中学二年、2047年の春の夜。
七丈隼土(しちじょうはやと)は塾の帰り道を歩いていた。
ニューロリンカーを通じた教育ソフトがどれだけ効果的でも上手い教育者の対応力には敵わない。
少なくとも今の親の世代にはまだそう認識されている。
だから教育熱心な家の子供は学校の後に塾へも通わされるし、その帰りが遅くなるのも珍しい事ではなかった。七丈隼土が歩く帰り道、路面は街灯に照らされても空はすっかり暗くなっていた。
隼土は勉強を煩わしく思っていたし、ひどく疲れた気持ちにもなっていた。
だけどそれに反抗しようなどとは思いもしなかった。
現実問題、自分が子供で、親の庇護下にあるのは理解していた。
将来の為に勉強をしなさいという論理も、自分の中で合理的な理屈を付けて、受け入れる。
社会の論理に逆らうのではなく、社会の論理を自分の信じる正しさにして同調する。
彼はそういう事が出来る、従順で大人しい、利口な子供だったのだ。
その帰り道で、友人と出会った。
「よう、ハヤト」
「……なんだ、カツか」
工藤勝弘(くどうかつひろ)。
もう何年も一緒に遊んでいない友人で、バスケ部に入っている。
今日も居残って練習していた帰りなのだろう。
「今日も練習か。精が出るな」
「まあな。今年は三年に上がる俺が引っ張っていかないといけないからな」
「部活は良いけど三年は受験もだろう。おまえ成績良くなかったんじゃないのか」
「スポーツ推薦取るから良いんだよ」
「バカ言え、うちのバスケ部、全中は愚か地方大会取った事も無いだろうが。
おまえが幾ら頑張ったところで目に止まらないぞ」
「だから根を詰めなきゃいけないんだろ」
はっきり言って無謀だと思った。
愚かで、無意味で、馬鹿げてると思った。
それが社会の論理を自分の正しさとしたハヤトの感想だ。
非現実的なスポーツ推薦を目指して受験に失敗し将来を台無しにするなんて間違いだ。
「受験でバスケが強い高校目指せば良いだろうに」
「偏差値、全然足りねえんだよ。どうせ難しいなら得意なもので目指すさ」
だからってバスケは潰しが効かない。
しかもチームスポーツだ、自分だけ上手くなっても目的には届かない。
諌めるべきだ、説教すべきだ。
だけど、ハヤトはそこまで偉そうな大人にはなれなかった。
「……そうか。ならせいぜい上手くやるんだな」
「ああ、やってみせるさ。てめえもがんばれよ」
「ああ」
少し溜息を吐く。
そんなに自信の有る人間にはなれなかった。
ハヤトも今の成績なら問題無いとはいえ、油断すれば落ちる目標校なのだ。
そして好きなバスケットで勝負するカツと違い、ハヤトの勉強は気が滅入る。
幾らずっと近く平坦な道だとはいえ、急な坂を上り続けているような気持ちだった。
「君たち、時間が欲しいんじゃないかい?」
彼女は、そんな時に現れた。
「安心していい、ボクは黒づくめの時間泥棒じゃあない、本当に時間をあげられる者さ。
ただ、何ヶ月か後に一度試験をしてボクの目的に協力して貰うけれどね。
それまではボクが上げる時間は気晴らし以外に使わない方が良い。
ああ、何を言っているんだと思っているのかい?
