月の光が静かに地面を照らしていた。
街の灯のような微かな音は無く、電流のゆらぎによる秒間百数十回という点滅もない。
星の光のような瞬きも、太陽の光のような苛烈さもない。
静かで柔らかな光が、しかしくっきりとした明かりが加速世界を青白く照らしていた。
加速世界において、このフィールドには《月光》という名前が付けられている。
地形の性質を示さない単語。それでも、名前を聞くだけで情景が目蓋に浮かぶ印象的な言葉。
天頂に浮かぶ満月は美しく輝き、光に照らされない月影は漆黒の闇となるモノトーンの世界。
黙していれば逆に耳鳴りが響くほど静謐なこのフィールドで交わした言葉は、ただそれだけで一抹の思い出となるに違いない。
不純物の無い、澄みきった空気が静かに揺れていた。
その白よりも白い青白い月の光を、美しいピアノブラックの板が照り返していた。
板は、刃だった。
刃は、無数に組み合わさり、人の形を為していた。
その姿は鋭く、身の毛もよだつほどに恐ろしく、魂が震えるほどに、美しい。
ブラック・ロータス。
加速世界の頂点に立つ七人の《レベル9》の一人。
ネガ・ネビュラスを統べる黒の王。威風堂々たる戦鬼の如き戦姫。
だが今のその姿は、どこか物悲しかった。
地面に座り込み、不貞腐れたように、あるいは見捨てられたかのように止まっている。
そのどちらも、なのだろう。
立ち上がらなければならない事は分かっている。
だけど迷っている。
悩んでいる。
苦しんでいる。
自らが救われていい存在なのかわからなくて悶えている。
「良いの? みんな、行ってしまうよ」
掛けられた声に、びくりと震えた。
蹲ったままに振り返るその姿は、まるで子犬のようにも見えた。
ブラック・ロータスは、震えてはいない、だけどとても細い声で言う。
「居たのか。ミサキ」
「まだ、ね。とはいえボクはレギオンを抜けた身だ、すぐにお暇するさ」
ミサキ/アセニック・クローは、その前で丁重な礼をしてみせた。
畏ばった姿勢のままに言葉を紡ぐ。
「もちろん姫様が望むなら、レギオンを抜けた裏切り者を断罪しても構わないのだけれどね」
「……バカなことを言うな」
ブラック・ロータスの言葉に震えが混じる。
「私と意見を同じくしてくれたのはおまえだけだろう。おまえを断罪しては話が通らない」
「そう。それじゃ……」
アセニック・クローの指先が遠くを差す。
ブラック・ロータスが見つめていた、漆黒の影の先、道の先、曲がり角の先。
その遥か果て、絶対不可侵と言われる領域を。
「行ってしまった彼らを断罪するのかい? 君の意に沿わぬ進軍をした彼らを」
「………………」
「彼らも言っていたじゃないか。どうしても止めたいならば自分達に《断罪の一撃》を使ってでも止めてみろと。それほどの覚悟の進軍だ」
アセニック・クローは知っている。
その曲がり角のすぐ向こう側で、皆が足を止めて待っている事を。
ブラック・ロータスが立ち上がり追いかけてくるのを期待している事を。
今ならまだ間に合う事を知っている。
「……あのバカ共が」
ブラック・ロータスの声には無数の表情が煮え滾っていた。
だが憎しみや敵意といった感情は決して混ざっていなかった。
有るのは戸惑いや悲しみ、苛立ちや怒り、喜びと絶望。
途方もなく贅沢な感情のスープ。
「そう、彼らは愚か者だ」
自分もバカと言っておきながら、ロータスが一瞬ムッとなるのが分かった。
無機質なデュエルアバターを通してでも、彼女の感情は素直に表に出る。
読み取るのにコツがいるだけで。
「《帝城》の調査はまだ万全じゃない。その中はもちろん、門を護る四神の調査すら不完全だ。
何度か大規模レギオンが戦いを仕掛けてデータは蓄積されているし、行動パターンや、四体同時に攻めなければ攻略できない事も分かっている。
だけどそれでも、まだ誰も倒していないんだ。登りつめるまで何があるかわからない山だ。
だからこそ挑戦する意味が有る、というのも分かる。
でも挑戦できる機会がもう無くなってしまうから、という理由は危ういよ。
そんな破れかぶれの状態で挑むのは熱に浮かされた無謀もいいところさ」
ブラック・ロータスの、デュエルアバターの目が不安げに明滅した。
その姿はまるで迷子の子供のように、心細い。
そう、確かに子供でもあるのだ。
2044年の夏。
最初に《ブレインバースト2039》を配布された者達でさえ小学校を卒業していない時期。
