龍殺し、それは古今東西のあらゆる神話において、もっとも困難で、もっとも栄誉な偉業とされる。あらゆる生態系にカテゴリされず別次元の強さとさえ言える龍は、ご都合主義の代名詞と言える神々ですら死闘を避けられぬ怪物。欲望のままに生を貪り、悪逆の限りを尽くし、人々の脅威となる形を成した暴威。そんな龍を打ち滅ぼした者は、神であろうと人であろうと、どんな姿であれ、どんな身分であれ、こう呼ばれる。
すなわち、゛英雄゛…と。
時は神代、無知な人類が疑問を持たずに自然を神と崇め、便利な道具も、人々にとって効率的な政治体制もない、大きな国も存在せず小さな集落などが大地に満ちていた頃。後に日の本の国と呼ばれる島国の西の方にある一つの集落。そこでは少女を生け贄として喰らう大層、恐ろしい怪物がいたそうな。その生け贄を求める怪物とは八つの首を持つ龍で、満月の夜に集落の少女を一人生け贄として捧げることで集落は偽りの安寧を保っていた。しかし、集落に住まう少女もゆっくりといなくなり、最後の一人に集落の長の娘が残されることになってしまった。長とその妻は己の娘を逃がしてやりたかったが、そんなことをすれば生け贄を捧げてきた集落の者たちに示しがつかない。そして、時は粛々と過ぎて満月の夜の前日、娘を抱いて老夫婦が嘆き悲しんでいると、一人の男が現れた。その男は怪物の話を聞くと長にある提案を持ちかけた。
『俺がその怪物を退治してみせよう、その代わりにその少女との結婚を認めてくれ。さすれば、怪物を打ち倒し、この集落を救うことを約束する』
長は男の提案を受け入れ、男は近くの集落から向こう八年分ほどの酒を買って、怪物の住まう山へ向かった。日が暮れて山が闇に包まれる、満ちた月明かりが静かに辺りを照らす。そして、月が山の真上に差し掛かった頃、山が揺れ木々が倒れだした。ゴゴゴゴ、と鳴動する山。そして、森を押し潰して君臨するように八頭の龍が出現した。恐ろしき龍は首を傾げて男を見下ろす、驚くことに龍は人語を操って男を問い詰めた。
『ナゼ、オンナガ、イナイ?』
龍の問いかけに、男は゛女が来るのが遅れている゛と真っ向から虚言を言い放ち、その詫びという名目で龍に酒を勧めた。八頭の龍は男の勧めた酒を何の警戒もせず飲み干す、それは強者の傲慢、もしくは慢心に違いない。結果、龍はその酒に酔いつぶれ、その巨体を大地に伏してしまった。男は酔いつぶれて眠る龍に斬りかかる。男の振るった剣は龍の首を一つ斬り落とした。龍は突如として疾った激痛により眼を覚ます、龍は斬りかかった男に向かって牙を、尾を用いて応戦する……しかし、酒に酔っているせいで龍の攻撃は男に掠りもしない。だが、掠りもしない攻撃が男を吹き飛ばし、風圧で男の骨身を削り飛ばす。酔いつぶれたとはいえ、相手は怪物の頂点に位置する多頭の龍種。圧倒的に有利な状況ですら、死ぬか否か限界ギリギリの綱渡り。龍の攻撃の゛余波゛を何とか躱しつつ、男は龍の首をまた一つ、また一つと奇跡的に斬り落としていく。その戦闘は朝まで続いたという、結果として龍は斃され男は英雄と成り、その集落の長の娘を嫁とした。これぞ、戦神として名高いスサノオが成した龍殺しの神話である。
蛇足となるだろうが、スサノオの成した龍殺しを語る際、敵である龍に名前が無いのは具合が悪いとのことで、その龍は゛ヤマタノオロチ゛と呼ばれることとなった。そして、これは当事者たるスサノオが聞いたことなのだが、死に際の龍は奇妙なことを口走ったという。
『モウシワケ、ゴザイマセン。ワガ、アルジヨ』
スサノオが酔いつぶすことで、ようやく倒した八頭の龍。その゛主゛がいるということに八百万の神々は恐怖した。高天ヶ原に集まった神々は長い論争の末に、ある決定を下した。……要約すれば神々は人々からの信仰が薄れることを危惧し、その゛主゛についての一切を隠蔽することにしたのである。時が百年やそこらもすると、この話を知る者も語る者もいなくなったという。しかし、その行為は正しかったのか?果たして、その行為は吉と出るのか、凶と出るのだろうか?こんなことを言えば、身も蓋もないだろうが、これぞまさしく゛神のみぞ知る゛という所だろうか?
