波濤の戦士たち   作:小湊拓也

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第4話

 ロドリオ村の雑貨屋には、包帯を買いに来ただけだ。

 店番をしていた少女が、にっこりと微笑んでくれた。

 それだけで、勇魚の頭の中から、胸の内から、一切が消えて失せた。

 アテナを守る聖闘士としての使命も、海斗ら仲間たちの事も。行方不明の師・オルフェの事すらも。

 自分が守らなければならないのはアテナではなく、地上の平和でもなく、この少女ただ1人なのではないか。

 ほんの一瞬にせよ勇魚は、そんな思考で頭の中を、胸の内を、満たしてしまったのだ。

「僕は……聖闘士として、失格だ」

 溜め息をつきながら勇魚は、竪琴を爪弾いた。

 ロドリオ村の近くを流れる川。その岸辺の岩に、腰を下ろしながらだ。

 川辺に、竪琴の調べが流れ響く。

 それを、勇魚は止めた。

「駄目だ、オルフェ先生には遠く及ばない……こんな曲、あの子にはとても聞かせられない……って、何を考えてるんだ僕は!」

 思わず、竪琴を岩に叩きつけてしまうところだった。

「女の子に、曲を聴いて欲しい……なんて……僕の竪琴は、戦いの力を奏でるためだけにあるんだぞ!」

「そんな悲しい事を言ってはいけない」

 声がした。

 その瞬間、勇魚が感じたのは、川のせせらぎと調和した穏やかな小宇宙である。

 この小宇宙の持ち主が敵であったら、自分など一瞬にして、不意打ちで命を奪われているところであろう。勇魚は、そう思った。

「竪琴に限らない。楽器とは本来、人の思いを奏でるためのもの……戦いに用いるなど、本当は許されない事なんだ」

 声と共に、竪琴の音色が静かに響き流れる。

 小宇宙そのものが、奏でられている。今は静かな曲調が、激しく変わった時、聴く者全てが粉砕されるだろう。

 息を呑みながら、勇魚は振り向いた。

 白銀の輝きが一瞬、視界に満ちた。

「お前が今、奏でていた音楽……切ない思いを宿した、とても良い曲だと思う。好きな女の子がいるのなら、聴かせてあげればいいじゃないか?」

 竪琴を携えたまま、木陰で微笑んでいるのは、1人の白銀聖闘士だった。

「聴いてもらえないかも知れない。それでも、いいじゃないか。僕だって最初のうちはユリティースに、耳を傾けてももらえなかったんだ」

「オルフェ先生……」

 勇魚は呟いていた。

「これは……夢……幻覚……?」

「フッ……確かに、幻覚のようなものかな。今の僕は」

 オルフェが、竪琴を爪弾く。

 小宇宙の音色が、勇魚の全身を優しく包み込む。

 幻覚ではない、と勇魚は感じた。今ここにいるのは本物の、白銀聖闘士・琴座のオルフェだ。

「僕は、ここにいるはずのない人間だ。今は、ある人の従者として地上に来ている。いくらか自由時間をもらったのでね」

「地上に、来ている……? まるで普段、地上にいないかのような……」

 勇魚の声が、震えた。

 蟹座のデスマスクが言っていた事は、正しかったのか。

「オルフェ先生……貴方は……」

「そう。僕は今、冥界に……ハーデスの側に、身を置いている」

 聖域の関係者としては禁忌に近い単語を、オルフェは口にしていた。

「もはや聖域に顔を出せる身分ではない。だけど勇魚……お前にだけは」

「ユ…………」

 ユリティース。その名を口に出す事が、勇魚には出来なかった。

「お前にだけは、詫びておかなければならない……軽々しく謝罪出来るような事ではないと、わかってはいるんだ。勇魚、本当に……すまなかった」

「許しません! ……許すわけ、ないでしょう」

 叫び、声をひそめながら、勇魚は周囲を見回した。

「……それはそれとして先生、早く逃げて下さい。こんな所にいては駄目です」

「勇魚、お前もこんな所にいてはいけない。戻って、聖域の防備を固めるんだ」

 オルフェは言った。そして、微笑んだ。

「……立派な聖闘士に、なったな」

「まだ修行中の身です。先生に、途中で放り出されて……ずっと修行中ですよ」

「僕が教えられるような事なんて、もう何もないさ」

 微笑んでいたオルフェの表情が、引き締まった。

「……勇魚。誰かに尋問でもされたら構う事はない、ロドリオ村の近くで琴座のオルフェに会った、と包み隠さず話してしまうんだ。いいね」

「先生!」

 オルフェの姿が、木陰に消えた。

 追いかけ、探しても、その姿はもうどこにも見えなかった。

 

 

「なあ海斗。お前って、どっち派?」

 訓練場の石畳に腰を下ろしたまま、漁牙が意味不明な事を訊いてくる。

「どっち……って、何だよ」

「だからぁ、魔鈴さん派かシャイナさん派か」

 漁牙は本気で、思い悩んでいるようであった。

「魔鈴さんの方がクールビューティーだとは思うのよ。けどシャイナさんの、何かこう、げしげし踏ん付けてくれそうな感じ? イイよなぁ〜。ああでも魔鈴さんの方が、ゴミを蔑むようにクールにねちねち踏んでくれそうで、たたたまんねえ」

