妖怪の山にある誰も入ろうとしない洞窟。その洞窟の中には、この山に住まう全ての人外が畏れ、崇める怪物、"百鬼空亡"がいる。
百鬼空亡は、岩を机の代替として書き物をしていた。呑み込まれてしまいそうな闇の中で、筆を使わず指先から流れし血液で書物に知識を記す。空亡の血によって文字の書かれた本は、本でありながら本ではない。この本こそは、悪神の眷属、絶対悪の知識の一端。
妖怪や仙人、神魔が書き残した書物は大いなる神秘を秘めることがある。そうした本などは妖魔本、魔導書などと呼ばれ、ごく一部の博学な者や叡智の深奥に踏みこむ資格ある者が読破することを許されるのだ。稀な場合として、才能も経験もないのに運と偶然に恵まれ、妖魔本を読み解く者がいることにはいるが、そのような者は少数派に含まれるため深くは言及しないでおこう。
話を空亡の書いた書に戻そう。娯楽に飢えた空亡は、以前ここに訪れた阿礼が本を書いていると思い出し、自分も一つ本を書くことにしたのである。本の内容は、アジ=ダカーハの権能の一つである"千の魔術"より参照した幾つかの魔術、魔法など。空亡の書いた本は人間でも妖精でも簡易的に大魔導師に成ることを可能とし、智慧ある者が手にすれば森羅万象を支配する禁断にして究極の魔導書。
空亡の書いた本は唯一無二の魔導書であると同時に、とある神に纏わる神話の書でもある。
空亡は、この本の終盤にあることを書き綴った。その終盤に書かれたモノは、拝火教の悪神の物語。絶対悪を背負って己が倒されることを願い、その先の未来を信じて幾星霜と戦い続けた三頭龍のお話。空亡はあらかた本を書き上げると、ふいに何故、アジ=ダカーハの物語を書いてしまったのかという思考が脳裏を満たしていく。絶対悪がこのまま忘れ去られることが我慢出来なかったのか?それとも、絶対悪という巨大にして偉大な存在を誰かに知って欲しかったのか?
「ハッ、馬鹿馬鹿しい。人類に望みはないと思い知ったはずだろうに、未練がましく本に書き残すなど……くだらん」
空亡は書き終えた黒の背表紙の本を、そこらに投げ捨て不機嫌そうな挙動で寝転がった。
まったく、暇や退屈というものには限度がないのだと、つくづく思い知らされる。稗田の娘に影響し、手慰みとして本を書いてみたが、書き終えてしまえば再び退屈という停滞の中。以前は頻繁に現れた外敵もすっかり減った、というより皆無だ。現状ではするべきことは何もない。
暇に耐えかねた空亡が時間を潰すためだけの休眠に入ろうとした時
「おにいさん」
小さな声が耳に届く。もはや、聞き慣れてしまった声。その呼びかけに応じるかのごとく、空亡は体を起き上がらせた。
「どうした、さとり」
さとりは肩を落としたまま、空亡の近くに寄り洞窟内を見渡す。その姿は大切なものを探し求める子供のようだった。実際、人間の倍は生きているとは言え、さとりの外見は幼子そのものなのだが。彼女がこの洞窟に来るのは、珍しいということではない。天狗たちから空亡への捧げ物を届ける関係上、さとりは週に一回程度は洞窟に来ているのだ。そうした理由でここにさとりが来ることは不自然ではない。今回、空亡が引っかかりを感じているのは、さとりの様子にある。肩を落としたまま、さとりは泣きそうな顔で空亡にあることを尋ねた。
「おにいさん、ここに……こいしは来ていませんか……」
その問いを聞いて空亡は、納得すると共に興味を失って再度横に臥せった。
「来ていない。少なくとも接近すれば私は気付く。私が気づいていないのなら単純に、ここに来ていないか。あいつの能力が私の察知能力を越えたかの、どちらかだろう。それに今のあいつは無意識で動いている、思考をしないまま、無軌道に流れ続けている。どこに行くのか見当もつかない。つまり、探すのは困難ということだ。黙って大人しくしていろ、そうすれば向こうからやってくるだろう」
