ーーーー求聞恋謳ーーーー
稗田阿夢は、御阿礼の子である。稗田家に数年に一度、現れるという前世の記憶を保持したまま生まれる子ども。それが端的に言うところの御阿礼の子だ。御阿礼の子は、遥かな時代の稗田阿礼より転生を繰り返してきた幻想郷の編纂者に相違ない。御阿礼の子が代々受け継いできた編纂、その編纂内容は通常の歴史や風習の編纂などとはわけが違う。その編纂内容は"妖怪"なのである。それも正真正銘の混じりけ無しの人外だ。
稗田阿礼がなぜ、妖怪の生態や習慣などを編纂するようになったのかは、話が長くなるので省略しよう。本来なら、自分の先祖の話は語りたがるのが、一般的なんだろうが御阿礼の子に限っては例外である。どうして語りたがらないのかと問われれば説明しづらい。だが、解答を挙げるとするなら、御阿礼の子にとって"先祖と自分は同一人物"だからだという他ない。自分で自分の逸話や他者が言うところの伝説を誇らしげに語るなど赤面ものであるし何より自画自賛であるからだ。
御阿礼の子が生涯を
御阿礼の子は、初代が女性であったためか女性として生まれてくる場合が多い。そうした女性は阿礼乙女と初代にちなんで呼ばれる。男性の体で転生した場合もあるが、女性として生きた記憶があるためか、相当に苦労した記憶がある。稗田家からすれば、御阿礼の子は奇跡の存在、縁起が良いと見ているらしい。実際は、転生の影響で病弱になってしまう普通の人でしかない。鋭い牙、尖った爪、大きな翼、光る眼、そうした突出した何かを持ち合わせぬ脆弱な人間でしかない。幻想郷の妖怪を書き記す幻想郷縁起の編纂に長く永く携わってきた身からすれば転生するということなど大したことのない。強靭たる人外に遠く及ばず比ぶるべくもない人である。
都合、六度の転生を遂げたとは言え、転生したという事実は
それが総じて消え去るような出会いをした。ただただ、圧倒されるばかりのその出会いは、阿夢の運命を変えることを告げていた。
稗田阿夢が百鬼空亡に遭遇した後、彼との邂逅はこれきりでは終わらなかった。阿夢の編纂中の幻想郷縁起の進行具合が
"大いに
そのような意味を込められて名付けられた日本史上で最も短かった年代、大正の中で稗田阿夢と百鬼空亡は前代未聞の異変に関わることとなる。それでは物語を紐解こう、斯くも奇怪で愉快なる幻想譚。これは幻想郷縁起には記されない物語。舞台は帝都・東京。明治を皮切りにして起こった文明開化の影響で西洋文化、建築と日本伝統の技術が混在する都。その帝都を舞台に人外と人間が幻想郷の外の異変へ挑む。
ーーーー帝都異変【序】ーーーー
これより語られる帝都異変は、幻想郷外で起こった異変である。それがどれだけ異常かというのは、察していただければ説明の手間が省けてありがたい。常識外れの事象が溢れるほどありふれている幻想郷をして異常と言わせるのだ、この異変の異常性は語らずともわかるはずだ。
実際に"関わった記憶"を持つ者としてはこの異変は時代の変遷の影響に依存した事件だと解釈している。稗田家は幻想郷縁起を記すことでしか異変には関わらない。御阿礼の子が幻想郷の異変に関わったことなど、帝都異変を除けば皆無である。逆を言えば、稗田家が唯一関わった異変こそ帝都異変だ。
六代目、御阿礼の子である稗田ノ阿夢が挑む帝都の怪異。怪異、神秘が科学、文明に上書きされてきた時代、大正元年に帝都の市政を騒がせた怪異の裏話。
その始まりは外の世界で巻き起こった盛大な異変とは反対に静かなものだった。それは稗田阿夢が妖怪の山で死にかけてから一週間後、季節は冬も只中。肌を刺すような寒さが幻想郷を覆い、人里を少し離れれば冬の妖精が踊っている。帝都異変の解決に一役買った稗田阿夢は、これから遭遇する異変など知らないまま自室に置かれた火鉢の側で書き物をしながら暖を取っていた。
「は〜、すっかり寒くなって仕方ないですね。この調子だと近く雪が降りそう、雪が降ると寒さが倍になるし片付けも手間がかかるのに。それに乾燥すると筆の進みが遅れて困ります」
「阿夢様、おっしゃることは概ね正しいですが、筆の進行具合を寒さの所為にされては困ります。この妖怪の危険に対する手段である幻想郷縁起の執筆は稗田家の御役目。熱波寒波、暴風雷雨が吹き
