その隣の新宿区で、亡霊が暗躍した。
4日前の、6月19日に滅びたはずの亡霊が。
悪名高き最悪のPK集団スーパーノヴァ・レムナントに
公然と秘められていた謎が動き出す。
(1)対戦【Pink Hopper】
寂れたビルディングが立ち並ぶ、赤茶けた空の下。
鉄錆の臭気すら漂わせて、メタリックな人影が対峙していた。
片方は目に焼きつくほどに鮮烈な“真っピンク”の人影。
やや小柄で、少女とウサギとまん丸お目目のロボットを足しあわせてデフォルメしたような姿だ。
特に目を引くのは、ウサギのような脚の膝裏や、腕の外側の部分に付いたパーツから漏れるピンク色の燐光だろう。
それはウサギの耳というよりも巨大なリボンの様な、背部に垂れたパーツからも噴出されていた。
時折シュッと光が強まる毎に、勢いよく吹き出した桃色の煙が周囲の瓦礫を吹き散らす。
両手両足と背部にバーニアが付いているのだ。
頭上にはHPバーが伸び、ピンク・ホッパー【Pink Hopper】とアバターネームが表示されている。
そう、これはゲームだ。
《ブレインバースト2039》。
2039年、僅か100人の小学生一年生に配布された対戦ゲーム。
2047年の今になってもプレイヤー人口の総数は僅かに1000人余りの、知られざるゲーム。
そのプレイ人口は、このゲームを始める手段が極めて限定的である事に起因している。
ゲーム内でレベルを2以上に上げた者に認められるたった一回きりの複製権でしか、インストールを受けられないのだ。
しかもレベルを2に上げる為には様々な事に使われるBP、バーストポイントと呼ばれるポイントを
消費し、そのポイントを一度でも0に全損してしまえば、ブレイン・バーストはアンインストール
されて二度とインストールする事はできない。
その貴重さからブレインバーストをコピーインストールさせた者とした者はお互いを親と子と呼び密接な関係で結ばれるほどだ。
レベル4から解放されるコンテンツにはBPを稼ぐ手段も有るが、そこから得られるBPは極僅かで、
基本的にブレイン・バーストのプレイヤー達は対戦によりBPを奪い合い、他のプレイヤーを徐々に全損へと追い込む事でレベルを上げていく。
このようなゲームシステムでは、プレイヤーの数は横這いを続けるのがやっとだろう。
このゲームは何処の店でも取り扱われておらず、大人たちはその存在を知りもしない。
もしも知っていたらブレイン・バーストはすぐさまニュースとして取り上げられ、警察はその存在を取り締まっていたかもしれない。
何故ならブレイン・バーストは2047年の都内全域に張り巡らされた防犯の為のソーシャルカメラ
ネットワーク――完璧なセキュリティに守られているはずのそれをクラッキングする事で、
現実と同じ構成の世界を作り出しているからだ。
そう、一つの世界を作り出している。
《加速世界》。
ブレイン・バーストのプレイヤー達、バーストリンカー達の精神が一千倍に加速された世界。
それはゲームでありながら、あまりにも大仰な技術の結晶だった。
ソーシャルカメラネットワークへの侵入もさる事ながら、
1000倍にも思考を加速するなど、2047年の東京においてもSFの領域だ。
誰が? 何故? 何のためにこんな事を?
