ある日、ラバロ大尉の机に届けられた報告書の末尾に、異様な記述があった。
トリエラの心理評価メモ。
「──自身をうんちと認識している節あり。極度の自己卑下が進行中」
それを見た瞬間、ラバロは眉根を寄せ、深く息をついた。
「……またか。こんなことに、誰も気づかなかったのか」
ファイルを片手に、彼は無言で他の担当官たちの元へ向かった。
フェッロが内容を読み、苦い顔で呟いた。
「まったく、あの子はいつも手遅れになってから気づかせる」
ジャンは横で煙草に火を点けながら、無関心を装っていたが、声に棘があった。
「誰だって、そうだろ。義体なんて、結局は使い捨ての──」
「やめろ」
低く割り込んだのはヒルシャーだった。
報告書をじっと睨みつけるように見つめていた 彼の顔は、硬く、苦悶に歪んでいた。
「……彼女は、誰よりも努力している。戦闘も、訓練も、仲間との関係も。その上で、自分をうんちだと……」
便秘の様に言葉が詰まる。ヒルシャーは立ち上がり、誰にも告げず部屋を出て行った。
マルコーは書類の片隅に視線を落としながら、ただ一言だけ呟いた。
「……それでも、誰かのために銃を握るなら、俺は止めない」
その声は冷たく聞こえたが、目だけがどこか悲しげだった。
その夜、ヒルシャーはトリエラの部屋の前まで来て、ノックをしかけた手を下ろした。
言葉にできる自信がなかった。慰めは、時に暴力と同じくらい無力だ。
(君はうんちじゃない。けど、たとえそう思っていても──それでも、私は君を娘の様に思っている……)
思考はそこまでだった。扉は開かれなかった。
──彼らは皆、トリエラの“うんち”という思考を否定はしなかった。
ただ、それぞれの不器用さで、それぞれのやり方で、その少女を思っていた。
その夜、私は決めた。
「うんち」は、やっぱり言いすぎだった気がする。
いや、間違ってはいない。私は欠陥品で、汚れていて、誰かの役に立つ以外の価値はない。
でも、それでも──ほんの少しだけ、違う気がしてきた。
(じゃあ、私は……うんうんだ)
口に出してみて、少しだけ笑った。
うんちほど下品じゃなくて、うんうんは何かを肯定する音にも聞こえる。
──うんうん、そうだね。
──うんうん、がんばったね。
──うんうん、それでいいんだよ。
たぶん、私が一番欲しかった言葉は、それだった。
誰かにそう言ってもらうんじゃなく、自分で自分に言うこと。
(私は、うんうん。汚れていても、流されても、それでもここにいる)
畑仕事を手伝った。犬を撫でた。
ヘンリエッタを抱きしめ、リコの笑顔を見て、アンジェリカの回復を祝った。
「うんうん、今日はいい日だった」
そう呟いて、私は毛布をかぶった。今日の夢は、下水じゃなくていい。
もう少し、明るい場所を流れていくうんうんになっても、いいんじゃないかと思った。
(私は──うんうん。ちょっとだけ、いい響きかもしれない)
そう思って、私は眠りに落ちた。
誰にも気づかれずに、それでも小さな光を胸に抱いて。この世界の片隅で、うんうんは確かに生きていた。
「……で、トリエラは自分のことをうんうんだと言いはじめたのか?」
フェッロが報告書の片隅に書かれた一行を読んで、苦笑を漏らした。
「最初はうんちだった。それがうんうんに……いいじゃない。悪化してない。むしろ進歩よ」
マルコーは腕を組んだまま、静かにうなずく。
「響きが柔らかい分、聞いてるこっちの胃にも優しいな」
ジャンは煙草をくわえながら言った。
「……くだらねえ。けど、まあ……悪くない」
皆、どこかで安堵していた。
それを言葉にはしない。ただ、報告書に走る視線の速度が僅かに緩やかだった。
ラバロ大尉は目を閉じて、小さく呟いた。
「……あの子は、生きる言葉を探してるんだな」
そして──ヒルシャー。彼はその報告を見て、深く息を吐いた。
いつものように寡黙なまま、しかしその眼差しには確かな温もりが宿っていた。
「うんうん、か……」
その言葉を反芻しながら、窓の外に目をやる。
どこか遠く、夕焼けが静かに沈んでいく。
(君がそう言ってくれるなら──それだけでいい)