良いよ、見せてあげよう。ボクがあげられる時間の力を」
そして彼女は見世物のようにそれを見せた。
バーストリンクと、フィジカルブーストの力を。
* * *
かくして七丈隼土は旧友と共に加速世界に降り立ち、《セルリアン・フォール(CeruleanFall)》の名を授かった。
小学生の頃、図画工作の時間に絵の具で見たセルリアン・ブルーという美しい色。
ラテン語の空色を語源とする美しい青の装甲色を持つデュエルアバターだ。
その特性は青系らしい近接格闘系だが、ある特殊な性質を持っていた。
まるで鋭利な三角定規を組み合わせて回転させたように、手や足の先が尖った形状を持つのだ。
(カツの奴もこの何処かに居るわけか)
友人の工藤勝弘も《ヴァーミリオン・ディスハーモナイザー(VermillionDisharmoniser)》等というとんでもなく長いアバターネームを得て、様々な銃を両手+1で撃ちまくり不協和音を鳴らし立てながら勝ち星を稼ぎ、今日まで生き残っていた。
今日はバトルロワイアルの対戦者の一人となるわけだが、出来れば出会いたくはなかった。
今日の戦いは普段に輪を掛けて過酷な、負ければ加速世界から追放されるサドンデス形式のバトルロワイアルだ。疎遠とはいえ顔見知りと潰し合うのは避けたいし、共闘を申し込むのだってリスクが有る。
それになにより。
「勝ちは俺自身の手で掴むのが筋というものだ」
加速世界に降り立つ度に、心が開放される。
現実世界では捨て去ろうとしているはずの稚気がむくむくと湧き上がってくる。自分自身の全てをぶつけて筋の通った成果を掴みとる純粋な対戦に何度心を癒やされた事だろう。
対戦で疲労困憊するはずなのに、勉強の合間に疲れた後の対戦が、何故か疲労を吹き飛ばす。
バーストリンクにより《足りない時間を手に入れる》事が主目的だったはずなのに、いつの間にかハヤトは《無いはずの時間で楽しむ》為にブレイン・バーストを続けていた。
バトルロイヤルの開幕と同時、ハヤトは緑に呑まれながらも廃墟の様に朧気に残っている町並みの先、高層ビルをアレンジされて生み出された大樹の群生地を目指して疾走した。
その鋭利な足先は柔らかい地面に突き刺さる事無く、ホバーの様に僅かに宙に浮いている。
アセニック・クロー曰く、アビリティにはならない基本的な特性の範囲だが、地形の影響が薄い、優秀な移動タイプだという。
なんでも彼女の知る近接最強二人の内、一人はこの特性を持っているのだとか。
だがセルリアン・フォールにはそれとは別にもう一つ、アビリティとして設定されている移動能力を所有していた。
勢いを緩めることなくまっすぐ大樹に突進すると、その右足を上げ、まるで飛び蹴りの様に足先から衝突した。その足先が大樹に突き刺さる。
次に左足をそれより上に突き刺す。
そして右足を引き抜いて、左足より上に。
《壁面走行》アビリティ。
まるで壁に向けて重力が発生するように、垂直な面を駆け上がる事ができるアビリティだ。
細かい部分はデュエルアバターによって差異が生じるらしいが、セルリアン・フォールの物は足先を突き刺してオブジェクトにダメージを与えながら駆け上がるという過激な物だった。
とても破壊不可能な強度の壁で有ってもちゃんと引っかかって駆け上がれる辺り、本質はあくまで変わらず、副次効果として壁に穴を開けてしまうらしい。
そうして大樹を駆け登り、辺り一帯を見渡せる枝葉の上に辿り着く。
「……さて。初手はこれで良しか」
原始林ステージの空は蒼穹とはいかず、奇っ怪な薄紫色に染まっている。
同じ森林系なら世界樹ステージの方が好きだったが、そんなレアな贅沢は言えないだろう。
原始林ステージの大樹は世界樹ステージに比べれば現実的なサイズで切り倒される危険も有るが、セルリアン・フォールにとってそれはさしたる問題ではなかった。
とにかく高所を取る事が肝要なのだ、このアバターは。
ガサガサと、地上から下生えをかき分けて歩く音がした。
* * *
「さあ、質問は有るかな。無ければ戦場に散って、戦いを始めてもらおう」
その言葉にセルリアン・フォールは真っ先に挙手をした。
「君は、セルリアン・フォールだったね。何が訊きたいのかな?」
「無制限コピーインストール権の入手法について教えてもらいたい」
小さなざわめきが有った。
アセニック・クローはふむと呟き、気取った様子で問い返してきた。
「一回こっきりのインストール権じゃご不満かな?」
「不満も不満、これではどう考えても俺達のポイントは絶えてしまうじゃないか」
ハヤトはセルリアン・フォールの手をオーバーに振って訴えた。
「レベル1の初期ポイントが100。レベル2に上がる為のポイントが300。そこでパイを増やしても新たなデュエルアバターの初期ポイントは100。合計のポイントは200も減っているのだぞ。
レベル2のアバターを全損させてもその300ポイント分は誰も獲得できず消え去るのだからな。
仮に10人でどれだけ効率よく回して増えても、レベル2が4人とレベル1が10人になった所で、集団全体の合計BPは100を切り誰もレベルアップできずレベル2のコピー権限も使用済みになる。