「………………わかっては、いるんです。でも、見つからなくても捜します。……だって、あの子は私の妹だから。大事なたった一人の妹だから……」
「それもまた一種の無意識か……」
感情とは理屈ではない。思考を越えた先に存在する意思。それこそ、無意識。
例えることも、言葉にすることも出来ない存在。それでも、無粋だと理解しつつ言葉にするなら、これは"家族愛"と言うのだろう。利益、損得の絡まない思考から来る心。思考しない心。どちらも無意識に違いない。
「こいしを探し出すには単純な話、あれの無意識を司る能力を上回る精神干渉の能力を手にする他あるまい。そして、私の知る限り精神干渉に最も優れた妖怪は覚妖怪のみだ。こと、心を読む、干渉するといった能力は覚妖怪の十八番だろう。お前が見つけるのだ、他の誰でもない、お前自身が」
「……私はこいしの心の裡を理解してあげられなかった」
「何を当たり前なことを……心が読めようと、姉妹と言えど、心という未知の領域の全てを理解するなど不可能だ。だからこそ、理解するために全ての生物は衝突、対話を重ねてきた。それは今もこれからも変わらない。わかったら、疾く、こいしを見つけてこい」
「……あの子を本当に見つけてあげられるのか、わからないんです」
「行動を起こす前に結果がわかるはずもない。あれ(こいし)はお前の妹だ。そして、お前はあれの姉だ。ならば、見つけ出すことこそ姉としての責務。探すのに幾ら時間をかけてもよい。幸い、お前は妖怪、人ならざる者。時間はそれこそ腐るほどにある……」
「………………(コクっ)」
さとりは口を噤んだまま首を縦に振る。これ以上の言葉は要らない、さとりは黙って、洞窟の外へ歩き出す。その一歩一歩の足取りは小さなモノであれど、何処か力強さを感じさせる不思議なモノだった。
自分一人だけになった洞窟の奥深くで、空亡は静かに酒を飲む。さとりは覚妖怪の心を読む能力を持ったまま成長し、こいしは覚妖怪の能力とは正反対に成長する。古明地姉妹は、二人ともまったく異なる方向に進化しつつあった。その先が進化か、退化か。
まだ見ぬ覚妖怪たちの成長の姿を空亡は盃を傾けながら想像する。まるで子供の成長を待つ父のような、敵の進歩を望む戦士のごとき眼で……
そこそこな量の酒を飲み干した空亡は、突然、自身に流れ込んできた感情を把握して洞窟の外へ視線を送る。流れ込んできた感情は、自分の内から発生したモノではない。流入してきたのは己の眷属の心、眷属と空亡は多少の繋がりを持っている。その繋がりは力、感情の動きを水道のように空亡へ伝えることが出来る、もっとも、眷属から空亡へ流入することはあっても、空亡から眷属へということはほぼ無いが。流れ込んでくる喜び、警戒、敵意などの獣が対等な敵と相対した時に発せられる凶暴な感情。
「……フン、何があったかは知らんが、ずいぶん浮かれているな」
空亡は頭に残っていた酒精と酔いを消して洞窟を出る。彼の横顔には鮮烈さな凶暴性を見せる酷薄な嗤いが刻まれていた。
ーーー無論、彼の行く先は、太陽の畑。
Side風見幽香
風見幽香は、元々は脆弱な妖怪であった。妖怪というより妖精か精霊に近しく、幾ら年を重ねようと力の増大は期待出来ない。スペックが低い、成長の伸び代皆無。おおよそ、戦闘とは無縁の生活をしていた。しかし、妖怪の山に流れ着き、幽香は運命と巡り会った。それは、天災だった、それは怪物であった。百鬼空亡、今までの永きにわたる生の中で初めて出会った最も強く強靭な個。空亡がもたらすであろう災いは、一個体、一生命の常識、理、枠を外れている。風見幽香は、そんな存在に見出されて、力を授けられた。彼の眷属となった幽香は、自分が住まう太陽の畑を傷つけ侵す者を悉く消してきた。力を振るうことに感慨は持たず、機械的に業務的に事を済ませていくうちに風見幽香という妖怪は飢えを感じ始める。
