台風の夜、リョウマはどうしてだか学校に行かなくてはならないと感じていた。それは決められた事であるからだ。だから破る事など考えもつかなかった。
だが十年に一度の巨大台風は河川敷の堤防を打ち崩し鉄砲水が通学路を歩いていたリョウマに降りかかった。リョウマ自身、これが死かと感じていた。ここで終わるのもまた決められた事なのかもしれないと。だが何かがその鉄砲水を防いだ。空から降りてきた巨大な影は鉄砲水を背中で受け止める。リョウマはその姿を目にした。
白光が走る。雷鳴轟く中、浮かび上がったのは黒い鬼の姿だった。黒い表皮から赤い結晶を生やした鬼がリョウマを見下ろしている。その眼にリョウマは生まれて初めて本物の「恐怖」を味わった。
逃げなければ、と道も順序も無茶苦茶に走った事を今でも覚えている。鮮明な恐怖の記憶がリョウマの意識を侵食する。あれは何だったのか。そもそも自分は本当に鬼と行き会ったのか、全ては判然としない。気づけば学校に辿り着いており、いつの間にか大人達に保護されていた。鬼に会ったなど言えるはずもない。リョウマはただ自分しか感じられなかった恐怖に震えるばかりだった。
震えた指先が夢と同期してリョウマは目を覚ます。
瞼を上げて周囲を見やると鉄格子があり自分はベッドに寝かされていた。これも夢の続きか、と疑ったが両手両足が拘束されている事で夢でも何でもない現実なのだという実感が伴ってきた。
「これは……、どうなっている?」
リョウマの声に、『説明をお望みですか?』と澄んだ女性の声が耳朶を打った。この牢屋の中に自分以外の誰かがいるのか、と目を向ける。だが女性などいるはずもなかった。
「幻聴か」
『いいえ。ナガレ・リョウマ。あなたは私へとアクセスしているのです』
その声は幻聴でも何でもなくリョウマの鼓膜を震わせる。リョウマは身をよじって、「誰だ」と呼びかける。
「おれを拘束して、何のつもりだ?」
『その疑問に関する説明をお求めですか?』
妙に落ち着き払った声にリョウマは苛立った。
「てめぇも、あのジジィの仲間か……」
噛み付きかねない気迫に声の主は、『仲間、というのは適切ではありません』と応じる。
『私は被造物です。だから聞かれた事を答えるのみ』
リョウマは身体をひねったがどう足掻いても相手の顔も正体も分からなかった。
「……てめぇ、何者だ」
『ガイドシステム3365号。ミチル、と便宜上と呼ばれております。私はサオトメ研究所の頭脳として機能しているのです』
「サオトメ研究所?」
リョウマはその響きに聞き覚えがあった。真偽を確かめるためミチルとやらに尋ねる。
「そいつはプラネットシェルを推し進めているこの国の研究機関じゃねぇのか?」
『ご存知でしたか』
「知らない奴はいねぇと思うけれど」
惑星そのものを覆ってしまう大規模計画プラネットシェル。それを島国で推し進めている第一人者こそがサオトメ博士、だと聞いた事はある。しかしそのサオトメ博士は公の場には決して姿を現さない変人とも聞いた。
『そのサオトメ博士が、あなたが目を覚ましたのならば三十秒以内に呼べとのお達しです』
その言葉にはリョウマも絶句した。まさかあの老人がサオトメ博士だというのか。
「サオトメ博士ってのは、あのジジィの事なのか?」
『あのジジィ、というのがどの人物を示すのか私では見当がつきかねますが、恐らくあなたはサオトメ博士を目にしているはずです』
「どういうこった? いつからサオトメ博士はプラネットシェル計画じゃなく、化け物の量産計画を進めるようになったんだ?」
自分を襲ったレプリカント二体。あの後どうなったのか知る必要があった。だがミチルは何て事のないように告げる。
『レプリカントですね。あれは僅かに採取出来た細胞を培養し、暗殺者二人に埋め込んだ擬似的なレプリカントです。だから純正のレプリカントではありません』
何とこの声の主はレプリカントを育成していた事を認めたのである。リョウマは口角を吊り上げる。
「いいのかよ? 公的機関が外敵を育てていたなんて知れたら?」
