ロドリオ村の雑貨屋には、包帯を買いに来ただけだ。
店番をしていた少女が、にっこりと微笑んでくれた。
それだけで、勇魚の頭の中から、胸の内から、一切が消えて失せた。
アテナを守る聖闘士としての使命も、海斗ら仲間たちの事も。行方不明の師・オルフェの事すらも。
自分が守らなければならないのはアテナではなく、地上の平和でもなく、この少女ただ1人なのではないか。
ほんの一瞬にせよ勇魚は、そんな思考で頭の中を、胸の内を、満たしてしまったのだ。
「僕は……聖闘士として、失格だ」
溜め息をつきながら勇魚は、竪琴を爪弾いた。
ロドリオ村の近くを流れる川。その岸辺の岩に、腰を下ろしながらだ。
川辺に、竪琴の調べが流れ響く。
それを、勇魚は止めた。
「駄目だ、オルフェ先生には遠く及ばない……こんな曲、あの子にはとても聞かせられない……って、何を考えてるんだ僕は!」
思わず、竪琴を岩に叩きつけてしまうところだった。
「女の子に、曲を聴いて欲しい……なんて……僕の竪琴は、戦いの力を奏でるためだけにあるんだぞ!」
「そんな悲しい事を言ってはいけない」
声がした。
その瞬間、勇魚が感じたのは、川のせせらぎと調和した穏やかな小宇宙である。
この小宇宙の持ち主が敵であったら、自分など一瞬にして、不意打ちで命を奪われているところであろう。勇魚は、そう思った。
「竪琴に限らない。楽器とは本来、人の思いを奏でるためのもの……戦いに用いるなど、本当は許されない事なんだ」
声と共に、竪琴の音色が静かに響き流れる。
小宇宙そのものが、奏でられている。今は静かな曲調が、激しく変わった時、聴く者全てが粉砕されるだろう。
息を呑みながら、勇魚は振り向いた。
白銀の輝きが一瞬、視界に満ちた。
「お前が今、奏でていた音楽……切ない思いを宿した、とても良い曲だと思う。好きな女の子がいるのなら、聴かせてあげればいいじゃないか?」
竪琴を携えたまま、木陰で微笑んでいるのは、1人の白銀聖闘士だった。
「聴いてもらえないかも知れない。それでも、いいじゃないか。僕だって最初のうちはユリティースに、耳を傾けてももらえなかったんだ」
「オルフェ先生……」
勇魚は呟いていた。
「これは……夢……幻覚……?」
「フッ……確かに、幻覚のようなものかな。今の僕は」
オルフェが、竪琴を爪弾く。
小宇宙の音色が、勇魚の全身を優しく包み込む。
幻覚ではない、と勇魚は感じた。今ここにいるのは本物の、白銀聖闘士・琴座のオルフェだ。
「僕は、ここにいるはずのない人間だ。今は、ある人の従者として地上に来ている。いくらか自由時間をもらったのでね」
「地上に、来ている……? まるで普段、地上にいないかのような……」
勇魚の声が、震えた。
蟹座のデスマスクが言っていた事は、正しかったのか。
「オルフェ先生……貴方は……」
「そう。僕は今、冥界に……ハーデスの側に、身を置いている」
聖域の関係者としては禁忌に近い単語を、オルフェは口にしていた。
「もはや聖域に顔を出せる身分ではない。だけど勇魚……お前にだけは」
「ユ…………」
ユリティース。その名を口に出す事が、勇魚には出来なかった。
「お前にだけは、詫びておかなければならない……軽々しく謝罪出来るような事ではないと、わかってはいるんだ。勇魚、本当に……すまなかった」
「許しません! ……許すわけ、ないでしょう」
叫び、声をひそめながら、勇魚は周囲を見回した。
「……それはそれとして先生、早く逃げて下さい。こんな所にいては駄目です」
「勇魚、お前もこんな所にいてはいけない。戻って、聖域の防備を固めるんだ」
オルフェは言った。そして、微笑んだ。
「……立派な聖闘士に、なったな」
「まだ修行中の身です。先生に、途中で放り出されて……ずっと修行中ですよ」
「僕が教えられるような事なんて、もう何もないさ」
微笑んでいたオルフェの表情が、引き締まった。
「……勇魚。誰かに尋問でもされたら構う事はない、ロドリオ村の近くで琴座のオルフェに会った、と包み隠さず話してしまうんだ。いいね」
「先生!」
オルフェの姿が、木陰に消えた。
追いかけ、探しても、その姿はもうどこにも見えなかった。
「なあ海斗。お前って、どっち派?」
訓練場の石畳に腰を下ろしたまま、漁牙が意味不明な事を訊いてくる。
「どっち……って、何だよ」
「だからぁ、魔鈴さん派かシャイナさん派か」
漁牙は本気で、思い悩んでいるようであった。
「魔鈴さんの方がクールビューティーだとは思うのよ。けどシャイナさんの、何かこう、げしげし踏ん付けてくれそうな感じ? イイよなぁ〜。ああでも魔鈴さんの方が、ゴミを蔑むようにクールにねちねち踏んでくれそうで、たたたまんねえ」
「……お前、そろそろ黙れ。本当に黙れ」
「ま、優しいのは魔鈴さんの方だとは思うけどな。こう、冷たい中に垣間見える優しさっての? きゅんと来ちゃうよなあ。シャイナさんはひたすら横暴で暴虐で、それはそれで」