「……お前、そろそろ黙れ。本当に黙れ」

「ま、優しいのは魔鈴さんの方だとは思うけどな。こう、冷たい中に垣間見える優しさっての? きゅんと来ちゃうよなあ。シャイナさんはひたすら横暴で暴虐で、それはそれで」

 殴ってでも黙らせなければ、この男の舌禍に巻き込まれて自分は死んでしまうかも知れない。海斗は本気で、そう思った。

「……わかってないのねぇ、男どもは本当に」

 呆れたように言いながら歩み寄って来たのは、ナギである。

「シャイナさんって、すっごく優しいのよ? 魔鈴さんの方が全然、恐いんだから」

「そ、そうなんだ」

「いや本当……シャレになってないから、あの人」

 ナギが、己の身体を抱くように身震いしている。

「どっちが強いかは、わかんないけどね……あのお2人の、本気の戦いなんて、想像しただけで寒気するわ」

「うーん……胸は、魔鈴さんの方がちょっと上かな」

 漁牙が、命知らずな事を言っている。

「お尻から太股にかけてのラインは、シャイナさんに軍配が上がるかな。魔鈴さんは、ちょっとガッチリムッチリし過ぎてんだよなあ。そこへいくとシャイナさんは、脚はスラーっと伸びててお尻はふっくらしてて、たまんねーなァもう」

「……組手をやろうか」

 巨大な手が、背後から漁牙の肩を掴んだ。

 太い五指が、竜骨座の聖衣のショルダーパーツを、今にも凹ませてしまいそうである。

「か、カシオス先輩……くくく組手は今さっき、死ぬほどやったばっかじゃないッスか」

「お前、まだまだ元気そうだからな」

 言いつつカシオスが、漁牙の大柄な身体を容赦なく引きずって行く。

「遠慮するな。げしげし踏んで欲しいんだろう? 俺がいくらでも踏んでやる」

「いやその、カシオス先輩に踏まれても痛くて苦しくて死んじまうだけで……おおい海斗にナギ、助けてくれ〜!」

「漁牙、頑張れ」

 海斗は拳を握って見せた。

「お前の見事なぶっ飛ばされっぷり、参考にさせてもらうから」

「アテナの御加護を信じなさ〜い」

 引きずられて行く漁牙に向かって、ナギがひらひらとハンカチを振る。

「……まったく、相変わらずな事をやってるな。君たちは」

 いつもは優雅に竪琴を鳴らしながら現れる勇魚が、ただ歩いて訓練場に入って来た。

 何かあったのだ、と海斗は思った。そんな足音を、勇魚は立てている。

「この聖域に、敵が攻めて来ようとしているんだぞ。もう少し緊張感を持ったらどうかな」

「……この面子じゃあ1度、本当に敵が攻めて来ない限り、緊張感なんか持てないと思うけどな」

 グラード財団が攻めて来るかも知れない、とは勇魚が言っていた事である。

「それより勇魚……何か、あったのか?」

「別に……ほら、包帯を買って来たよ。この分じゃ全部、漁牙が使う事になりそうだけど」

 苛立っている、というのとは少し違う。海斗は、そう感じた。

 焦っている、悩んでいる。どうすれば良いのか、わからずにいる。

 今の勇魚は、そのどれにでも当てはまるようでいて、どれでもない。

 とにかく、ロドリオ村で何かがあった。わかるのは、それだけだ。

「勇魚……」

 聞き出すべきか、そっとしておくべきか、海斗は躊躇った。

 直後。海斗は、真っ二つになった。

 錯覚である。だが今、自分は確かに、叩き斬られた。羅針盤座の聖衣もろとも両断された。海斗は、そう感じた。

 ナギも、それに勇魚も同様であろう。

 2人とも息を呑み、己の全身を見下ろしている。首や胴が繋がってる事を、確認している。

 まるで抜き身の刃のような、鋭利な小宇宙を発している男が1人。いつの間にか、そこに佇んでいた。

 雑兵のような身なりをした、細身の青年。無駄な肉を徹底的に削ぎ落とした身体つきである。

 鍛え込まれ、研ぎ澄まされた刃。その男を言葉で表現するならば、それしかない。

 聖衣は着ていないが、間違いなく聖闘士だ。

 それも海斗たちとは格が違う。違い過ぎる。

「青銅聖闘士……艫座の勇魚。そうだな?」

 海斗やナギを一瞥もせず、鋭利な眼光を勇魚1人に向けながら、その男は言った。

「かつて白銀聖闘士・琴座のオルフェより指導を受けた。間違いはないか」

「はい……琴座のオルフェは、僕の師匠です」

 勇魚が、どうにか言葉を発した。

「あの、貴方は……僕に、何か?」

「お前に訊きたい事がある。素直に答えてくれれば時間は取らせん」

 素直に答えなければ、どうなるのか。

 それを無言で、あるいは雄弁に語る、鋭利な眼光。刃のような小宇宙。全てが今のところ、勇魚1人に向けられている。

「オルフェの居場所に、心当たりはあるか?」

「何故……」

 何故、そんな事を知りたがるのか。それを知って、どうするのか。

 琴座のオルフェに、いかなる用があるのか。

 それらの質問は、発せられる事なく、勇魚の喉の奥で凍りついてしまったようだ。

 だが、細身の男は答えてくれた。

「聖域からの脱走者を、生かしておくわけにはゆかん。まして高位の白銀聖闘士となればな」

 そして、名乗ってもくれた。

「俺は山羊座のシュラ。聖域の掟に背く者は、手短に裁く。忙しくなりそうなのでな」

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