職員室とは職員の為の部屋である。職員とは職に用意された人員である。
だとすれば専門職を抱える会社の控え室は全て職員室であるべきである。
しかしそうは呼ばない。その用語に適合するのは何故か『学校』だけだ。
本来なら『教師控え室』が似つかわしい筈だが、何故かそうは呼ばない。
そんな矛盾を頭の中で考えつつ、山田次郎はその部屋の前に立っていた。
もちろん彼が職員室大好きなワケではない。むしろ緊張で逃げたくなる。
だが彼は逃げられない理由があった。その理由は『顧問の呼び出し』だ。
合宿最終日に顧問から伝えられた、部活動の『宿題』を答える時なのだ。
「……しっ……しっ……しっ……しちゅれいしまちゅ!山田れひゅっ!」
入室からもはや敗北状態である。彼の脳裏にあった色々な考えは飛んだ。
顔を真っ赤にして、手先ががくがくと震え、膝もカタカタと笑っている。
直立の姿勢で彼はそれ以上動けない。教師が数名、不審そうに彼を見る。
「おいおい、そこで立ってても何も始まらんぞ山田部長。こっちこい。」
「は、はぃい!山田次郎、これより瀬田ヶ谷先生の机に向かいました!」
「過去形でどうする。いいからサッサとこっちに来んか、馬鹿もんが。」
鼻汁が垂れはじめる。口角が片方だけ上がる。右手と右足が同時に出る。
映像文化研究部顧問である学年主任の瀬田ヶ谷教諭の机までそれは続く。
辿り着いたときには、山田の顔と首、そしてYシャツにはびっしりと汗。
「おまえ成績が良いワリには緊張に弱すぎるな。推薦枠、蹴ったって?」
「ははっ!筆記試験のみの受験でなければ勝てぬと自負しております!」
「自負するなよそんなん。まーこの調子で面接とか無理なのは判るが。」
部長として呼んだのであって受験面談をする為に呼んだ訳ではなかった。
しかし山田は今まさに受験生。そして顧問の瀬田ヶ谷は受験対策本部長。
どうしても顔を見ればその話題から始まるのは仕方のないことであった。
「ま、それはいいんだ。山田は適当なトコで着地すると見てるからな。」
「あ、あ、ありがたき幸せ!この山田次郎、必ずや適当に着地します!」
「いや、本人はもうちょっと上を見ろよな。ところで映研なんだがな。」
耳に映研の二文字が入るやいなや、彼の紅潮は引いて、肩の力が抜ける。
瀬田ヶ谷の表情が少し緩んだ。この山田次郎は部活動だけには冷静だと。
なんでこれが受験に生かせないのかと考えるあたりは、一種の職業病だ。
「映研部長の責務として決断しました。遺憾ながら部室を放棄します。」
「俺もそこが落とし所だと思う。……山田はもっとゴネると思ったが。」
「部活は人に拠って成り、人に拠って立ちます。部員こそが全てです。」
「では山田部長、あと1週間で部の資材を撤去しろ。基本的に廃棄だ。」
山田は部長である。部室を持たぬ部活の資材廃棄については知っていた。
校史編纂室の撤去に伴い部室を失った囲碁将棋部、その後焼却炉に碁盤。
校庭の陣地争いに負けたペタンク部、泣きながら彼らは金属球を捨てた。
「……映研資材は古いながら高価な物もあります。それも廃棄ですか。」
「まーな。だが廃棄証明は必要無い。要は部屋が空けばいい。判るな?」
「あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああ!」
「判ったかと聞いてんだ山田。判ったなら判ったとキチンと返事しろ。」
「わ、判りました瀬田ヶ谷先生!映研は必ずや期日までに撤退します!」
一礼し職員室を飛び出す山田くん。なぜ彼は会話中に、叫びだしたのか。
顧問は部屋が空きさえすれば良いという事を伝えた。つまり、逃がせる。
部材さえあれば、そして使える人間さえ居れば、映画製作は続けられる。
彼はこの起死回生の一手を部員に伝えたかった。映研は滅びないのだと。
だが特別校舎二階に繋がる連絡通路で、彼は思いもよらない人間と会う。
「あ、お、おお!二宮くん!久しぶりだー!やっと、やっと会えたよ!」
「あー、山田センパイじゃないスか。ちょっとお願い聞いて貰えます?」
「聞く聞く、なんだって聞いちゃう!この山田次郎に全て任せたまえ!」
山田は久々に二宮と会った。夏休み前に会ったきりで、随分ごぶさただ。