殴ってでも黙らせなければ、この男の舌禍に巻き込まれて自分は死んでしまうかも知れない。海斗は本気で、そう思った。
「……わかってないのねぇ、男どもは本当に」
呆れたように言いながら歩み寄って来たのは、ナギである。
「シャイナさんって、すっごく優しいのよ? 魔鈴さんの方が全然、恐いんだから」
「そ、そうなんだ」
「いや本当……シャレになってないから、あの人」
ナギが、己の身体を抱くように身震いしている。
「どっちが強いかは、わかんないけどね……あのお2人の、本気の戦いなんて、想像しただけで寒気するわ」
「うーん……胸は、魔鈴さんの方がちょっと上かな」
漁牙が、命知らずな事を言っている。
「お尻から太股にかけてのラインは、シャイナさんに軍配が上がるかな。魔鈴さんは、ちょっとガッチリムッチリし過ぎてんだよなあ。そこへいくとシャイナさんは、脚はスラーっと伸びててお尻はふっくらしてて、たまんねーなァもう」
「……組手をやろうか」
巨大な手が、背後から漁牙の肩を掴んだ。
太い五指が、竜骨座の聖衣のショルダーパーツを、今にも凹ませてしまいそうである。
「か、カシオス先輩……くくく組手は今さっき、死ぬほどやったばっかじゃないッスか」
「お前、まだまだ元気そうだからな」
言いつつカシオスが、漁牙の大柄な身体を容赦なく引きずって行く。
「遠慮するな。げしげし踏んで欲しいんだろう? 俺がいくらでも踏んでやる」
「いやその、カシオス先輩に踏まれても痛くて苦しくて死んじまうだけで……おおい海斗にナギ、助けてくれ〜!」
「漁牙、頑張れ」
海斗は拳を握って見せた。
「お前の見事なぶっ飛ばされっぷり、参考にさせてもらうから」
「アテナの御加護を信じなさ〜い」
引きずられて行く漁牙に向かって、ナギがひらひらとハンカチを振る。
「……まったく、相変わらずな事をやってるな。君たちは」
いつもは優雅に竪琴を鳴らしながら現れる勇魚が、ただ歩いて訓練場に入って来た。
何かあったのだ、と海斗は思った。そんな足音を、勇魚は立てている。
「この聖域に、敵が攻めて来ようとしているんだぞ。もう少し緊張感を持ったらどうかな」
「……この面子じゃあ1度、本当に敵が攻めて来ない限り、緊張感なんか持てないと思うけどな」
グラード財団が攻めて来るかも知れない、とは勇魚が言っていた事である。
「それより勇魚……何か、あったのか?」
「別に……ほら、包帯を買って来たよ。この分じゃ全部、漁牙が使う事になりそうだけど」
苛立っている、というのとは少し違う。海斗は、そう感じた。
焦っている、悩んでいる。どうすれば良いのか、わからずにいる。
今の勇魚は、そのどれにでも当てはまるようでいて、どれでもない。
とにかく、ロドリオ村で何かがあった。わかるのは、それだけだ。
「勇魚……」
聞き出すべきか、そっとしておくべきか、海斗は躊躇った。
直後。海斗は、真っ二つになった。
錯覚である。だが今、自分は確かに、叩き斬られた。羅針盤座の聖衣もろとも両断された。海斗は、そう感じた。
ナギも、それに勇魚も同様であろう。
2人とも息を呑み、己の全身を見下ろしている。首や胴が繋がってる事を、確認している。
まるで抜き身の刃のような、鋭利な小宇宙を発している男が1人。いつの間にか、そこに佇んでいた。
雑兵のような身なりをした、細身の青年。無駄な肉を徹底的に削ぎ落とした身体つきである。
鍛え込まれ、研ぎ澄まされた刃。その男を言葉で表現するならば、それしかない。
聖衣は着ていないが、間違いなく聖闘士だ。
それも海斗たちとは格が違う。違い過ぎる。
「青銅聖闘士……艫座の勇魚。そうだな?」
海斗やナギを一瞥もせず、鋭利な眼光を勇魚1人に向けながら、その男は言った。
「かつて白銀聖闘士・琴座のオルフェより指導を受けた。間違いはないか」
「はい……琴座のオルフェは、僕の師匠です」
勇魚が、どうにか言葉を発した。
「あの、貴方は……僕に、何か?」
「お前に訊きたい事がある。素直に答えてくれれば時間は取らせん」
素直に答えなければ、どうなるのか。
それを無言で、あるいは雄弁に語る、鋭利な眼光。刃のような小宇宙。全てが今のところ、勇魚1人に向けられている。
「オルフェの居場所に、心当たりはあるか?」
「何故……」
何故、そんな事を知りたがるのか。それを知って、どうするのか。
琴座のオルフェに、いかなる用があるのか。
それらの質問は、発せられる事なく、勇魚の喉の奥で凍りついてしまったようだ。
だが、細身の男は答えてくれた。
「聖域からの脱走者を、生かしておくわけにはゆかん。まして高位の白銀聖闘士となればな」
そして、名乗ってもくれた。
「俺は山羊座のシュラ。聖域の掟に背く者は、手短に裁く。忙しくなりそうなのでな」