それでも加速世界の中では五千年以上の月日が流れ……加速していた時間によっては、現実世界で子供でありながらに大人になるだけの猶予が過ぎ去った時期。
ブラック・ロータスはそのどちらでもあった。
子供だけど長年戦い続けてきた歴戦の王で、加速世界で長年を過ごした王でありながらまだどこか幼さを残す少女でもあった。
自分達も同じ小学生だというのに、ネガ・ネビュラスの一同にとって黒の王は尊敬すべき王であると同時に、護らねばならない存在でもあったのだ。
しかしこの日、彼女の率いてきた第一期ネガ・ネビュラスは終焉を迎える。
「だからボクは付いて行けないと言って抜けた。
だけど他の誰一人として、ボクに付いて抜ける事はなかった。
彼らの理由が、姫様に分かるかい」
「……おまえは、なんだと言うんだ」
アセニック・クローは、答えた。
「例えこの進軍の果てに、想像を超えた災厄がネガ・ネビュラスを呑み込んだとしても。
ネガ・ネビュラスは姫様ただ一人のわがままで滅んだわけじゃないって事さ」
ブラック・ロータスはしっかと言葉を受け止め、慄くように震えた。
「それでは……彼らは、死ぬために行くというのか!
私が加速世界全てを敵に回した、そのせいで滅びる前に、自分から死にに行くと!?」
「そこまで後ろ向きじゃないはずだよ。彼らの計画は成功の見込みも、安全策も練られていた。
だけどね、姫様」
アセニック・クローはブラック・ロータスに、歩み寄らない。
二人の距離は、近づかない。
「自分達の知らない所で姫様が悩み、惑い、激痛に悶え苦しんだ末に、怒りのままに下した決断で居場所が無くなるだなんて、みんな絶対にイヤだよ。
そんな事になって《ネガ・ネビュラス》を失った悲しみの矛先を姫様のせいだなんて思う日々を過ごしてみたらと思うと、ゾッとする。
例えこの挑戦で破滅したとしても、何もせず訪れる離別よりマシというものさ」
「だ、だから私はこの状況を招いた独断専行をおまえ達に詫びようと……」
「そしてみんな大激怒だ」
「うっ」
ブラック・ロータスが会談の場で講和を訴えるレッド・ライダーを斬り捨て、他の王達と加速世界の全てを敵に回したのはつい昨日の事だ。
そして今日、ブラック・ロータスは《ネガ・ネビュラス》の皆の前で謝ったのだ。
私は加速世界の全てを敵に回した。
相談もせずに勝手な行動をしてすまない。
謝罪として貯めこんだポイントをアイテムに替えてきた、受け取って欲しい。
レギオンリーダーの座は譲り、私は加速世界を隠遁する云々……。
ミサキは、《ネガ・ネビュラス》一同があそこまで声を揃えてプッツンした瞬間を初めて見た。
「だ、だが《ネガ・ネビュラス》が滅びない道は有った! 全てを敵に回したのは私だけだ!
だからレギオンリーダーの座を譲って私がレギオンを抜ければ良いじゃないか!」
「その為に、誰にも言わずに黙って実行に移したんだね。姫様はみんなを怒らせる天才だよ」
「だから、皆を裏切ったのだから私が居なくなれば」
「わかってるの、姫様? 姫様が居なくなるのも裏切った事にするのも別れるのもイヤだ。
勝手に手を払って去って行くなんて許さない。
それがみんなの出した結論なんだよ」
「うぐっ」
掛け合う中で、徹底的にやり込められながらも。
ブラック・ロータスの声には生気が戻りつつあった。
「それでもね。ボクは姫様の選択を肯定するよ」
「……なに?」
「例えどんな選択であろうとそれが姫様の決断であるならば、ボクはそれを肯定する。
ボクはレッド・ライダーを切り捨てた姫様の怒りも、独断も否定しない。だってそれは姫様が、何らかの痛みに苦しみ、悩んだ末に出した選択だったのだろうから。
例え後になって姫様がそれを間違った選択だと考えたとしても、ボクは姫様の選択を肯定する。
痛みから出た選択が正しいとは限らない。追い詰められて視野狭窄に陥っているかもしれない。
それでも価値があると信じてる。例えそれがどんな選択であったとしても」
「ミサキ……」
「だから本当は、さらってしまおうかと考えていたんだ」
「……は?」
素っ頓狂な声。
「姫様が皆にポイントを譲り渡して隠遁すると言った時にね。
皆に迷惑を掛けない事が姫様の望みなら、ボクがさらってしまえば良いと思ったのさ。
これならみんなの前から姫様が居なくなるのは姫様のせいじゃないし、姫様もみんなに迷惑を掛けなくて済むし、ボクは姫様を独り占めだ。
ほら、そんなに悪い選択じゃないだろう?」
「いきなり何を言っているんだおまえは!?」
動揺するブラック・ロータスを前にくすくすと笑う。