本当に夏休みには色々とあった山田くん。伝えたいことは山ほどあった。
少し髪は脱色されてるものの、人懐っこい笑顔は夏休み前と変わらない。
「殴らせて。」
「……え?!」
山田は彼から発せられた言葉の意味が判らず、笑顔のままで立ち止まる。
そして目にも止まらぬ速さの拳が眼鏡に直撃しても、理解できなかった。
ひしゃげて吹き飛ぶ眼鏡。首がもげそうな衝撃。そして襟首に掛かる力。
「姉さん泣いてたぞ。何様だよお前。ついてくからドゲザしてこいよ。」
「……そ、そうか。土下座は一向に構わない。しかし、和解は出来ん。」
「じゃあ和解するまで俺は殴りますよセンパイ。それでどうですかね?」
吹き飛んだ眼鏡を渡される山田。なぜか眼鏡は元の形のままに顔に戻る。
それは眼鏡が意外と高価で握っても大丈夫なフレームを使っているから。
彼自身が別にねだった訳ではなく、父親がスポーツ用にと与えたものだ。
そして二宮は殴る。彼は暴力的な経験値を山田よりも遥かに積んでいる。
暴力はチラつかせるべきではない。行使して経験させて交渉をするもの。
交渉に応じなければ更に行使する。応じなければ終わらない事を伝える。
「俺は二宮純という部員の頼みなら何でもする。だが、今の君は違う。」
「あー、すんませんセンパイ。芝居がかった言い回しは理解不能ッス。」
「……二宮くん、君は、俺に嘘をつけと言っているのが判らないのか。」
二宮は左手で襟首を掴みながら右手で殴る。幸か不幸か、人通りは無い。
人通りがあれば山田への暴力は止んだかもしれない。しかし止まらない。
これは偶然ではなく、一般校舎側の入り口を一之瀬らが塞いでいるのだ。
彼らも山田には一目以上を置いている。山田への尊敬の意識は有るのだ。
だがそれ以上に二宮との付き合いが長かった。そして彼らは知っている。
実姉に関連する事案では手がつけられない。一之瀬ですら恐れるほどだ。
「双葉姉さんは、ずっと山田クンが好きって言い続けてたんですよね。」
「そう、なのだろうな。そこには全く不満は無い。彼女、美人だしな。」
「山田センパイさ、もう卒業でしょ?映研から少し離れちゃどうスか?」
「それにも依存は無い。隠居は望む所だ。俺は少々長く居座りすぎた。」
二宮はまだ殴り続けていた。自分が喋っては殴り、山田が喋っては殴る。
山田もあえて止めなかった。彼が田中嬢の弟と知ってから予想していた。
山田は男二人の兄弟で姉妹は居ない。だから姉妹には憧憬の念もあった。
「その上での土下座なら甘んじて受けよう。謝罪なら幾らでもしよう。」
「……好みじゃないとか言ったらしいッスね。意外とメンクイですか。」
「面食いだったら良かったのかもな。彼女は一般的に美人の部類だし。」
「煮えきらねえッスね。美人だ、不満は無い、じゃあ何が駄目なんス?」
「彼女の価値観と俺の価値観の違い、あとは……俺にも判らないんだ。」
一般校舎と特別教室校舎を繋ぐ渡り廊下。一般側は既に閉鎖されている。
2学期初日たる本日は授業が無かった。普通は特別教室に用は無いのだ。
だが実際には奇特にも特別側にも人は居た。騒ぎを聞き、顔を覗かせる。
二宮はたまに現れてくる人間たちを視線で威嚇して、そして退散させる。
「そんなドゲザじゃ姉さん喜びませんよ。大好きくらい言えませんか。」
「少し思うんだが、彼女くらいだったらイケメンゲットは余裕だよな?」
「あー。まぁ、そうっスね。でも昔から姉さんはセンパイ一途ですし。」
「昔から、か。君も知っての通り俺はそこまでの人間じゃないと思う。」
「そこは微妙ですね。俺は意外とお似合いだなとは思ってますけどね。」
「俺が性格イケメンで女にモテモテなグッドルッキングガイと思うか?」
二宮による山田への殴打はストップしていた。いや『させられて』いた。
これは山田の術中に嵌った事を意味する。山田には例の特殊能力がある。
山田は会話を続けながら小指の状態を確認し、殴打の無い話題を探った。
二宮は毒気を抜かれたような状態となり、襟首を持つのみの状態だった。
「うーん、まぁ見ようによっては何とかギリギリ……いや、無理かな。」
「だろう?もしかしたらその辺が俺のわだかまりなのかも知れないな。」
