波濤の戦士たち   作:小湊拓也

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最終話

 聖衣を修復する技術を持った人物が、中国とインドの中間辺りに隠棲しているらしい。

 この世でただ1人の、聖衣職人。そんな人物が何故、聖域にいないのかは謎である。

 破損した聖衣を直すには、はるばるアジアの奥地まで出向いて、その人に修理を依頼せねばならないのか。それ以外に聖衣を修復する手段はないのか、と言うと、そういうわけでもない。

 黄金・白銀・青銅を問わず、全ての聖衣には自己修復機能が備わっている。中には、一握りの灰から瞬時にして再生を遂げてしまうものもあるらしい。

 羅針盤座の聖衣は、そこまでの逸品ではない。共に破損した竜骨座、帆座、艫座の各聖衣と同じく、ゆるやかな自己修復を待つしかないのだ。

 その間、出来る事と言えば、戦闘訓練くらいである。

 傷が完治したわけではないが、身体は動く。

 だから海斗は、訓練場にいた。

 そこで、1人の白銀聖闘士と再会を果たす事となった。

「地味な青銅が、そこそこの働きを見せたようだな?」

 身にまとう白銀聖衣、以上にきらびやかな美貌が、海斗に微笑みかけてくる。

「自らも傷つき、血を流し、肉体を汚すような戦いであったのだろう。私がいれば、美しく完璧な戦いの手本を見せてやれたのにな」

「ミスティ先生……」

 海斗は息を呑んだ。無論、懐かしさはあるのだが。

「先生も、聖域に呼ばれたんですか?」

「教皇より、畏れ多くも直々に勅命を賜った」

 白銀聖闘士・蜥蜴座のミスティは言った。

「久しぶりに稽古をつけてやりたいのは山々だが、私はこれから日本へ向かわねばならん」

「日本……まさか」

 どのような勅命を受けたのかは、詳しく聞いてみるまでもなかった。

 グラード財団が、宣戦布告にも等しい事をしたのだ。

 10名もの青銅聖闘士を集め、偽物の黄金聖衣を餌にして、愚かな見世物の大会を催した。

 それだけではない。事もあろうに冥王ハーデスの勢力と手を結び、聖域に尖兵を送り込んで来たのだ。

 反撃が、これから行われようとしている。

「弟子のお前が、それなりの働きを見せたのだ。私が戦わぬわけにはゆくまい?」

「まあ……それなりの働き、なんでしょうかね」

 海斗は頭を掻いた。

「4人がかりで、やっと1人を倒しただけですけど」

「フッ……お前のような地味な新米青銅が、私ではあるまいし、最初から華麗にして正々堂々たる戦いなど出来るとでも思っているのか」

 ミスティが、アルデバランと同じような事を言っている。

「初の実戦で、生き延びた。まずは、それが出来なければ話にならん……よくやったぞ、海斗」

「先生……」

「私がフランスで教えたのは、基礎中の基礎だ。帰って来たら、もう一段階上の戦いを教えてやる。美しく完璧な戦いをな」

「日本から帰って来たら……って事ですよね」

 ミスティが日本で、誰と戦うのか。それは考えるまでもなかった。

 グラード財団は壊滅し、星矢たちは死ぬ。その運命は、もはや変えられない。

 財団は、聖域に戦いを挑んでしまったのだから。

(あんたのせいだぞ、沙織お嬢様……あんたのせいで、みんな死ぬ。星矢も、邪武も、紫龍も那智も……一輝と瞬も……)

 いくら一輝や星矢でも、蜥蜴座のミスティに勝てるわけはない。

 この師匠が、青銅を相手に実戦で不覚を取るなど、万に一つも有り得ないのだ。

 わかっていながら、しかし海斗は言った。

「ミスティ先生……気を付けて下さいよ。先生、自分に酔って油断する所ありますから」

「お前に、それで1本取られた事があったな」

「模擬戦の最中なのに『神よ、私は美しい』なんてやってるからですよ!」

「仕方がないのだよ海斗。私は、私の美しさに……どうしても、心が乱されてしまう」

 物憂げに、ミスティは溜め息をついた。本気で思い悩んでいる様子だ。

「これもきっと、アテナが私に与え賜うた試練なのだろう」

「はあ……」

 やはり疲れる男だ、と海斗は思った。

 