バーストリンカー達は幾度と無くその疑問を投げかけ、しかし明確な答えは返らなかった。
真実は遥か遠く、今日もバーストリンカー達は恐ろしく精密に作られた世界で対戦を繰り返す。
現在のフィールドは《黄昏》ステージ。
戦場には鉄錆の臭気さえも漂っていた。
加速世界には光や音のみならず、匂いや味さえも存在する。
バーストリンカーは装着したニューロリンカーを通じて、意識の全てを加速世界に置いている。
五感全てでヴァーチャルリアリティ空間を感じる事ができるのはハードであるニューロリンカーの
機能だが、その機能をここまで使い切った仮想世界を作り出すソフトは他に存在していない。
バーストリンカー達は現実の腕を動かすようにアバターの腕を動かし、現実に見るようにして、
聞くようにして戦場を知覚する。
「いったあ……もうっ。なによ、こんな痛みっ」
当然その声も現実と同様に紡がれる。
《ピンク・ホッパー》の口から漏れたのはいかにも快活そうな少女の声だった。
そのピンクメタルの二の腕には、浅い引っかき傷が走っていた。
ピンク・ホッパーのHPゲージは僅かに減少し、そのダメージを示している。
しかしピンク・ホッパーはHPゲージを何度も確認し、どうにも納得がいかない様子で首を振る。
「ここ、ほんとに《通常対戦フィールド》よね。この痛みはあなたのアビリティって事かしら?」
そうして、目の前の対戦相手に疑問を投げかけた。
加速世界において、バーストリンカー達の五感は現実と遜色なく働いている。
ただ一点、痛覚を除いては。
全感覚を没入して楽しむ対戦ゲームという性質上、痛みの感覚はかなり弱く設定されているのだ。
現在対戦しているフィールドとは別の、《無制限中立フィールド》と呼ばれるエリアでは二倍に
設定されるが、それでも現実より幾分か鈍い痛みしか生まないはずだった。
ニューロリンカーで現実と同じ痛みを生み出そうとすれば、ブレインバーストの設定以前に、
ニューロリンカーにデフォルトで搭載されている痛覚遮断機能《ペインアブソーバ》を切り、
その上で痛覚のゲインを目一杯上げる必要が有る。
しかしあろうことかピンク・ホッパーがかすり傷から感じた痛みは、現実にかすり傷を負った時と
同じくらいの痛みだったのだ。
その痛みをもたらしたのは当然ながら、現在ピンク・ホッパーと向き合っている対戦相手だ。
メタリックなヘルメット状の頭部が、《黄昏》ステージの美しい夕焼けをぼんやりと映し出す。
夕焼けに染まる元の色は……銀色。
いや。
その色は銀というには随分と曇り、くすみを帯びていた。
灰色、というべきだろう。淡く発光する鈍色のフォルムは中性的で、両手の腕だけが僅かに大きく
その爪はギザギザに尖っている。
人影の頭上に表示されているアバターネームは、アセニック・クロー【Arsenic Claw】。
殆どのアバターが金属質な体を持つブレインバーストだが、その中でも名前に色ではなく金属名を冠された分類、《メタルカラー》に属するアバターだった。
メタルカラーは目立った固有武装を持たず、概ね人型の体を持って生まれてくる事が特徴で、
多少アンバランスでは有るが緑系のアバターと同じく防御に秀でたパラメータを持っている。
しかしそれはメタルカラーの全てが基本的な格闘一辺倒である事を意味しない。
もちろん格闘一辺倒の(それ故に強力な)メタルカラーも存在しているが、
貴金属よりのメタルカラーはむしろ特異な性質、アビリティを持っている事が多いのだ。
例えば“加速世界唯一の完全飛行アビリティ”を持つアバター、《シルバー・クロウ》のように。
アセニック・クローは見たところ卑金属寄りに見えるが、これはあくまで傾向だ。
今、目の前に立つアセニック・クローが特殊なアビリティを持っていてもおかしくはない。
恐らくは痛みに関するアビリティだろう。
痛み、というプレイヤーに向けられた能力は対戦ゲームとして異質に思えるが、
加速世界に君臨する七人の王の一人、青の王ブルーナイトなどは《痛覚遮断(ペインキラー)》
アビリティを所持している。
ブレイン・バーストにおける痛みは、大昔の対戦ゲームで言えばヒットバックや気絶値と言われる数値に当たるのだろう。
「ゾッとしないわよ。まさか腕を折られたら現実で骨折する位に痛いんじゃないでしょうね」