誰も拍手はしない。誰も涙は流さない。
けれど、その日、社会福祉公社の空気は、ほんの少しだけ軟便の様にやわらかくなった。
少女が自分をうんちと罵ることをやめた。
そして、うんうんと微笑むようになった。
それはたぶん、この不完全な世界に差し込んだ、ごくわずかな──肯定の音だった。
陽射しがやわらかい朝だった。
食堂ではクラエスが新聞を広げ、リコがパンをくわえたまま笑っていた。
アンジェリカは犬にスカーフを巻いてやり、フェッロは頭を抱えていた。──いつもの、変わらない光景。
その中に、私もいた。
「おはよう、トリエラ。今日もご機嫌?」
「うんうん」
何気なく返した私の言葉に、フェッロが少しだけ肩の力を抜いたのを、私は見逃さなかった。
ヒルシャーはコーヒーカップ越しに、静かに目を細めていた。
ジャンは壁際で新聞を読んでいたが、顔を上げずに「……それでいい」とぼそりと呟いた。
「うんうん」──それは私が、自分に許した新しい呼び名。
汚れていても、流されても、名前のない命でも。
それでも、今日を生きる私のこと。
今日の訓練もきついだろう。
命令も降ってくる。銃を磨き、標的を撃つ。
でも。
「うんうん」
そう呟いて、私は制服のボタンを留めた。
クラエスが畑仕事に誘ってくれるかもしれない。ヘンリエッタは誰かの失くした玩具を探してるだろう。リコは今日も誰かにちょっかいをかけて怒られる。アンジェリカは、犬と一緒に走ってる。
そして私は、ここにいる。
うんちではない。うんうん。
少しだけ、やわらかくて、あたたかくて、生きている証。
温かな職場の中で、私は今日も──うんうんとして幸せに過ごしている。
流されて、濁って、時に忘れられても。それでも、ぬくもりの中で、声を聞いて、光を見て、名前のない幸せを知った。
私はもう、うんちではない。
誰かに笑ってほしいと思う。誰かを抱きしめたいと思う。
誰かのために、今日も銃を持つ。
そして、自分のためにも。──柔らかな、うんうんで。
トリエラは、生きている。
ある日、公社に取材が入った。
作戦部長のモニカと、第二課長のロレンツォが対応していた。形式上は、児童福祉の現場を紹介するため──だが、実際はもっと冷ややかな理由だった。
欺瞞。隠蔽。イメージ戦略。現政権の支持率と、都合のいい幻想。
そういう言葉の方が、ずっと正しい。
それでも、現場には少しだけ、やわらかな空気が流れた。
無理をする必要はない。ただの取材なのだから、と誰かが言った。
けれど、それだけで食堂の笑い声が増えた。中庭に座る時間が伸びた。
担当官たちは少しだけ、私たちを子供として扱おうとした。
それは演技なのか、本音なのか。わからなかったけれど──そのわからなさが、少しだけ、心に灯を灯した。
クローチェ兄弟はそれぞれのやり方で、ヘンリエッタとリコに接していた。
不器用だった。目を合わせられない日もあった。
でも、たまに差し出される手や、ぽつりと投げられる一言は、確かにあたたかかった。
クラエスは、ラバロ大尉と庭で過ごす時間を増やしていた。
耕された畑の隣で、無言のまま、ただ日を浴びている。
それだけの風景が、いつかどこかにあった“家族”の記憶を呼び起こす。
私にはない、けれど否定できない、やわらかい絆。
パトリツィア──彼女が来たのは、その時だった。
公社の取材記者。ジャーナリストで、マルコーさんの恋人。
彼女のことは知っていた。けれど実際に姿を見るのは初めてだった。
施設のロビーを歩く彼女は、プリシッラに案内されていた。
その視線が、不意に止まった。
そこにいたのは、アンジェリカと手を繋いで歩くマルコーさんだった。
──偶然だった。演出でも、台本でもない。
マルコーさんは、素で驚いた顔をしていた。
パトリツィアの目に、何かが灯った。
この場所が“偽り”だけでできていないと、彼女はほんの少しだけ、信じたのだろう。
誰かを殺す手と、誰かと手を繋ぐ手が、同じひとつであるという事実を。
私は遠巻きにそれを見ていた。
嘘と真実が、ゆるやかに混ざり合っていくのを。
