Side八雲紫
「…………妖怪、精霊、神。ありとあらゆる人外が人と共存する理想郷を創ることです」
己が夢を語った時、紫は師の嘲笑を覚悟した。紫が語る夢、それは正しく夢幻のそれ。この夢を語り多くの者たちは不可能だとありえないと笑ったのだ。無論、笑われる度に紫は笑った者を強者の特権で黙らせた。しかし、今回は自身より格上にして上位種の存在。彼に笑われたなら、その言葉を黙って受け入れねばならない。己より強い者の言葉を絶対遵守するのは弱者の定め。自身が今まで振りかざしてきた強者の特権の義務。すなわち、弱肉強食の掟。これまで自身が強者として力を振るった以上、弱者としての責務は果たさなくては。
紫は黙して裁定の時を待つ。死を覚悟し目を閉じると、この状況に不思議な既視感を感じた。……昔の昔、悪神が百鬼空亡と呼ばれる前の時代、八雲紫という大妖怪が取るに足りない小妖怪だった頃。かつての脆弱な自分は、期せずして悪神との邂逅を果たした。遭遇してしまった悪神との最初の会話は、今思えば愚にもつかぬ無様な言い訳を口走ったものだ。そして、我が師は何の気まぐれか、惰弱な自分を弟子とし、ありとあらゆる学問と術の数々を教導した。あの激しく鮮烈な研鑽の日々は今でも忘れられない。思い出す記憶に別れをして、紫は閉じていた目をゆっくりと開いた。開いた眼に映された空亡の表情は、紫が過去に見たこともない穏やかな顔で佇んでいる。その顔は、迷子の幼児を見つめるような、暗闇を手探りで進む子供を見るような、どこか暖かさを感じさせる目をしていた。
「人魔神仏が共存する理想郷だと?……そんなものは存在しない。そもそもとして、種族間の壁は容易く乗り越えられる代物ではないのだから。例えばだ。人には人の法と掟があるが、同様のことが妖怪や神、精霊たちにも言える。そして、種族間の異なる価値観と視点の統一は何者であろうと不可能だ。仮に異なる価値観との調整が上手くいったとしても、そこにあるのは元々の価値観から変異した"ナニカ"になってしまう。異なる種族が共存を果たす上で、価値観の統一は最も優先されるべきだろう。しかし、妖怪や人、神では価値観の差異が大きすぎる」
己の師が初めて見せた表情に希望を持った紫だが、その表情に反して返ってきたのは否定の口撃。紫はその言葉の数々に反論しようとするが空亡の言葉は正論であり、返す言葉に困窮する。……彼の言葉に対する反論など、現状では薄っぺらい綺麗ごとしか並べられない。そんな言葉で、師の叡智からくる言葉に反撃をすることなど、出来るはずがないと紫自身が一番に理解していた。
「理想郷の定義とは、何か?」
答えに窮したのを見かねてか、師が唐突に理想郷についての問いを行った。
「理想郷の定義ですか?……争いなく、平和に皆が平等な衣食住を甘受すること、では?」
「はっ、"争いなく"という言葉を出した時点で、既に語るに落ちている。生きるということは、あらゆる生物や自然との争いの中で成り立つ。草食の動物が肉食獣に喰われるようにな。生存競争と争いは切り離せん。争いを無くすということは、生の否定にも繋がる。……争いを無くし平和という幻想を形にするには、全生物が不死になるか、全生物が死に絶えるか……どちらにせよ、碌な結末にならん」
「…………争いが、必要であると?」
「ああ、……しかし、限度も必要だ。例え、どのような争いでも一定の妥協点は必要とされる。それが無い混沌とした闘争は、災いにしかならない」
百鬼空亡は、そこで言葉を切った。争いを生きるために必要なものと捉える独特な価値観。その思想は極端ではあるものの、的を射ている考え方である。生きるための糧や繁栄を手にするために、闘争と流血を必要とする生き物の罪業。理想郷という幻を口走った己の未熟さに歯噛みする。