そうは言いつつも、恐らくそれはないと当たりをつけていた。
ニューロリンカーの基本機能で制限されているのだから、痛みの上限まで変わるわけがない。
『小さなダメージを受けた時に大ダメージを受けた時並の痛みを出力する』アビリティだろう。
もちろんそれでも、ブレインバーストのもたらす最大激痛はかなりのものだ。
ピンク・ホッパーはその痛みを想像するだけでうんざりとした気持ちになった。
それでも負ける気はしない。
「ま、そんなダメージ受けてやるつもりはないんだけど」
何故ならピンク・ホッパーはその愛らしい名前とは裏腹にレベル7という高レベルにあるからだ。
それに対してアセニック・クローはレベル4でしかない。
レベル差の補正により、ピンク・ホッパーが勝利しても殆どポイントを得られず、
逆に敗北すると大量のポイントを奪われるイヤな試合ではあったが、
それだけのレベル補正が設定されるのには、それだけの有利不利の差が有るからに他ならない。
《同レベル同ポテンシャルの原則》。
バーストリンカーのアバターは、同レベルにおいて、総合的には同じ性能を持つという経験則。
これを逆に言えば、レベル差が開けば総合力に差が生まれ、相当のプレイヤースキルや有利な相性が無ければ埋まらない事を意味する。
しかし言うまでもなく、プレイヤースキルはプレイ時間を重ねる事によって上達する。
そしてブレインバーストで高レベルに到達するのには膨大なプレイ時間を必要とする。
殆どの場合、デュエルアバターのレベルはプレイヤースキルにも比例しているのだ。
少し前に受けたダメージもレベル差の余裕から小手調べに苦手な格闘戦に乗ったからにすぎない。
ピンク・ホッパーの得意とする戦い方に切り替えれば、アセニック・クローの攻撃機会はあと一回しかないだろう。
それに初手で放たれたアセニック・クローの斬撃は予想以上に鋭く速い物だったが、
受けたダメージ自体は予想の範疇でしかなかった。
幾らアセニック・クローの攻撃がダメージに数倍する痛みを与える物だったとしても、
倍近いレベルを持つピンク・ホッパーの装甲を貫いて与えられるダメージは小さく、出力される
痛みもそれ相応に収まる。
仮に次の攻撃を腕でガードし損ねて胴体や首に喰らったとしても、高レベルに至るほど百戦錬磨で
同レベルやそれ以上の攻撃を何度も受けた事のあるピンク・ホッパーの集中力を致命的に乱すほど
のヒットバックが発生する事は無いと断言できる。
「それにしてもあんた、アセニックってメタルカラー……よね?
アセニックってどういう金属だったかしら?」
そこまで自分の優位を確信しながらも、ピンク・ホッパーは不快感を滲ませていた。
幾ら正当な能力だとしても、相手に激痛を与えるアビリティが不快な事に変わりはない。
初撃の鋭さからすれば、ピンク・ホッパーが自分の得意な戦い方に切り替える隙にもう一撃程度は受けるかもしれない。
これからもう一度、かなり痛い目に遭わされるかもしれない相手を好きになれるはずがない。
「なんとか言いなさいよ。別にお茶会を始めようってわけじゃないのよ」
しかもこのアバターと来たら、こうして睨み合っていてもうんともすんとも言わないのだ。
こういう無口なバーストリンカーは時々見かける。
ここまでだんまりな相手は珍しいが、対戦に集中して軽口に乗らないプレイヤーは少なくない。
ただ、ピンク・ホッパーはそういうノリの悪い奴が嫌いだった。
そして何より。
「……そっちから対戦を申し込んでおいて何よ。もうっ」
この対戦が向こうから仕掛けられた物だ、というのが気持ち悪かった。
対戦を申し込む時に相手のレベルは見えるのだ。
3レベルも差が有る相手に仕掛けてきたのだから、よっぽどチャレンジ精神旺盛な奴に違いない。
それなのにこの寡黙さ。嫌らしいがレベル差が大きいと効果を半減するアビリティ。
ひどく不気味だった。
だから不安を振り払おうと、声を張り上げて宣言した。
「いいわ、あたしの声を聞けるのはここまでよ。ピンク・ホッパーの名の理由を見せてあげる!」
両腕、両足、頭部から垂れる背部の二点。
計六箇所に及ぶバーニアを噴射した瞬間、予想通りアセニック・クローは距離を詰めてきた。
「――――シッ!」
鋭い呼気と共に鋭利な爪を束ねた貫手が、槍のように放たれる。