「姉さんが美人すぎて、って事ッスか。それならまぁ、無くはないか。」
「とにかく彼女と俺の問題はここでは終わらないさ。それは確実だよ。」
「じゃあ姉さんと話をする気はある、てことでイイんですねセンパイ?」
「他ならぬ二宮くんの願いだ、それは約束する。ここでは終わらない。」
二宮はここでやっと山田の襟元から手を離す。山田は論戦に勝ったのだ。
ペンは剣よりも強いと昔の人は言った。この場を例えるならば、こうだ。
『無敵の地域最大暴力高校生は、小心者のコミュ障高校生には弱かった』
「そうだ、二宮くん手伝ってくれないか?部活の資材を運び出すんだ。」
「こんな時期に部室の移動ですか。ドコの教室に行くんですセンパイ?」
「どこも行かないよ。部室は放棄する。映研はこれから流浪の部活だ。」
それを聞き呆然と立ち尽くす二宮。そこで彼は顧問の言葉を思い出した。
一之瀬の不祥事で退部する必要は無い、部室さえ明け渡せばそれで終了。
彼はここでスイッチが切り替わる。実の姉の件で止まっていたともいう。
進展の速さに舌を打った二宮。まだ避けられると高をくくっていたのだ。
「それってもう決定事項スかセンパイ?……俺、聞いてませんけどね。」
「これは俺だけで決めた。箱根班にはそれとなく伝えてはいるけどな。」
「はぁー。瀬田ヶ谷先生から俺らの退部届の件って聞いてないんスか?」
「一応は聞いたが呑む訳なかろう?部室に君ら以上の価値なぞ無いさ。」
不思議そうに答える山田。当たり前を何故言わせるのだという顔だった。
事態が行き詰れば山田は自分達を優先することは二宮にも想定内だった。
だが三狩屋の調査の件もあった。黒幕を押さえさえすれば良い筈だった。
まさか新学期一日目で顧問が動こうとは策士二宮にも予想外の事だった。
「そうすると部室は無くなりますよね。どこで活動するつもりスかね?」
「とりあえず仮の活動場所は俺の家でいい。兄貴の部屋が開いてるし。」
「長くは続きませんよそれ。だいいちセンパイもう卒業じゃないスか。」
「それまでには見繕うさ。使われていない特別教室だってある訳だし。」
山田は平然と言い放つ。しかし二宮は目の前の部長の虚勢を知っている。
二宮とて全く無知ではなかった。恒久部室の獲得は弱小部の悲願なのだ。
空き教室には理由がある。無いのならば何処かしらの部室になっている。
「……センパイ、今回の俺らの不始末は放出が一番平和じゃないスか?」
「俺は君らの事を知っている。理由無く不祥事は起こさない。違うか?」
「まぁそうですけどね。ただ、ぶっちゃけハメられたくさいんですよ。」
「なら余計に君らを手放せない。君らを信じるし、守ると決めてるよ。」
二宮の右手がズキズキと痛み出す。先程山田を殴った指の付け根の辺り。
なるほど、この人は石頭だ。石を殴ったら手だって痛くなるのは道理だ。
山田や部活に一切の非は無いと伝え、わざと面倒を匂わせる事も言った。
だが山田は部長としての判断を一切曲げようとはしない。まさに石頭だ。
「判りましたよセンパイ。じゃあお言葉に甘えて部活には残留します。」
「じゃあ戻ろうか。一年生たちが久々の全員集合に胸躍らせているぞ。」
「そうだ、入部希望が1人いるんですけど、それだと断ったほうが……」
「な、なんだとっ!?それは聞き捨てならんぞ!歓迎準備をしないと!」
「じゃあ紹介しますわ。……おーいイチ!センパイが彼女許可したぞ!」
一般教室側からパタパタと一之瀬と三狩屋が、廊下を渡って走ってきた。
だが山田は首を傾げる。二人は入部希望も何も元から映研部員のはずだ。
しかも『彼女』と二宮は言った。もしかして、どちらか本当は女なのか。
そうすると身長の高い骨太な三狩屋はありえない。まさか一之瀬が女か。
「い、一之瀬くん、性同一性障害は病気じゃない。皆も受け入れるさ。」
「セイドウイツセイショウガイ?……すまねえサンタ、教えてくれよ。」
「あー、体は女なんだけど心は男ってやつだ。おまえ、オッパイある?」
「嘘!?俺って女だったん?知らんかった!でも俺チ●コついてるぜ?」
「だよなあ。センパイ、ついてて心も男だと、それ普通に男っスよね。」
