社会福祉公社──子供を兵器に変える、国家の暗い裏打ち。
だけど私は、この日常を否定しない。
体は鉛のように重く、心は時折、空洞のように乾く。だが、生きるとは割り切ることだと知ってしまった以上、もう後戻りはできない。
夕暮れの静けさが、回廊を染める。メイド服のまま、私は部屋に戻る。
クラエスは不在。絵を描きに行ってるのか、読書か、あるいは菜園の土を弄っているのだろう。彼女はこの世界の中で、自分の居場所を作ろうとしている。
私は──どうだろう。
並べられたぬいぐるみは、ただの贈り物。愛玩でも趣味でもない。
ベッドの端に腰をかけ、何の実感も湧かない体に、溶けるような疲れが広がっていく。
私は凡庸だ。いや、もっと下劣な何か……うんちだ。どう足掻いても、始まりも終わりも、汚物のままだ。
ノックの音にも気づけなかった。
ドアの前には、担当官のヒルシャーが立っていた。ドイツ人らしい無機質な整いと妙な優しさが入り混じる目をしている。
この人は私を道具として扱うでも、家族として抱き締めるでもなく、ただ中途半端な距離で見つめてくる。
だから私は、どんな演技をすればいいのか分からない。
何も無い空っぽの体で、何を演じろと言うのだろう。
「はい、ヒルシャーさん」
感情を乗せない言葉。
義体は担当官に、愛情に似た忠誠心を抱くように作られている。それはプログラムだ。魂ではない。
(私の手は血でできている。エルザのように幸福を夢見る資格なんて、もうどこにもない)
「今夜、軍警察に協力して五共和国派の拠点を制圧する。室内戦になる。UMPを持っていくといい」
「はい、わかりました」
ヒルシャーの声に従って、私は無言でP7とUMPを選んだ。
選択の余地など、はじめからなかった。命じられたからそうする。ただそれだけ。
ショットガンの方が好きだ。破壊の余韻が、心の底に沈殿していく感じがして。でも今日は違う。──考えるだけ無駄だ。私はただの兵器。いや、兵器ですらない。
(私は、うんちだ。形を変えても臭いは消えない。銃を持っても、人を殺しても──本質は、変わらない)
車窓に映るフェッロさんの横顔が、淡く光を帯びていた。冷たい硝子の向こうにあるその美しさは、私の手では絶対に触れられないもの。
集合地点。夜の帳が静かに降りて、警戒線の先に人の形をした亡霊が集まっている。
NOCS、内務省の特殊部隊。あの人たちは公社のように義体を使わない。ただ訓練と信念と薬品だけで戦場に立つ。
それなのに、私たちは彼らより強い。それは、喜ぶべきことなのだろうか。
マルコーさんが指揮を執っていた。アンジェリカがいつものように笑顔で彼の背にぴたりと張り付いている。
(ああ、あの子は、まだ笑えるんだな)
「敵は八人。見張りはいない。トリエラは先行、アンジェリカが支援に回る。質問は?」
──ない。あるはずもない。ただ与えられた命令をなぞるだけ。
建物の図面を頭に叩き込み、突入前の配置に着く。アンジェリカは嬉しそうにマルコーさんに報告していた。
「私、頑張りますから!」
返ってきたのは「ああ」の一言だけ。それでもあの子は、にこにこと笑っている。
(私も、そんなふうに笑えるなら……いや、無理だ。私は……)
「うんちなんだから」
喉の奥で呟いた言葉は、もちろん誰にも聞こえていない。
「トリエラ」
袖口を引かれて振り返る。アンジェリカの長い髪が揺れた。
「トリエラとお仕事するの久しぶりだよね。頑張ろうね」
笑うアンジェリカは眩しすぎて、直視できない。私はやっとのことで微笑みをつくって言った。
「そうね。アンジェはマルコーさんにいいところを見せてあげなさい」
──私はうんち。だから、誰にも何も、見せるものなんてない。
『GO』
耳元で響いたその言葉が、引き金だった。
私は蹴りで扉を開き、真っ暗な内部に足を踏み入れる。アンジェリカがすぐ背後に続く。
殺意が充満する。だが、それは私たちの側にあるものだ。