全身全霊を振るえないことに対する不満、脅威となる外敵がいない歯痒さ。強敵、強者と戦うということは自身が守りたいと願う花たちを危険に晒すことだ。守りたいモノを危険に晒す願望、その矛盾を承知の上で風見幽香は強敵との戦いを待ち望んでいた。
それは何故か、敢えて言葉にするなら"実感"が欲しかったというところか。慈しみ、大事にしている花たちを自分が守っているという実感、命を賭け全力を尽くすという経験。それが、今の風見幽香には存在しなかった。
だからこそ、強者の襲来という現実を前にした風見幽香というケモノの胸には、猛然とした喜びが駆け巡っていた。
「初めまして、でいいのよね?」
「ああ、初めましてってことでいいよ」
太陽の畑の中心部、そこにいるのは日傘を差して幽美に佇む華の眷属 "風見幽香"。変わって真っ向から対峙するのは両足をしっかりと大地に乗せ仁王立ちをする女性。その背丈は並みの男を凌ぐほど。威風堂々とした立ち姿で周囲と隔絶したオーラを出している。何より特徴的なのは額から天に向かって伸びる一本の角。それと同じような角を持つ異形たちが彼女の後ろに控えている。
「それでは、ようこそ。太陽の畑へ。歓迎するつもりはないけど出迎えてあげる」
「はっ!そいつはありがたい。悪いがこっちは無作法者が多くてね。歓迎されても礼儀よくってのが出来ないんだよ」
「あら、それは大変ね」
「あんたほどじゃない。いや、この山の妖怪たちほどじゃない、かな?」
「へえ、どうしてかしら」
幽香の声が一段低く冷たく変わった。その態度に触発されたか、有角の女性が凶悪な笑みを浮かべ幽香の発言の答えを放った。
「住処が無くなっちまうからさ!!」
剛腕が唸る。空間そのものを圧迫するような力、とてつもない剛力から撃たれた拳が幽香に襲来する。幽香が迫る暴威に対し選択した対処法は正面からの迎撃。硬く握られた拳と幽香が持っていた日傘が衝突する。万物を圧壊する鉄槌、総てを貫く槍、そんな印象を思わせる二つの力が激突した。
耳をつんざく轟音、巨大な力と力の衝突により凄まじい風圧が発生する。周囲の向日葵は、吹き飛ばされそうになるほどに風に煽られ激しく揺れる。しかし、花は無惨に散ることなく大地にしっかりと根付き踏みとどまった。
「あはははっ!!こりゃすごい。あんた、意外とやるじゃないか。鬼と真っ向から攻めて引き分けるなんて、並みの妖怪じゃ出来ないぜ」
「こちらのセリフよ。まったく、辺りを傷つけないように加減してほしいわ」
「どの口が言うのさ、この辺の花からはあんたの力を感じる。妖力で花を覆って守ってるんだろう?花を守りながら、わたしの攻撃と同等の一撃を繰り出すとか。結構なお手前で」
「どの口がほざくのかしら。そういう貴女も、まだまだ本気出してないでしょう」
鬼の賞賛に、幽香は相手の攻撃が小手調べだと読み取った。互いの力がどれほどなのか、本気を出すに相応しいか。先の交差で両者は敵の実力をあらかた推測した。様子見を終わらせた二人は、これからが本番だと言うように一歩足を踏み出す。変化は顕著だった、周囲の向日葵が潮の引くように動き出し、幽香と鬼の周りから離れていく。そうして、出来上がったのは向日葵に囲まれた闘技場。後ろにいた鬼たちはこの光景に興奮し湧き踊る。
「おーい、勇儀!なんか、そいつ物凄く強い奴じゃんか〜。なんなら変わろうかー?」
「バカ言うなよ、萃香。強い奴とやりあえるなら、こっちとしても万々歳さ。これはわたしの喧嘩だぜ、余計な手出しすんじゃないよ。……さて、悪かったね、あんたをほっといちまってよ。………わたしは大江山の酒呑童子の配下、鬼の四天王が一人、星熊勇儀!いざ、尋常に勝負!!」