そこで三狩屋の背中から、シャギーカットの女の子が顔を覗かせてきた。
目が合うシャギー少女と山田。かなりの動揺が山田に沸き起こっている。
だが後輩たちの手前もある。彼は勇気を振り絞りシャギー少女に微笑む。
彼女もそれにつられ、にっこりと微笑んで返す。前歯が一本欠けている。
「に、二宮くん、もしかして、この女の子が入部希望の子、なのかね?」
「そうっすね。名前は尾崎紀世子ちゃん。実はこの子イチの彼女です。」
「ほへー!そーかー!一之瀬くんもやるなあ!このリア王め!暴君め!」
「ちげーよニノ!こいつはそういうんじゃなくて舎弟だし!な、尾崎!」
「はい、一之瀬様の恋人なんて恐れ多いです。私は忠実な奴隷女です!」
苦々しい表情を浮かべる一之瀬氏と、満面の笑みで彼の腕を取る尾崎嬢。
何故彼女がここにいるのか。それには少しだけ日付を戻す必要があった。
尾崎紀代子の拉致監禁事件は、立川警察一之瀬雄二郎の大金星であった。
犯人自体は三下のヤクザであったが、彼の所属は広域指定暴力団だった。
そして取調べの結果、上級構成員の情報を幾つか引き出す事に成功した。
「……お嬢さん、本当にすまない。」
「いえ!悪を倒し正義を貫く為ですもんね!カッコイイですおじさま!」
「せめて、ご両親には会わせよう。」
「そんなの別にいいです!できたらですけど、私は雄大様に会いたい!」
「……それは善処しようお嬢さん。」
「お嬢さんとか勿体無い!私の事は雄大様の奴隷とでもお呼び下さい!」
「……では雄大の彼女と呼ぼうか。」
「駄目ですよおじさま!私はまだ雄大様の恋人には相応しくないです!」
はにかみながら赤面し頬に両手を当てて、モジモジと体をひねる尾崎嬢。
そして金剛力士像よりも怖い顔で彼女を凝視している立川警察署の署長。
事件は立川署捜査二課から、警察庁刑事局組織犯罪対策部に管轄が移る。
情報が精査され、『頂上作戦』が立案されるのに長くは掛からなかった。
情報源の中年構成員、そしてそもそも中年の立件に必要な尾崎は危険だ。
どちらかが欠ければ頂上作戦に支障をきたす。そこで彼女の保護なのだ。
「申し訳ないが保護プログラムで暫く帰れん。我が家で過ご事になる。」
「ええ?じゃ、じゃあ、その、雄大様と、……同じ屋根の下で生活を?」
「子供は雄大だけなもので相部屋になるが、嫌ならば客間を改造する。」
保護プログラムとは証人を守る為の制度で『公益通報者保護法』を指す。
もちろん戸籍を変えたり公的資金により生活を保障したりは一切しない。
しかし法廷での手続きが済むまでの間は、警察等が身柄を保護するのだ。
ただ、その法律とは決して証人を喜ばせるために存在するモノではない。
無論、証人と息子による青春の門をセッティングする為のモノでもない。
だが、蕩けきった証人の顔とその前にいる署長の心にはそう書いてある。
「嫌だなんてトンでもありません!兄弟と相部屋ってずっと夢でした!」
「ならば安心だ。雄大もきっと歓迎するだろう、少し暴走しがちだが。」
「大丈夫です!手足の二・三本くらいだったら、私我慢できますから!」
「そういう暴走ではなく、奴も若い男、君に不埒な行為をする事も……」
「それはむしろ願ったり叶っ……いえ、貞節はそれなりに知ってます!」
立川署署長の彼に1人だけメル友がいる。息子の古くからの友人である。
彼はメール内でこう記述している。尾崎紀世子はイチを崇拝していると。
年頃の女の子が果たして崇拝などするのかといぶかしんだ彼であったが、
なるほど、これは『崇拝』。彼女の目は一之瀬雄大にしか向いていない。
だが責任者として彼女には伝えるべき事もあった。彼は話を続けていく。
「ご両親にはその事は伝えておいた。渋ったが何とか許可してくれた。」
「え?!……ああ、そうですね。許可しますよ、あの人たちだったら。」
「ご両親は1年で捜索願を山ほど出しておる。恨むなら無能な警察だ。」
「ちがいますおじさま。口癖みたいなもんで今は恨んでいませんから。」
そうは言っても、親を『あの人』と呼ぶのは親子関係の崩壊を意味する。
今でこそ笑顔が絶えない尾崎嬢がネットゲームに嵌るにも理由があった。
それは養育放棄。両親は仕事多忙を理由に彼女を親戚に預けていたのだ。