素人の匂い。足音がうるさい。銃の保持も不安定。何より、怯えが漂っている。
こんな連中に、私たちは負けない。というか、始まる前から勝敗は決している。
廊下に出る。微かな話し声。位置確認。二階の奥。──扉の先。そこだ。
私は手信号を送る。アンジェリカが頷いた。
UMPを構え、肩で息を整え──蹴破った。
叫び。驚愕。無様にこちらを振り向く男たち。──遅い。
引き金を絞る。
銃声が室内に跳ね返る。弾丸は45ACP。サプレッサーなどない。
発射音が、肉と骨を裂く音をかき消す。
人間は撃たれても吹き飛ばない。そういうのは映画だけ。ただ、崩れ落ちる。壁に寄りかかる。叫びながら、内臓を手で押さえて倒れる。
アンジェリカが反対側から突入、AUGで中距離を刈る。
逃げ惑う男。撃つ。伏せる者。撃つ。銃を向ける者。撃つ。
敵は、皆、撃つ。撃つ。撃つ。
照準は甘くならない。条件付けされた腕が、迷わず命中させる。
──一分も経っていない。
静寂。硝煙。熱く重い鉄の匂い。弾倉を確認しながら、死体の数を数える。全て、始末済み。
「やったね、トリエラ!」
アンジェリカが笑う。子供のようにAUGを抱きしめて。死体に囲まれていても、彼女の顔は光っていた。
(可愛い……でも、私は)
──うんちだ。撃ち殺すことしかできない欠陥品。
あの子のように人の心を持つこともなく、ただ任務を完遂する。
空っぽで、重たい、鉄屑の塊。
「トリエラ、怪我はないか」
ヒルシャーの声。NOCSの隊員と一緒に室内に入ってくる。私は首を振る。
「……大丈夫です」
それだけ。
本当は「誉めてほしい」とか、「苦しかった」とか、「抱きしめて」とか、言えたらいいのに。
でも、私は。
(うんちなんだから。求める資格なんてない)
アンジェリカはマルコーに駆け寄って、笑顔で報告していた。
その姿が眩しくて、私は視線を逸らした。
「公社に帰ろう」
ヒルシャーの声が、どこか遠くに聞こえた。
マルコーさんは、いつもの仏頂面でアンジェリカを見下ろす。
だが──その眼差しに、いつもとは違う温度があった。
全身を一瞥。左腕、右脚、胸部……血痕も、痙攣も、ない。
それを確認したあとで、彼はふっと、音を立てずに息を吐いた。
──安堵だった。静かな、それでいてどうしようもなく深い安堵。
そして彼は、アンジェリカの頭をそっと撫でた。乱暴でも、機械的でもなく。まるで、本物の父親のように。
「よくやったな」
低く、確かにそう言っていた。
意外だった。
あんな表情を、あんなやり取りを、見たのは初めてだった。
私の知らない関係。
いつの間に育っていたのか分からない、あたたかいもの。それが、目の前にはあった。
(私は──そんな風に頭を撫でられたことが、あっただろうか)
ない、と思う。いや、きっと、あっても忘れてしまっている。
だって、私は。
(うんちだから。撫でても、手に汚れがつくだけ)
頭を撫でられる代わりに、私は銃をもらった。温もりではなく、命令を。名前ではなく、番号を。
アンジェリカは微笑んでいた。まるで全てが報われたかのように。
マルコーさんの手が彼女の髪をなでる音が、遠くで鳴っていた。
私はそっと背を向けた。
これ以上見ていたら、自分の空っぽさがますます輪郭を増してしまうから。
「おかえり」
公社に帰った。廊下の先から声がした。
小さな、鈴を転がしたような音。私は顔を上げる。
そこに立っていたのは、ヘンリエッタだった。
抱きしめたくなるような、あどけない顔。
可愛らしい──まるで、本当にどこにでもいるような、妹のような少女。
だけどこの子は、人を殺す。感情のスイッチを切り替えて、銃を握る。
私と同じ義体。
でも、どこかが違う。
あの子にはまだ柔らかい何かが残っている。人間の残滓、夢の名残。
私は応える。
「ただいま」
その言葉が、ほんの少しだけ舌に引っかかった。
今日、何人殺した?