しかもこれは対戦を仕掛ける時の1ポイントの加速を含めていない。レベル2になる4人が全勝し続けていたとしても、単純計算で80ポイントも必要になるな。実際は勝ったり負けたりで無駄に誰の物にもならずに消費されていくんだからもっと要る。
挙句、対戦を仕掛ける時以外のバーストリンクや……フィジカルブーストの消費も有る。
時期を早めたとはいえ、この十人の中にもおまえが目標として掲げていたレベル4到達がならず今日のポイント補充でどうにか追いついた奴も居る程じゃないか。
おまえは俺達に機能を制限したアカウントを配布したんじゃないのか?」
この期に及んで初めてその数字に気づいた者も居たのだろう。10人しか居ないバーストリンカー達の間からざわめきが沸き立った。
ハヤトは内心で呆れた。将来を考えればすぐ気づく事だろうに。
「これを覆せるのはおまえの持っている無制限コピーインストール権しか在り得ないだろう」
そう、ここに居る者達は全て、アセニック・クローの《子》やその子孫に当たるのだ。
2047年の春、今から三ヶ月ほど前、アセニック・クローはこの静岡に現れるとブレイン・バーストプログラムを辺り構わずばら撒いた。
その総数は五十以上、あるいは百近くにもなるだろう。
だがこの六月末にアセニック・クローが再来した時、彼女が提示したレベル4に到達できていた者は僅か数人しか居なかった。
生き残りの総数でさえ、十人。
アセニック・クローはその足りなかった者も生き残った事を讃え、自らのポイントを与えてやってレベル4に押し上げ、この無制限中立フィールドへの一斉ダイブを行ったのだ。
しかしアセニック・クローは、セルリアン・フォールの質問を否定した。
「残念だけれどね。ボクの無制限コピーインストール権は一種のバグで残っているようなもので、新しく手に入れる手段は存在しないよ。奇跡の果実なのさ。
もちろん代替の手段は存在するけれどね。
言っただろう、この世界に居続ける手段を与えてあげるって。バーストポイントを奪わずに増やし続ける手段は存在する。
生き残った者にはその手段を教えて、出来るようになるまで訓練もしてあげるよ。
その前に協力してもらう事は有るけれど、勝者はこの世界に立ち続けられる事を保証しよう」
後にも質問は続いたが、セルリアン・フォールが気になったのはただこの一点だけだった。
この加速世界に生き続ける手段は、確かに存在するのだと。
* * *
セルリアン・フォールは樹下を歩いていたデュエルアバターを目にして、愕然となった。
そのデュエルアバターも真っ直ぐに上を見えて、セルリアン・フォールと目を合わせていた。
「ネイビー……!」
「セルリアン……」
このバトルロワイアルで潰しあいたくなかった相手は二人居た。
一人は友人のカツことヴァーミリオン・ディスハーモナイザー。
そしてもう一人が彼女だった。ネイビー・トライデント。
いや、出会いたくないという意味ではヴァーミリオンよりこちらの方が遥かに上だった。
なにせ彼女は――
「まさか最初に出会うのがあなただとは思いませんでした。ですが」
「待て、俺はおまえとは」
「出会ってしまったからには仕方がありません
――勝負事に一切手を抜かない。
そういう性格なのだとよく知っていた。
例え敗北者がブレイン・バーストプログラムを失う重すぎる戦いであったとしても、相手が親しい者だったとしても、彼女は普段と何も変わらない調子で正面から全力を出し切るだろう。
それが勝負事に対する最上位の礼儀だと心の底から信じているのだ。理屈では同じ答えに至れてもポイント全損寸前で命乞いをしだした相手にキッチリトドメを刺すのを見た時は流石に引いた。
そのあんまりすぎる潔さが彼女の美点であり怖ろしい点でもある。
一閃。
鋭い斬撃が、直径にして五m以上もある大樹の幹を切り裂いていた。
その手にあるのは水で出来た三叉槍だ。常に泡だっているが半透明で若干視認しづらく、素材が水で出来ているため壊れても即座に再生する。槍であるため、若干リーチが長い。刺突も斬撃も打撃もこなせる。
以上。
多少見えにくくて壊れにくい武器を持っているだけだ。
それはつまり、ポテンシャルの大半が基本性能に振り分けられている事を意味していた。
青系のカラーの場合、それは近接戦闘力に他ならない。
ネイビーは色を255色に分類した時、赤や緑が全く混ざらない暗い青色に付けられる名なのだ。
その純粋な近接戦闘能力はある偏りを持っているセルリアン・フォールを上回っている。
「くそっ、いいだろうやってやる!」
ハヤトは観念して、傾き始めた大樹の枝から飛び降りた。尖った足先の延長線にはネイビー・トライデントが居る。重力がセルリアン・フォールの体をみるみる内に加速させる。
普通のアバターならこれは愚行だ。落下中はまともに動けないし、着地した瞬間は完全に無防備になってしまう。
だから着地狩りを狙おうとしてくる対戦相手も多かった。それで決着した事さえも。
(《落下制御(フォーリングコントロール)》!)