もちろん彼女の養育に必要な金額は充分以上に親戚に振り込まれている。
しかし残念な事に情操育成に必要である愛情は振り込まれていなかった。
彼女が欲しい物を言えば親戚は与えた。そしてそれは両親に請求された。
尾崎は間接的には両親の存在を感じるが、目の前には、親戚しかいない。
「紀世子ちゃん、お母さんからお手紙が来てるわよ。置いておくわね。」
「あの人はまだ私と顔を合わせたくないんですか。なら捨てときます。」
「……そうね、好きにしていいわよ。私からも捨てられたって言うわ。」
「いつもすみませんおばさん。あの人、私の事少しは怒ってますかね?」
「……その時はちゃんと言うわ。あなたはいくらでも好きにしなさい。」
親戚の家族も尾崎紀世子の両親には何度か忠告していた。問題であると。
年頃の女の子を数年に渡り放置しているのは尋常な神経ではありえない。
それに自分たちにも子供はいる。預かり子への注意は散漫になりがちだ。
やがて彼女に最悪の選択肢が与えられる。パソコン環境の導入であった。
彼女は親戚の家の離れ屋をあてがわれ、そこでパソコンごと隔離された。
しかもこの発案は親戚ではなく彼女の両親であった。離れも両親の提供。
「紀世子ちゃん、おばさんが紀子に文句言いに行くわ。一緒に来ない?」
「駄目ですおばさん。あの人が求めているんだったら、私は従います。」
「そう。だったら好きにしたらいいわ。おばさんはいつだって味方よ。」
彼女はやがて学校にも顔を出さなくなる。それは当然の帰結だと言えた。
ちなみに紀子とは尾崎嬢の母親の名前であるが、特に記憶の必要は無い。
目の前の少女に見慣れてくる山田。部員だという意識なればこそだった。
山田は榎本の仲間が辞めた時を思い出す。彼らは人数あわせ用であった。
そして目の前の少女も、少々変だが一之瀬の子分であると標榜している。
山田は腕を組みながら、この前歯の足りない少女に試験を行いはじめた。
「尾崎さん、だっけ。俺が部長の山田だよ。二・三質問していいかな?」
「お噂はかねがね一之瀬さまから聞いています。どうぞお手柔らかに。」
「まず好きな漫画とかアニメとか映画とか教えてくれると嬉しいかな。」
「少年漫画もいいんですけど、最近CLAMPにハマっちゃってます。」
「シブいところが来たね。やっぱりCLAMPだと、『X』とかかな?」
「えーと、好みは『リグヴェーダ』とか『東京BABYLON』です。」
黎明期の作品と、評価が高いながら知名度の低い作品を並べる入部希望。
だが二宮が一枚かんでいるとなれば、仕込まれている可能性も十分ある。
少し意地悪をしてやろうと、彼は胸元に大事に抱えていたノートを出す。
「これは、次の発表で使う映研のザッピング作品のメインプロットだ。」
「あ、そういうのあるんですか。……あの、私が見てもいいんですか?」
「ぜひ見てくれたまえ。出来れば意見など聞かせてくれると嬉しいな。」
尾崎紀世子は石川真理子と境遇的に似通ったところもある。しかし違う。
石川真理子がネットゲームの一件から漫画を志したのは合宿話をご参照。
しかし、彼女は逆であった。彼女は両親から離別状態の頃からのものだ。
彼女は石川と違い年季を積んでいた。求道ではなく我道。安定期である。
「ちょっと強引なプロットですけど、お話は膨らみますかね。ただ……」
「ただ?」
「言っていいのかな、この生物部の部長が動く動機が少し薄いですね。」
「……。」
「物理部と化学部の方が判りやすいのに対して、なんだか適当かなと。」
「……。」
「例えば生物部が作る女子が妹に似てるとか、そういう裏もアリかも。」
「……。」
「製作物と割り切れる物理部との対比でやるのに、優しさだけじゃ……」
「……。」
「尺が短いなら他も全部女の子作って、女大好き!とかでもアリかな。」
「……。」
「モデルがいたらゴメンですけど、この生物部の部長、魅力なしです。」
「……。」
「えーと、あと生物部の女の子も凄く適当ですよね。学ラン少女だけ?」
「……。」
「学園物で攻めるにしても、もう少しキャッチーな特徴欲しいかなと。」
「……。」
「おっと、そこまでだぜ尾崎ちゃん。山田センパイのライフはゼロだ。」