その剣先はピンク・ホッパーのガードを掻い潜り脇腹に突き刺さり。
そこからは全て、ピンク・ホッパーの予想通りだった。
脇腹に受けた傷からは激痛が走ったものの、それでもバーニアを正しい向きで噴射し、
アセニック・クローをジェットで焼きながら斜め上方へと跳躍した。
迫る後方のビルの壁。そこに脚を叩きつけて横向きに着地し、更に跳躍する。
その際に足のバーニアから噴出するジェットがビルの壁面を破壊する。
そうして右に左に縦横無尽に跳躍し、瞬く間に、現実なら雑居ビルの屋上にまで到達した。
ピンク・ホッパーの特性は短距離の跳躍だ。
短距離といってもそれはある長距離跳躍アバターと比較した物で、ひとっ飛び十数mは軽く飛ぶ。
それを連続で繰り返す事で障害物の多い空間を立体的に制する事ができるのだ。
ブレインバーストの戦場は対戦が開始された時の現実世界の空間構造をモデルにして作られる。
バーストリンカー達は都内で生活する小学生から中学生の子供であるから、
自然と対戦を申し込まれるのは市街地であり、ステージの殆どは立体的な物になる。
《壁面走行》を始めとする立体的移動スキルはどれも有用な物として認識されていた。
しかもピンク・ホッパーの連続した跳躍は小刻みかつ不規則、急激に進行方向を変える。
これは鋭角の方向転換が落下の危険を伴う《壁面走行》アビリティには無い強みだった。
高所に上がる事は遠距離攻撃の貧弱な近接攻撃系アバターに対して圧倒的優位になる反面、
《遠隔の赤》を中心とする《遠隔攻撃系アバター》に対して格好の標的になる事が普通だ。
だがピンク・ホッパーの動きは縦横無尽で一跳躍毎に軌道を変える。
遠隔の赤でもピンク・ホッパーの動きを捉えられるアバターはごく僅かだった。
その上に。
ピンク・ホッパーの強みは、更にその上にある。
「これで、終わりよ! 《メルヘンチック・エクスプロージョン》!!」
雑居ビルの屋上縁からアセニック・クローを見下ろして、高らかに必殺技名をコールした。
頭上に輝いていた必殺技ゲージが一瞬で消費される。
ブレインバーストの必殺技ゲージは自分がダメージを受けるか、あるいは何かを壊す事でチャージされていく。
アセニック・クローに二度の攻撃を受けはしたがそれによりチャージされたゲージは僅かな物だ。
痛覚を増幅するアビリティにより痛みこそ大きかったがゲーム内のダメージは小さな物だからだ。
それならどうしてピンク・ホッパーは必殺技を発動できるのか?
ピンク・ホッパーの半身である基本強化外装《ボムバーニア》の強みはそこにもある。
屋上まで上昇する為に壁を蹴るようにして噴射をぶつけたビルの側面は、蹴りとバーニアの噴射によりボロボロに破壊されていた。
ピンク・ホッパーのバーニアはジェット噴射による攻撃判定を併せ持つ攻移一体の武器なのだ。
そこから放たれるジェット噴射はボム、爆弾の名の通り、強烈な爆風。
連続跳躍の時は推進力を最大に得るため蹴りを重ねて至近距離にぶつけているが、本来は面制圧用の遠隔攻撃武器である。
そう、遠隔攻撃。
ピンク。彩度こそ淡いが、それ以外には全く混じりけの無い《赤系》のカラー。
ピンク・ホッパーは純度の高い《遠隔の赤》のデュエルアバターでありその必殺技は遠隔攻撃だ。
六基の《ボムバーニア》が角度を変え、アセニック・クローの居る路上に向けて爆風を噴射した。
吹き荒れる爆風は瞬く間に路上を埋め尽くす嵐となり見る見るうちにアセニック・クローのHPバーを溶かしていく。
すぐにライフは0になりピンク・ホッパーの眼前に【YOU WIN!!】メッセージがポップアップした。
遠隔攻撃ですら捉えらずらい立体機動により高所を確保し、
それに伴いチャージした必殺技ゲージを使った逃げ場の無い遠隔必殺攻撃で対戦相手を封殺する。
これこそピンク・ホッパーが高レベルに至る過程で完成させ、
彼女の勝率を跳ね上げた勝ちパターンである。
* * *
「い……たあ……っ」
ピンク・ホッパー、夕園美珈は対戦を終えて現実に戻っても残る痛みに、思わず脇腹を押さえた。
ブレインバーストの対戦後にはたまに有ることだ。
手足の一本や二本吹き飛ばされて敗北した時、ブレインバーストは結構な痛みを発生させる。
現実より弱いとはいえ、痛みが通常の二倍の無制限中立フィールドで死んだ時の激痛はしばらく