「……悪神、"百鬼空亡"が眷属。風見幽香!来なさい!!」
幽香は傘の先端から光線を撃つ。勇儀は体をねじり恐ろしい速度で鉄拳を振りかぶる。激突、拮抗する光の砲撃と暴力の鉄拳。一撃一撃が全身全霊、少しでも力を緩めれば敗北に繋がる戦い。ここに、ケモノとケモノが殺意を以って舞い踊る。幽香と勇儀、両者は互いに敵の力量を評価している。油断ならぬ強敵だと。それでも二人は"確かに強い。だが、自分ほどではない"という同じ結論を出していた。
「がァァァァァ!!」
鬼の咆哮、同時に放たれる怒涛の衝撃。妖力で構成された弾丸の陣に逃げ場はない。幽香は弾丸の陣にある僅かな隙間をかいくぐる。自身の身体すれすれに掠める弾丸を美しいとも言える体捌きで、回避し続ける。対する勇儀は回避し尽くした幽香の位置を逆算、勇儀が思い描いた地点で弾幕を避け切った幽香が停止した。停止した幽香へ向かって撃たれる拳の形をした死の宣告。
幽香はこのままでは絶死の魔拳にその命を刈り取られるだろう。それを黙って受け入れるほど幽香は甘くはない。だが、勇儀の怪力により放たれた拳は生半可な威力では逸らしきれないのも事実。幽香は昔と比べれば遥かに強化された。けれど、勇儀の尋常ではない怪力を越える腕力は、さすがに持ち得ない。では、風見幽香が持つ唯一つの突出した武器とは何か?
「……咲き誇りなさい」
風見幽香が生まれ持った能力、それは植物を操ることにある。
幽香の呟きに応じるかのごとく、勇儀の体を花と蔦が拘束する。振りかぶった拳は植物の拘束具によって、完璧に封殺された。そう、これそ風見幽香が持つ彼女の唯一にして最大の能力。すなわち、花を操る異能。花を操る、想像してみると戦闘には向いていないと感じる。しかし、それは過去の話。草木や花を操る程度に過ぎなかった風見幽香の能力は、空亡の眷属と化したことで大きな変化を遂げていた。現在の幽香の能力は植物に妖力を練り込むことで通常の花ではありえない強度と生命力を実現している。もはや、ただの植物というカテゴリーには収まらない未知の何か。力では鬼ですら右に出る者のいない勇儀を行動不能にさせたくらいだ。傍観に徹している背後の鬼たちは、これがどれほどの異常事態であるかを正確に理解していた。
「うわっ!あの花、勇儀を完璧に縛ってるよ。岩でも鉄でもぶっ壊しちまう勇儀をお縄にするとか、あの花とか蔦は何で出来てんだろうかな〜?」
「萃香、もう少し落ち着いていられないのですか。仮にも四天王の看板を背負っているのです、威厳のある態度を示しなさい。まったく、勇儀もあなたも考える頭を持っているくせに、面倒になったり興が乗り過ぎれば直感だけで行動する。その後始末を誰がすると……」
「わかったわかった、そんな口うるさくしなくともいいじゃないか」
「口うるさくしないといけない原因を作っている者のセリフとは思えませんね」
「むぅ、なぁ華扇。お前は頭がいいのが強みだが、考えすぎなところは間違いなく弱みだぞ。考えなしも、そりゃまずいが考えすぎも良くなかろう。もうちょっと、頭を空っぽにして動いてみろ。考えて動くより咄嗟に動いたほうがいいときもある」
「それは常日頃から少しはモノを考えて動く者が言う台詞です!!」
萃香と呼ばれた小柄な少女、その身長、声の幼さからみても鬼らしい印象が浮かばないが頭部より突き出ている、ねじれた二つの角が彼女を鬼だと雄弁に語っている。萃香に対し声を荒げている彼女の名前は華扇。鬼の四天王の一角であり萃香や勇儀たちの暴走を止める楔のような存在でもある(止まらないことが多いが)隻腕有角の鬼だ。
ズンッ