可愛い。
その想いを。
「愛してるよ、姫様」
さらりと吐き出した。
「な、な、な」
ブラック・ロータスの声が言葉にならない。
漆黒のはずの装甲板が、赤く染まったように見えた。
それは気のせいのはずだ。だけどこの世界は強い意思を汲み取り事象に変える。
もしかすると、本当だったのかもしれない。
「ふ、ふ、ふ」
「ふ?」
聞き返すように顔を近づけると、鼻先を刃が通り過ぎた。
すぐさまぶるぶると震えるもう片手の刃先が突き付けられる。危なっかしいことこの上ない。
「ふざけすぎだっ! わ、私が落ち込んでるのをいいことにおちょくるのはいい加減にしろ!」
「ふざけてなんかいないさ。ほらそんなに怒らないで」
空にピンと伸ばした指先の遥か果て。
天上に輝く、月光フィールドの大きな満月を指し示す。
「あんなにも月が綺麗だよ」
「だから話を逸らす……ん?」
きょとん、と一拍間が空いて。
もしかして、と頭に付けるようにおずおずと。
「……夏目漱石か?」
「美しい翻訳だよね、あれ」
お札の顔にもなっている文豪・夏目漱石が英語教師をしていた時、生徒が“I love you”を「私は君を愛している」と訳したのに対し、彼はこう訂正したという。
日本人はそういう時は奥ゆかしく『月が綺麗ですね』とでも言うんだ、それで通じる、と。
今度こそ刃が振りぬかれた。分かっていたから軽やかなバク転で身を躱した。
いくらレベル9とはいえ呼吸を知っている相手の動揺しか詰まっていない斬撃だ、容易いものだ。
と、油断していたら痛みと共にライフが少し削れた。普段以上に鋭い斬撃だったのだ。
「ひどいな、姫様。痛いじゃないか」
「乙女の純情をからかうからだ! だ、大体おまえも女だろうが!」
「そうさ。それがどうしたっていうんだい?」
「大問題だろうが!」
慌てるブラック・ロータスを見ていると面白くなってきて。
くすくすっと、ついに堪え切れず笑い出してしまった。
「こら、ミサキ! いい加減に私を笑いものにするのは」
「だってね、姫様。夏目漱石の翻訳は、恋愛の告白じゃないって言われてるの、知ってる?」
「……なんだって?」
知識をひけらかすようだけれど、からかいすぎて嫌われるのも本意ではない。
ミサキは楽しげに解説を付け足した。
「英語の“I love you”は確かに私はあなたを愛しているって意味だけど、毎朝の出勤前だとか、自分の親や子にも頻繁に言う言葉なのさ。日本語とは言葉の重みが違いすぎるだろう?」
「それは……向こうの国が開放的という事ではないのか?」
「じゃあ日本は? 日本の文豪がそれで通じるから『月が綺麗ですね』と翻訳したんだよ。
綺麗な言葉だけれど、幾ら遠回しでもこれを愛の告白と理解できる場面なんて思いつくかい?」
「む……」
ブラック・ロータスが黙りこむ。
しばらくして、口を聞いた。
「おまえは、何だと言うんだ」
アセニック・クローは答えた。
「ボクは姫様を愛してる。
未来に結ばれたいのではなく、ただここに在る時間を想って。恋人ではなく大きな家族の一員として、あるいは長く仕えてきた従者として。
その想いを祈りにして、願うのさ」
アバターの眼差しが、真っ直ぐブラック・ロータスと結び合う。
「この美しい月と共に、君の想い出に残りたい」
「おまえは、ほんっっっとうにキザったらしい奴だな」
ぽつりと吐かれた言葉は、静かな落ち着きを取り戻していた。
大量の呆れに、その他様々な感情をブレンドした声だった。
「それにわからない奴だ。そう想ってさらいたいとまで考えて、どうしてそうしなかったんだ。
いや、加速世界で誰かを恒常的にさらう事などできるはずは無いのだろうが」
「……え、そこわからないの? 本気で言ってるの?」
「なんだ素っ頓狂な声を上げて」
アセニック・クローは、思わず深々とため息を吐いていた。
そして最初の言葉をもう一度、告げる。
「姫様。良いの? みんな、行ってしまうよ」
ブラック・ロータスがガタッと振り返る。
見つめるのは月光ステージの漆黒のビル陰の曲がり角、レギオンの皆が歩いていった先だ。
今、彼らを追いかけなければそれが加速世界今生の別れになってしまってもおかしくない。
彼らはそんな進軍を始めてしまった。
「生憎、ボクが姫様の手を摘んで逃げるより、姫様が彼らに手を伸ばした方が姫様の為になりそうだからね。ボクは大人しく身を引くよ。
やっぱりボクは本物の王子様にはなれないらしい」
「だ、だが、どの面を下げて会いに行けと言うのだ!?