「幻想郷縁起が妖怪の被害を軽減するとは到底思えないけど。実際に妖怪と出会えば命なんて無いでしょう。幻想郷縁起は妖怪対策というより幻想郷にどのような人外がいるか調べるのが精一杯。妖怪対策なんて大仰なお題目をつけられても……」
火鉢に当たる阿夢は己の侍女の言を穏やかに訂正する。だが、侍女の言い分では阿夢の意見と正反対の解答が口にされた。
「人は知らぬものを恐れるものです。如何に妖怪が恐ろしいものでも、知っているのと知らないのでは天と地ほどの差があります。幻想郷縁起は命を救わずとも人里の安寧を救っているのです。ゆえに稗田家は幻想郷でも名家として威を保てることをお忘れなきよう」
「妖怪に対する手段なら博麗の巫女がいるでしょう?私たちが記す幻想郷縁起はそれに比べれば、取るに足りないものでしか……」
「何をおっしゃいます!確かに博麗の巫女は妖怪に対抗する
(……私、転生したり記憶したことを忘れなかったり出来るのだけど)
私とてそれなりに特異性があるのだが彼女の夢を壊すのも忍びない。どうやら、下手に無意味なことを話さないでおいたほうが良さそうだ。変に波風を起こすこともあるまい。それに自分たち御阿礼の子が書いている幻想郷縁起を過分とは言え、高い評価を受けているのだ。誇りこそすれ恥じ入る理由もないでしょう。
「そうね、少し過剰な言葉だけれど、ありがたく受け取っておきます。そのついでというわけで、暖かいお茶を淹れてきてはもらえません?お茶は……」
「濃い目で少し冷まして淹れるのですね。承知しました」
自分の好みを弁えているよく出来た侍女はお茶を淹れに静かに台所へ向かった。残された阿夢は火鉢に当たりながらのんびりを筆を書き進める。まるで世界から音が消えたように感じる空間。かじかんだ手を火鉢で暖めながら、阿夢は侍女の帰りを待つ。
…………
…………
…………
長い、何時もなら既にお茶を運んできて一緒にお茶を飲んでいる頃だが、どうやら何か手間取っているらしい。珍しいと言えば、珍しいが特に慌てふためくほどのことでもないか。
「ーーあのーーー困りーーー阿夢様がーーー」
切羽詰まった調子で侍女の声が聞こえてくる。さすがに何事かと阿夢は立ち上がる。如何したのかと思い、立ち上がった瞬間と障子の開かれる瞬間は同時だった。開かれた障子の先には、ここにいるはずのない褐色の彼が立っていた。その姿は以前に見た時よりも更に輝いて見えた。彼の紅玉の眼下は静かに自分を観察するように見つめている。その視線は色恋からはかけ離れたものだったが、どういった事情であれ自分が彼に見つめられているというだけで心は満ち足りていく。
こんな唐突に彼が稗田家を訪れるなど自分に都合の良すぎる想像だ。彼と出会ったことがこんな弊害をもたらすなんて思ってもみなかった。けれど、たとえ瞬きをすれば儚く消える夢幻であろうと構わない。夢であろうとも彼と過ごせるのなら私は…………
「稗田阿夢、急ぎ解決せねばならない異変が発生した。共に来い」
「はいっ!!…………………………………………………………ほえ?」
弾むような調子で阿夢は百鬼空亡の要請に一、二もなく受諾した。そして、その数秒後に目の前にいる空亡様が本物であることと、自分が何も考えずとんでもない決断をしてしまったことに愕然とするのだが、話の本筋には何の関係もないので割愛させていただく。
「はわわわわ、どうしようどうしよう」
「どうするも何も、とにかく共に来い。此度の異変解決に貴様と幻想郷縁起が鍵となる。この異変は最悪の場合、幻想郷の存亡に関わる一大事になるやもしれん。…………行くぞ」
空亡は冷静に阿夢を
「お待ちなさい!突然やって来て稗田家の主である阿夢様になんたる無礼を!下がりなさい、下郎!この方が六代目御阿礼の子と知っての狼藉か!!」
突如現れた空亡を相手に阿夢の侍女が声を荒げ空亡様に怒鳴り散らす。阿夢は自分の侍女が気づかぬうちに、大変なことをしでかしていると震えていた。どうにか、空亡様に取りなし侍女の無礼が意図したものではないと説明せねば。しかし、そんなことを考えている阿夢を尻目に彼は侍女の視界を手の平でいきなり覆ったではないか。眼前を手で覆われた侍女は眠るよりも自然に意識を手放していた。
「ひとまず、場を改める。今回の異変解決に臨むにあたって、幻想郷を離れる必要がある。しかし、正規の手段以外で幻想郷を出るのは避けたい。詳しく事情を説明するにしても人里では何かと都合が悪いため、博麗神社へ向かう。