 

「さっき訓練場にいた、あのちょっとケバい感じの人?」

 白羊宮内部。

 崩れかけていた石壁に、特殊な漆喰を鏝で塗りたくりながら、ナギが言う。

「ふうん、あれが海斗のお師匠なんだ」

「ケバいとか言うなよ。本人は、美しいってつもりでいるんだから」

 同じように鏝を動かし、壁塗りをしながら、海斗は応える。

 少し離れた所では漁牙が、倒れた石柱を独力で抱き起こしていた。

 勇魚が漆喰を塗り、その石柱の固定を試みる。そうしながら、言う。

「海斗のお師匠だけじゃあない。白銀聖闘士が10人くらい、日本へ向かったらしいよ」

「つまり……みんな殺されちまう、って事だよな。蛮も那智も、檄も、市も、弱虫瞬ちゃんも」

 漁牙が言った。

「一回戦負けした連中だけは許してやってもらいてえなあ。聖域にケンカ売るなんて、あいつらに出来るわけねえよ」

「そう言えば、何かトラブルがあって中止になったらしいな。銀河戦争」

 海斗も、詳しい事は知らない。

 何でも優勝商品である黄金聖衣が、何者かに強奪されたらしい。それも、出場選手である聖闘士たちの眼前で。

 青銅とは言え複数の聖闘士を相手に、そんな真似が出来る者。同じ聖闘士以外には考えられない。

 聖域が、ミスティたちとは別に、白銀聖闘士でも派遣したのであろうか。黄金聖衣を奪うために、あるいは取り戻すために。

 だとしたら。海斗が偽物とばかり思っていた黄金聖衣が、実は本物であったという事か。

「でもまあ……大丈夫じゃねえかなって気がする」

 石柱を支えながら、漁牙が言った。

「だって相手は白銀の連中だろ? 大丈夫大丈夫、星矢たちなら」

「はい黙れ。お前もう何にも喋るな」

 海斗が、漁牙の口に漆喰を塗り付けようとした、その時。

 白羊宮に、黄金色の輝きが差し込んで来た。足音、それに声と共にだ。

「精が出るな、小僧ども。ついでに巨蟹宮の修繕も、やってもらおうか」

 禍々しい小宇宙に全身を打たれ、海斗は息を呑んだ。

「デスマスク様……」

「お前ら腰抜かすぞ? 巨蟹宮へ来たら」

 蟹座のデスマスクが、凶悪ながらどこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 聖衣をまとった黄金聖闘士は、もう1人いた。

「やめろデスマスク。巨蟹宮はな、純朴な新米青銅が足を踏み入れる場所ではない……お前たちも、こんな事はムウに自分でやらせろ」

 アルデバランと同じような事を言っているのは、山羊座のシュラである。

 2人分の黄金の輝きが、白羊宮を満たしていた。

 瘴気にも似た禍々しい小宇宙、刃のように鋭利で剣呑な小宇宙と共に。

「シュラ様……」

 勇魚が声を発する。海斗も、何かを言いそうになった。

 シュラが無言で、じっと眼光を向けてくる。

 俯き加減に、海斗は勇魚と顔を見合わせた。

 1つ、わかった事がある。

 琴座のオルフェに関して、意気揚々と告げ口などしようものなら、海斗はその場でシュラに斬り殺されていただろう。

「……この度、白羊宮においてハーデス軍との初戦が行われ、我らはこれに勝利した。紛う事なき、お前たちの勲功である」

 軽く咳払いをした後、シュラが言った。

「直々のお言葉を、賜るが良い」

 言いつつ、道を空ける。シュラは左に、デスマスクは右に。

 そこで海斗は、ようやく気付いた。

 とてつもなく強大な小宇宙が、もう1つ、近付いて来ている。

(黄金聖闘士が、もう1人……? だけど、これは……)