例え《ネガ・ネビュラス》を滅ぼすのが私の選択ではなかったとしても、あいつらを追い込んでしまったのが私である事に変わりはないじゃないか!」
「そんなの決まってるじゃないか。追いかけて言えばいいんだよ」
アセニック・クローの指先が、再び天頂の満月を指し示す。
「《I love you(月が綺麗ですね)》」
「そんな恥ずかしい事が言えるか!!」
ぜえぜえと荒い息が響く。
気持ちが塞ぎこんだ状態から癇癪を起こしたしてすっかり疲れ果ててしまったらしい。
すぅ、すぅと息を整える音が続く。
唐突に、切り返しが来た。
「……おまえこそどうするんだ。無謀だから付き合えないと言うのはただの方便なのだろう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「おまえはさっき言ったじゃないか。痛みから出る選択は、追い詰められて視野狭窄に陥っているとしても価値のある選択のはずだと。
無謀だと言いながらも、ミサキは窮地に陥る《ネガ・ネビュラス》の最期を賭けた彼らの進軍は価値のある物だと思っているのだろう?
言ったじゃないか。おまえは私の選択を肯定すると。
おまえがレギオンを抜けたのは、私が加速世界から隠遁するという選択を肯定してのこと。
いや、あるいは……何が起こるかわからない危険な作戦に、流されて参加してしまう者が出ないように、自らがレギオン脱退の口火を切ってみせたのではないのか?」
ミサキは、少しだけ口を噤んだ。
沈黙は僅かな時間のはずだった。だけど静寂に満ちた月光ステージでは、ほんの僅かな沈黙さえも永遠のような静謐さを作り出す。
ブラック・ロータスが息を整えた今では尚更の事だった。
「考え過ぎさ、姫様。ボクは無謀な作戦に付き合いたくなかっただけだよ。
確かに、これが姫様の主導なら違う選択をしていたかもしれないけれどね」
《帝城攻略作戦》は隠遁を宣言したレギオンマスターであるブラック・ロータスではなく、幹部である《四元素》達からの発案だった。
ブレイン・バーストというゲームにおいて目指すべきクリア条件は、二つ有るのではないか。
《レベル9》同士のサドンデスルールに血塗られたバトルロワイアルを制して《レベル10》へと至るのとは別に、加速世界中央の絶対不可侵領域《帝城》を攻略する事もそうなのではないか。
「それなら、私が彼らに付いていくという選択をすればおまえは」
「行かないよ。既に選択はなされたんだ。ボクは姫様ではなく、姫様の下した選択を肯定する」
それは軽やかに紡がれた、謎めいた、しかし明確な否定だった。
ブラック・ロータスの手から零れ落ちたアセニック・クローは、もうその掌に戻らない。
ブラック・ロータスの選択を肯定すると言いながらも、その存在は否定するかの如く。
「それにやる事ができてね。準備も必要だ。だから《四元素》達の無謀に付き合えない」
「……ミサキ、おまえは」
少しの逡巡。
「おまえは皆が進軍した理由を自分達が関わらない選択のせいにしない為だと言った。だとしたらおまえは……四元素や皆の作戦を蹴ったおまえは……」
「姫様」
その先は言わせなかった。
皆のせいで《ネガ・ネビュラス》が滅びたと恨んでしまうのではないのか。
それには答えなかった。
ただ、告げた。
「ボクはいつか、姫様の敵として現れるよ。ちゃんと覚悟しておいてね」
そうしてアセニック・クローはブラック・ロータスの前から姿を消した。
2044年の夏、第一期ネガ・ネビュラス時代にブラック・ロータスと交わした言葉はそれが最期だ。
その直後もう一度、帝城攻略作戦の第一関門、四方門の攻略に失敗して壊滅状態に陥っている所に駆けつけて顔を合わせる事は有ったが、とても言葉を交わす猶予はなかった。
