齢5つになっただろうか。星の光を遠くに見ながら紅茶の香りで鼻腔を満たし、随分と古くなった宇宙工学の応用教本の3章140ページを捲る。
擬似重力をオフにした部屋の中心を浮遊しての読書は良いものだ。乳母や教育係ははしたないと怒るものだが、何が悲しくて鉄製の床を踏んでいなければならないのか、理解に苦しむ。
無重力圏で液体は球になって浮かぶ。紅茶はスプーンで削って飲むのだ。
ウィンドウが映す景色を朱色の炎が横切った。核融合エンジンの生み出すエネルギーを用いてガザシリーズが飛ぶ閃光。
まだ満足に話すこともできない頃に始まった戦争に負けて、私の祖国は滅んだそうだ。
と言っても、条約により多大な不利益を被り、公国から共和国へと体制を変化させて地球連邦の支配下に入っただけのことだが。
しかして、その名目上の滅亡でさえ、多くの者には耐え難いらしい。
こうして私を担ぎ出し、再興のための戦争を始めるほどには。
「入って良いぞ。」
部屋の外まで来た意識を感じて声を発すると、数瞬して空気圧が抜ける鋭い音を立てながら扉が開いた。
独特の赤毛を揺らして入ってきた彼女は無重力になっている部屋にも驚かず真っ直ぐ私の所へ遊泳してくる。
柔らかい所作で私を腕の中に収めて壁を蹴り、床に降りて直ぐに備え付けのコンソールを彼女の指が叩けば自重が戻って赤毛が私の胸を滑り落ちていく。
肩と膝を支える腕がぎゅっと力を増すが、決して私の肌を痛めつけはしない。
「申し訳ありません。不注意でした。」
「良い。気にするな、ハマーン。」
「ありがとうございます、ミネバ様。」
今生の名前はミネバ・ラオ・ザビ。
以前の名は母の腹の中に置いてきた。
「それで外出できそうか?」
「万事恙無く。」
「流石だ。よし、変装しよう。」
「はい、畏まりました。」
ハマーンは優しくなったと思う。以前は外出したいなどと言っても聞く耳持たずだった。
クローゼットからお忍び用の鬘と服を引っ張り出してきた私は手早く別人に成り済ますと、ハマーンをソファに座らせて背中の中ほどまで伸びた髪に櫛を入れる。
彼女の髪は2人の間柄が近しくなったきっかけだ。
「ミネバ様、あまり熱中されますと外出の時間がなくなってしまいますよ。」
「分かっている。」
2房に分けた赤毛を指先でくるくると玉にして、髪ゴムで留めた上に黄色い袋を被せれば立派なシニョンの完成だ。
ハマーンは鏡を見て沈痛な面持ちになったが、存外似合っているし、彼女が堂々としていれば大概格好良くなってしまう。
初めての外出でツインテールにした時は随分と談判されたが、もう久しく抵抗しなくなった。
「よし、行くぞ。」
目元を隠すサングラスを2人でかけてこそこそとアクシズの要人居住区画を抜け出す。
普段は警邏の兵士が歩いていることが多いのだが、彼女は事前にシフトの合間を調べて抜け出しやすい時間に迎えに来てくれるのだ。
「しかし、抜け出しやすいとは言え、シフトの合間がこんなに無防備で大丈夫なのか?」
「御憂慮させてしまい、大変申し訳ありません。きつく言っておきます。」
「いつもそう言っているではないか。ハマーンは部下に甘いな。」
「お恥ずかしい限りです。」
区画間を移動するシャトルに乗り込み、ハマーンがくれた商業区の情報誌を広げる。
何でも今日は一部の区画で催事があるとか何とか。
「そういえば、ターミナルのライセンスチェッカーは何度通っても私とハマーンに気付かないな。大丈夫なのか?」
「以後気を引き締めるよう通達しておきます。」
「またそれか。」
あれこれ無駄話をしている時、彼女はいつも私の顔をじっと見ている。何で見ているか尋ねたことはあるが、はぐらかされる。
