ふう、と息をつく。
サオトメは椅子に深く腰かけて先ほどまでの緊張をやり過ごす。自分も老いたな、と感じ始めていた。リョウマとハヤト、剥き出しの若さと野生にこっちが中てられそうだ。サオトメは月面の三次元地図に視線をやって顎に手を添える。こわい顎鬚をさすり、「今の月面状況では」と声にする。感知したミチルが、『はい』と返事した。
「やはり七十五番管区が適切なのだが、七十五番にはいい噂は聞かんな」
『ええ。地上の、ハンプティダンプティほどではありませんが反政府組織が活動しているとか。名称は〝月の般若〟と言われています』
月の般若。
この名称とそれに付随する噂話は数多いもののその実態は不明。七十五番館区以外では被害が少ないためにほとんど黙殺の状態だ。月面は誰のものでもない。どの国の所有物でもないが、同時に何が蔓延っていてもおかしくはなかった。サオトメは七十五番管区の拡大図を目にする。
「島国の地形をそのまま月面に移したような地形だな。山麓地帯が多いようだが」
『最もテラフォーミングが困難と言われていた地形をあてがわれたものですからね。だからこそ我が国の技術者は努力したわけですが。地形的にはかつての北陸部を模しています』
「広さでは我が国最大を誇った地区の模倣図か。ここにゲッターをやる事は国の上層部との取り決めだからな。ゲッターがネフィリムに有効だと分かった以上、ある程度のデータは取らせろ、との事だ。全く、今まで政を任せてきたくせに、変なところは出しゃばるのだから困る」
『それがこの国の体制ですからね』
皮肉めいた声音になったミチルにサオトメは笑みを浮かべた。この作戦がうまくいけばゲッターを大々的に認めさせるいい口実になる。国際的にどの国家も保有していない場所での戦果は同時にどの国にも知らしめる事となるだろう。ゲッターの強大さと、その能力を。
「今の状態のゲッターチームは不完全だ。だからこそ、月への派遣を命じた」
『博士……、まさか月での』
ミチルの言葉をサオトメは手で制する。
「言わんでいい。だが上手くいけばこの惑星上では得がたいものを手に入れられる」
それこそ月でしか得られないものだ。その愉悦にサオトメは口元を緩める。
『宇宙でのゲッターの活動領域は未知数です。飛行可能ですが、そもそも宇宙での実戦経験なんて』
「あるはずがなかろう。ネフィリムは月には一度として現れていない」
『分かっていてやっているんですか?』
ベータも便宜上、無重力戦闘が可能だという事だけだ。実際に無重力で戦闘など誰がやるものか。
「それこそ大陸間戦争でも起きん限りはベータの空間戦闘能力が活きる事はないだろう。その点、ワシはベータにも期待している」
ベータが空間戦闘で使えるとなれば対ネフィリム用に使える装備も増えてくる。その分、サオトメ研究所の特需が増えるという事だ。そうなれば国家はサオトメ研究所を不要だとして切り捨てる事は出来ない。
『……ゲッターの出動を認めさせるためにそこまでいるのですか?』
ミチルの疑念にサオトメは答える。
「これほどの条件をクリア出来ねば、ゲッターによるネフィリム迎撃に様々な支障を来たす事となる。なに、ワシからすればこの程度、赤子の手をひねるようなものだ」
『ですが、リョウマさんとジン・ハヤトに関して言えば』
濁したミチルの心象も分かる。自分の事をシステムAIだと罵られれば苛立ちもするだろう。
「いずれ、どちらもどちらが欠けてもゲッターの起動には不可欠だと感じるようになる。なればこその三人乗り。本能と理性、今はその二つがあればいい」
イーグル号を本能で操るリョウマとジャガー号を理性で操るハヤト。この両者は対立しているように思えて実のところ必要不可欠な要素なのだ。
『本能と理性、ですか。でもだったなら何でもう一人なんです? だって、人間は本能と理性で成り立っているじゃないですか。ゲッターも』
「いいや、ゲッターには本能と理性だけでは足りんよ」
ベアー号を自動操縦にすればある意味事足りたように感じられるだろう。本能と理性を併せ持ったマシンとして。しかしサオトメの理論では一つ決定的に足りなかった。
「言ったろう? ワシの寝首を掻くような人材が必要なのだと。リョウマも、ハヤトも、ワシをある意味では殺しかねん奴らだが、恐れるべきはあのような奴らではない。あいつらは執念と義務感で乗るだろう。ゲッターに取り憑かれているのだ。ワシと同じようにな」
サオトメは月の三次元地図を眺めつつフッと口元に笑みを宿す。その意味をミチルが問いかけた。
『博士、何でなんです? あのハヤトが来てから、博士は嬉しそうです』
「嬉しそう? そう見えるか?」
