ある日、店を閉じようと暖簾を片付けていた従業員に背後から声がかかる。
「鷲田さ~ん!」
「ん?橙じゃないか。こんな時間にどうした?」
従業員に声をかけたのは式神の式神、橙であった。
普段は妖怪の山に住んでおり、その時の彼女はただの化け猫として行動する。
つまりは人間との意思疎通を図ることも難しい状態である。
ならば何故今の彼女は従業員と会話しているのか?
それは今の彼女は『“ただの”化け猫』ではなく、『“式神の式神”である化け猫』だからだ。
ここら辺の差異を従業員はあまり理解していなかったが、野生とペットの違いだろうと考えることにしていた。
つまり彼女と意思疎通が取れるということは『式神の式神』の状態であることの表れであり、たいていお使いでここにきているということである。
「えっと、紫様がこの手紙を渡してくれって」
そうして彼女が取り出したのは一通の手紙。
それを受け取った従業員は早速開いて中身を見る。
内容は要約すると『次の外の世界への買い出しの日程が決まったから以下の通りでよろしく』であった。
そして追伸に『橙に何かご褒美を上げて』とも。
「確かに受け取ったな。今日は遅いけど、何か食っていくか?」
「え、本当?」
「ああ、わざわざこんな遅い時間に手紙を運んできてくれたんだ。何か食べさせてやるよ」
「わぁい!ならあいすくりいむってものを食べたい!」
「アイスクリームか。今から作るからちょっと店の中で待っていろ」
「うん、わかった!」
店に戻った従業員がアイスクリームを作ってカウンターに持っていくと、そこには目をキラキラと輝かせた橙が座っていた。
「はい、これがアイスクリームだよ。早めに食べないと溶けるから気を付けてな」
「うん、いただきます!」
橙が待ってましたと言わんばかりに元気よく食べ始める。
幸せそうに食べる彼女に対し、従業員はもちろん、後ろで見ていた店主も微笑む。
「冷たくて甘くておいしい!」
「そう言ってもらって何よりだよ。ところで橙は最近はどんな勉強をしているんだ?」
従業員が何気なくかけた質問に橙は顔を曇らせる。
「算数っていうやつ。藍様が教えてくれるんだけど、それが難しくて難しくて…」
「算数?いったいどんなことをやっているんだ?」
「この前はさんかくかんすうっていうものをやってたけど、今はびぶん・せきぶんをやってる」
「それって算数か…?」
「あ、そうだ!鷲田さんって外にいたんだってね!?橙に教えてくれない?」
「なんでそうなった?」
「だって藍様が外の世界では一般的な計算って言ってたから、鷲田さんなら知ってるかもと思ったもん…」
若干泣き顔になりながら橙が下を向く。
その様子に慌てて従業員は彼女をフォローする。
「確かに知ってるし、教えることもできないことはないぞ。でも、俺に教わっていいのか?」
「藍様が『鷲田なら微積分位楽勝だろ。教えてもらってもいいぞ』っていってたもん。それにこうやってすれば多分教えてくれるとも言ってたし」
「計算ずくかよ、あのキツネ」
狐の妖獣にしてやられたことに気づいた従業員は小さく舌打ちする。
橙は従業員の舌打ちに気付かなかったのか、笑顔で教授を頼んだ。
「と言う訳で、鷲田さん、私に数学を教えてください!」
「まぁ、俺が暇な時でいいなら教えてやるよ。さすがに今日は無理だけど」
従業員が了承したことに橙は満面の笑みを浮かべた。
「はい、よろしくお願いします!」
「それで進さん、結局橙ちゃんは何の用事で来たんですか?」
橙が帰った後の夜雀亭で店主は従業員に彼女の用件を聞く。
「外の世界の酒とかの仕入れの日程が決まったらしいからそれの報告」
「ということはまたしばらく店を空けるんですか?」
「そうなるな。すまんな」
「いいですよ。外の世界のお酒が入るのは私にとってもうれしいことですし」
ただ、と店主は告げる。
「あの狐に誘惑されても乗らないでくださいね」
「ハ、ハイ」
「うん、素直でよろしい」
なんだかんだ言って一生妻には勝てないのかなぁ…と思った従業員であった。