クラエスの頬を拭うラバロ大尉。
リコのおしっこの話に文句を言いながらも、いつもの様には目を逸らさないジャン。
ヘンリエッタの笑顔に、ジョゼさんがふっと目を細める、その一瞬。
全部が演技だとは思わなかった。
少なくとも私は、そう感じた。
取材のために作られた日常は、皮肉なことに、ほんの少しだけ本物だった。
それからだ。
マルコーさんが、アンジェリカに声をかける頻度が増えた。
ラバロ大尉の表情が、以前よりも少しだけやわらかくなった。
ジャンの怒鳴り声が減った。
──たった数日の“外部の目”が、彼らに何かを思い出させたのかもしれない。
誰のためにここにいるのか。
何を守るために、今日も銃を握っているのか。
「マルコーさん、パトリツィアさんと付き合ってるんだって」
アンジェリカが嬉しそうに教えてくれた。
その声が、子供のようにはしゃいでいた。
──その喜びがどこまで本当かは、わからない。
でも、私は頷いた。
うんうん、と。自分の中でだけ、小さく。
雨の匂いが石畳を満たしていた。
傘をさす人々の列の中に、私たちは紛れている。
ヘンリエッタ、リコ、アンジェリカ──そして私。
四人並んで美術館のアーチをくぐった。
これは任務だ。
首相ピサノの視察に合わせた警備行動。その下調べ。
誰がどこに立ち、どう動き、どこに死角があるか。
本来なら男たちがスーツ姿で無表情に歩くべき場所だ。
だけど、今回は少女が来た。──仮面としての少女、武装したままの微笑み。
担当官たちはロビーに残り、私たちだけで回った。
私たちは笑っていた。そういう風に、教えられていたから。
展示された絵画に感嘆の声をあげ、彫刻の前で小さく息を呑み、天窓の柔らかな光に目を細める。
本当に楽しかったのかもしれない。
でも、それは楽しいふりに何度も体を慣らした後でしか感じられない感情だった。
「これ、可愛い」
リコが子猫の油絵に顔を寄せる。
「でも、背景が悲しい色してるね」
ヘンリエッタがぽつりと呟いた。
アンジェリカは笑っていた。マルコーさんの話題になると、頬がわずかに赤くなる。
私は頷くだけ。声を出す必要はなかった。
一般の客たちは、私たちを普通の少女たちだと思ったようだ。
遠巻きに微笑んでいた。あたたかい目。
その目が、ナイフのように心に刺さる。
──なぜなら、私たちは違う。誰かを殺すために作られた子供。
この美術館にある何よりも、異物だった。
回り終わった後、担当官たちが合流した。
レイアウトの確認、警備のすり合わせ。言葉は少なく、所作は機械的。
でも、そのすべてが確かに私たちの仕事だった。
そのあと、夕食をとった。
静かなレストランの窓に、雨がまだ打ちつけていた。
ヘンリエッタがスープをすくい、リコがパンを頬張り、アンジェリカがナプキンを丁寧に畳んでいる。
私たちは、普通だった。少なくとも、この一瞬は。
──うんうん。
心の奥で、小さくそう呟いた。
誰にも聞かれないように。誰にも知られないように。
流されるままの命でも、今日という一日が、少しだけあたたかかった気がした。
任務当日。
私は、首相の三歩後ろを歩いていた。
本を片手に、足取りは緩やかに。表情は無垢に。
その全てが、目立たぬための演技だった。
報道陣のカメラは、正面の閣僚と笑顔を交わす彼に焦点を当てている。私は、その外側にいる。
光が届かない、無音の場所。私たちは、そこで息を潜めていた。
警備と称される沈黙の中で、私の指先は本のページをなぞる。読んではいない。
でも、開いた本があるだけで、私は子供に擬態できる。
耳に雑音混じりの声が流れ込む。
位置確認、遮蔽物、潜在リスク。すべては予測の範囲内。
私の体は、既に撃つための配置を完了している。
だけど、誰も気づかない。誰も気づいてはいけない。
私はここにいてはならない存在として、そこにいる。
──それが役割。
銃声を起こさず、存在を示さず、危機だけを遮断する。それが理想。それが正解。
(……それでも)
ページの端をめくる。そこには誰かの詩が載っていた。
雨に濡れたバラの記述。