「理想郷の定義として、このような考えがある。"理想郷とは、国民の凡そ全てが平均的な所得を貰い、差異の無い家屋を建て、胸にささやかな信仰心を秘め、日々を安寧に過ごせる場所である"と。……紫よ、貴様はその世界をどう思う?」
「…………どう、とは?」
わからない、師の求めている答えが。そして、何より師の考えていることが。妖怪の山を統べる最強にして絶対の悪神が、このような戯言について真剣な考察を始めるなど、一体誰が予想できよう。弟子だからこそわかるが、空亡は冗談や戯れを好まない。紫は空亡が理想郷についての話を、ここまで本気で語るということが信じられなかった。
「理想郷と呼ばれるようになった世界、そこは果たして本当に理想郷なのか?……全ての者が平等に生を謳歌する世界、生きるに不自由はしないだろう。しかし、その世界には自由が無い。果たして、自由の閉ざされた世界で真の幸福は手に入るのか」
「……真の幸福…………」
「………………この話をするには、まだ貴様は幼いようだな。仕方ない、今のところは、このくらいで許してやる。理想郷という幻想で幸福が手に入るのか。……緩慢でもいい、されど自分だけの確かな答えだけは出せるようになれ。…………馬鹿弟子」
紫は、理想郷が幻想であるという師の言葉に頭を悩ませる。その悩みは今の自分では解けない。経験が足りない、覚悟が足りない、意思が足りない。足りないものと至らない要素が多すぎる。そんなザマで、どんな答えが出せるというのか。
"まだまだ、己は未熟である"
紫は成長した己の体を見て、そのような自嘲を心中で零した。未だに熟さず、言葉の通りだ。師の元を離れ日本全国津々浦々を旅し、さらには海を越えた先の大陸へ踏み込んだ。そこで多くの経験を積んできたが、それでも、師である百鬼空亡の足元にも及ばない。まったく、越え甲斐のある師を持った弟子は苦労するものだ。
「それで紫。妖怪や人の共存する理想郷を作るというのは、誰の考えだ?」
ギクッ
「……おほほほ、何のことでしょうか。いやですわ、空亡様ったら。私は多くの他種族が平和的に共存するという尊く素晴らしい理念のもとに……」
「下手な考えは、休むことと同義だ。いや、この場合は焼け石に水か。まぁ、貴様に腹芸は百年早い。精進しろよ、紫」
表情自体はピクリともさせていなかったはずだが、あっさりと心情を見抜かれたことに、もはや驚愕すら湧き起こらない。予定調和のそれとして、紫は諦観とともに自身の未熟さを噛み締める。しかし、次の空亡の一言に、もう何があっても驚きはしないという考えを一瞬で崩すほどに驚かされた。
「……重ねて問う。紫よ、理想郷を創るというのは誰の考えたことだ?」
「……………何故、私が考えたのではないと?」
「貴様が平和や尊いなどという理由で、理想郷などという計画を立てるものか。例えどれだけ力を手に入れたとしても妖怪は妖怪。世界を救う、平和を、平等を。そんなことを考える者などいるはずがない。それは神や聖人、人間たちの役割だ。妖怪は闇の世界に生きる者、どれほど慈悲深い心や穏やかな気性の妖怪でも、その本質は変わることはない」
「……おっしゃる通り。人と妖怪の共存、それは私が考えたことではございません。けれど、幻想郷を創るという考え自体は私が考えたものでございます」
「……人妖の共存を考えた者の名は?」
「知って、どうなさるのですか」
「警戒するなよ、取って食う訳でもなし。単に興味が湧いただけのこと。危害は及ぼさん、名を言え一度その者に会ってみたい」
「……………………」
沈黙、百鬼空亡の言うことが果たして真実か、紫は計りかねていた。師は意味の無い冗談を語りはしない。けれど、語る必要があると考えれば迷わず虚言を弄するお方。その神算智謀は釈迦や仏であろうと裏の取ることは能わず。そして、単純な剛力も何人を寄せ付けぬ。力と智、その両方を極めている百鬼空亡が、己の友人を害するとしたら己では抗うことも叶わない。