それが、今からざっと三年前の事だった。
* * *
「静岡。静岡。次は静岡に停まります。お降りのお客様はお忘れ物無きようお気をつけて――」
車内アナウンスが緩やかにミサキの意識を浮上させてくる。
眠っていたわけではない。電車の穏やかな振動の中で回想に耽っていただけだ。
今、ミサキは東海道本線に乗り東京都の西隣の静岡県を訪れていた。
それはブレイン・バーストや《スーパーノヴァ・レムナント》に関わる物だったが、それを知ったバーストリンカーが居れば一様に困惑していただろう。
バーストリンカーはほぼ全てが東京都内にしか居ない。
東京都を除いた四十六都道府県は、加速世界において無人の荒野なのだ。
極稀に親の都合などで引っ越ししてしまう可能性は有るが、もしそうなってしまえば加速世界から退場してしまうも同然である。
バーストリンカーがどんな目的で行動を起こすにしても、事を行うのは東京都内限定。
それが鉄則のはずだった。
2047年の六月二十四日、日曜日の夕方。
夏休みにはまだ早い日。
レムナントのリーダーは静岡の地に降り立った。
人混みを避け、もう癖になっているソーシャルカメラ・ネットが手薄になりやすい道を歩き出す。
バーストリンクを使用してこの駅や周辺のカメラ配置を確認したのは数ヶ月前で、もう配置は変わっているが、都内に居る時に日頃から頻繁にソーシャルカメラ・ネットの配置を確認しているせいで、最近はわざわざ確認しなくともカメラの配置されやすい場所が殆ど把握できる。
だからといってわざわざ避ける必要の無い時まで避けてしまうのは、見られたくないという感情が有るせいだろうか。
「依頼が来てしまった」
呟く。
「そう、依頼が来てしまったんだ。だから、仕方がない」
自分に言い聞かせるように呟く。
脳裏をよぎるのは最近来たばかりの依頼のメールだ。
普段送られてくるスーパーノヴァ・レムナントへの依頼と殆ど同じ形式だった。
ただし目標となるデュエルアバターの欄に書かれた文字列と、マネーコードの金額が違う。
本来デュエルアバターの名前が書かれるべき場所には、レギオンの名前が記されていた。
そしてマネーコードの金額は、日本円にして10万円。
普段の特定のバーストリンカーを処刑する依頼ではなく、一つのレギオンを潰す形式の依頼だ。
その依頼料はかなり吹っ掛けた高額に設定していた。
いたずらではなく、確かに換金できる正式なマネーコードである事は確認済みだ。
しかし現実的には有りえないはずの依頼だった。
黛拓武とのやり取りでもあった通り、バーストリンカーには日本円の支払い能力が殆ど無い。
この金額を用立てるには極一部の裕福な家の子供か、そうでなければ大規模なカンパをしなければならないはずだ。
その上に、アングラの片隅に時折記載するレムナントのメニューにはこのコースを載せていない。
第二期ネガ・ネビュラスの復活と共にひっそりと記載をやめた裏メニューだ。
確かにこの依頼をもう引き受けないなどと言ってはいないが、知る者がどれだけ居るのだろう。
何よりスーパーノヴァ・レムナントはもう壊滅したと思われているはずだ。
先日のシアン・パイルに返り討ちにされた事件により構成メンバーは全滅したとされている。
その後にシアン・パイルの処刑依頼を失敗したと表明した事で、逆説的にレムナントの生き残りが残っている事は知られただろうが、依頼遂行能力は無くなったと思われたはずだ。
そんな壊滅状態のはずのレムナントに、誰がこのような依頼をしたのか?
仮に生き残りがレムナントの心臓部であるアセニック・クローである事に気づいたとしても、この金額のマネーコードを持ち逃げするとは思わなかったのか?