やはり、再興戦争に関心を示さない私に言いたいことがあるのだろう。
「ハマーン、顔。」
「失礼しました。ミネバ様のお顔が月も恥じらうお美しさで見惚れておりました。」
「またそれか。」
適当なことで私からの問いをはぐらかすハマーンを責めたりすることはない。彼女はそれ以上に私に尽くしてくれるし、人はそれぞれ腹の中に言いたくないことの1つや2つあるものだからだ。
ふと思い出したが、部屋にいた時に見たガザシリーズの訓練だが、3番機がスラスターを噴かせ過ぎだったな。これも言っておかねば。あれではサブスラスター2番の損耗率が3.05083%上昇し、ジェネレーター効率は8.961%低下する。最も注意すべきは旋回時の円が11.005%膨らんで旋回が完了するまでに凄まじいロスタイムが生まれることだ。
それらをハマーンに伝えると彼女は眉間に皺を寄せて営倉にぶち込んでおきますと答えた。やり過ぎではないだろうか。
「ハマーン、眉間に皺を寄せては駄目だ。体が覚えてしまうぞ。」
「……失礼しました。」
「うん。あっ、見えた! 見えたぞ、ハマーン!」
「はい、見えていますよ。」
一瞬、窓の外に見えた商業区を覗き込むとなるほど。いつもより活気があるように見える。
ターミナルに滑り込んだシャトルを降りて通りに向かう。相変わらずこちらのライセンスチェッカーも素通りだ。大丈夫なのだろうか。
しかし、微妙な立場のアクシズとはいえ、商業区の警備が物々しいのではないだろうか。
「今日もモビルスーツ一個中隊が警備しているな。あれでは民衆のストレスになるのではないか?」
「治安維持のためです。それに、民衆は確たる力に守られていると分かる方が安心するものかと。」
「そうか? まぁ、ハマーンが言うならそうなのかも知れないな……。ところで。」
「何でしょうか?」
「街の警備隊の配置はまだ変わらないのか? 私は路地を抜けて近道をするというのがやってみたい。何故警備隊は路地の入口を固めてばかりいるのだ。」
「路地は事が起こりやすい場所なのです。警備隊の配置は働きかけてみましょう。」
「またそれか。随分前から言っているのだが。」
「申し訳ありません。」
すれ違う民衆とぶつからないよう肩を抱いて歩いてくれるハマーンが苦笑して頭を撫でる。前はおっかなびっくり頭を触るというようだったそれも変わった。
目を細めてされるがまま。そうして歩いていると、飲食店街に入り魅力的な香りが鼻をくすぐる。
店先で食べ歩きができるものも売っているらしい。
「何か食べていきたい。民衆の食生活を知る良い機会だ。」
「分かりました。では、その店に入りましょう。」
「いや、店先で渡してくれるらしい。食べながら見て回ろう。」
「では、そのように。」
ハマーンが店の者と2、3話して紙で包まれたものを買ってくる。彼女が私の前に屈んで包み紙を半分くらい剥いだそれを差し出した。
初めて見る食べ物だ。パンで肉や野菜を挟んだものらしい。
「これはどうやって食べたらいい? ナイフとフォークはないのか?」
「はい。これは食べるところだけ包み紙を剥がして直接口をつけるのです。」
「そうなのか。よく考えるものだな……。」
もそもそとそのハンバーガーという食べ物を齧りながら、ハマーンを見ると慣れた様子で片手で持ったハンバーガーを食べていた。
ミネバの体はまだ幼く、ハンバーガーは片手に余るし、一口で上から下まで食べられない。
少しずつ切り崩しいく。
「美味しい。」
「それは良かった。あの店も光栄に思うでしょう。」
「また来たいな。」
「勿論、お連れ致しましょう。」
思いついたネタを気が向いた時に追加する予定です。
定期連載とか知らない子ですね。