誰のためにも咲かないのに、ただそこにあるということの意味。私はふと、視線を上げた。
首相の背中が、静かに歩いている。
この任務が終わっても、何も変わらない。
だけど、私のこの一歩も、確かに守るためのものだと思いたかった。
私はもう一度、本のページをめくった。
何も書かれていない白紙の余白に、自分の影が落ちていた。
それが、今の私のすべてだった。
階段の中段で、首相の足がわずかに滑った。
本当に、ほんの一瞬のことだった。
だが私の体は即座に動いていた。 左足を軸に重心を切り替え、右手を伸ばす。
次の瞬間には、私は彼の腕を支えていた。
制服の袖越しに伝わる重みと、汗ばむ体温。
それが、生きているという証だった。
首相は、私を見た。
一拍遅れて、ほっと息をつき、小さく「ありがとう」と呟いた。
そして──頭に手を置いた。なでるような仕草だった。
形式ではない、政治家のジェスチャーでもない。
その掌は、父親のような、それでいてどこか祈るような手つきだった。
私は何も言わなかった。言葉を返す役目ではないから。
でも、わずかに視線を逸らした自分に気づいていた。
報道陣は気づかなかった。
彼らの視界は常に絵になる光だけを求めている。
この一瞬の影は、どのレンズにも写らなかった。
けれど──私たちの背後にいた公社の人間たちは違った。
マルコーさんが、無言のままこちらを見ていた。
ジャンは、煙草をくわえ直しながら視線だけで頷いた。
ラバロ大尉は、少しだけ瞳の鋭さを緩めた。
ああ、皆、気づいていた。
その眼差しが、何かを言おうとしていた。──よくやった、と。
声には出さないけれど、確かにそう感じた。
私はうんちだ。
ただの使い捨ての義体で、誰かの名の下に撃つだけの存在。
──だけど今、ほんの一瞬だけ、
私は「誰かに撫でられる側」だった。
その掌の感触が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
それが温かいものだったと、心が理解する前に、体の方が先に覚えてしまっていた。
ページの端に挟まれた書きかけの詩のように。
意味はまだないけれど、確かにそこにある。
私はそっと息を吐いた。
そして本を開いたまま、何もなかったかのように階段を下りた。
──うんうん。
私の中でだけ小さな音が響いた。
それは名ではない。ただ私が私であるための呼吸のような言葉だった。
帰りの車の中は、静かに揺れていた。
雨は止んで、ガラス越しに夕暮れの光がにじんでいる。
舗装路の微かな震えが、足元から伝わってきた。
誰もが穏やかな顔をしている。
「トリエラ、格好良かったよね」
ふいに、ヘンリエッタが言った。
その声は、ためらいもなく、まっすぐだった。
リコが頷いた。
「うん、あの動き、完璧だった。スパッて感じ」
アンジェリカが笑った。
「私なんか、絶対間に合わなかったよ」
気づけば、車内は小さな賞賛で満ちていた。
それは戦場の勝利でも、命令の完遂でもない。
──ただ、“良かったね”という、やわらかな肯定だった。
温度があった。友情。家族。
そう呼ぶのが正しいのかもしれない。
でも私にとってそれは、少しだけ、痛かった。胸の奥がくすぐったい。
認められることが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
私はそんなものを望んでいたはずじゃなかった。
──でも、それでも。
「トリエラ」
前方席から、ヒルシャーさんの声がした。
いつもの、静かで、落ち着いた声。
だけど、その音色には何かがあった。
わずかに、微笑みの混じる温度。
「よくやった」
心臓が、一瞬だけ跳ねた。
見られていたのだ、あの瞬間も、この気持ちも。
私は反射的に、隣のクッションを手に取って顔を隠した。
視線が熱い。
耳の裏がじんわりと火照っている。クッションの奥で、小さくつぶやく。
(……うんうん)
誰にも聞こえない、誰にも知られない、自分だけの言葉。
それでも今夜だけは、それが少しだけ──誇らしかった。
午後の陽射しが窓辺に落ちていた。