腹筋から胸筋に力を入れるような感覚で、アビリティの発動を制御する。
《落下制御》。これこそセルリアン・フォールが最初から持っていた最重要アビリティだ。
落下速度を半分から二倍の範囲で制御、更に落下方向も四五度までの範囲で操作する。落ちる事は変わらないが、落ち方が全く変わる。
セルリアン・フォールが最大の機動力を発揮するのは高所から落下するその瞬間なのだ。この落下をただの自由落下だと甘く見た者は須く痛撃をその身に叩きこまれてきた。
だが、ネイビー・トライデントはその特性を熟知していた。
その上で最もシンプルで度胸の居る選択をした。通常の二倍速で落下するセルリアン・フォールに向けて、正面から跳躍したのだ。
放たれたトライデントの一刺しとセルリアンブルーの鋭利な脚が交差した。
「おまえはっ、こんな時でもまた出鱈目をっ!」
「色々考えましたが、これが最善手だと自負しています」
セルリアン・フォールの蹴りは真っ向から突っ込んできたネイビーの顔面を抉っていた。ハヤトは端正だと感じる秀麗なネイビーのフェイスが無残にひび割れている。
手足への被弾と違い機能への障害こそないだろうが、ダメージは相当な物のはずだ。
この無制限中立フィールドでは普段の二倍痛いはずなのだ、想像するだけでゾッとする。
しかも顔面中央に直撃すれば一撃KOさえありえた。そうなればサドンデスカードにポイントを預けている今、即座にポイント全損、ブレイン・バーストプログラムを永遠に失ってしまっていた。
トライデントの矛先でセルリアン・フォールの足先を逸らすのに失敗すれば、それだけで。
それなのにネイビーは平然と立っている。
そんな事、これっぽっちも怖くないというかのように。
「つくづくおまえの正気が疑わしくなる」
「何度も言ったはずです。こんな世界、怖くなんてない」
姿勢を低くしたネイビーが地を這うように突進する。セルリアン・フォールは歯噛みしバックステップを繰り返しながら小刻みに牽制の蹴撃を打ち下ろす。
足先を矛が受け止め、逆に切り裂いてくる。それだけで痛みが走り心が萎えそうになる。
怯む心を必死に抑えこんで、迫るネイビーを薙ぎ払わんとばかりに回し蹴りを放った。
だか、空振る。這うような姿勢を更に倒し両手とトライデントを地面に掛けてギリギリでブレーキを掛けたのだ。セルリアン・フォールの足先がネイビー・トライデントの鼻先を通過する。
そして止めた勢いを溜めにして、地面から打ち上げる様にトライデントの突きが発射され。
「舐めるなっ」
セルリアン・フォールの足先がその突きの先端を受け止めた。
「俺もおまえの事は分かっているんだよ!」
それでも押し切ろうとした瞬間、ネイビーは失策に気づいた。
セルリアン・フォールはその勢いを利用して、軽やかに背後に跳躍したのだ。先ほどとは別の樹が生えている。その幹に脚が刺さり、続けざまに二歩三歩と駆け上がり。
更に跳躍した。
セルリアン・フォールが再び上を取った。
しかもネイビー・トライデントが突きを放ち全身を伸ばしきったその直後に。
「《シャンデリアフォール》ッ!!」」
セルリアン・フォールの手が、脚が、無数の刃となって下方に伸びる。下方向しか攻撃できない、その分だけ強力な刃の空がネイビーの視界を覆った。
* * *
七丈隼土が加速世界に降り立ち戦い始めてしばらく経ち、ようやくレベル2になった頃の事だ。
ハヤトは自らのアバター、セルリアン・フォールの由来が何なのか今頃になって考えてみた。
原因はすぐに思い当たった。落下……というよりも低下。
成績が下がる事への恐れに間違いないだろう。