心当たりは有った。個人的には好きではない人物だ。
だが、それでも依頼は依頼だ。無視するという選択肢は無かった。
そしてこの依頼を実行する為には必要な物が有った。
手勢だ。
アセニック・クローは、とても単体でのPKには向かないデュエルアバターだった。
アバターの特性ではなく、アバターの来歴に問題がある。
アセニック・クローは無名ではない。
アセニック・クローは最古参から存在するデュエルアバターであり、《一日達成者》など幾つかの二つ名まで所持している。
更に七大レギオンの一つであった第一期ネガ・ネビュラスで幹部候補と言われた時期まで有った。
当時のアセニック・クローは後に《四元素》と呼ばれる事となる4人の中では若干レベルが遅れていたアーダー・メイデンよりも高レベルで、対戦成績も良かった。
あのまま何もしなければ四元素は別の名前で、5人か、あるいはアーダー・メイデンが数えられていない未来も在り得ただろう。
(そういえば巫女ちゃん……アーダー・メイデンもレギオンに帰ったんだっけ)
しかしアーダー・メイデンは個人戦よりも領土戦等の集団戦で実力を発揮する特性のアバターだ。特にネガ・ネビュラス影の番長だなどと揶揄される事もあるスカイ・レイカーとの連携で生み出すシナジーは凄まじく、二人で集団戦闘の戦局を変えてしまう。
間違っても彼女を押しのけて幹部格になってしまうわけにはいかなかった。
加えてアセニック・クローには幹部として不適切な理由がいくつもあった。
一つ。《四元素》の中でも近接戦を得意とするグラファイト・エッジは黒の王の剣の師匠であり、四元素達の中でも頭ひとつ抜けていた。
《ネガ・ネビュラスを代表する近接戦闘のエキスパート》の座は既に埋まっていたのだ。
二つ。アセニック・クローはネガ・ネビュラスに隣接するライバルの七大レギオン、レオニーズの青の王、最前線の仮想敵であるブルー・ナイトに一度たりとも勝てていなかった。
三つ。ミサキの得意としていた《盤外戦術》ははっきり言ってネガ・ネビュラスの風土に合わず、対戦を仕掛けられるのを敬遠させた時点で対戦の頻度自体は控え気味にしていた。
単に総合戦績が良いだけではレギオンの幹部として適切とは言えない。
そう考えたミサキは幹部になるなら同じメタルカラーであるグラファイト・エッジから奪うなどと言って、その末に正面から華々しく競り負け、狙い通り幹部候補から抜け落ちたのだ。
しかし対戦も少なめだったとはいえ、七大レギオンの上位に居た名前というのはなかなか忘れてもらえないものだ。
これはPKを行うには大きな弱点だ。アセニック・クローについて知っている者が多すぎる。
普段は思い出せなくとも名前を見れば思い出す程度には皆の記憶に残ってしまっている。
だからスーパーノヴァ・レムナントには四人の配下が居たのだ。基本的にPKの実行犯はミサキが色々と教えこんだ彼らに任せていた。
先日ミサキがピンク・ホッパーに直接物理攻撃を行った……行う事ができたのは、彼女が三年前を詳しく知らないほどに若いデュエルアバターだったからだ。
そうでなければ幾ら配下を失ったからといって自分一人でのPKは断念したかもしれない。
(副長も一番に帰っている。水の……カレントも、もう帰る条件は整っているはずだ。
黒騎士はもうあそこには帰らないはずだけれど、四元素はほぼ復活したと言って良い。
そして新たに銀の翼が、理知と杭の戦士が、時計の魔女が加わった)
「銀の王子のキスで眠り姫は目を覚まし、王国は蘇ろうとしている」
そう嘯き、流石に気恥ずかしくなって顔を赤く染めた。
誰かに格好を付けるのは良いけれど、誰にも見られないで気取るのは逆に少し恥ずかしい。格好を付けた振る舞いを心がけていたせいで、一人でいる時までつい口をついてしまう。
それでも続けた。
「今その王子と姫を引き裂かねばならないなんて、ボクには悪い魔女の役しかできないらしい」
メールに記載されていた処刑対象レギオンの名は、《ネガ・ネビュラス》。
かつてアセニック・クローが所属していた、黒の王のレギオン。
先日戦った、シアン・パイルの属しているレギオンでもある。
シアン・パイルには騙したようで悪いが、シアン・パイルの処刑依頼は確かに取り下げた。その後で別の依頼が来たのだからこれは別の話だった。
個人的に思う所は色々有ったが、それでもミサキの思想はこの依頼を肯定するのだ。
(シアン・パイル。あれも悪いアバターじゃないんだけどな)
シアン・パイルについては、個人的に気になっているアバターではあった。