「構わんさ。どうせ、ワシもお前も、地獄へと行くのだからな」
その声にリョウマは身体をひねる。鉄格子の向こう側にいたのは間違いなくあの老人であった。リョウマは食いかかりかねない勢いでベッドを転がる。ベッドから落ちてまでも老人の首根っこを押さえつけたかった。
「威勢のいい事だ。鎮静剤が打たれたとは思えんな」
老人の値踏みする声音にリョウマは叫び返す。
「てめぇ……ベータ部隊の人間を拉致するたぁ、いい度胸じゃねぇか!」
「拉致? 人聞きが悪いな。ワシは君を歓迎しておるのだよ。ナガレ・リョウマ君」
「歓迎? 歓迎にしちゃ、たちが悪いぜ。拘束服で縛り上げて歓迎なんてムードは特にな」
リョウマは老人を睨みつける。しかし老人の眼光も負けていなかった。何を聞かれようとも、いや何を言われようともこの老人は決して屈しない。その光がありありと分かる。
「レプリカントの培養……」
口火を切るが老人は鼻を鳴らす。
「ワシをゆするか?」
「いや、多分無理だな。てめぇはてこでも自分の意地を曲げないタイプだ。それが目を見りゃ分かるさ」
「どうやらただの野獣ではないらしい」
ふっふっと笑ってみせる老人にリョウマは問いかけた。
「あんた、サオトメ博士なのか?」
「ミチルが聞かせたか。そうだとも。ワシがサオトメだ」
「分からねぇな。何でプラネットシェル建造を推し進める科学の第一人者が、おれみたいな下っ端を拉致する必要があるのか」
サオトメが勅命を出せばどの機関とて喜んで人材を差し出すだろう。サオトメに牛耳られているといってもこの国は差し支えない。だがサオトメはそのような権力を嫌っている様子だった。
「ワシが権力や財力のために、プラネットシェルを推し進めていると?」
「違うってのか」
サオトメは眉間に皺を寄せてから、「些事だ」と言い捨てた。
「何だって?」
「些事だと言った。権力も財力も、言ってしまえば人望さえも、ワシには必要ない。プラネットシェルは必要悪なのだ。だからいくら反抗の声が上がろうとワシは気にも留めん」
リョウマは伊達や酔狂の言葉でないのはその声音から思い知った。この老人は全てを投げ打ってでも何かに賭けようとしている。あるいは諦めの境地、あるいは一縷の望みを託す人間の輝きそのもの。どちらとも取れるサオトメの言葉にリョウマは事がそう容易くないのを感じる。
「……どうやらベータ部隊から金をゆするだとか、そういう小さい目的じゃねぇのは分かった」
「ナガレ・リョウマ。お前は、レプリカントをどう思う?」
唐突な質問にリョウマは面食らった。今まで教えられてきた通りの事を口にする。
「どうって、人類の敵だろう。そいつらからの防衛のためにプラネットシェルはあるって……」
「その通りだ。だが、実際に戦ったお前ならば分かるな? プラネットシェルがいかに無意味で、奴らは狡猾に隠れられるのだと言う事を」
サオトメの言葉に息を呑む。確かに殺すまでレプリカントだとは分からなかった。もし人類の中に連中が混じっているのだとすればそれは恐るべき脅威だ。
「でもありゃ、あんたが用意したんだろう?」
「あれは、な。だが連中が既に我々人類に潜り込み虎視眈々とその反逆の芽を育てている事をワシは知っている。いや、ワシだけではない。各国の諜報機関はもうレプリカントによる穏やかな侵略が行われている事を証明する資料がいくつもあるのだ」
目を見開く。そのような事、今まで聞いた事もない。
「でまかせだ! そんなのあって堪るか! だったら、それこそ中世の魔女狩りの再現だぜ。隣人がレプリカントでない証明が出来ないならな」
「その通り。それこそ地獄よ。だからこそ、我々はレプリカントの侵略を止めねばらならない。手遅れになる前に完成させなければならない計画があるのだ」
サオトメの声は切迫している。今まさにレプリカントが攻めてくるような言い草だった。それはさすがに大げさだろうとリョウマは口にする。
「……おい、被害妄想か? 確かにレプリカントはいるのかもしれねぇしネフィリムだって出現している。でも今すぐの脅威じゃねぇはずだ」