対戦を躊躇した程だ。それに比べればアビリティにより増幅されているとはいえ、今回の痛みは
大した物ではなかった。傷を受けたのが対戦が終わる直前だったせいで尾を引いているだけだ。
なにせ脇腹を刺されてからビルを駆け上り必殺技でアセニック・クローを焼きつくすまで、三十秒と掛からなかったのだ。
「もう。イヤな特性だけど虚仮威しもいいとこね」
アセニック・クローは《メタルカラー》だった。
メタルカラーは元となった金属により性質が違うが、大抵の場合、切断・貫通・炎熱・毒攻撃に対する耐性を持つ。
反面腐食攻撃に弱い事が多く、特に対戦格闘ゲームとして打撃耐性が低いのは大きな弱点となる。
ピンク・ホッパーの《ボムバーニア》から噴出されるジェット気流は言うまでもなく《炎熱攻撃》であり、《衝撃属性》も持つ。他に収縮させて《切断属性》にする必殺技も有るが、先ほど使った必殺技は基本となる《炎熱攻撃》だった。
一撃で倒せなくても良い、必殺技ゲージを貯めながら畳み込もうと思ったのだ。
面制圧火力の高い必殺技は、地形ごと敵を攻撃する事により必殺技ゲージをループさせられる強みを持っている。
ところが3レベルというレベル差の為か、それともアセニックの金属性質が熱に強くなかったのか、
倒しきれないだろうと思った攻撃であっさりとHPを削りきってしまった。
肩透かしもいいところだ。
(そういえば、結局アセニックってどんな金属なのかしら?)
ふと興味を抱き、対戦中は使えない通常のアプリを起動して検索に掛ける。
すぐに検索結果が出た。
「……半金属? へえ、こんなのもメタルに含まれるんだ」
アセニックとは砒素。
卑金属と非金属の中間特性を持つ、半金属に分類される元素だった。
融点よりも沸点が低く、常圧では600℃程で融解する前に昇華する。
これより融けやすい金属も幾つか有るが、炎熱耐性はメタルカラーの中で低い部類に入るだろう。
アセニック・クローはこの性質とレベル差が原因で蒸発したに違いない。
美珈はそう納得すると、ううんと伸びをした。
6月23日、午後のショッピングに足を伸ばした日曜日。
ブレインバーストの世界には幾つも不穏な事件が起こっていたが、
それでも夕園美珈は、世界が終わる事なんて無いと思っていた。
今日も明日も、現実世界も加速世界も、日常も戦いも終わる事無く過ぎていくのだと思っていた。
「ねえ、そこの君」
涼やかな声。
振り返るとそこに立っていたのは中性的な少年だった。
「これ、落としたよ」
「え? ……あっ、ほんとだ。ありがと」
差し出されたのはお気に入りのハンカチだ。
手提げかばんの上の方に入れてはいたけれど、落とすとはうっかりしたものだ。
拾ってもらったハンカチをありがたく手に取る。
「この前に出たベッツィの新しいのだよね。可愛いな」
「あれ、分かるの?」
女子中学生にとって新しい服は高いし、そもそも学校では制服以外は校則違反になってしまうから小物でオシャレする。
最近の流行りはブランド物のハンカチで、これならお小遣いでも気軽に手が届く。
夕園美珈が落としたのは女子の間では隠れた人気の、ちょっぴり大人っぽいハンカチだ。
でも男の子にそういうのがわかるとは思えないのだけれど。
いやこんな美少年ならオシャレにも気を使っているのだろうか。よく見ると小物は繊細で……。
少年はくすっと笑って言った。
「うん、わかるよ。ボクはこういう男の子みたいな服しか似合わないけどね」
あっと思った。
「わかった?」
「うそ、女の子なの!? そんなにかっこいいのに」
「お褒めの言葉光栄です、お姫様。なんてね」
大仰な仕草でお辞儀をしてみせる。
その動作は芝居がかっていたけれど洗練されていて嫌味がない。
「折角だしお茶でもいかが? もちろん時間があればだけど」
「何よ、ナンパ?」
「イヤかな?」
「良いわ、乗ってあげるわ、王子サマ」
楽しげに笑って、手を取った。
女の子同士の姦しいおしゃべりだ。
良い気晴らしになると思っていた。
だけど、訪れたのは。
まどろみ。
白い、霧のような意識の向こうでなにかが音を鳴らしている。
電子音が声高に叫んでいる。
夕園美珈にはわからなかった。今が何で、何処で、どうなっているのか。
薄ぼんやりとした意識の向こうで声がする。
聞き慣れた声。いや、音だ。何が?