 上だ、と海斗は感じた。

 シュラの鋭利な小宇宙よりも、デスマスクの禍々しい小宇宙よりも。アルデバランの雄大な小宇宙よりも。

 アイオリアの、優しくも猛々しい小宇宙よりも。

 これまで知り合った何名かの黄金聖闘士たちを、上回る小宇宙の持ち主が、白羊宮に歩み入って来る。

 白い法衣が、まず見えた。

 黄金聖闘士2名の放つ、金色の輝きをも凌駕する、眩い純白の衣。

 王冠のような兜からは、長いプラチナ色の髪が溢れ出している。

 顔は、よく見えない。

 仮面を着けているわけではないが、兜の内側に不可思議な陰影が生じ、素顔を覆い隠している。端整な輪郭と鼻梁の線だけが、辛うじて見て取れるようだ。

 しかし海斗は、その人物の素顔を見て確かめる事が出来なかった。

 海斗だけではない。漁牙も、勇魚もナギも、いつの間にか跪いている。

 4人とも、もはや立っていられなくなっていた。全員、白羊宮の床に膝を屈し、頭を垂れている。

 荘厳なる小宇宙が、青銅聖闘士4名を圧倒する。

 この人物の前では、偉そうに立ってなどいられない。まして素顔を見つめる事など、許されない。

 自然に、そんな心持ちになっていた。

「顔を上げるが良い。お前たちが拝跪すべきは、私ではなくアテナに対してであろう」

 その人物が、言った。

 これほど優しく穏やかで、それでいて威厳に満ちた声を、海斗は聞いた事がなかった。

「便宜上の序列はある。だが本来、大いなるアテナの下に我らは対等であるべきなのだ。同じ、聖闘士なのだからな」

「教皇……」

 勇魚が呟く。

 教皇。海斗が、1度だけ遠目に見た事のある人物である。

 今はこうして、会話が出来るほど近くにいる。もちろん直接の会話など、許されるわけがない。

 そんな相手が、言葉をかけてくれる。

「青銅聖闘士、羅針盤座の海斗。艫座の勇魚」

「は、はい!」

 海斗と勇魚の声が、いささか間抜けな感じに重なってしまう。

 教皇は、微笑んだようだ。

「帆座のナギ」

「はい……」

「竜骨座の漁牙」

「ういっス……」

「お前たち、よくぞ十二宮最初の砦を守り抜いてくれた。お前たちがこの白羊宮で死力を尽くしてくれた、そのおかげでハーデス軍の先遣隊を撃滅する事が出来たのだ。教皇として、礼を言う」

「そ、そんな、お礼なんて……いやでもっ、その」

 しどろもどろになりながら、海斗は辛うじて言った。

「鋼鉄聖闘士の大群を、実際にやっつけてくれたのはアルデバラン様で……俺たちは、何にも」

「そのアルデバランが言っていたのだ。勲功第一は、お前たち4名であるとな」

 教皇は言った。

「初めての実戦だ。思い通りに戦えなかった、という悔いがあるだろう。無様な戦いであったと己を責める気持ちが、お前たちの心の奥底では渦巻いているかも知れない……だが、お前たちは生き延びてくれた。教皇として、何よりもそれを誇りに思う」

「教皇……」

 海斗は、思わず見上げた。

 ゆったりとした法衣の上からでも、美しく力強く鍛え込まれた体格は見て取れる。並大抵の鍛え方ではない。

 同じ聖闘士。教皇は、そう言った。

 無論、同列であるはずがない。それでも海斗は、思ってしまう。

(この人も……聖闘士なんだ……)