……しかし、幻想郷を創り出すためには百鬼空亡の権力と力が必要だ。これは賭けだ、それもかなり悪辣で醜悪な。賭け金は己の命、そして友の命。負ければ十中八九悲劇で幕が閉ざされる。だが、勝たねば友と語り合った理想は夢幻として失われる。臓腑が凍りつくような恐れに侵食され、自己を嫌悪する思考が脳裏を巡った。
…………さぁ、一世一代の大博打を打とう。
「彼女に危害を加えない、そう契りを交わしていただけますか」
動きが止まりそうな舌をどうにか動かし、必死の思いで百鬼空亡から言質を取ろうとする。このセリフが師の機嫌を損ね、自分を殺すかもしれない。そう思っていても、友の命がかかっている。これだけは己の命に代えても確かな言葉を貰わなくてはいけないのだ。
さぁ、どうなるか。
呼吸にさえ必死になるほどの緊張感。体から冷や汗が止まらないほどの極限の状況。
「良かろう」
永劫にすら感じた数秒の沈黙は、空亡のあっけない一言で瓦解した。
「……はっ?……本当に、良いのですか?」
「本当に良いのだ。逆に聞くが、何か悪くなくてはいけないのか?」
「いえ、まさか、ここまであっさりと承諾がもらえるとは夢にも思わず」
そう、百鬼空亡と長年、共に暮らして彼の教えを受けていた紫は、彼の性格を深く理解している。紫の視点から見た百鬼空亡の性格だが、とにかく気に入らないことや者、物は情けの一片もなく粉砕し弱者も強者も平等に殺戮する傲慢な性格。それに文句のつけようが無いくらい高いカリスマ。森羅万象に君臨する王者の風格。気まぐれと気分で、己の行動を決定づける捉えようの無い思考形態。それが百鬼空亡だ。その彼が、いくら弟子とはいえ自分の要求を無条件で呑んだのだ。
思わず、紫が警戒してしまうくらいの異常事態。
地震と雷、嵐、地割れが同時に起きたことよりも唖然とする出来事に他ならなかった。
「疾く、名を言え。そして、その者のいるところまでスキマを開け」
「……承知いたしました。幻想郷を創るという計画、その土台の考えである人妖の共存を唱えた者、そして私の友の名は……"西行寺幽々子"」
言葉が切れた時、空間に間隙が生じる。そのスキマの内部は数多の眼球が、スキマの外側の世界を言葉なく見ていた。おぞましい光景、精神の弱いものなら発狂、気の強い者でも怯え腰を抜かすほどの衝撃的な絵面。その空間には、既に先客が佇んでいた。頭にナイトキャップらしきものを被り、中華の法師のような衣を纏った女性。紫のスキマにいることから人外であるとわかるが、彼女の背後から見える九尾が、何の種族なのかを如実に物語っていた。空亡は、九尾から連想される妖怪に当たりをつけて紫に声をかけた。
「狐か?」
「ええ、狐ですわ」
九尾を持つ女性は二人の視線が自分に向けられたと察し、恭しく礼をする。
「我が主人、八雲紫様が式。……八雲藍でございます。以後、お見知りおきを」
藍の恭しい礼に何の感慨を持たず、空亡はスキマに入っていった。無視された形になったが、藍はそのことに憤りを感じてはいない。その訳には、空亡が紫の師であるということもあるが、一目見ただけで己よりも上位の存在であると本能が理解し、相手の不遜な態度を妥当であると納得したからだ。それを見て、紫は藍と空亡の邂逅が無事終わったことに安堵の息を吐く。自分の式の賢さは理解しているが、自分の忠誠ゆえに空亡に噛みつかないかと懸念していた。しかし、どうやら杞憂だったようだ。
スキマの先の西行寺邸でも、同じくらい平穏に事が運べばいいと願いながら、百鬼空亡の少し後ろに追従する。……………この先に待つ、悲劇を知らないまま。
Side百鬼空亡
紫が開いたスキマの先、そこには地獄が広がっていた。