ーーー????ーーー
鬱蒼と生い茂る森を、金髪を靡かせた幼い少女が疾走する。それを追跡するのは二メートルほどの高さに二足で走るという異形の昆虫。いや、この異形は昆虫どころか生物ですらない、神でも、人でも、動物でもない異形が唯一カテゴリーされる種、つまり゛妖怪゛である。
昆虫の妖怪に追いかけられている少女は自己保存の本能に従うままに駆ける、走る、逃げる。今の彼女は捕食者に狙われた弱者に他ならない。足を止めてしまえば、そこに待ち受けるのは゛死゛のみ。
「はぁ、はぁ。くっ!」
だが、ただの人の少女が妖怪から逃げ続けられるというのは、明らかにおかしい。ならば考えられることは一つ、つまり追跡者が妖怪ならば逃走者も妖怪ということ。妖怪の少女は背後の妖怪を撒くために走り続ける。平坦な森を進む内に傾斜が出てきた、少女は朦朧とする意識の中で自分が山に入ったのかと思考するが、その思考すら邪魔だとばかりに逃走する。呼吸は要らない、足を動かせ、未来など必要ない、今に全てを賭ける。
すると山に入り始めた辺りで昆虫型の妖怪が、追跡を突然に中断した。一体どういうことかと、少女は訝しむが逃げきる逃走のチャンス。これを逃せば生存は望めないと理解している少女は山へ入っていくのだった。
何故、追跡をしていた妖怪が止まったのか、それはわかっていたからだ。その山に入ったモノは神、妖怪、人を問わずに帰ってこないからだと。この周辺の妖怪は知っていて当然のことなのだが、あの流れの妖怪が知るはずもない。昆虫型の妖怪は獲物を捉え損ねたことを残念に思いながら、己の棲家へと戻っていった。
無事に逃げきれたと少女は安堵したのか、森の木を背もたれとして地面に座り込む。天空に輝く月光が少女の金髪を厳かに照らしだす。座って十分ほどすると、少女は虚空に手を伸ばした。すると驚くことに少女の手を伸ばした先の空間が裂けたではないか。その空間からは幾つもの眼球が少女を凝視するが、少女はその眼球たちに意識を向けることすらしないで、裂けた空間から竹製の水筒を取り出した。水筒の水を飲み干して少女は山を越えようと草木をかき分け獣道を突き進む。ある程度拓けた草原に着くと、山のどこか神聖な空気が変様し畏怖を感じさせる重厚な雰囲気が少女を迎える。
「っ?!」
生き物としての本能が、死に物狂いで遁走しろと叫ぶ。それと同時に妖怪としての本質がこの気配の元へ向かえと囁きかける。迷いは一瞬だった、少女は恐ろしい気配の深まっているだろうところに歩きだす。少女の妖怪としての核がこの気配の元へと歩かせる。それは高きから低きへ水が流れるような感覚。抗うことの出来ない概念、そのもの。気配が近くなるにつれて少女の体にかかる重圧が強くなる。ようやく、辿り着いたのは小さな洞窟。その入り口にはしめ縄に似た何かが。しめ縄には見たこともないようなお札が貼ってある。主観、客観的に見て、明らかにマズイ場所。だが、それを認識しても少女は足を止められない。洞窟の内部に入ると空中に浮かぶ焔が洞窟を煌々と照らす。焔が灯りとして機能しているため、洞窟の内部は、はっきりと見渡せる。
洞窟の最奥。そこは横になった若い男、言わば青年がいた。その青年の容姿は桁外れの美しさとしか言い表せないほどで、煌めく白銀の髪、艶やかさを感じさせる褐色の肌。目蓋が閉じられているため、瞳の色がわからないが、眠っているであろう姿だけでも、絵画から抜き出したよう。少女が青年の側に近づこうとした時、横になった青年が目蓋を開いた。開かれた眼から覗く虹彩の色は深い紅。少女を眺める紅玉は爛々と輝き、無感情のまま少女を映していた。