空亡様の荒々しい物言いを聞いた阿夢は黙って首肯する。心臓が跳ね飛んでいるように鼓動している。もう、自分でもわかっていた。人生経験は人の数倍はある御阿礼の子だからこそわかった事実。稗田阿夢が胸に秘め、焦がし続けている感情とその行方。胸をじんわりと暖める甘酸っぱい初めての感情。自分の心を占拠した感情の大波に阿夢は思考することもままならない。
けれど迷っている暇もない。自分がこれから関わっていく異変に対する不安もあるが、それ以上に彼の役に立てる歓喜がそれを上回っている。彼の足元の侍女も静かな寝息が聞こえるところを見ると、命に別条はなさそうだ。それなら、自分が今すべきはーーーー
「家の者に、
近くにいた奉公人に、自分がこれから少し遠出することと倒れた侍女の介抱を頼み、返事を聞かずに阿夢は博麗神社まで移動した。移動方法は空亡が何か魔術を使い一瞬で目的地に着いていた。到着した博麗神社前には、当代の博麗の巫女である博麗霊華と八雲紫、八雲藍の三名がいた。
人間を守る博麗の巫女と妖怪側の代表である二人が共にいるなど、冗談でもありえない。しかし、現にそれは目の前で起こっている。すなわち、妖怪側と人間側が協力せざるを得ない状況にあるということ。それほど重大な異変であるというのに、何の異能も持たない自分に何が出来るというのか。空亡様が言うには自分が、この異変の解決に必要というが、一体どういうことなのか。
「……これで役者は全員が揃ったと見ていいのか」
「そうよ、霊華。これで必要な人員は全て揃いました。あとは異変解決を実行するだけ」
「……どこまで真かは、さておき何故に稗田家の子がいるのだ。彼女は完全な非戦闘員だ。無力の人間を危険な戦場へ赴かせるというなら、こちらとしても人間の守護者の務めを果たすため妖怪退治を始める所存だが?どうなんだ、紫」
博麗神社の主人である博麗霊華は、自分が妖怪と敵対する立場であることを明確に言及して場を引き締めた。対する紫は、無論理解しているとばかりに閉じた扇子を勢いよく開いて沈黙で承知とする。紫の式である藍は博麗霊華の無礼な物言いに眉を潜めるが、こちらも無言を貫いた。場はまさしく一触即発の地雷原。迂闊な真似をすれば、この幻想郷に住まう常識外の面々が敵に回る。
……もっとも
「くだらん戯れ合いは後にしろ。そんな無駄なことに使えるほど時間があるわけではあるまい。稗田の娘に此度の異変の概要を説明し、外の世界へ向かうというのが博麗神社ですべきこと。余分なことに気をとられている暇などない」
それは百鬼空亡にとって
「それでは最初に稗田阿夢さん。異変について大雑把ですが話をしましょう。まず、今回の異変は幻想郷で起こった異変ではありません。外の世界で起こっている異変なのです。近年、外の世界の文明は飛躍的というほど、大きく発展いたしました。しかし、その発展の影響か、人々の自然や神、妖怪を敬い畏れる感情が薄れてきたのです。それは妖怪、神の存在が脅かされていることを示唆しています。幸いなことに幻想郷は、博麗大結界のおかげで神秘が消えたという事例は報告されていません。ですが、このことに危機感を覚えた一部の妖怪、神が再び人に神秘を畏れさせるようにするため外の世界へ向かったのです。そうした幻想郷の住人を残らず捕まえて幻想郷に連れ帰ることが、今回の異変の解決だと宣言します」
なるほど、今回の異変はそういった経緯で行ったのか。でも、それは何かおかしい。何故、幻想郷を出ていった者を捕まえる必要があるのだろう。冷たい話だが、外の世界へ行った者たちを放置するという選択を取らないの何故だ。それに人外の者が関わるというのに、どうして自分のような貧弱な人員を……
「では、少し詳細に先の話の補足をしよう。今回の異変は人外の者たちが起こしたことで、人間側は何も関係していない。だというのに博麗の巫女である私が招集されたのは、先の話で触れられた博麗大結界の件だ。幻想郷を出ていった者たちは、内側から無理に結界を開いて出ていったのだ。万事、結界というヤツは外側への耐久性は
「ーー?何故、外に出た方々を捉えることが結界の破綻を防ぐことと関係するのですか?」
「無理に結界を破った者たちの体には博麗大結界の