システムの音だ。
ブレインバーストのシステムメッセージが表示される時の効果音。
電子的に合成された、意味を伝えるだけの無機質な叫び。
【…………!!】
【…………!!】
うるさいなあという思いの後に。
意識が警告を鳴らした。
【……LOSE!!】
ロス。
負け。
敗北。
この目に映るフォントは、なんだ?
【HERE COMES A NEW CHALLENGER!!】
ついさっき表示された文字は?
そう、たしか【YOU LOSE!!】。
あなたは負けました。
「!?」
【FIGHT!!】の文字が表示されるのとほぼ全く同時に。
咄嗟に、ボムバーニアを噴かせた。
体が宙に跳ね上がる。
加速感に続けて浮遊感が訪れる。
後ろに向けて、跳んでいる? 長年の条件反射で咄嗟に左手を伸ばした。
がこんっと腕からとんでもない衝撃が走る。記憶が閃光のように突き抜ける。
黄色系と対戦し、煙幕で視界を封じられた中で跳躍して腕から壁に着地した瞬間の事を。
夕園美珈は、いや、ピンク・ホッパーは文字通り本物の手足の機能であるように左手のバーニアを噴かした。
そのまま勢いを横に逃し、目の前に迫る窓枠の縁に右足を掛けて上に跳ぼうとして。
空振りした。
「んなっ!?」
現実世界なら雑居ビルの三階、窓ガラスが有った場所を突き抜けてピンク・ホッパーはビル内に
転がり込む。
咄嗟に受け身を取って衝撃を吸収し、立ち上がろうとしてまた転ぶ。
「なん、でよっ」
まるで床に穴でも空いたようだ。
頭上に向いた視線には無機質なライフバーが映る。
ピンク・ホッパーのHPゲージは、半分にまで減っていた。
おかしい。
全身が壁にぶつかる衝撃を左手で受け止めたとはいっても、こんなにダメージを負うわけがない。
そこまで考えてようやく、右足が無くなっている事に気がついた。
「…………!?」
跳躍する前に攻撃を受けたんだ。そう考えてすぐに有り得ないと思う。
今、ピンク・ホッパーは【FIGHT!!】の文字とほぼ同時に跳躍した。
どんな対戦相手だろうと開始直後にこんなダメージを与える事なんてできない。
それは遠隔攻撃を得意とする赤系でも例外ではない。
何故ならブレインバーストの対戦開始直後には僅かな無敵時間が存在するからだ。
それは対戦開始と同時に、対処をする間も与えず遠隔攻撃で相手を封殺できないようにする為だ。
【FIGHT!!】の文字が消えてから数秒間、ほんの僅かな間だけ、デュエルアバターのHPバーは保護されている。
通常の対戦はお互いに数十~数百mも離れて始まるものだから、気づく事など滅多にない仕様だ。ピンク・ホッパーもお互いにリアルを知る《親》とXSBコードで繋いだ直結対戦をした時に、冗談交じりに奇襲を掛けた時に偶然知った仕様だ。
だが現実にピンク・ホッパーの右足は対戦開始の無敵時間中に失われ、大ダメージを受けていた。
一体どこのアバターならこんな事ができるのか。
対戦相手の名前を確認したピンク・ホッパーは思わず絶句した。
《アセニック・クロー》。
ついさっき対戦した謎のデュエルアバターの名がそこにあった。
これも通常なら有り得ない事だ。ブレインバーストでは、一日に一回しか同じ相手に乱入する事はできないのだ。
例外は一つだけしかない。
《直結対戦》。
現実に装着しているニューロリンカー同士をXSBケーブルで直結した状態でのみ可能な対戦方法。
対戦モードは自動的にクローズドになり、対戦中のアバターを観戦登録しているバーストリンカーにも見られない。
これを使うのは主に親と子の練習試合、あるいは。