辺り一面に充満する死臭が、ここは地獄だと来訪者たちに告げる。空気中には、生命力を蝕む死の瘴気が蔓延し生命の存在を拒絶していた。とてもではないが、人が暮らしているとは考えられない環境。外から見える範囲で邸内を覗くと、奉公人と思しき者たちが息絶えている。庭にいる庭師らしき男たちも同じく物言わぬ骸として野晒しにされている。不可思議なことに、それらの死骸には外傷はない。まるで魂を死神にでも抜き取られたかのような異常事態。しかし、邸内や庭に荒らされた形跡はない。それどころか、先ほどまで普通に生活していたような痕跡さえ見受けられる。西行寺邸のあまりに異常な状況。スキマから庭に降り立った三人の人外は、現状を上手く把握できていなかった。
「この屋敷、死が満ちている。……紫、貴様の友人とやらは、死神か何かなのか?……これほどの死の概念に満ちた屋敷に暮らすなど、妖怪どころか神ですら難事だろうに」
「ぐっ……一体、何が起きているというのか。……紫様、これは」
「そんな、嘘……。……幽々子!」
事態の把握が出来ていない空亡と藍をおいて、紫は西行寺邸に飛び込んでいった。そんな紫の姿を見た藍は、このまま紫を追いかけるべきか、空亡と待機すべきかの二択に逡巡する。判断しかねている藍をよそに空亡は、明確な意思の元に歩き出した。その足取りから察するに、はっきりとした目的地があるようだ。
「お、お待ちを!空亡様、どちらへ行かれるというのですか」
「……この先、死の密度が他とは比べものにならないほど濃くなっている。現状では、何の手がかりもないのだ。ひとまず、この先へ行くとしよう」
「あ、ちょ、お待ちください!?……ええい、仕方ない。空亡様、私もご同行いたします!」
ズンズンと、空亡は死の気配が濃くなっている方向へ足を進める。藍は自分より歩くのが速い空亡を小走りで追いかけていく。やがて、空亡たちは、この西行寺邸の惨事の原因である死の極点に到着した。
そこは地獄の中心だった。そこは桜の花びらが舞う美しい場所でもあった。空亡と藍が、死の瘴気を踏破して辿り着いた先には巨大な桜の樹と、その樹にもたれかかった女性がいた。その女性は、薄い桜色の髪と青を基調とした豪奢な着物を着ている。その女性の美貌は儚さと虚しさを同居させたものだった。あれほどの美貌、世の男どもが放ってはおかないだろう。"生きて"いればの話だが。身じろぎさえしない肉体、眠るように閉じられた瞳。桜色の唇から一筋の血が溢れ、女性的な豊かさを持つ胸元には護身用と思われる短刀が彼女自身の手によって突き立てられていた。
「おい、狐の娘。あれがもしや西行寺幽々子か?」
「私の名は八雲藍ですっ!…………ええ、空亡様の後慧眼の通り、あの方が紫様のご友人である、西行寺幽々子様に相違ありません」
「西行寺幽々子。死を具象化………いや、死を操っているのか。凄まじいな、こと生物に対象を限れば、無敵と評するに相応しいだろう。あれほどの異能、神でも持て余しかねないというのに、一人の人間が保有するとは、つくづく人間とは可能性に満ち溢れた存在よ」
「それどころではありません!幽々子様を治療せねばっ!?」
桜の樹にもたれ、血溜まりに沈む幽々子の元へと藍は駆け寄ろうとするが、空亡は駆け寄ろうとした藍の首元を掴んで無理やり押しとどめた。不意に急停止させられた藍は、自分を制した空亡を睨みつける。
「一体、何を為さるのですか!?」
「馬鹿者。貴様風情が、アレの側に不用意に近づこうものなら"死"にかねんぞ。アレに近づけるのは、それなりの年月を生きてきた妖怪か、それなりの信仰を宿す神でもなければ命の保証はない。……私が診てくるから、貴様はここで………ん?………やれやれ。ようやく、役者が揃ったか」
藍と談話していた空亡は、背後から走ってくる紫の気配を察知した。紫は息を荒げて優雅さも優美さも、かなぐり捨て走る。ただ走る。幽々子を探す途中に目の当たりにした骸だらけの惨劇を見て最悪の想像が紫の思考を蝕んでいく。友の無事を願い、必死で走った。西行寺邸を隅から隅まで捜索した紫は、竦む足に喝を入れて西行寺邸の庭にある桜の大樹、またの名を"西行妖"の元に駆けた。間に合え、間に合え、間に合え。言い知れぬ不安に背を押され紫は西行妖の所まで走った。西行妖の側まで来ると、そこには己の式である藍と師、百鬼空亡が既に佇んでいる。そして、西行妖の根元には胸に短刀を突き立て無惨な姿で樹にもたれかかる幽々子がいた。