 胸が、熱くなった。

 それを、漁牙が台無しにした。

「あの……教皇様って、何座の聖闘士なんスか?」

 次の瞬間、漁牙の大柄な身体がズドッ! と前屈みにへし曲がった。

 ナギが、蹴りを叩き込んでいた。

「す、すみません教皇様! このバカほんと口の利き方知らなくて!」

「フッ……いずれハーデス軍との本格的な戦いが始まれば、私も聖衣をまとって前線に出る。お前たちと、共に戦う事になるだろう。その時の楽しみにしておけ」

 教皇が微笑んだ。

 その口調が、微かに変わった、と海斗は感じた。

「そう、私の星座……私の、守護星座はな……くっ……う……ッ」

「教皇……?」

 美しく力強く鍛え込まれた長身が、崩折れかけている。

 荘厳な小宇宙が、揺らいでいた。

 海斗の知る黄金聖闘士たちの誰よりも強大な小宇宙が、危うい揺らぎ方をしている。

 目の錯覚だろうか、と海斗は思った。

 教皇の兜から溢れ出すプラチナ色の髪に、一瞬……黒色が混ざった、ように見えたのだ。

 闇よりも黒い、と感じながら、海斗は恐る恐る言葉をかけた。

「あの……教皇……」

「近付くな!」

 教皇が怒鳴った。

 小宇宙を帯びた怒声が、海斗の全身を萎縮させる。

 崩折れ、俯きながら、教皇は声を震わせていた。

「…………すまない……」

 兜の内側の陰影の中で、何かがキラ……ッと光を発する。

 涙だ、と海斗は感じた。

「教皇、あの……もしかして、お身体の具合が……?」

「まあ、そんなようなものだ」

 言いつつデスマスクが、右側から教皇の身体を支えた。左側からは、シュラが。

「ここまでにいたしましょう、教皇。前線の聖闘士たちを労いたいというお気持ち、わからぬではありませんが……貴方はやはり、あまり教皇の間を離れるべきではありません」

「十二宮の一番奥で、どっしり構えてりゃいいのさ。あんたはな」

 シュラとデスマスク。この両名が、黄金聖衣をまとった姿で教皇に追従し、ここへ現れた。

 その理由は何か。教皇の護衛、それもあるだろう。

 だが、と海斗は考えた。

 教皇の小宇宙は、揺らいでいた。上手く説明はできないが、とてつもなく危うい揺らぎ方をしていた。

 あの揺らぎが、止められないところまで達した時。何かが起こる。そんな気がする。

 その何かに対処するには、完全武装の黄金聖闘士が最低でも2名は必要。そういう事ではないのか。

「お前ら、白羊宮の修理なんざ適当に切り上げちまえよ。身体が動くんなら、組み手の1つもやっておけ。殺し合い想定のやつをな」

 そんな事を言いながらデスマスクが、シュラと共に教皇を支え、立ち去って行く。

 足取りの弱々しい教皇の背中を、じっと見送りながら、勇魚が言った。

「僕が、ここ聖域で艫座の聖衣を勝ち取った時も……教皇は、直々に労いのお言葉を下さった。訓戒もしてくれた。その時から何となく、変な感じはしてたんだ。教皇は……もしかしたら、病んでおられるんじゃないかって」

「……じゃあ、何か……グラード財団の奴ら……」

 ナギに蹴り倒され、うずくまっていた漁牙が、怒りの小宇宙を燃やしながら起き上がる。

「教皇が病気だからって、ここぞとばかりに攻めて来やがったってのか!」

「沙織お嬢様が、そこまで情報を掴んでるかどうかは知らないけど……」

 海斗は考えた。

 教皇が病気で、黄金聖闘士も何人かが不在。

 アテナと敵対する勢力にとって、これは確かに聖域を攻撃するチャンスとは言える。

 今の教皇の状態が、厳密に病気と呼べるものであるか否かはともかく、アテナの聖闘士として正常に力を振るえる状態ではない事は確かであろう。

「あたしたち……もっと、強くならなきゃね」

 ナギが、ぽつりと言った。

「黄金や白銀の人たちに、頼ってばっかじゃ駄目なのよね」

「守るぞ。漁牙、ナギ、勇魚」

 海斗は言った。

「この聖域を、教皇を……俺たちが、守るんだ」

 

 