あの後、彼が使ったというISSキットの所有者を捜して対戦を仕掛け、その性能を確認してみた。
しかし明らかに……弱かったのだ。
厳密には性能自体は低くなかったが、使用者の精神が侵食されている為、他人の心意技である二種の心意技を単調に連射するばかりで、ミサキが一蹴した蒼刃剣にも劣る強さでしかなかった。
強力な負の心意技を会得させていたレムナントの四人に打ち勝てる強さは決して無かった。
ISSキットを装着したシアン・パイルがレムナントの四人を一蹴したという話と噛み合わない。
(狩りPTの前に現れたシアン・パイルのパイルにはレムナントの生き残りが串刺しになっていて、アバター本体ではなくパイルの本体部分に不気味な眼球が脈動していた、だったか)
ISSキットを持つ他のアバターが胸の中央に眼球を出現させていたのとは位置が違う。
ミサキは推測する。
ISSキットは強化外装と相性が良く、強化外装を経由した方が効率的な強化を行えるのだろう。
ミサキは心意技を研究する過程で、心意システムにより強化外装の《融合》を行える可能性に気づいていた。
《融合》を起こした強化外装はお互いの欠点を埋め合い、性能を無駄なく引き出す事ができる。
ISSキットはこの原理により強化外装を持つアバターに装着された時に性能を跳ね上げるのだろう。
だがそれだけではまだ不足している。
《融合》を起こした強化外装は隙の無い性能を持つ筈だが、それだけで両方を足しあわせた以上の性能は発揮できない。
《融合》した事により、シアン・パイルは自らのパイルを操作するようにISSキットを使いこなしたのだ。ISSキットが与える負の心意技を、借り物でなく自らの心意技として使いこなした。
黛拓武自身とシアン・パイルには、以前から負の心意技への適正が有ったのだろう。
というより負の心意技でなければ、秘めているポテンシャルを引き出せない状態に有るのだ。
(彼はあのデュエルアバターを否定したがっている。恐らく過去のトラウマというだけではなく、現在の絆か、あるいは未来の夢か、そういう物を否定しかねない心の傷から生まれたのだろう。
それを肯定する事は今持っている温かな場所を否定することに思えてしまう、そんな傷から。
肯定するには負の心意技を選ぶしかないならば否定する気持ちも分かる。
だけど引き返すにはあまりにもあのアバターを育てすぎた。
レベルアップボーナスを何レベル分も集中させた必殺技特化型デュエルアバター。そのデュエルアバターの本質を最も色濃く表す、アバターカラーが名前に付いた必殺技まで習得している。
彼自身隠そうとしていないから青のレギオンから聞く事が出来たけれど……彼は自らに発現している《穿孔》という強化外装を使う為のアビリティの稀少性にも気づいていないんじゃないか)
ブレイン・バーストにおいて、最初から強化外装を持っているアバターでもそれにアビリティまで付属している事は殆ど無い。
装備している強化外装を使用する為に特別なアビリティなど必要無いのだ。
にもかかわらず、シアン・パイルはパイルドライバー専用としか思えない《穿孔》のアビリティを習得しているという。
このアビリティが何のために存在しているのか。
ミサキは同じ種類のアビリティに心当たりが有った。
《終決之剣(ターミネート・ソード)》。
加速世界最強の近接攻撃力を持つアバター、黒の王ブラック・ロータスの持つアビリティ。
レベルアップボーナスをひたすら攻撃に注ぎ込んだ結果行き着いたそのアビリティは、破壊不可能と言われていた加速世界の地面さえも切り裂く絶対的攻撃力を誇る。
ブラック・ロータスの全身はこのアビリティを得る以前から剣の塊だったが、このアビリティへと至る事でその切れ味が絶対的な物へと強化されたのだ。
《穿孔(パーフォレーション)》はそれと同種の、当然ながらかなり下位のアビリティ……《刺突攻撃全般の貫通性能を上げる》効果が有るのではないかとミサキは見ていた。
つまり《蒼刃剣》でも、刺突攻撃は《穿孔》により威力が強化されるのではないか。
(それに《蒼刃剣》でパイルの形状の変化……つまり心意システムによる強化を修練し、更にISSキットの寄生をパイルに受けた影響が残っていないとも思えない。
彼のパイルは、いつでも心意を載せられる段階にまで成長しているはずだ)
ミサキ/アセニック・クローはシアン・パイルの《蒼刃剣》を一蹴したが、それは戦闘用の心意技として否定したにすぎない。
修行用の心意技としてであれば、《蒼刃剣》には可能性があると感じていた。
それはつまりパイルであった強化外装を心意システムによって強化するトレーニングだ。