一瞬の思考の空白
脳がその光景を正確に認識した後は、考えるより早く倒れた幽々子の側に駆け寄っていた。幽々子の側は死の極点。呼吸を、まばたきを、身じろぎを、何てことない通常の動作を行うだけで生命力が、堰を切った水のように流れ出る。友の肉体から発せられる死の誘惑、終の呼び声。紫ほどの大妖怪でなければ、幽々子の側に至る前に死んでいるだろう。幽々子の近くまで来た紫は、無言のままに彼女を抱き上げた。瞬間、さらに加速する死の引力。直接、幽々子の肉体に触れたためか、先ほどよりも生命力の喪失が早まっている。
「あ、あぁ。幽々子、幽々子幽々子。起きて、お願い。どうか眼を開けて、もう一度でいいの。私の名を呼んで………約束したでしょう、理想郷が出来た時は一緒に宴会をしようって。貴女、本当に楽しみにしてたじゃない。美味しい食べ物を用意するつもりだったのよ。此処で眠っていたら、宴会を開けないわ。お願い、お願いよ、幽々子。…………私を一人にしないで……」
紫の悲しみに満ちた涙が、嗚咽と共に西行寺邸の庭に虚しく消えていく。
「無駄だ、その女は死んでいる。いや、死よりもタチが悪い状況に置かれているようだ」
「………………………………空亡様、どういうことですか」
「こういった時に切り替えが早いのは、お前の美点か。友の死に狼狽えるような未熟さもあるが、それは弱さであると同時に強さの一端でもある。大事にしろよ」
「どういう状況なのですか」
空亡の現状と無関係な呟きに、反応することなく紫は感情が凍った声音で空亡の話を促す。友の急死という衝撃のおかげで、紫は空亡に対する恐れが薄れているのか。師を睨んでさえいた。その生意気な視線が気に入ったらしい空亡は、口元を歪に歪めて西行寺幽々子が今、置かれている状況の説明に入った。
「その女の死因は自刃したことではない。背後の桜が原因だ。おそらく、その桜の大樹には生物を死に誘う能力がある。その西行寺幽々子とか言う娘も似た能力を所有してはいるようだが…………桜の大樹の能力の方が出力や作用範囲が大きい。屋敷の者たちを死なせたのは、桜の大樹の異能だろう」
「それより幽々子の現状は!」
「急くな、そんな無様を晒しても得することは何も無いぞ。黙って話を聞け。…………この桜の能力は、西行寺幽々子と同質のものだ。おそらく、西行寺幽々子本人が気づいたのだろう。この桜が屋敷の人々を死に誘っていることに。気づいた後は桜の能力を封じようとしたが、一人では桜の能力を抑えきれない。桜を止めるためにとった最後の手段、それが」
「自らの命を捧げること?」
「ああ、己の命を桜に取り込ませて内側から、どうにかする魂胆だったのだろうが。思惑は外れて、魂は桜の中に囚われてしまった。このままいけば、西行寺幽々子の魂は永遠に桜の中に囚われる。天にも地獄にも、どこにも逝かずに永劫に桜の中だ」
「永遠に………そんなこと認めない、認めてなるものか。何の罪もない幽々子が、そんな牢獄に堕とされるなど許さない!!」
「では、どうする?このままでは、西行寺幽々子は死よりも酷い状況に呑まれる。かといって、魂を桜から取り戻しても、魂は天にも地獄にも逝けない。どちらを選んでも西行寺幽々子の末路は変わらない。死は確定し終焉は未確定のまま。貴様が決めろ、友なのだろう?」
救いなど一片たりとも存在しない選択。紫の思考は極限状況の中にあって、これまでの生涯の中で最も研ぎ澄まされていた。友を桜から取り戻して何処にも行き場の無い哀れな者とするか。桜の中で永遠の安寧を友に与えるか。どちらを選んでも後悔する選択、後悔の定められた非情の二択。
狂い死にそうな迷いの末に紫が選んだ道は、友の魂を桜から救うことだった。