 大勢の少女が、巨蟹宮の壁で、しくしくと泣きじゃくっている。

「聖アカデミー殲滅の任務……見事、成し遂げたようだな。相変わらずの仕事ぶりだ」

 山羊座のシュラは、皮肉ではなく言った。

「……俺が行っても、良かったのだぞ?」

「お前じゃ無理だ」

 死者たちの泣き声に、うっとりと聴き入りながら、デスマスクが笑う。

「お前の聖剣じゃ、女子供は斬れねえよ」

「……変わったな、デスマスク」

 シュラも、微笑んで見せた。

「驚くべき変わりようだ。毎日、磨羯宮へ寝泊まりに来ていた頃のお前を知っている、俺に言わせればな」

「言うんじゃねえよ」

 デスマスクが睨む。

「……ああ認めるさ。俺にもな、あの青銅のガキどもより未熟な時期が確かにあった」

「それが悪いと言っているわけではない」

 もちろん実力はあったが、とにかく気の弱い少年であった。こんな男が何故、黄金聖闘士に成れたのだと思うほどに。

 巨蟹宮の壁に初めて人面が浮かび上がった時の、デスマスクの取り乱しようを、シュラは決して忘れはしない。

 あの時はまだデスマスクなどという大仰な名前ではなかった少年が、新米の青銅聖闘士でもこんな様は見せないだろうと思えるほど怯え、泣き喚き、恐慌に陥っていた。

 自身の住居である巨蟹宮で眠る事も出来ず、ほとんど磨羯宮に居候をしていたものだ。

 そんな少年がやがて、様々な汚れ仕事を平気でこなせるようになった。

 死者に対する恐怖が消え去り、自身の奪った命に対して、いささかも動揺する事がなくなった。

 泣きじゃくる人面に囲まれながら巨蟹宮で寝起きし、平然と酒を飲めるようにもなった。

 良くも悪くも、強靭な男に成長したと言っていいだろう。

(やはり、あの男の影響か……)

 先程、自分で歩けると言って黄金聖闘士2名の支えを振りほどき、1人で教皇の間へと帰って行った人物に、シュラは想いを馳せた。

 あの男は今、ある意味、かつてのデスマスクよりも取り乱し、怯えている。自分自身にだ。

 自身の内に潜むものを相手に、孤独な戦いを強いられているのだ。

 いや。それは今や、あの男の内に潜んでなどいない。表に出ようとしている。

「それを抑え込む事が出来れば……」

 シュラは巨蟹宮の天井を仰いだ。死人たちと目が合った。

「あの禍々しいものを、自力で抑え込む事さえ出来れば……あの男は間違いなく、最強の聖闘士となる。いや聖闘士などという枠に収まらぬ、最強の存在となるだろう。もはや神など要らぬ、アテナの存在すら必要なくなるほどにな」

「……逆だな、俺の考えは」

 デスマスクが、にやりと笑った。

「俺はな、あれに賭けてるんだ。あれに、もっと表に出て来てもらいてえ。あの聖人君子面をブチ破ってなぁ……く、くっくくく……聖域に、化け物が誕生するぜえ……ハーデスやポセイドンなんざぁ問題にならねえほどの、バケモノがよ……」

 笑いながら、デスマスクは震えている。怯えている。怯えながらも、待ち望んでいる。その化け物の誕生を。

 この男は、力を崇拝しているのだ。

 それは聖闘士の歩むべき道として、むしろ正しいのではないかとシュラは思う。

 存在すら不確かなアテナなどではなく、確かにある力を信仰する。力を求め、力で全てを守る。

 自分もまた、その道を歩んでいるのだ。引き返す事など出来はしない。何故ならば。

(俺は……貴方を……)

 最も敬愛する男に、シュラは心の中で語りかけた。

 デスマスクに劣らぬ殺戮を、これまで行ってきたつもりである。

 なのに磨羯宮には、人面など浮かびはしない。

 自分が殺してきた者たちと、会う事が出来ない。

 あの男にも、会えないのだ。

(俺は、貴方の命を奪った……もはや、この道を引き返す事は出来ない……)

 

 