「いいや! 脅威なのだ。今すぐにでも連中を駆逐せねば人類に未来はない!」
サオトメの言葉にリョウマは気圧されていた。この老人は妄想に取り付かれているか、あるいは執念の塊であった。こちらの言葉を聞き入れる様子はない。
「……あんた異常だ。どこかの病院で診療を受けな」
「そうしたいのは山々だがな。その時間すらも惜しいのだ。タツヒト」
その名を呼ぶと長身の男が牢屋の外に立った。自分に注射器を打ち込んだ男だ。覚えず身が強張る。
「てめぇ……」
「恐れるな。拘束具を外してやろう」
タツヒトは牢屋に入るとリョウマの拘束服を一つずつ外す。リョウマは口元を緩めた。
「いいのか? 拘束具を外した途端、てめぇの喉笛に噛み付くかもしれないんだぜ?」
「構わない。博士が選んだのだ。むしろそれくらいの野生があったほうが、あれの適合者になり得る」
タツヒトの言葉をリョウマは静かな心地で聞いていた。あれ、とは何なのか。両手の手錠以外は全て拘束具が外されリョウマは自由の身となった。
「聞かしてもらおうか。あんたら何のつもりでおれをこんな目にした?」
「こんな目? まさか自分の境遇がかわいそうだとでも思っているのではなかろうな?」
サオトメの声にリョウマは言い返す。
「少なくとも理不尽だとは思っている」
「理不尽か。だが真の理不尽とはどのようなものか、これから貴様は嫌でも思い知るのだ」
サオトメの言葉にリョウマは問い詰めようとしたがタツヒトが制する。
「順を追って説明する」
そう言われてしまえばこちらは黙るしかない。サオトメは下駄を鳴らしながら研究所の廊下を歩く。タツヒトが腕時計型の端末に呼びかけた。
「ミチル。彼にガイドを」
『了解しました。ナガレ・リョウマさん。あなたが知りたいワードを入力してください』
腕時計型の端末が点滅し音声を響かせる。リョウマは目を瞠る。
「この声……、オペレーターか何かじゃねぇのか?」
「彼女はミチル。文字通りサオトメ研究所の頭脳であるAIだ」
「AI……、だがこんなに高度なものがあるなんて知らねぇぞ」
『サオトメ研究所のみで使われているAIですので、一般的には私レベルのAIは存在しないでしょう』
ほとんど人間と会話しているのに等しい。リョウマは改めてこの場所がサオトメ研究所というパンドラの箱なのだと思い知る。
「ここが、最先端の研究所か……」
『生物学、精密機械、先端科学、全ての粋を凝らしたものがここ、サオトメ研究所にはございます』
「レプリカントも、か?」
皮肉を込めて言ってやったが返ってきた声は意外に落ち込んでいた。
『……レプリカントの細胞は採取出来たサンプルが極めて少なく、実際あの二人に埋め込むのが精一杯。まだ分からない部分のほうが多いのです』
ならば何故、その貴重なサンプルを使ってまで自分を試そうとしたのか。余計に疑念は募る。
「おい、ジジィ。何のつもりでおれを試した? 何が目的なんだ」
「レプリカントに素手で勝つ。それが出来るような人間は世界広しといえども、ナガレ・リョウマ、貴様の他あるまい。身体データを見させてもらったが」
サオトメの手には自分の身体データがあった。それはベータ部隊で一年に一回は義務付けられているものだ。
「これらのデータ、貴様、手を抜いていたな?」
思わぬところで心臓を鷲掴みにされた気分に陥る。リョウマは、「何の事だか」と平静を装ったがサオトメは騙されなかった。
「とぼけおって。レプリカントに勝つにはこのデータでは不可能なのだ。だがお前は二体のレプリカント相手に大立ち回りを決め、さらにワシらに掴みかかる真似まで出来た。どう考えても貴様の能力がこのデータ通りでない事の証明だ」
だったらどうするとでもいうのか。ベータ部隊にいられなくすると脅迫するつもりか。だがサオトメはその懸念を読み取ったように答える。
「安心せい。脅迫してベータ部隊を追放、などはせんよ。だがな、お前にはもっと残酷な未来を見てもらおう。それこそベータに乗って空中変形をしているほうがまだマシだと思える未来をな」