空気が変わる。燃え盛る炎の中に放り込まれたのかと勘違いするほど肌をヒリヒリと刺す殺気と闘気が周囲に拡散した。その闘気と殺気の発生源に立つ二人の怪物(女)たちは一撃必殺の大技を繰り出そうとしていた。拘束された勇儀は右足を上げて停止。同じく幽香も傘を銃のように構えて静止する。鬼たち、それに物言わぬ花たちでさえも今から稀に見ない惨事が起こると予感した。
ーー予感は的中ーー
勇儀が高く上げた足を大地へ振り下ろす。勇儀の脚を中心に爆音が轟く。中国武術で言うところの震脚、それが鬼の脚力によって行われた。その威力のほどは推してしかるべし。そして踏み込みから少し遅れ、太陽の畑を震源とした局地的な地震が発生。踏み込みの衝撃で勇儀を拘束していた花と蔦が容易く千切られる。これより彼女が放つ技は、鬼の四天王にして怪力乱神と謳われる星熊勇儀が誇る奥義、"三歩必殺"。三歩で敵との距離を詰め、乾坤一撃の元に二の打ち要らずを為す秘技。万物粉砕、万象破壊、放てば確実に全ての敵、物体を壊してきた絶死の魔拳。
最初の一歩、そこでは大地を揺らし敵の体幹、構えを崩す。次いで二歩、これは単純に距離を詰めることのみに力を入れる。最後の三歩、地面を強く踏み込み拳を放つ。これが三歩必殺の概要。言葉で説明すると大したことがないように聞こえるが、実際は悪鬼羅刹を潰れたザクロのごとく粉微塵にする人外の剛拳。この技は勇儀と同じ鬼たちですら回避に全力を注ぐほどの危険性を秘めている。
既に最初の一歩は踏まれた。次の二歩目、勇儀は踏み込みによって生まれた力を余すことなく前方に向け幽香との距離を詰めた。大砲から打ち出された砲弾のように勇儀が幽香の懐へ強襲する。幽香の生存本能は、これが己の命を奪い去りかねないと警鐘を鳴らす。風前の灯とさえ言える窮地。こんな状況で幽香の見せた表情は、感謝と喜びからくる微笑みだった。血風舞い、鉄火に背を押される戦場。殺し殺される戦い、幽香はようやく欲しいと思っていたモノを手に入れたのだ。
これで終わらせる、幽香は傘の先端、鋭利に尖った部分に自分の持つ力の全てを込めた。勇儀の必殺技が三歩必殺であるなら、幽香の必殺技はこれだ。この技は特に難しい技術は存在しない、全ての妖力を一点に集中し撃ち出すというだけ、シンプル極まりない単純な攻撃。だが、物事は究極へ近づけば近づくほど、簡素で陳腐なものになっていく。見よ、これこそ悪神の華の眷属、風見幽香が持つ最強の一撃。
偶然か、それとも必然か。勇儀と幽香が自身の最高の技を放つ瞬間は全くの同時だった。
「三歩必殺!!!」
「マスター・スパーク!!!」
破壊の拳と滅却の光は一瞬の交錯のうち、巨大な爆音と爆発を起こした。星熊勇儀の剛拳は敵を強かに打ち据え、風見幽香の極光は相手の肉を焼き焦がした。普通ならば、ここでどちらかの命が絶え勝敗は決するだろう。しかし、この戦いの場合、決着はつかない。全身を強打されたことを無視して無理矢理にでも立つ幽香。身体の芯まで焼かれたにも関わらず気合い、根性といった感情だけで敗北を跳ね除ける勇儀。この戦いを見ていた鬼たちは、一生に一度見られるかどうかというレベルの喧嘩に喝采を送る。
立つことすら、やっとな二人は懸命に息を整える。今度こそ相手の息の根を止めるために。
だが、そんな二人の間に一人の男が出現した。目を閉じていたわけでも何かに気をとられていたわけでもない。"気がついたら"男はそこにいたのだ。まるで"無意識"に潜り込んだかのように。幽香は突然現れた男が誰なのかを視認した途端、満身創痍であることを考慮せず即座に膝をついて頭を下げる。片や、勇儀を筆頭とした鬼たちはいきなり出てきた男から目を離せないでいた。鬼たちが突如現れた男、百鬼空亡に対して抱いた感情とは何か。