「《物理攻撃者(フィジカルノッカー)》……!?」
現実のプレイヤーを拘束し、直結対戦を強要し、不利な条件で連続敗北を重ねさせポイント全損に追い込む犯罪者の手口。
自分はそれに襲われてしまったのだ。
夕園美珈/ピンク・ホッパーは慌ててインストメニューを開き、アバター情報から所持ポイント量を確認する。
すぐに、これまでで最大の驚愕と恐怖に襲われた。
「な、なによこれ! ウソでしょう!?」
バーストポイント、残り13ポイント。
同レベル対戦でならギリギリで残る。
しかし1レベル低い相手に敗北すれば、それだけで全損してしまうポイント量。
そんなはずはないと叫びたかった。
ついさっきまで、ポイントは1000近くも温存してあったのだ。
確かに直結対戦では加速状態のまま乱入操作が可能なため、現実では僅かな時間で連続対戦を行う事ができる。
しかし一体何度連続で敗北すればこんな事になるのか。
ブレインバーストの対戦は、ダメージの際に苦痛が伴うのだ。
何度も何度もライフを0にされるまでの間、全く目覚めないなんてことあり得るわけがない。
痛みもなく何度も敗北するなんて、そんな、こと。
気づいた。失われた右足の断面に手をやった。
そこは恐ろしく鋭利な刃物で切り裂かれたように滑らかで、ぱらぱらと銀色の粉が付着していて。
部位を欠損するほどの大ダメージを受けているにも関わらず、全く痛みが出力されていなかった。
「どうして!? どうしてよ!!」
「どうして、だろうね」
ハッと振り向くと、窓の外にアセニック・クローが立っていた。
その無機質な眼差しには、露骨なほどに深い悲しみが滲んでいる。
「あんた……!!」
「外の世界では、十秒足らずさ」
ピンク・ホッパーの恐怖と怒りの視線を受けながら、アセニック・クローは淡々と言葉を紡ぐ。
その声は果たして、ついさっき街頭で出会った“王子サマ”。
初見では美少年にも見えた、男装の麗人の声に違いなかった。
「効能は短いけれど、その分、少しの間だけ深く意識が飛ぶお薬を振る舞ったんだ。
みんな一分間だけ夢うつつ。その間に全て終わらせよう。
毒りんごをかじった白雪姫に、王子のキスが届く前に終わらせよう。
どれだけ意識が加速されても、体が眠っていれば起きる時間なんて有りはしない。
そのはずなのにね」
裏切られた。
騙された。
最初から狙って近づいた。
それなのに声は今でも優しくて。
甘くて。
おぞましいまでの労りに満ちていた。
「それでも時々、君みたいに目を覚ますんだ。
終わっても肉体は眠ったままなのに、デュエルアバターとしての精神だけが目を覚ます。
やっぱり、デュエルアバターの精神は肉体とは別のところに有るんだろうな」
「何を……言ってるのよ……」
ピンク・ホッパーはカラカラに乾いた喉で息を飲み込んだ。
アセニック・クローは、空に立っていた。三階の窓の外の空中に完全に静止していた。
そんな真似が出来るのは唯一無二の《飛行》アビリティを持つアバターだけだと思っていたのに。
全身を淡い光に包まれているだけで、翼も無く、バーニアも無く、平然と。
静かに。
アセニック・クローが、空中で歩を進めてくる。
「ごめんね。そんなに恐がらせるつもりはなかったんだ」
その歩みは自然で、よく注意していないと見落としてしまいそうだった。
それなのに凝視していると距離を見失ってしまいそうだった。
「痛みも恐怖も与えないつもりだったんだ」
アセニック・クローを包む淡い光は柔らかに明滅し、距離感を喪わせていた。
ピンク・ホッパーは必死に目を凝らし。
五歩。
四歩。
三歩。
二歩……いや、一歩……!