その顔を笑いながら拭ってくれる人は、私にはいない。
(可愛いな、ヘンリエッタ。この子の中には、まだ誰かを信じる余白がある)
私の中にはない。
疲れとうんちだけが溜まっていく。身体の芯から、冷えのように。
私は上着のボタンを緩める。肩から、微かに血の匂いが立ち昇る。
その一方で、ヘンリエッタからは甘い香水の香りが漂ってきた。
硝煙と香水。
混ざるはずのない匂いが、この公社という檻の中では、毎日当たり前に同居している。
「リコがね──万華鏡を、壊しちゃって……」
泣きそうな声でヘンリエッタが話し出す。その時、私は思った。
(この子のためなら、私はまた銃を撃つんだろうな)
だって私は──撃つために作られた。抱きしめる手は持っていない。
(私はうんちだから)
ヘンリエッタの声が震えていた。
「リコがね……万華鏡、ジョゼさんにもらったやつ……壊れちゃって」
言いながら、彼女は私の胸元に顔を埋めてきた。硝煙の臭いが彼女の髪に移るのが、少しだけ申し訳なかった。
「どうして……あんな風に言ったんだろう……リコ、私のこと、嫌いになったのかな……」
私は何も言わず、腕を回した。細い体をそっと引き寄せる。
彼女の肩が、少しだけ震えていた。
──撫でる。
髪に触れる指先が、自分のものとは思えなかった。
銃のグリップを握り締めていたこの手が、今は誰かの心を癒そうとしている。
そのことが、何よりも奇妙で、嬉しかった。
「ヘンリエッタ」
私は囁いた。自分でも、驚くほど優しい声で。
「仲良くしてね。リコは、あなたのこと大好きなんだよ。ちょっと、言い方を間違えただけ」
「でも……っ」
「それでも、ちゃんと謝れば、きっと大丈夫。だって、あなたたちは──仲間で、家族なんだから」
その言葉に、ヘンリエッタの肩がピクリと揺れた。
私は彼女の頭を撫でる。うんちであるこの手で。汚れた、血塗れのこの手で。
(でも、それでも……彼女たちには笑っていてほしい)
アンジェリカも、リコも、クラエスも、ヘンリエッタも──
私の、大切な、家族。
この異形の檻の中で、互いにしか寄り添えない私たち。
「大丈夫。あの子も、あなたと同じで、素直じゃないだけ」
ヘンリエッタは何度か瞬きをしたあと、小さく「ありがとう」と言って、私に抱きついた。
その温もりが、ひどく愛しくて。私は今夜、もう何も言えなかった。
アンジェリカは最近、少しだけ元気になった。
以前は薬の副作用でふらついていたのに、今では公社の中庭を走り回っている。
隣には、犬がいた。白い毛並みの小型犬。名前はまだ知らない。
──犬。
あの子は今、その存在を「希望」として抱えているのだろう。
誰かに名前を呼ばれ、誰かに撫でられ、走って、吠えて、眠る。
当たり前に「生きている」命。それが隣にあるということの、なんて強さ。
(羨ましい)
胸の奥が、ほんの少しだけ軋んだ。
(うんちだって……羨ましいものは、羨ましい)
そんなことを考えて、自分でも少しだけ笑ってしまう。誰にも見られていないのを確かめてから、私は犬に近づいた。
しゃがんで、手を伸ばす。
犬は私を見上げて、少しだけ尻尾を振った。
触れる。毛並みは柔らかくて、ほんのりとあたたかかった。
優しい子だった。
舐めるように指をくんくんと嗅いで、喉を鳴らして擦り寄ってきた。
(……ああ、こういうのを「癒し」って言うんだな)
指先からじんわりと、あたたかいものが染み込んでいく。それはたぶん、血じゃない。憎しみでも、命令でもない。
ただ、純粋な生の温度。
(うんちだって、生きてるんだ)
(撃つだけじゃない。死を運ぶだけじゃない。
私は──頑張って、生きてるんだ)
ほんの一瞬だけ、そう思えた。たぶんそれは、錯覚かもしれない。
でも、錯覚でもいい。
誰かを傷つけるばかりの手でも、こうして誰かを撫でることができるなら。
私は犬の頭をもう一度撫でた。それだけで、今日という日が少しだけ、救われた気がした。
中庭に出ると、いつになく賑やかだった。
アンジェリカが、笑っていた。
マルコーさんに持ち上げられて──高い高い。両手で、まるで子供をあやすように。
彼は仏頂面を崩して、珍しく頬に皺を寄せていた。
「おめでとう」
「よかったね、アンジェリカ」
職員たちが口々にそう言っている。
フェッロさんも、ジャンさんでさえ、柔らかな顔をしていた。
どこか、祝福の気配が広がっていた。
アンジェリカが、完全に回復したらしい。
身体の状態も、戦闘評価も、以前の水準に戻ったと──それを、皆が祝っていた。
私は、少し離れた場所からそれを見ていた。
犬が足元にじゃれている。私は無意識に頭を撫でていた。
──ああ、よかった。それだけが、心に浮かんだ。
(私はうんちだけど、それでも、あの子が元気になって、笑っていて──それが、嬉しい)
ほんの少し、胸の奥がムーミン谷の日差しのようにあたたかくなった。