未知にして正体不明から来る恐怖?違う、鬼が抱いた感情、それは畏敬である。異形として生を受け、人外として人に恐れられる日々を過ごしてきた鬼たち。生まれてきた意味、生きるための理由、そんなものは人も鬼もわかるはずがない。だが、鬼たちは褐色の男を見ると同時に己が生まれてきた意味を悟ったのだ。
ーーー汝、悪あれかしーーー
ーーー悪を背負い、正義を証明せよーーー
ーーー我は悪なり、故に正義は汝にありーーー
悪鬼羅刹へ課せられた唯一の宿業。
ーーー己が生涯の終焉を持って正義の証明を果たせーーー
勝てない、
勇儀の背後にいた鬼たちは一斉に膝を折った。敗北を認めたわけではない、ただ歴然とした格の違いを認めたのだ。豪傑揃いの鬼たちが揃って膝を曲げる中、三人の鬼が空亡に真っ向から対面する。
「………あんたがもしかして、風見が言っていた百鬼空亡かい?」
「ああ、今はその名で呼ばれている。私の眷属をここまで追いつめるとは、なかなか腕が立つと見える」
「そう見えるなら、こちらとしても鼻が高いってもんだ。おっと、まだ名乗ってなかったね。私は鬼の四天王の星熊勇儀。んで後ろにいる二人が……」
「ちょっと、待った!……喧嘩場での名乗りは本人がしないと。勇儀、勝手に名乗りの誉れを持って行くなよ。お前もそうは思わないか、華扇?」
「確かに……珍しく意見が合いましたね、萃香」
勇儀を挟むように立つ二人の鬼が今、高らかに悪神へ名乗りを上げる。
「大江山、酒呑童子が配下。鬼の四天王が一人、茨木華扇!」
「同じく大江山、酒呑童子が配下にして鬼の四天王が一人、伊吹萃香!」
「…………百鬼空亡」
凶々しい覇気を纏い空亡は三人の鬼たちへ名乗りを返す。空亡の名乗りを聞いた三人は心のそこから喜ぶように顔を綻ばせる。圧倒的という言葉ですら足りないほどの強者。勇儀、萃香、華扇の三人は畏れを僅かに含んだ足で前に出る。
「……百鬼空亡殿。悪いがねぇ、ここで一つ、派手な喧嘩に付き合っちゃくれないか」
慇懃無礼を地で行く勇儀が多少なりとも敬意を示した口調で空亡との戦闘を要求する。
「いや、最初にやるのは私だ。勇儀にも華扇にも譲らないぞ」
「勇儀も萃香も退きなさい、あの方とは私が戦う」
三者三様、誰が一番最初に戦うのかで潰し合いを始めかねない雰囲気になり始めた鬼たち。誰が一番最初に戦う?それはもしや一対一で戦うことを想定しているのか?
「フン…………くだらん……」
鬼たちは苛立ちが込められた空亡の呟きを聞いた瞬間、即座に臨戦態勢に移行する。
「戦うことに関して口を挟むことはない。だが、貴様らは私との戦いに何を求める?疾く答えろ。腑抜けた理由で私と戦うことを望むというなら、貴様ら。……塵芥も残さんぞ」
百鬼空亡と呼ばれる悪神は、アジ=ダカーハという悪神の背負ってきた絶対悪の御旗の重さに耐え切れなかった。試練として君臨するも人の可能性に絶望して絶望悪の教義に背いた。だからこそ、この鬼たちが何を求めて戦いに臨むのか、それだけは知っておかねばならないのだ。
数秒の沈黙。そして、まったく同時に
「「「…………私たちが鬼が妖怪が、異形として生を受けた者にとって、あんたこそが唯一絶対の答えだと確信したからだ!!!」」」
勇儀、萃香、華扇は同じ台詞を自らの矜持に従って宣言した。その言葉に含まれた堅固な意志を理解した瞬間、空亡は悟った。
ーーー人だけが答えを、救いを求めているのではないーーー
ーーー鬼も、妖怪たちも人と同じように救いを、答えを求めているのだーーー
「……………良かろう、ならば纏めて来い。……こちらも相応の姿で応じてやる」
取るに足りない存在と鬼たちを見下していた悪神は、彼女らを明確な敵であると再認識して首を鳴らしながら挑発的な台詞を口にする。
「けっ!寄ってたかってなんてみっともない真似が出来るかよ!」