Sideアジ=ダカーハ
アジ=ダカーハの体は睡眠を必要としない。睡眠欲求は存在せず、アジ=ダカーハにとっての睡眠とは時間を潰すためだけの行為。そも、アジ=ダカーハは姿こそは龍種だが、その霊核は神霊、悪魔などの霊的存在。それは人の形をとっていようが何も変わらないこと。
アジ=ダカーハは近くに何者かがいることに察知して眼を開く。正面には呆然と立ち尽くす少女がいた、それなりに手入れされているのがわかる金髪、真っ白な肌。自身の鋭敏な感覚により、この少女は人間ではなく妖怪だと看破する。………さて、この少女をどうするか?この山に入った無礼者たちは大抵、自分をこの山から排除しようと襲いかかる、そして、その全ては例外なく始末してきた。この少女もその類いなのだろうか?
「……………おい、小娘。貴様は何故、ここに来た?理由の如何によっては…………」
殺気の込められた眼光に貫かれ、少女は思わず萎縮する。おそらく、今まで己が会ってきた者の中で最も強い上位者の発言。迂闊なことを言えば、それが遺言に成りかねない。死に瀕した瞬き、咄嗟に口に出た言葉は、無様も無様な苦しい言い訳だった。そして、そのちっぽけな言い訳は彼女の数奇な運命の始まり。
「………え、あ、その、実は私、ここには偶然?………じゃなくて、山で迷って…………でもなくて………弟子、そう、弟子にしてください!そうなんです!弟子入りに来たんです、はい!」
焦りすぎで万人が嘘だと即答する馬鹿みたいな言い訳。その言葉はアジ=ダカーハに憧れていた男の心を揺さぶった。かつて、アジ=ダカーハを名乗っていた時は、味方を認めずに敵しか作らなかった、アジ=ダカーハと成ることを諦め山でひっそりと眠り続けても、やって来るのは傲慢で惰弱な愚か者ばかり。しかし、この少女はそれらを越える愚か者に違いない、あぁ、こいつの在り方は実に愉快だ。何とかしようと思っても口元が緩んでしまう、最初にこの少女を始末しなかった時点でこうなるのは必然だったのかもしれないな。まぁ、これは戯れだと思えばいいさ、しばらく、教師か師匠の真似事をするのも一興。
「………いいだろう、貴様に私の叡知を学び盗むことを許可する。取り消しは聞かんぞ。………それでは………今、この時をもって貴様を私の弟子と認めよう。文句はないな?」
心底愉快そうに男は笑顔で少女の咄嗟の言い訳を本当に受け入れてしまった。男の笑顔に見とれていた少女も、これにはまさか、嘘だろう?とばかりに唖然とへたりこむ。そんな様子も可笑しかったのか、横になっていた男は立ち上がって笑いだす。男は少女の目の前に立って、猫を持ち上げるように少女をつまみ上げた。
「おい、お前の名は?いつまでも小娘では通りが悪い。人格が形成されているのなら、名前があるはずだ。さっさと言え」
妖怪は人格を持たぬ妖怪と人格を持つ妖怪がいる。前者は何の思考せず暴れ回るだけだが、人格を持って生まれた妖怪は最初から自分が何者で何をすべきかをインプットされる。名前を最初から持っている妖怪など、そう、珍しくない。
「…八雲……………紫です」
「私に名前はない、師匠でも先生でも好きに呼べ」
それから、幼い紫は青年によってあらゆる技術、知識を学んだ、詰め込まれたと解釈してもらってもよい。彼女は知らぬだろうが、彼女の師は古今東西あらゆる叡知を知り尽くしている魔王。外国ではまだ創られても、基盤すらない魔術や、この時代に存在しない論理、外法、術式。式の作り方から生物、物理、天文、心理、医学、錬金術、格闘術、紫の固有能力であるスキマ作成の訓練、およそ、考えうる限り最高の教導。人類、人外の賢人ですら白旗を上げさせるスパルタ教育。それは幼い紫を賢者へと変えた。