「幽々子の……幽々子の魂を西行妖から取り戻してください」
「西行妖?ああ、この趣味の悪い桜のことか。いいのか、この西行妖とやらに縛られていれば、眠るが如き永遠の安寧を約束出来るのだぞ?お前の選択は友を苦しめることもあり得る。生きているわけでも、死んでいるわけでも無い。そんな存在になった友を安寧の元に眠らせるのも一つの救いではないか?」
「…………関係ありません。幽々子の魂を、こんな桜にくれてやるものか!例え、天国や地獄に逝くことが救いなんだとしても、私がそれ以上の救いを創り出す!!!そんな都合のいい楽園がないことなんてわかってる、けれど、楽園がないなら創ればいい。私は救いをもたらす理想郷、人妖、神魔が共存する幻想郷を創ってみせる!!!!!」
空亡は紫の啖呵に笑みを浮かべる。実に痛快、なんと豪快。弟子が最大の決断をしたのだ。ならば、師匠はそれに対して応じなければ。
「いい啖呵だ、よくぞ吠えた。"八雲紫"!!」
空亡は両手に印を結び、西行妖と向き合った。向かい合った西行妖を縛るように数多の魔方陣が現れる、この魔方陣は西行妖の中から西行寺幽々子を探し出し解放するための術式。西行妖の内部、西行寺邸の使用人と思わしき魂が消滅し始めている。人間という種族であるがゆえ、この死に満ちた異界ではそう長くは存在出来ないのだろう。消えれば、この死の桜の養分になることは確実。急ぎ、西行寺幽々子を探し出さなくては。
死の闇を斬りはらい、空亡は死の桜の深奥にまで踏み込む。
深く潜っていった西行妖の中心点、そこで桜の枝に絡みつかれた西行寺幽々子を発見した。枝を千切り拘束を破壊して、西行寺幽々子を桜の牢獄から解放する。西行寺幽々子の解放を許さぬ西行妖は、生贄の少女と救いに来た悪神を取り込もうと枝を伸ばす。しかし、かの悪神の行動を枝風情が遮ることなど出来るはずがない。
西行寺幽々子の魂を取り返し、空亡は元の世界へ帰還した。
「ああ、幽々子、幽々子!」
「騒ぐな、肉体から離れて霊体に変わったのだ。しばらくは、その変化を調整するために目を覚まさん。案ずることはない、近く目を覚ます。今はそれより、この桜をどうするかだ」
西行寺幽々子の魂が抜けたことで、安定していた西行妖が爆発寸前のダイナマイトのようになっている。このままでは広範囲に死をばら撒く爆弾へと変貌を遂げるだろう。空亡は西行妖に対する処置を思案する。ここで潔く消してしまうか、それとも西行妖の被害を受けた西行寺幽々子本人に片をつけさせるか。空亡の選んだ選択は後者だった。西行妖を越えていくのは己ではない。
「紫……この怪物桜だが、このままでは死を爆散する」
「幽々子を失って、死を制御しきれていないのですね」
「よくぞ、看破した。これより、そこに転がっている西行寺幽々子の死体を基礎にした封印を施す。貴様らは下がっていろ」
「……幽々子の亡骸を……………わかりました、失態を演じぬようお願いしますね」
「誰に言っているのだ、貴様はその亡霊の娘を決して離すな。その程度の簡単なことなら、不手際を踏むこともあるまい」
「………………………はい、もう二度と離すことはございません」
亡霊となった西行寺幽々子を抱え、紫は藍が待機している地点まで後退する。紫たちの後退を確認した後、空亡は褐色の指先で虚空に魔術式を書き記し始めた。書き記された術式は西行寺幽々子の亡骸を中心に円状の形を取る。術式の帯を纏った西行寺幽々子の肉体は、暴走寸前まで達している西行妖の根元に同化するように沈んでいく。それと同期して西行妖も徐々に放出していた死のオーラを減少させ数秒後には、満開となっていた桜の花を全て散らせ死のオーラを完全に消していた。眼前にあるのは、花の一つも咲いていない枝だけの落葉樹だけ。しばらくは、この朽ちた大樹が桜を咲かせないだろう。だが、もしも次に西行妖が満開の桜を咲かせる時がくれば……………