博麗霊華は綺麗に背筋を伸ばしたまま、きっぱりとここまでの事情を簡潔かつ正確に語った。何というか、謹厳実直を絵に描いたような人だ。博麗の巫女という人はいつの時代でも、わかりやすいくらいに中立的な立場を崩さない。人間の守護者と人里では謳われているが、その実態は人外と人の調整役。極まったと表現出来るほどの中立な思想と意思、それゆえに博麗の巫女の自己は読みにくいのだ。
「……確かに外に出た方たちを確保する理由はわかりました。ですが一番気になることが、まだ説明されてません。何故、"私"なのですか。大した
「そこからは私が説明する。しかし、説明は行うが意見、質問は一切聞かぬ。それと話をするのは一回だけと心得よ。わかったら、黙って聞け。いいか、稗田家が書き記している幻想郷縁起には幻想郷に住む妖怪、神、精霊の情報が記されているわけだ。それを利用して外に出た者たちを強制的に捕獲する」
「幻想郷縁起にそんな力はありませんよ」
「……幻想郷縁起には妖怪たちが幻想郷に住んでいる状態が記録されている。それが幻想郷外へ出ているということは大きな矛盾だ。もっとも普通ならその程度の矛盾は何の効果も持たない。だが、神秘の薄れてきた外の世界なら話は別だ、外の世界の薄れた幻想よりも神秘が肯定された幻想郷の幻想が外の概念より優先される。幻想郷内の物品で、妖怪たちの情報が大量にあるもの。すなわち、幻想郷縁起こそが出て行った者たちを確保する最も効率的な手段なのだ」
紫の式である八雲藍が次の説明を行う。けれど、ぞんざいな言いように博麗霊華は嫌悪を込めた目で八雲藍を苦々しく見る。藍も負けじと視線を衝突させるが、うんざりした紫が扇子を閉じたことで藍は霊華への敵対行為を納めた。阿夢の隣に立つ空亡は我関せずと首をコキコキと鳴らしている。それは
一番近くにいる稗田阿夢は、そのことの恐ろしさに気づかないまま話をしているが、八雲紫、八雲藍と博麗霊華はそれがどれほど不味い状況かと内心、生唾を飲んで警戒心のアンテナを最大まで研ぎ澄まして空亡の一挙手一投足を
「……幻想郷縁起だけでは、まだ足りん。それを実際に編纂した者が幻想郷縁起を扱うことに意味がある。ゆえに、この異変を解決にするに相応しいのは稗田阿夢をおいて他にいない。異変は人外が解決してはならない、人外が起こした異変は人間の手で解決してこそ大団円と言える」
「…………私たち、稗田家が編纂してきた幻想郷縁起が幻想郷を救う一助となるのなら、異変解決に協力いたします。ーーーーでも、恥ずかしながら妖怪と渡り合えるような力は持ち合わせていないのですが。その、誰か用心棒みたいな人員はいないのでしょうか」
「……博麗霊華、それと八雲紫、藍は博麗大結界にこれ以上問題がないか調査するので手が離せない。しかし、この件を広めるのもよろしくない。よって、今回に限りこの異変で稗田阿夢と共に私が外へ向かう。良い退屈しのぎになるといいが、まぁ心配することでもなかろう」
(((……それがこの件で一番、一番心配なのですが)))
人間、妖怪が知らず知らずのうちに心を通わせて同じことを考える。しかし、それと正反対なことを稗田阿夢は口走った。
「はいっ!!!!それなら何の不安も恐れもありません!!!!」
阿夢の輝くような微笑みを浮かべて喜びを満面に表した様子に、空亡、阿夢以外の三名は稗田阿夢に対する評価を以前の数十倍に引き上げたとか、どうとか。
さて、本筋を疎かにするのも大概にしておき、空亡、阿夢の両名が幻想郷より出立する準備が全て整った。準備を終えた二人の姿は、外の世界よりもたらされた服装。腰上まで上げられた
「支度は済んだ。もう留まる理由もない、行くぞ。外の世界へ」
「……そう言えば、私たちは外の何処に行くのですか」
「異変解決のため、我々がこれから向かうのは現在の日本の中枢都市。…………帝都・東京だ」
これから二人が向かう場所ではこの格好が主流。ハイカラ、西洋かぶれと言われるような和と洋の混合文化が花開く帝都においては、幻想郷の服装こそ異端に見られるだろう。それでは、準備が出来たところで紫、霊華は博麗神社の鳥居を基点に博麗大結界を一時的に開いた。鳥居の向こうにはこれまで見えていた幻想郷の風景が別の情景に上書きされて別の光景が見える。
幻想郷とは全く異なる発展を遂げた外界。まだ見ぬ何かが待ち受ける異界。しかし、空亡は何の意気込みもなく鳥居をくぐっていく。取り残される形となった阿夢は、急いで空亡の後を追いかけて鳥居を越えていった。