そこまで勉強に緊張感を持っていない者には分からないだろうが、努力してようやく優秀な成績を維持している程々の優等生であるハヤトにとって、これこそが最も現実味の有る恐怖だった。
以前ほんの少しだけ勉強をサボって成績が落ちた時、両親の視線の温度が明らかに冷たくなった。もちろん叱られもした。遊んでいるからこんな事になるのだと。
それは教育熱心な家庭では当然の範囲の大して厳しくもない叱責だったのだが、ハヤトにとっては両親が初めて見せた攻撃性だった。
ハヤトが普段叱られない手のかからない《良い子》だから、軽い叱責さえもが重く感じたのだ。
これまで無条件に自分を味方してくれていると思っていた存在が、単に自分が現状を維持し続けているから手の平を返さないでいてくれているにすぎない。
そう思った瞬間、ハヤトはまだ幼い人生最大の恐怖に襲われた。
だからもう絶対に《下がりたくない》と思うようになったのだ。
その感情をブレイン・バーストプログラムが濾し取り、デュエルアバターに作り変え。
加速世界においては、落下に特化したデュエルアバターとして表現されたというわけだ。
滑稽に思えるかもしれないが、合格発表を待つ受験生の前では落ちるだの滑るだのが禁句になるのと似たようなものだろう。
この話をカツにしたら、カツからは
「ははっ、結構深刻じゃねーか。俺なんざ音痴な事ぐらいしか心当たり無いんだぞ」
と笑われた。
深刻だと言っておきながら笑うとは非道い奴だと思う。
(だけど……やっぱり小さいよな、俺は)
当人にとっては深刻な悩みでも、やはり成績の低下が怖いなんて矮小な悩みに思える。今日みたいな晴れ渡った天気の日は特にそうだ。
蒼穹の空。
セルリアンは元々ラテン語で空の色を表すらしい。良い色を引けたと密かに気に入っていた。
だが自分はその美しさに見合えているだろうか?
客観的に見れば他愛の無い、惨めな存在に映っていないだろうか?
青い空を観る度にそんな想いが幾度となく湧き出してくるのだ。
(……いや、学生なんてこんな物だろう。俺達はまだ未熟な存在なんだから)
そう小賢しい理屈で無理矢理に納得させた。中学生の特権だ。
自らの小ささを思い知り、理屈を捏ねて辻褄を合わせる。幾度と無く繰り返した自問自答。
その日もただそれだけの、一分足らずの物思いに過ぎなかった。
その時、塩素の混じった水の匂いを感じた。
どうやら考え事をしている内に普段来ない屋内プールの近くまで来ていたらしい。開いている窓の向こうに、熱心に泳いでいる水泳部員達の姿があった。
まだ新学期早々、四月も半ばだ。水泳部は肌寒い季節から泳ぎ始めるというが、流石にこの時期から練習を始められるのは屋内プール有ってこそと言えるだろう。
それも五年程前に新しく建造された、50mの長水路プールだ。どうやら学校は今、水泳関連に力を入れているらしい。ハヤトは進学一筋で、自分の学校にどんな部活が有るのかもよく知らないが、平凡な功績のバスケ部と違って水泳部には強い選手が居ると話題になっていた気がする。
(あの子かな)
一人の少女が飛び込み台に上がった。
いつの間にか他の部員達がプールサイドに上がり、固唾を呑んで見守っている。タイムを測るのだろうが幾らなんでも仰々しすぎる。
水泳部でも特別な存在。噂のエースに違いない。
ハヤトは足を止めて少し見物してみることにした。
といっても水泳の事など分からない、見た所で良し悪しが分かるとは思えないが……。
ピッという準備ホイッスルに合わせて、少女が飛び込みの体勢を取った。
その瞬間から、何か違う物を感じた。
(なんだ!?)