『あの、ジン・ハヤトに何を見出しているんですか? リョウマさんがかわいそうですよ。あの人は、人一倍にこの研究所の人達の事を考えて。タツヒトさんに関しても……』
「奴はタツヒトの信念を受け継いでおる。だからこそ強い。だがそれが同時に脆さに繋がりかねん。ハヤトは必要不可欠な人材だ。奴はその証拠にここ数日、妙な企てを仕掛けておった」
『妙な企て?』
胡乱そうな言葉にサオトメは手元の資料を差し出してやる。ミチルの目と同期しているカメラがそれを捉えた。
『博士……! これは……』
「そうだとも。奴は獄中でこれを編み出したのだ」
書類は全て黒ずんだ墨で書かれている。
否、真実それは墨ではない。凝り固まっているが、それは血だった。
血痕で書かれた書類だ。
そこには精巧なサオトメ研究所の見取り図と、どこから侵入すれば容易く破壊出来るのか、篭絡出来るのか、というロジックが書かれていた。管理システムであるミチルを完全に出し抜いたこの偉業。さしものミチルでもまさか血文字で書かれるとは思ってもみなかったのだろう。震撼したのがサオトメにも伝わった。
『……即座にジン・ハヤトの抹殺を』
「待てい。ミチル、その必要はない。ワシは、これを見て、真実嬉しかったのだ。何せ、これは奴が首輪をつけられてからワシに差し出したものなのだからな」
その事実にミチルが息を呑んだのが分かった。どうして敵であるサオトメにわざわざこの要塞クラスの研究所を壊す術を与えたのか。それが理解出来ないのだろう。
『……何で、博士に』
「ワシはな、ハヤトがこれを考え出したのがとても興味深いと考えておる。何故ならば、奴には獄中生活が待っていたはずなのだ。食べ物もろくに与えられず、しかも往復したのはせいぜい牢獄から廊下の数十メートル。だというのに、奴はこの精巧な地図を作り出した。ワシに差し出したのはそれだけの能力がある、と認めさせるためだろう」
『だからどうして? こんなもの、ジン・ハヤトの危険性を高めさせるだけでしょう?』
「危険? 確かにある種の劇薬ではあろう。だがな、毒を食らわば皿までという。ハヤトがこれを作り出した、という事はゲッターの構造も、奴はあの一瞬で読み取ったという証明であるのだ。恐らく奴は今度ゲッターに乗れば、リョウマよりも上手く扱うだろう。それこそ理性で、な」
リョウマはベータに搭乗経験があるからその癖をまだ引きずっている。逆に言えばそれも強みなのだが、サオトメは宣言した。ベータでの経験は全て忘れろ、と。リョウマはまだ本質的に獣に成り切れていないのだ。だからこそゲッターには三人目が必要だと考える要因でもある。
『それこそ強大じゃないですか。リョウマさんだって黙っちゃいませんよ』
「あれは本能でハヤトの危険性を感じとるよ。だがワシには言わんとて。奴はワシも恨んでおるからな。誰にも頼らず一人でゲッターを動かす心積もりなのは今までのシミュレーション結果からも明らかだろう」
『それは……』とミチルが口ごもる。一度イーグル号だけのオペレーションを推奨したミチルからすれば痛いところを突かれた結果だろう。サオトメは椅子を回転させスクリーンに目をやって呟く。
「イーグル号だけのオペレーション。お前達はワシに進言したな? だがワシは応じなかった。その結果、ハヤトという異分子が現れた。だからワシは待つ事にしたのだよ。三人目の適合者を」
『待つ、と言っても本当に待つわけではないのでしょう』
「その通りだ。迎えに行く」
サオトメは月の三次元図に手を翳した。まるで月を手中に入れようかとするような所業だった。
「ワシの思う通りに今のところ物事が動いておる。このままならば偽人類共を出し抜けるだろう」
『しかし、それが正しいとは……』
ミチルの声音には不安が漂っている。サオトメが正体不明の魔人に見えているのかもしれない。悪魔を御するのに魔人程度で足りるのならば喜んでこの身を差し出そう。
「ハヤトはワシに挑戦しろと言っているのだ。ならば年老いたこの身を差し出さんでどうする?」
『この間ゲッターの過負荷に耐えられなかったばかりじゃないですか』
「そうだとも。だからこそ、ワシの戦場はここだ」
サオトメが顎でしゃくったのはブリーフィングルームだ。ミチルはわけが分からないのか、『どういう』と口ごもる。
「事なのか。それはな、各人に適材適所があるようにワシにはここで奴らと戦えという事なのだ。ゲッターで共に戦う事は出来んが、ここならば負けんよ」
不敵な笑みを浮かべたサオトメは書類を裏返す。そこには血の筆跡でこう書かれていた。
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」と。