空亡の発言に対し直ぐ反発したのは、三人の鬼の中で一番小柄な萃香だった。勇儀も華扇も萃香と同じ意見らしい。空亡は鬼たちの挑戦的な視線へ真摯に向き合う。勇儀たちは先ほどまで眼中になかった自分たちが、恐るべき強者の視界に入れられたと即座に感じた。視界に入れられただけだというに、この威圧感と恐怖感。勝てる想定が思い浮かばない、負ける光景しか想像できない。
それでも、負けるとわかっていても胸が高鳴り心が躍る。浮かれている、油断しているとさえ、言えるだろう。空亡はそんな鬼たちの心を即座に喝破した。
「…………戯けが。
鬼たちの余裕、侮り、油断。その全てを愚かと断じる。三人の鬼たちは空亡の一喝に、自分たちの拘りや、誇り、矜持の全てを掻き消す。この敵はそんなモノを抱いたまま、戦えるほど甘い敵ではないと再認識した。必要ない感情を鬼たちが排したのを確認した百鬼空亡は、人の姿から異形の姿へと"戻り"始める。薄黒い褐色の肌は白銀の鱗へと変わり両肩からは龍の首が突出した。人の顔をしていた頭も両肩の首と同様の龍に変貌を遂げる。こうして太陽の畑に出現するは、三頭を持つ異形の龍。おぞましいとさえ形容できる変貌を見て怯えを表に出していないのは、勇儀、萃香、華扇の三鬼と空亡の眷属である風見幽香のみ。
三頭の鋭く紅い眼光が敵と認めた三鬼たちを貫く。燃え盛る炎より紅い三頭龍の虹彩は、これより自身に挑みかかる挑戦者たちを確かに捉えていた。挑戦者の一人である勇儀は震える声をなんとか抑え、不敵に悪神に笑いかける。
「なんだよ、そっちの方がずっと男前じゃないか」
『……へらず口を』
悪態を吐いたつもりだが、無性に笑えてくる。鬼たちが発する敵意がやけに心地いい。そうだ、こいつらだ。私(絶対悪)が求めていた勇者という者は。負けを、死を承知の上で、それでもなお、挑む愚か者。この勝負の結末は決まっている。どれだけ抗ったとしても技術、心構えだけで、どうこうなる話ではない。空亡は人外殺しに特化し、力、知識の量は天井知らずの無限にまで至っている。相性と桁が違いすぎる力量差、勇儀、萃香、華扇の勝率は皆無だ。
だというのに、鬼たちは逃げようとしない。退こうとさえ考えない。外見は何ら変わりないように見えても身体の芯は恐怖に震えている。だが、悔いはない。焦がれるように本能が求めた答えが、ようやく見つかったのだ。恐れはあれど、躊躇いも迷いもない。あるのはただ、
ちっぽけな好奇心と希望、勇気を胸に、鬼と呼ばれ恐れられた三人は今、走り出した。
だが、なんてことはない。奇跡的な逆転劇が起きたとか鬼たちが死に際で内に秘めた力を目覚めさせた、という奇跡は起こらず、鬼たちは三頭龍の爪で、牙で、武で、術で蹂躙され、呆気なく順当に敗北する。悪は絶対悪の前に敗れ、哀れにもその命を散らした。
ーーーしかし、死した命は冥府魔道には堕ちなかったーーー
ーーーその命は悪の覇道に呑まれて、彼女たちを新たな眷属として変生するーーー
これぞ、悪の軍勢変生。絶対悪とはこの世の全ての悪の顕現。森羅万象、生けとし生きるモノの罪悪は我のモノ。ゆえ、人であろうと人外であろうと罪はない、悪ではない。この世の全ての悪は私のモノ、そして私はその全てを既に背負っているのだから。
ーーー人外とは悪を背負い生まれた者たちーーー
ーーーならば、その者らは総て"私、自身である"ーーー
死んだ者が人外であるなら無条件で空亡の覇道に従えられる。人外殺しに特化し、死した人外を強制的に従える権能を目覚めさせた空亡。己を悪とする求道でありながら、己以外の悪を自身と同一視する覇道。悪神であることを諦めた悪神は予期せぬまま悪神としての道を進んでいく。
望んでいなかった、求めていなかった更なる力。
これは、暗に空亡へ告げていたのかもしれない。
"勝利"からは逃げられない、という世界の法則を。