まるでそこに心臓があるかのように。
銃じゃなく、命を撃ち抜く場所じゃなく、ただ命を感じる場所として。
アンジェリカが空を仰ぎながら笑っている。その姿が、白い雲に溶けてゆく。こんな世界にも、あんな笑顔があるのだ。
私は少しだけ、頬を緩めた。
誰にも見られていないのを確認してから──ほんの少し。
午後の陽射しが、畑の土をじわじわと温めていた。
クラエスの背中は黙々と動き、耕された土の匂いが空気に溶けていた。
私は、そばで黙って水を撒いていた。
この時間が嫌いじゃない。
銃の匂いも、血の感触もない、数少ない“静かな瞬間”。
(うんちでも、こうして役に立てるのは悪くない)
そのときだった。音がした。
ブーツの沈み込む音。柔らかく、落ち着いた足取り。
ラバロ大尉が来た。
クラエスが顔を上げ、笑った。
あの無表情なクラエスが、ほんのわずかだけ、目尻を緩めたのを私は見逃さなかった。
「……顔が、汚れているぞ」
そう言って、ラバロ大尉は胸ポケットからハンカチを取り出し、クラエスの頬にそっとあてた。
ハンカチが土で茶色に染まっていく。
クラエスは、されるがままにしている。──信頼、だ。
その様子は、まるで親子のようだった。
無口で、不器用で、けれど確かな愛情を感じさせる仕草。
私は笑顔で、それを見ていた。
空が、少しだけ広く感じた。風が胸を抜けていくようだった。
(うんちであっても、人恋しい)
(誰かに、名前を呼ばれたい。誰かに、顔を拭われたい。誰かに、ここにいていいって──)
言葉にはならない。けれどその想いが、胸の奥で、じんわりと溶けていった。
(うんちでも、嬉しくなった)
誰かが誰かに優しくする姿を見るだけで、自分の中の何かが少しだけ救われる。
それを、私はきっと──希望と呼んでいいのだと思った。
夜が来た。
部屋の灯りを落とす。クラエスはすでに夢の中。
窓の外、夜風が植栽を揺らし、静けさの中に遠い世界の気配を残している。
私はベッドに横たわり、瞼を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、今日の銃声でも、死体の残像でもなかった。
──夢を、見た。
うんちだった。
私はどこにでもある、ただのうんちだった。
下水の底で目を覚まし、管の中を流れていく。
水の中をくるくると回りながら、誰にも気づかれず、ひたすら旅を続ける。
途中で虫と出会った。迷子になった子猫もいた。錆びたネジと、忘れられた指輪。
皆、少しずつ私に話しかけ、そして去っていった。
私は、うんちだけど──誰とも話せないわけじゃない。
うんちだけど、世界を見てみたいと思っていた。
最果ての海。地上の陽射し。私の知らない世界。
どこかで、何かが、きっと私を待っている。
(うんちでも──旅に出たい)
夢の中で、私は下水口から空を見上げた。
細く、細く、遠く、そこに輝くうんちの星があった。
目が覚める直前、私は願っていた。
──いつか、私も。どこか遠くへ、知らない街に行けたらいいな、と。
翌朝。カーテン越しに朝陽が滲み、まだ半分眠ったままの頭でぼんやり考える。
(私はうんちで……リコは、おしっこだ)
どちらも、流されるもの。
価値を問われず、出て、捨てられる。でもおしっこは、まだましだ。
勢いよく、自由に、誰にでも飛び散ることができる。愛嬌がある。明るい。軽い。
私と違って、リコは笑う。よくしゃべる。空気を読むのがうまい。
そういう意味では、リコがおしっこであることは正しいのかもしれない。
(おしっこはいいな……)
そう思った瞬間、何だか笑えてきて、枕に顔を埋めた。
うんちが羨ましがるなんて、ちょっと滑稽だ。だけど、それでも。
(好きだよ、リコ)
私はうんちで、彼女はおしっこ。どちらも同じトイレに流される、似た者同士。
だから──きっと、家族なんだ。
おしっこの事を考えていたら、トイレの前を通りかかった。
わずかに聞こえた笑い声に足を止めた。
密室の中。水の音。くすくすとした囁き。
「ねえ、ちゃんと手をつないでしてるんだよ」
「変なのー、でも楽しいー」
中から聞こえてきたのは、ヘンリエッタとリコの声だった。
扉の向こう、義体である二人の少女が、便器の並ぶ個室で仲良く並んで座っている姿が目に浮かんだ。
機械のような体でも、排泄はある。公社の規律は厳しいが、彼女たちはその間にも少女であろうとしていた。
私は黙って、その場を離れた。
(仲がいいんだな、あの二人は)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
笑って、おしっこをして、手をつないで。
それが許されるなら、たぶん、まだこの世界は終わっていない。
──私はうんち。
でも、うんちにも、おしっこの笑い声は眩しく聞こえる。