パイルでなく刀という形状にすれば心意システムによる強化も肯定的に行える。
それを繰り返せばパイルドライバーに心意技を載せる事も自然に行えるようになるだろう。
その結果。
(だから最後の瞬間、《蒼刃剣》の先端はボクの掌に突き刺さったんだ)
心意技において圧倒的な実力差が有ったアセニック・クローに、ほんの一矢だが報いていたのだ。
心が乱れ自己崩壊を起こしていた心意技で、小さな小さな傷を付けていたのだ。
「あの杭を磨いてみたかったな」
もしも何の立場も無い環境でタクム/シアン・パイルと出会っていたら、きっとミサキは彼の力を鍛えて引き出してやりたいと思っただろう。
通常対戦の戦績では彼が相棒を組む加速世界唯一の完全飛行型アバター、シルバー・クロウと遜色のない成果を出している。
だが彼のアバターならではの仕事は、今の《ネガ・ネビュラス》には存在しないだろう。
ただ強いだけなら近距離でも中距離でも第一期の頃から所属していたメンバーの方が優っている。
当たり前だ。黒の王と帰還しつつある幹部達は加速世界で上から数えた方が早い実力者集団だ。
他にも第二期《ネガ・ネビュラス》の新顔達、シルバー・クロウやライム・ベル等は非常に特殊な一芸を持っており、ただ強いだけでは出来ない仕事を果たせる。
だがシアン・パイルには、そこまでの特異性は無い。個人戦の戦績では劣らないだけで。
その境遇に少し同情と共感を覚えなくもないのだ。
例え最初から仮の止まり木だったとしても、《ネガ・ネビュラス》に居た時に自らの立場の無さを自覚していた頃の自らを思い出すから。
ミサキが《ネガ・ネビュラス》に所属したのは純粋な理由では無かったが、それでも所属し続ける事に、あの場所に喜びを感じていなかったわけではない。
だから彼になら。
「彼なら、鍛え続ければ負の心意ならば極められるかもしれないのに」
力を与えたいと思ったのだ。だけど。
「本当に、残念だ」
処刑人、《スーパーノヴァ・レムナント》は私情も慈悲も挟まない。
「姫様……ううん。ブラック・ロータス。ボクは君のレギオンの敵になる」
東京から少し離れた静岡の地。
他に誰一人バーストリンカーが居ないはずの場所で、レムナントは新たなる暗躍を開始する。
・ワンポイント、多め
>ISSキットと融合について
ISSキットが強化外装を持ったデュエルアバターに装着された時、より深く寄生する事は原作13巻で説明がありました。
この原理について魂の無い強化外装は抵抗無く寄生できる為ではないかと推測されていましたが、
もう一つ、初代クロム・ディザスターが出現した時に起きた現象にも注目したい所です。
ISSキットはあの現象を再現する為に作られた強化外装でした。その伏線として強化外装への強い寄生が描かれていたのではないでしょうか。
>デュエルアバターの本質を最も色濃く表す、アバターカラーが名前に付いた必殺技
ブラッド・レパードのLv5必殺技ブラッドシェッド・カノンなど。
赤系なのに近接特化にしか見えないというあの人は間違いなくシアン・パイルの対比であり成功例だと思うのですが、原作で余り絡みません。タクムの心意の師匠の腹心なのに。
ライトニング・シアン・スパイクはシアンを抜いても問題なく意味が通るのにわざわざ付けられている辺り、特別なものを感じています。
>《蒼刃剣》でパイルの形状の変化……つまり心意システムによる強化を修練し、
>更にISSキットの寄生をパイルに受けた影響が残っていないとも思えない。
>彼のパイルは、いつでも心意を載せられる段階にまで成長しているはずだ
この数日後、原作15巻の事ですが、シアン・パイルは技名も無く絶叫だけでパイルを心意システムによって強化し、七大レギオン幹部級でも手こずる《拒絶》の防御心意にヒビを入れています。
もちろん心意を篭めた某必殺技の相性が非常に良く無駄なく全エネルギーを集中できた為ですが、心意技に対して通常のパラメータは殆ど無効化されてしまうという設定があります。
(正確には『心意技は心意技でしか防御できない』という内容ですが、攻撃と防御を入れ替えても概ね同じになると推測しています)
つまりあの防御心意にヒビを入れた分の攻撃力はほぼタクムの心意から生み出されたわけです。
少なくともそれほどの心意にパイルをぶつけてもパイルが砕けない強度を生み出しています。
その一週間前に《蒼刃剣》がレムナントの四人組の負の心意にボロ負けした事と比べ、次元の違う性能を発揮しているように思えてなりません。
そこから生まれたのが作中の考察となります。