春も終わり、そろそろ梅雨の時期に入り始めてきたころ。
準備中の夜雀亭に一人の女性が来た。
「鷲田さん、ちょっといいかしら?」
日傘を閉じながら話しかけたのは八雲紫。
この幻想郷の実質的な支配者からの呼び出しを無視するわけにもいかず、奥にいた従業員がカウンターまで出てくる。
紫がスキマからカウンターに置いたのは一つの袋といくつかの道具。
それが何かわかった従業員は目を丸くする。
「紫さん、これは…」
「あなたなら見たことはあるでしょう」
紫が出した道具とは手挽きミルとペーパードリップ用の紙、コーヒーカップであった。
勿論、袋の中身はコーヒー豆である。
「外の世界の嗜好飲料、コーヒーを作るためのものよ。あなたにはこれでコーヒーを作ってもらいたいの」
「何故俺なんだ?こういったことはあんたの式や、紅魔館のメイドとかに任せればいいんじゃないのか?」
「私の式がコーヒーの淹れ方とか知ってるわけがないじゃない。それに、あなたが本当に『外来人』ならそれぐらいできるでしょう」
それに紅魔館にはいきたくないし、と紫はこぼす。
そうまでしてコーヒーが飲みたいのかと従業員は思ったが、断るわけにもいかず、その話に乗る。
「分かった。取り敢えず一杯淹れてみるが、それだけじゃあこの量は処理できないだろ?」
「ええ。この店の新しいメニューにしてもいいわよ」
「居酒屋にコーヒー?あんたは何を言ってんだ?」
「酒を飲まない人にでも出してみたらいかが?と思ったのよ」
「はぁ。そうしてみるよ」
そうしてなし崩し的にコーヒーを淹れはじめたのであった。
「こおひい?」
その日の昼下がり。
昼休憩にと夜雀亭に来たのは稗田家の九代目阿礼乙女、稗田阿求であった。
彼女はメニューに新しく入った飲み物に興味津々であった。
「ああ。外の世界で人気の飲み物だ。少し苦めの飲み物だが、飲んでみるか?」
「うーん、ちょっと飲んでみたいですね」
「なら少し待ってろ。これは作るのが少し面倒くさいものだからな」
従業員がコーヒーを淹れに店の奥に入った後も阿求はどこか落ち着かない様子で椅子に座る。
それもそうだろう。彼女にとって本当の意味で未知のものというのはこの幻想郷ができたときから、彼女が阿礼であった時から知らないものであり、それは滅多なことでは出てこないからだ。
そんな滅多にないものに出会えるということもあって彼女は期待と不安に満ちた様子で待っていた。
彼女が少し待っていると従業員が一つの器を持ってきた。
初めて見る形をした器には初めて見る色の液体。彼女の好奇心はうなぎのぼりであった。
「これがこおひいというものですか。真っ黒な飲み物なんて初めて見ます」
「真っ黒な飲み物は外にはそこそこあるけどな。これはお茶とかと一緒で冷めるとおいしさがなくなってしまうから、熱いうちに飲むのをお勧めするぞ」
「そうですか。なら早速」
そう言って阿求はその器を手に持ち、コーヒーを少し口に含む。
無言でそれを置いた彼女は従業員を睨みながら言う。
「なんですか、これは。こんな苦いものが外の世界ではやっているんですか?」
「あー、コーヒーの苦さは独特だから慣れてないときついんだよなぁ」
「でもなんか癖になりそうな苦さですね」
「お、そこは分かってくれるのか。いやぁ、ミスティアには不評だったから幻想郷では馴染めないかと思ってたところなんだ」
「うーん、好きかどうかは人を選びそうですね。紅茶とかとは使ってる植物が違うんでしょう?」
「そこまで分かるのか。植物も違うし、これは木の実を使ってるし、確かにここにはない味だな」
「それも興味ある話ですね」
「なら少し長話になるから俺もコーヒーを淹れてくるぞ」
「そうですか。どんな話が聞けるか楽しみですね」
この後新たに淹れたコーヒーを持ってきた従業員と阿求はそれを片手にその飲み物の話を飽きるまで続けた。
さて、夜雀亭の新メニューのコーヒーの評判は好みの人とそうでない人とで真っ二つになったらしい。