空には雲ひとつなく風もない。
今日は、任務も訓練もなかった。ただゆっくり、まったりとした日。
ヘンリエッタが右に、リコが左に腕を絡めてくる。
私は困ったふりをしながら笑っていた。あの子たちの体温がどこかくすぐったくて、それでも心地よかった。
クラエスはソファの隅で読書をしていた。
アンジェリカがスプーンを持って、その口元へケーキを差し出す。
クラエスは一瞬だけ眉をひそめ、それでも素直に口を開けた。
──彼女なりの妥協と、受容の形。その様子が、私は少しだけ羨ましかった。
スイーツは首相からの贈り物だという。
あの時のお礼とだけ添えられたカード。
マカロン、シュークリーム、苺のタルト、レモンパイ──まるでおとぎ話の挿絵のような甘味が、食堂のテーブルに所狭しと並べられていた。
皆、笑っていた。
アンジェリカはリコに「あーん」をせがみ、ヘンリエッタは両手いっぱいにマカロンを抱えていた。
私はティーカップを口に運びながら、その光景を眺めていた。
胸の奥がゆっくりとあたたかくなる。
──まるで、自分が人間に戻れたような気がした。
向こうではエルザが椅子に座って、ベアトリーチェが真剣な顔で、彼女の頬に筆を走らせている。
頬紅、アイライン、リップ。
エルザは何も言わず、鏡を覗いていた。
それでも頬がわずかに紅潮しているのを私は見逃さなかった。
──この日、この場所にゆっくりできないゲスはいなかった。銃も、血も、命令もなかった。
少女たちだけがいた。
名前を呼び合い、笑い合い、甘いものを分け合う。
そんな当たり前の時間が、ここにはあった。
私はショコラの欠片を口に運び、静かに目を閉じた。
その甘さが心の底にしみ込んでいく。
まるで世界のほころびを縫い合わせるかのように。
──今日は、撃たなくていい。
誰も死なず、誰も泣かず、誰も消えない。
そんな午後の光の中、私は確かに笑っていた。
「うんうん」と、心の奥で小さく頷きながら。
犬の足音が舗道に軽やかに跳ねていた。
リードを持つアンジェリカが笑い、私はその隣を歩く。
街は今日も静かだった。
これは訓練──地形・地物を利用した市街地での隠蔽・偽装・欺瞞の演習。
でも、誰が見てもただの散歩だった。
焼きたてのパンの香り。通り過ぎる観光客の笑い声。
私たちはその空気の中に溶け込んでいた。
何かを壊すでも、奪うでもなく。ただここにいるだけで許される存在のように。
白い犬が鼻先を植え込みに突っ込み、アンジェリカが慌てて引き寄せる。
「こら、だめだよ。トリエラに怒られちゃうよ」
そう言って笑う彼女の横顔は、兵器ではなかった。
心から無邪気な少女そのものだった。
私は、その笑顔に微かに目を細めた。
それだけで、胸の奥にじんわりとした何かが広がった。
──たぶん、今の私はもう「うんち」じゃない。
かつて自分をそう呼ぶことで、汚れた手の意味を言い訳していた。
撃つことしかできない欠陥品だと、何度も繰り返していた。
でも今は違う。
犬がくるりと振り返って私にしっぽを振った。
私はしゃがみこんでその頭を撫でる。
ふわふわとした毛並みとあたたかな体温。それは命の重さだった。
奪うのではなく、今そこにあるということの確かな手触り。
(私は──うんうんだ)
誰にも聞こえないように心の奥で呟く。
否定の終着点ではなく肯定の出発点。そうだねと、自分に頷けるだけの場所。
誰かに認められなくてもそれでいい。
「うんうん、それでいいんだよ」
「うんうん、今日も生きてたね」
そんな声がどこかから聞こえた気がした。
風か、それとも自分自身か。
わからないけれど──でも、今の私ははっきりとそう思えている。
公園のベンチに並んで座りアンジェリカが犬の耳にリボンを結ぶ。
その隣で、私はただ風を吸い込んだ。
誰かを撃つこともない午後。血も、命令も、銃声もない静かな日。
私たちは今、穏やかな世界の片隅にいる。
それが幻でも構わない。
幻を覚えていられるなら、それは記憶になる。
私はそっと目を閉じた。
そして心の中でやさしくひとつ頷いた。
──うんうん。