うつむいたまま渡されたノートを眺めてしゃべる尾崎を、二宮が制した。
顔を上げた彼女は、呆然とした表情で固まっている山田部長の姿を見た。
ここに来て彼女は、映研の総責任者に辛辣な駄目出しをした事に気付く。
「あ、そ、その、ごめんなさい!私つい!こういうのって知らなくて!」
「……す、素晴らしい!凄い逸材だよ!どこで拾ったんだ一之瀬くん!」
「え?あ、あのー、確か立川飛行場の北側のマンション、だったかな?」
「人は石垣、人は城!夏休み中の人材発掘なぞ歴代部長でも君だけだ!」
「え?……うはは、まぁその、それ程でもありますな!俺、天才だし!」
「そうです!私は一之瀬さまに運命的に出会いました!一之瀬さまに!」
「入部は許可しよう!この山田次郎、君の才能に太鼓判を押しまくる!」
山田次郎は、こと映研に関する部分だけは指導者として能力を発揮する。
自分の自信作を貶された。しかもそれは初対面であり年下である少女だ。
しかし指摘が正鵠を得ている事は彼にも判る。それを彼は、喜んだのだ。
二宮はこの変なノリで盛り上がる3人から少し引き、三狩屋に近寄った。
彼もまたこのノリについていけてないと思ったからである。しかし……
「やっぱセンパイやるな。俺だったら正直、ブチギレてたかもしれん。」
「あ、そ、そうか。……やっぱサンタもセンパイの言う事って判るか。」
「そりゃ判らん。だが、あの人って妙に安定してるよな。いい意味で。」
「なるほどなー。やっぱリーダーになるってのは才能って事なんかな。」
「ニノだって部隊のリーダーだろが。二の隊のヤツら背負ってんだろ?」
苦笑する二宮。実は三狩屋には伝えていないが彼は隊を解散させていた。
理由は簡単、面倒くさくなったのだ。文句を言った隊員は、全員倒した。
ちなみに一の隊は待機中。こちらの理由はもっと酷く、忘れられていた。
「そーだセンパイ、尾崎ちゃんはドコ班に?イチと一緒とか出来ます?」
「安心したまえ二宮くん。部室撤去で再編は考えてた。何とかするさ。」
「あの、本当に私と一之瀬さまって一緒になれるんですか?本当に?!」
「安心したまえ尾崎さん。効率最優先だ、妙な嫉妬で左右はされない。」
「じゃあセンパイ、しばらく映研にいてくれるって事でいいんスかね?」
「安心したまえ一之瀬くん。映研が落ち着くまでは俺が責任を持つよ。」
「実は部費でアイスを買っちゃったんスけど、雑費計上でいいスかね?」
「安心したまえ三狩屋くん。アイスは雑費……になる訳無いだろーが!」
頭を抱えて逃げ出す三狩屋。両手を挙げながら三狩屋を追いかける山田。
それをシニカルに笑いながら見守る二宮、面白がって追いかける一之瀬。
まるで漫画のようなヒトコマ、本当に現実なのだろうかと尾崎は考えた。
彼女は一年以上もの間、中年構成員に監禁されマンションの一室にいた。
希望は次々と剥ぎ落とされていき、最後の最後で、あの薬物騒動である。
もはや人間としての尊厳すら奪われるという寸前での救出劇だったのだ。
「部室の代わりに部員が増えるとはな!なかなかどうして俺は強運だ!」
そう独りごちて歩きだした山田。二宮は苦笑しながらその独り言を聞く。
強運ならボコられてないって思いつけよ、と、心の中でツッコミながら。
情報が早かったのは美術部であった。映研部室撤退の報が一番に届いた。
副部長の報告を聞いて、部長たる田中双葉が頭を抱えた。やはりか、と。
彼女は部室を見渡した。今年は新入生が通年よりも少なく空席が目立つ。
「……山田くんトコも大変ね。家賃でも取って間借りさせちゃおっか。」
「それはいけません部長。軒先を貸せば母屋を取られます。反対です。」
「それは無いわよ。心配なら瀬田ヶ谷先生に念書を書かせればいいし。」
「我々は美術部です。マンケン呼ばわりする人と同室とか、無理です。」
「決めるのは部長よ。それとも追い出しコンペする?受けて立つわよ?」
教壇に椅子を置きアームレストに片肘を突き顎を支える姿勢の田中双葉。
その脇に立って前で手を組んでいるショートカットがどうやら副部長だ。
他の部員たちはイーゼルと呼ばれる絵画用の台に向かい絵を描いている。
