(オーバーヒート)を起こしそうだが、そうなればどうなるか、彼女の中にある僅かに残った理性が、本能がそれをギリギリのところで踏み止まらせていた。

 しかし、未だ正気を保っているからこそ、その異形な生き物のその異質さが否応なく理解できる。

 あれは、あってはならないものであると。

 だが、その心とは裏腹に、少女の体は一刻も早く逃げるべきだと最大級の警告を発し続けていた。

 生物とは最早呼べず、正に魔物と呼ぶに相応しいその怪物の破壊衝動に満ちた瞳が、ついになのはにも向けられる。

 その瞬間、まるで蛇に見込まれた蛙の如く、なのはは体を完全に硬直させてしまう。

 産まれて初めて味わう純粋な敵意と、人一人容易く壊してしまえる暴力を前に毅然と立ち向かえるほど

、少女は強くはなかった。

 

「駄目だ、逃げるんだ!」

 

 フェレットの声がやけに遠くに聞こえてくる。大きく跳躍し、自分に迫るそのバケモノを前に、なのはの意識は急速に鈍化する。 

 いや、むしろ逆。迫る命の危機に、脳が限界まで覚醒しているのだ。生き残る術を模索するために。

 極限まで伸ばされた時間を前に、なのはの脳裏に様々な人物がまるで泡のように浮かんでは消える。

 

 これが、走馬灯なのかな?

 

 士郎(ちち)が、桃子(はは)が、恭也(あに)が、美由希(あね)が、アリサが、すずかが、大切な人たちの顔が鮮やかに蘇っては溶けて消える。

 そして、誰より鮮明に映るのは我が半身、魂の片割れ。

 目前まで迫る死を前に、なのはは気付けばその名を叫んでいた。

 

「飛鳥ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 その声に――

 

「聞こえてるよ、なのは」

 

 少年は応えた。




物語が動き出す

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