 双子座の聖闘士である、と言っても自分の身体が2つあるわけではない。

 自分がもう1人いるならば、それに悪しきもの禍々しいものを全て押し付ける事が出来る。

 かつては、いた。自分の半身とも言うべき、弟が。

 その弟に、悪しきものを全て押し付け、闇に葬る。

 そんなつもりで、あの弟を叩きのめし、スニオン岬の岩牢へと幽閉した。

 自分の中から悪しきものは消え去った、とサガは思った。

 無論、そんな事にはならなかった。

 悪しきものは消え去るどころか、日に日に強さを増し、心の中で暴れ狂う。心のみならず、肉体まで支配しようとする。

「私は……」

 教皇の間には、他に誰もいない。思う存分、懊悩する事が出来る。

「私は……アテナの聖闘士なのだぞ……! 正義のため……地上の平和のために……!」

 嘲笑が聞こえた。自分の、中からだ。

「黙れ!」

 広大な教皇の間に、サガの怒声が響き渡る。

 いや、怒声ではなく悲鳴か。

「私は……正義のために……生きたいのだ……ッ!」

「どうぞ」

 突然、目の前にティーカップが差し出されて来た。ローズヒップの香りが、ふわりと漂う。

 他に誰もいないと思われていた教皇の間に、その男はいつの間にかいた。玉座の傍に、佇んでいた。

「少し、落ち着かれてはいかがですか?」

 男、と呼ぶには美し過ぎる。

 その身を包む黄金聖衣の輝きすら霞むほどの美貌が、優しく微笑む。

「……すまぬ」

 サガはティーカップを受け取り、中身を啜った。温かな芳香が、体内に満ちてゆく。

 黄金聖闘士・魚座のアフロディーテは、少し呆れたようだ。

「不用心ですね。私がハーデス軍の刺客であったら、どうするのです? その紅茶に毒でも入っていたら?」

「私は……死ぬだろうな……フッ、その方が良いかも知れん……」

「最強の力と最弱の心を持つ御方、貴方に死なれては困るのですよ」

 アフロディーテの優雅な口調が、いくらか剣呑な響きを帯びた。

「我々は、貴方に賭けているのですからね」

「……偽りの教皇である、この私にか」

 真の教皇シオンは、すでにこの世にはいない。

 それを知る僅かな者たちが、こうして偽りの教皇を擁立せんとしているのだ。

「貴方が偽りの教皇である事は、いずれ聖域の全員が知るところとなるでしょう」

 アフロディーテは言った。

「その時が来たら、なに構いません。最強の力を持つ真の教皇として開き直り、傲然と振る舞い、地上を支配なさって下さい。私も、シュラもデスマスクも、その時を待ち望んでいるのですから……しかし今はまだ、その時ではありません。用心深く行動していただかなければ困ります」

 その美貌が、ニヤリと不敵に歪む。

「……浴場の入り口に、雑兵の死体が転がっていましたよ」

「何……」

 アフロディーテが何を言っているのか、サガは一瞬、理解出来なかった。

「……私が……殺した、とでも……?」

「御心配なく、私が片付けておきました。死体を肥料にするとね、ピラニアンローズが良く育つのですよ」

 アフロディーテの綺麗な片手に、黒い薔薇が手品の如く出現した。

「聖闘士の死体が手に入れば理想的なのですけどねえ……アンドロメダ島では惜しい事をしました。ダイダロスの死体を回収する余裕が、なかったのですよ」

「何……死んだのか? アンドロメダ島のダイダロスが……」

 サガは思わず、玉座から腰を浮かせた。

「アフロディーテ、貴様……殺したのか、ダイダロスを! 何故……」

 浮いた身体が硬直した。

「…………私が……命じたのか……?」

「受け入れて下さい、双子座のサガ。貴方が頑なに忌み嫌い続けているそれは、紛れもなく貴方の本質なのです」

 アフロディーテが背を向けた。

 マントのはためきに合わせて、薔薇の芳香が漂った。

「どうか、お忘れなきように。我々と貴方は一蓮托生、死ぬ事は許しませんよ。十二宮最後の砦を司る者として……私が、貴方を守ります」

 黄金聖衣のもたらす優雅な足音が、遠ざかって行く。

 サガはいつの間にか再び、玉座に身を沈めていた。

 アンドロメダ島のダイダロス、だけではない。

 聖域の魔鈴やオルフェ、フランスのミスティ、五老峰の童虎、シベリアのカミュ。

 世界各地の聖闘士のもとへ、グラード財団から孤児たちが送り込まれた。聖闘士としての、修業のために。

 当然、財団と聖域との間に合意があっての事である。

 合意をしたのは、他ならぬサガ自身だ。

 教皇として、アテネ某所で密談の場を持った。グラード財団代表者たる、とある人物とだ。

 その人物も、もはやこの世にはいない。

 もはや答えてくれない相手に、サガはしかし問いかけていた。

「城戸光政……貴方の子供たちが、私を……止めて、くれるのだろうな……」

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