ちなみにコンペとは宴会などの『コンパ』と間違われがちだが全く違う。
コンペティション、競技会とか競争の意味である。展覧会でも使われる。
双葉が言っているのは、待ち切れないのなら実力で追い落とせという事。
「コンペは公平な審査が必須ですけど、それはどう担保するんですか?」
「あら、けっこう乗り気なのね?OGでも顧問でもいいんじゃないの?」
「それでしたら現部長と副部長という点で、部長に有利すぎませんか。」
「そうかもね。でもそれって私の人徳じゃない?愛されキャラだしさ。」
ニコリと微笑む田中双葉。無論、表面上である。心中は穏やかではない。
共に実力主義を標榜する映研と美術部の決定的な差が、ここにはあった。
美術部は基本的に共同制作をしない。個人のスキルで個人の製作をする。
実力者による共和制の映研に対し実力者による絶対王権が美術部なのだ。
「自信が無いんなら定年ギリギリまで待ちなさい?それが貴女の為よ。」
「……美術部内の序列には関係の無い人間を立てる手はありますよね。」
「それってまさか助っ人呼ぶって事?あはは、プライド無いのあなた?」
「もちろん不本意です。単に部長が暴挙を止めれば良いだけですけど。」
「うちの現役学生で募るんなら受けてもいいわよ?気が済むんならね。」
田中双葉は立腹していた。実力の劣る副部長がこの自分に逆らっている。
姉の威光を笠に部長になった訳ではなく、数多の死闘を経ての部長職だ。
自分の右手には絶対の自信を持っていた。姉以外には誰にも負けないと。
「ともかく部室の件は保留をしてください。もちろん、先方にもです。」
「いいわよー?悪の女王を打ち倒す英雄を募りなさい。無駄だけどね。」
「暴挙を止める時には教えてください。部籍を乱したくありませんし。」
やりとりは全て小声で行われてはいた。しかし絵を描く事は静寂である。
下級生たちは、そして副部長と同年代は、『キター!!』と心で叫んだ。
田中部長のスパルタ指導は一部で不評だった。不評の急先鋒が副部長だ。
彼女は双葉に何度もビンタを喰らいつつ、泣きながら絵を仕上げていた。
それは部内でも公然の秘密であり、いつかはこうなると皆が思っていた。
「副部長の貴女すら無理な事なの判ってるの?部外に頼むとか無理よ。」
「井の中の蛙という言葉もありますし、意外と勝てるかもしれません。」
「馬鹿ねぇ、大海は知らなくっても空の深さは判るの。負けないわよ。」
彼女らは互いを見ていない。部室で絵を描く一般部員をじっと見ている。
部長と副部長とは部員たちの監督が第一任務である。それは揺るがない。
しかし部長は馬鹿にしたような半目になり、副部長は苦虫を潰した表情。
一般部員の誰もが予感していた。もはや後戻りは出来ないんだろう、と。
一方、映研の部室放棄を誰よりも知りたかったはずの郷研ではあったが。
「部長、また部員たちが部室が出来ないなら退部すると騒いでますが。」
「なら勝手に辞めればいい。確か部長に退部は止められない校則だろ。」
「教頭から『最低限6人は残しておけ』と言われていませんでしたか?」
「そうだったな。あと4人残ればいいんだろう?手間の掛かる奴らだ。」
未使用のルーズリーフを4枚抜き出しサラサラと何かを書き始める郷田。
そこには非常に短文ではあるが、個人宛のお手紙がしたためられていた。
そして内容は強烈であった。それぞれの部員の秘密情報が書かれていた。
「……少々驚きました。部長は、いつこんな物を調べていたのですが?」
「僕を侮るな副部長。奴らが愛部心を持ってない事など先刻ご承知だ。」
「それでも、です。てっきり勉強以外には興味が無いと思ってました。」
土屋と郷田は校外では名前で呼ぶが、部内では役職名で呼び合っている。
けじめという程の物ではない。郷田が単にそうするべきだと決めたのだ。
あらぬ疑いをかけられたくない。そして他の人間達に隙を見せたくない。
「僕だって全く時間に余裕が無い訳ではない。準備とは受験の基本だ。」
「お見逸れいたしました。……ちなみに、私の情報も既にありますか?」
「今は無い。だが必要と思えば集める。間違っても裏切るなよ副部長。」
そうつまらなそうに吐き捨てて、また参考書と過去問題集に向かう郷田。