「ほんとうに、ごめんね」
「《ロマンチック・フォトンソード》!!」
ピンク・ホッパーは叫んだ。
右足を失う程の大ダメージによりチャージされていた必殺技ゲージが消費される。
右手のバーニアの噴出口が細く狭まり桃色の光が噴き出し光の剣となる。
そして同時に右手に猛烈な推進力を与え、目前数メートルを薙ぎ払った。
必殺技発声から、文字通りの一瞬。
高レベルの遠隔の赤であるピンク・ホッパーが接近された時の奥の手。
射程はピンク・ホッパーの攻撃手段としては短いが、その分、威力も速度も相当な物だ。
属性は切断及び高熱とどちらもメタルカラーが耐性を持つ属性だったが、より威力の弱い
《メルヘンチック・エクスプロージョン》で蒸発したアセニック・クローが耐えられる筈は無い。
消費するゲージ量とレベル差は特性を捩じ伏せHPゲージを霧散させる筈だった。
その筈だった。
なのに。
「…………え?」
アセニウムクローのHPゲージは、1ミリも減っていなかった。
鉤爪の光るアセニウムクローの腕が突き出され。
そこから伸びた光るモヤのような物が、ピンク・ホッパーの胴体中央を貫いた。
痛みは無かった。
だけどHPゲージは物凄い勢いで減り、考える間もなく空っぽになった。
「まさか……これが、ISSキット……」
「違うよ。……ううん、そうだね。同じものだよ」
つい最近流通し始めた怪しい装備の名前。
その否定と肯定の意味を理解する余裕なんてなかった。
ただ、思考が、真っ白になっていた。
視界が光に包まれる。
全てがピンク色の光の粒子に溶けていく。
「あんた……なにもの……」
声が、途切れて。
「《処刑人》……スーパーノヴァ・レムナント」
音だけが、返って来て。
(うそ……それは今週に壊滅した…………)
思考が。
全部。
閃光。
消えて。
………………。
* * *
夕園美珈は、喫茶店で舟をこいでいる自分に気づいた。
目の前には食べ終えたケーキの皿とミルクコーヒーの空きカップ。
ミルクコーヒーには多めに砂糖を入れた気がするけれど、綺麗に溶けてカップの底が見えている。
肩を揺さぶっていた綺麗な少年はにこりと微笑み、お題は払っておくねと言って去っていった。
(ううん、少年じゃなくて少女だっけ)
そういえば連絡先も聞いていない。
名前もミサキさんという愛称だけだ。
割と楽しくおしゃべりできたから少し勿体無い気がする。
(まあいいや、次に見かけたらこっちから話しかけようっと)
ううんと伸びをする。
ショッピングはできたし、楽しいおしゃべりもできたし、充実した午後の一時だった。
そろそろ家に帰るとしよう。
夕園美珈は弾む足取りで家路についた。
ピンク・ホッパーは帰らない。
もう、どこにも居ないから。
その後ろ姿を見届けて、アセニック・クローことミサキは密やかに安堵の息を吐いた。
今回も完璧にやり遂げた。
その達成感と寂寥感を知るものは彼女自身しか居はしない。
彼女の仲間、というには語弊のある関係だったが、レギオンはつい数日前に壊滅してしまった。
だから彼女は今、一人だった。
本来多人数で安全に行うはずの行為も、一人で行えば様々なリスクに神経を擦り減らす。
それを一人で成し遂げた事に胸を撫で下ろし、仕留めた標的に背を向けて歩き出したその矢先に。
バシイイイ!!
彼女には慣れ親しんだ、加速世界への突入音が鳴り響いた。
乱入だ。
表示される対戦者のアバターネームを見て、アセニック・クローは薄く笑みを浮かべる。
シアン・パイル。
つい先日、レギオンメンバー達が襲撃して返り討ちにされた、標的の名前。
【FIGHT!!】の文字が青く染まる視界に踊った。
――シアン・パイルは問いかける。
「君たちは一体何のために存在しているんだ!?」
――アセニック・クローは問い返す。
「金のため。その答えに疑問でも有るのかい?」
シアン・パイルの放つ疑問が、最悪のPK集団スーパーノヴァ・レムナントの欺瞞を穿つ。
・ワンポイント
>「それでも時々、君みたいに目を覚ますんだ。
終わっても肉体は眠ったままなのに、デュエルアバターとしての精神だけが目を覚ます。
やっぱり、デュエルアバターの精神は肉体とは別のところに有るんだろうな」
原作一巻のあの場面で、あの人物が丁度あの瞬間に目を覚ましたのは、
現実世界の眠れる脳が1.8秒間で奇跡的に回復したのではなく、
加速世界の精神が戦いを観戦し加速していた為なのでしょう。