空気が、違う。
他の水泳部員達と違い、完全に洗練されたプロの所作を感じたのだ。それが気のせいでなかったのは次のホイッスルの飛び込みで確信できた。
かつてテレビ中継で見た、トップクラスの選手達の飛び込みだったのだ。
比較対象となる他の中学生水泳部員のレベルは知らなかったが、ただ飛び込んだだけで見守る部員達から歓声が上がっている事からも明らかだろう。
そして少女はすぐに浮き上がって……
こない。
「……え?」
今、飛び込んだはずだ。だが浮かんでこない。
どういう事だろう。部員達もなにやらざわついているように思える。
まさか溺れた? いやそんなはずは。
ザバッと、視界の外から音が聞こえた。
慌ててそっちを見るとプールの半分以上を過ぎた地点に少女が浮上していた。そのまま水面を跳ねるように軽やかなバタフライで泳ぎ始める。
「コラァッ! 洲崎ぃ! 幾ら練習だからって規定以上潜るなっ!」
水泳部のコーチと思しき教師が叱責の声を上げる。やがて少女はコースの端まで到達すると鮮やかにターンして。
次も、プールの中程の位置で浮上した。
プールサイドに上がった少女が謝りながら試してみたかっただとか、コーチが危ないからやめろだとか喧しく声が響いていたが、もうハヤトの耳には入らなかった。
今、あの少女は50mプールの半分以上を潜水したまま泳いだのだ。
後で調べてみたところ、そういう潜水泳法を得意とする選手は居るらしい。
しかしかつてそれを得意とする選手が30mもの潜水泳法を駆使して世界大会で成績を残した直後、以前からその泳法の危険性が問題視されていた事もあり、距離に制限が掛けられた。
現在公式大会では、制限が緩い種目でも飛び込みやターン毎に15mまでとなっている。
しかし体力の消費が激しい事から、この距離を使いきれる選手も多くないのだという。況して最初の飛び込みの時だけならまだしも、ターンの度に15m潜水泳法など体が持たない。
そして洲崎水花(すざきみずか)と言う水泳少女が、かつて潜水泳法で記録を残した選手の再来と呼ばれている事も知った。
急激にタイムを伸ばし続けている為、まだ注目が追いついていないが、既に全国レベルだとも。
あるいはそれ以上だとも。
矮小でもちっぽけでもない、未熟でない存在はすぐ近くに居たのだ。
それを知った時、ハヤトの心は急激に彼女へと惹きつけられた。
* * *
「どうして、ですか」
ネイビー・トライデントは。
洲崎水花は、七丈隼土に問いかけていた。
「どうして、攻撃を逸らしたのですか」
まるで刃がびっしり生えた吊り天井が落ちる様な必殺の落下攻撃。
回避も防御も出来ない。完全な詰み。ネイビー・トライデントの敗北は確定していた。
だがその攻撃が当たる事はなかった。
セルリアン・フォールは直前で《落下制御》アビリティを駆使してその攻撃を逸らしてしまった。その次の瞬間、完全に詰んでいた筈の刃の天井の下でそれでも抗おうと振り上げられた三叉槍が、セルリアン・フォールの胴体をものの見事に貫いたのだ。
苦痛から出そうになる呻きを押し殺して、吐き出すように。
「おまえが、潔すぎるんだよ」
どうしようもなく呆れた声が出た。
それから、少し迷ってから、付け加えてみた。
「仮初じゃなく本物の関係になりたいと言ったらおまえは受け入れてくれていたか?」
「えっ」
思いもしなかったという、素直な驚き。
それだけで、ハヤトは諦めがついた。その程度の関係にしかなれなかったのだ。
「悪いな。急に変な事を言った。おまえに全力をぶつけきる事も出来なかった。すまない」
これはハヤトの勝手な感情だ。
相手からすれば困惑する話だろう。ハヤトはどうすれば異性に好意が伝わるか思いつかなかった。
だからハヤトから彼女に与える事ができたのは、たった一つしかなくて。
「……ブレイン・バーストプログラムの、《親》になってくれた事は感謝しています」
それだけが二人を結んだ物だった。
「ですがあなたは、私をメダルとして飾りたいだけだと思っていました」
「………………」
そしてきっと、それ以上の物になれなかったのだ。
「私に付き合って欲しいと言った時も、ただ私の成果を共有したいだけなのだろう、と。あなたが興味を持っていたのは私の成果だったように思えましたから」
違う、と言いたかった。だけど何が違うというのだろう。
ハヤトが彼女に抱いた憧れは、彼女の偉大さに対する物に違いなかったのだから。
告白だってしていた。断られかけたのを仮初でもいいからと押し切って付き合いもした。
《親》と《子》の絆までも有った。
その上で、ここまでの関係にしかなれなかったのだ。
つくづく、泣けてくる。
「私はあなたの恋人にはなれません」
「……そう、か」