「……お……おじょう……お嬢様ぁ………」
西行妖を封印した後、無言になっていた空間で最初に発言をしたのは、予想だにしない者だった。紫と藍、それに空亡は声のした西行寺邸に目を向ける。この場の人外全ての関心を一挙に奪ったのは一人の男。西行寺邸から出てきたあたり、この屋敷の使用人なんだろうが空亡たちは驚愕を隠さずにいた。
「馬鹿な!この死の波動に満ちていた屋敷で人間が生きているだと!?」
「落ち着きなさい、藍。…………と言ってもダメね、"落ち着け"と言った私が動揺しているのだから。西行妖の死を受けて、まだ息があるだなんて。ひょっとして不死の能力でも持っているのかしら。まぁ、何にせよ、真っ当な人間でないことだけは確実でしょうが」
紫と藍が混乱気味に議論している中、空亡は静かに己と同じ白い髪の男を見分していた。じっくりと男を観察したが、男自体に異能の気配は無い。それならば、この男は何か異能に通ずる何かを持っているはず。
男の持ち物は、枝切り鋏に竹の水筒と………腰に携えた太刀と小太刀の二振り……………
「くっくっくっ………クハハハハハハハ!!!!!!」
太刀と小太刀を見た瞬間、空亡は爆発したように笑い出した。狂ったかのような笑いに紫と藍が仰天する。空亡が笑うなど天地がひっくり返ってもありえないと思っていた紫は、爆笑し始めた空亡の姿が信じられないようで何度も瞬きを繰り返して空亡を見つめる。
「なるほど、なるほど。全く、これは出来過ぎでは無いか。まさか、あの時の行動がここに来て影響するなど、神や仏、悪魔ですら予測できないだろうな。……実に愉快だ」
「空亡様?……あの突然、どうしたんですの?」
「気にするな、と言っても無理か。忘れておけ、それで先の手間を免除してやる」
「は、はぁ…………空亡様が、あんなにも笑うなんて何があったのかしら?」
「さてな、」
白い髪の男は非常に衰弱し切っていて、空亡と紫が話しをしているうちに気絶してしまった。どうやら、西行妖の死の瘴気を受けたことで、この男、いや魂魄妖忌は魂を半分喪失してしまったようだ。空亡の説明を聞いた紫は、魂魄妖忌を亡霊となった幽々子の使用人に丁度いいと目をつけた。しばらくして、妖忌が目覚めると口八丁手八丁で、男を言いくるめ幽々子に永遠に仕えることを誓約させたのである。そして、紫は亡霊となった西行寺幽々子のため、スキマを使って西行寺邸を丸ごと冥界へ移した。後に目を覚ました幽々子は、西行妖のことや自分がなぜ亡霊になったのかという記憶を忘却していた。紫は記憶については触れずに、幽々子を空亡に紹介する。ちなみに、紹介は紫が思わず警戒しなくとも良かったと愚痴を零すくらいに呆気なく終わったそうな。
"めでたし、めでたし"とはいかなかったが、斯くて西行寺邸での異変は終幕。
紫の覚悟を聞いた空亡は、幻想郷の創設に協力的で紫と共に、幻想郷の外と内を区切り、外の世界で忘れ去られたモノを、流入させる大結界の制作に取り掛かる。しかし、これを安定させ調整し続ける仕事をする者がいないという問題が発生した。空亡は結界の制作以上のことには関与しないスタンスを取り、紫は幻想郷に入ってくるモノを精査する役目を担うので、結界の調整が出来ない。八雲藍では、結界の知識とそれに関係する能力が無いので彼女も無理だ。どうにかして、早急に結界を調整する能力を持った者を見つけなくて。
それに幻想郷の妖怪たちの一部に人間と共存することに強い反対意見を口にする者が現れてきたのだ。人間たちは以前と全く変わらない生活を送っているので、特に問題があるわけではないが、人間たちの技術の進歩は妖怪や神といった異形の者たちへの"畏れ"を消してしまいかねない。人間たちの文明レベルを止めておくことも考慮すべきことだ。
解決しなくてはならない問題や、為すべきことは山のようにある。
しかし、理想郷を創り出すという"幻想郷計画"は、本格的に動き始めた。