手元の秘密情報を全て記憶した後、綺麗に折って小さい封筒にする土屋。
自分の情報が無いという郷田の言葉に彼女は複雑な気持ちを抱いていた。
「……と、いう訳だ!部室は無くなる!しかしそのうちなんとかする!」
社会科教室の教壇では、胸を張って山田くんが部室撤退を宣言していた。
いつもの様に机を並べて作業していた一年生たちが山田部長を見ていた。
そして、一年生たちは互いの顔を見合わせて、おもむろに立ち上がった。
大驚愕の声と大混乱を予想して動悸が止まらない山田くん。しかし……
「じゃあ機材は山田センパイんちに運べばいいんですね?榎本、いこ。」
「空箱がいるな。スーパーで貰ってくればいいか。宇佐美、頼めるか?」
「まかせてー。今日中には揃えるー。大きいの先に運んじゃってねー。」
「――姫、出来れば、プチプチとかも貰ってきて。割れ物があるから。」
特に何も興奮せずに、まるで慣れた避難訓練でもしている様な雰囲気だ。
予想を大きく外してオロオロとする山田と対照的に、彼らは良く動いた。
撮影用の三脚や8mmカメラを次々と出して、机に並べていく一年生達。
「あ、あれ?!その、キャーとか、あの、理不尽だ、とか、あれれれ?」
「はいはい、キャー。榎本さ、悪いんだけどアニメのトレス台運べる?」
「軽いけど背負った方がラクだよな。荷造り紐ってどこに有ったっけ。」
「えっと、それならロッカーに入ってるよー。わたし持って来るねー。」
「――山田先輩、理不尽です。でも、だいたい予想はしてましたんで。」
小さなガラス瓶に入った特殊ペンキであるアニメカラーも机に並びだす。
透明なセルロイドフィルムや、ペン軸、ペン先、金属製文鎮等も同様だ。
対して実写班の資材は工具箱以外には無い。材料は毎回使い切りなのだ。
一年生がここまでテキパキと動けることに呆然としている山田くんたち。
つまり一之瀬らも同様に呆然としている。何故彼らはこうも動けるのか。
暇、だったのだ。アニメ班も実写班も、上級生不在で作業が行き詰った。
真面目な素養を持った最下級生たちが唯一予想が出来た活動だったのだ。
「二宮くん見たまえ。我々が目を離している隙にも彼らは成長してる。」
「そうっスね。ただ、誰かが引っ張るって感じじゃなさそうっスけど。」
「まーでも、そういうの映研らしいんじゃねーのニノ?そう思うがな?」
「安心しろよ!引っ張るのは次期部長の俺様ちゃんのお仕事なんだぜ!」
「さすがは一之瀬さま!リーダーとは引っ張ってナンボと聞いてます!」
聞き慣れない女子の声に動かしていた手を止めて振り返る一年生部員達。
阿形は一之瀬の腕を取る少女に面識は無く、再び荷造りを開始していた。
宇佐美にも少々表情の幼いこの少女に見覚えは無く、荷造り紐を渡した。
榎本はそもそも同学年の知り合いがほとんどいない。紐をただ受け取る。
しかし石川は違った。当時と髪形こそ変わってはいるが、見知っている。
手に持った荷物を床に落とす。しかし石川はそれにすら気付かなかった。
「そうだ、彼女の名は尾崎紀世子さん。この時期に珍しい新入部員だ!」
「はじめまして。わたし、尾崎って言います。よろしくお願しますね!」
顔面が蒼白になりながらも、新入部員の顔を凝視しつづける石川真理子。
その視線を受け止めながら、一之瀬の腕にすがり小首を傾げている尾崎。
彼女ら二人のミッシングリンクが交わろうというお話は、次の回へ……
つづく。
二学期が始まりとうとう映研にもピンチが訪れました。
そしてヒロインの頭上にも暗雲が垂れ込みはじめます。
更に一之瀬くんのナイチンゲールたる尾崎さんの入部。
大丈夫なのか?広げた風呂敷はちゃんとたためるのか?
問題ありません。全て想定内です。なにせお話ですし。
皆さんは安心してハッピーエンドを待っててください。
それにしても少ないですね、感想。やっぱオリ厳しい!
楽しくないからじゃという正直な意見は無しの方向で。
しかしSSレスの華である誤字脱字報告も無いとは……
推敲してるにしても私も人間、毎回多少はあるんです。
それも立派なレスなので、皆さん見つけたら教えてね。
では、次のお話でまたお会いしましょう。
ではではw