意識が遠のく。セルリアンブルーの輝きが視界を埋め尽くす。
蒼穹の色。
空の色。
それがとても優しい物に感じられた。
こんな無様な敗北と失恋の記憶、早く振り切ってしまいたかった。
アセニック・クローは言っていた。何度か顔見知りが全損して知っていた。
ブレイン・バーストプログラムを失えば、この痛みは。
「……私は……想いを返せません……だから、あなたのメダルになら……」
そしてセルリアン・フォールの意識は、消滅した。
* * *
七丈隼土は、長い夢を見ていたような気分だった。
何故か分からないが少し泣いていたらしい。恥ずかしい。
ハンカチで顔を拭いてから、ダイブブースを出た。何の用でここを使っていたのだったか。
「……ああ、それよりももうこんな時間じゃないか」
塾に行く時間だ。移動時間を差し引くと十分しか時間が残っていない。
一瞬、十分も、と浮かんだ思考を叱咤する。そんなにゆとりの有る時間ではない。
七丈隼土は早足でアミューズメントセンターを後にした。
・ワンポイント
>「不満も不満、これではどう考えても俺達のポイントは絶えてしまうじゃないか」
どうやったってバーストリンカーはポイント切れで絶滅してるでしょ、という謎について。
まず前提として、これは回数制限のコピーインストール権もレベル2が必要という設定の上に成り立っています。
実はレベル1で子を作れる事にする、と解釈すればこの問題は一応解決するのです。
原作七巻によれば少なくとも最初の一年は無制限コピーインストール権が存在し、それを行使できるのがレベル2からだと語られていましたが、一回限定のコピーインストール権についてのレベル制限が語られた事はありません。
レベル1でコピーインストール権が存在するなら、最初のポイントを失う前に一人でも増やせば、全体としては若干ながらポイントが増えていく事になります。
ですがこの場合、《親》になる前にレベル2に上がる暇などありません。レベル1の何一つ《子》に教える事を知らないド新人がぽこぽこ子を作っては全損を繰り返しているのは、原作のイメージから大きく乖離してしまいます。
その為、本作では《一回制限コピーインストール権もレベル2になってから》と設定しました。
その上で話を続けさせて頂きます。
何故、バーストリンカー達は絶滅していないのでしょうか?
原作では《緑の王》グリーン・グランデの人知れぬ敢闘が語られました。
無制限中立フィールドにダイブするレベル4以上のバーストリンカーは皆、緑の王に救われていたのです。
ですがそれだけでは無制限中立フィールドにダイブできない低レベルリンカーが助かりません。
レベル1~2のバーストリンカーには別の救世主が存在していました。
ネガ・ネビュラスの四元素が一人、《ザ・ワン》ことアクア・カレントです。
全損の危機に陥った者を、無制限中立フィールドでポイントの安定を得たレベル4さえも打ち倒す
タッグマッチ戦により護り、そのポイントを回復していたわけです。
これによりレベル4以上のポイントも、少なからずレベル3以下に配分されていた事になります。
更にレギオンに所属するメリットが語られた時、ポイントの安定についても触れられていました。
これはつまり大レギオンにはポイントを融通して危機に陥った者を回復させる福祉システムが有るのでしょう。かつてサフラン・ブロッサムが提唱した互助システムを思い起こさせます。
また、レギオンではなく親と子の関係にもその縮図を期待できます。4レベル以上になって無制限中立フィールドでポイントを稼げる親であれば、子にポイントを融通する余裕も生まれます。
ブレイン・バーストのゲームシステムは存在し続けるだけで困難なバランスで設計されています。
何せポイントを移動する対戦にも加速が必要な上に、勝ったり負けたりでは消耗していくばかり。その上に無制限中立フィールドに行けばポイントを稼げると思いきやエネミー狩りはかなり辛く、ポイントを消費するショップまで存在するのですから容赦がありません。
もしかすると無制限コピーインストール権が回数制限コピーインストール権に変わった時、製作者は半ば以上、現在の加速世界を見捨ててしまったのかもしれません。
それでもブレイン・バーストが維持されているのは、そのプレイヤー達の努力に拠るものです。
それは原作では憎き敵役である者達でさえ例外ではありません。
ホワイト・コスモスは融和と闘争のバランスを語り、加速世界の存続を願っている様に思えます。
ISSキットを拡散させていたマゼンダ・シザーも弱い者が生きる権利の為に戦っていました。
加速世界はその存続を願う者達の努力により辛うじて護られている世界だと言えるでしょう。