ーーー<十年後>ーーー
山に存在する大きな湖、そこに居たのはしっとりと濡れた美しい金髪の女性。かつての幼くあどけない風貌は面影もないが、彼女は八雲紫なのだ。妖怪は年月では年をとらず、精神の変様によって肉体を変化させる。十年という年月は幼い紫を艶美な女性へと変えたようだ。
紫は豊満な胸を手で抑え、水で体を清める。彼女のスラッとしたプロポーションは妖艶さのみならず神秘的な美を表現する。しばらく、水に浸かった紫は湖から出て指を鳴らす、それは初歩的で簡易な術。濡れた体は一瞬で乾き、美しい肢体へ服が出現する。マジシャンもビックリな早着替え。服を纏った彼女は山の頂上へと向かう。山は鳥のさえずりも動物の鳴き声もしない静寂に包まれていた。やがて、頂上に辿り着くとそこに待っていたのは自身の師でありながらも、同い年位に見える褐色の青年。彼の紅の瞳は空を眺めたまま静かに佇む。しかし十年、一緒に暮らしてきたが、いつ見ても青年の容姿には見とれてしまう何かがある。
「師匠…………どうしたのですか?」
「どうしたも、こうしたもない。たかが体を清めるのに幾ら時間を使っているのだ、バカ者。そうやって、洒落るのは一人前になってからにしろ。この未熟者が」
「申しわけありません。それで師匠が私を呼びつけるとは、いったいどうしたのでしょう?もしや、山に侵入者でも入り込みましたか?」
「…………………お前がここに来てから十年ほどになった。我ながら相当の知識をお前に詰め込んだモノだと呆れている。とにかく、紫、お前には教えられることは総て授けた。だが、知識は学んだだけでは完結しない。故に紫、お前はこの山を出て世界を旅しろ……否は認めん」
「…………いきなりすぎませんか?師匠を疑いたくはないのですが……………もしや、突発的な思い付きということは?」
「……………………」
「せめて否定してください、師匠」
疲れたように肩を落として紫は近場の石に座った。そして、対面する形で座る青年は空を眺めていた紅玉を紫に向ける。
「お前に全てを教えたというのは、あながち嘘ではない。しかし、この山で教えられることは全て教えた。後はこの山を出て、お前自身が学べ…………ここにはお前を成長させるモノはもうない。旅に出ろ、紫」
紫は己の師の強い意思を含んだ命令に頷き、腰かけた石から立ち上がり青年に背を向けた。紫は眼を見開いて、正面の空間に亀裂、いやスキマを創る。スキマに入る直前、紫は青年の方に体を向ける。
「師匠、今までありがとうございました。………このご恩は決して忘れません」
「とっとと行け、バカ弟子。まったく、小娘を弟子にして知識を授けるなんて、私もつくづく酔狂な愚か者だ………………」
「酔狂だろうと、なんだろうと興が乗っていたのですから、悪くはなかったでしょう?」
「口ばかり達者になったな」
紫との些細な会話に青年はうっすらと笑いながら、ゴロンと横になる。その様子を見て、紫は十年間聞けずじまいだったことをダメ元で問いかけた。
「師匠、この十年間、ずっとお聞きしたかったことがあります。…………貴方の名前はいったい?……………………弟子への餞別として教えてはもらえませんか?」
「私に名は無い、故にその問いかけは無意味で無価値だ」
「…………………………わかりました。………それでは師匠、………行ってきます」
素っ気ない応答に淡白な返事、師弟の間柄でこれほどまで簡潔に済ませる別れがあるだろうか。普通はあり得ない別れ。しかし、これが紫と青年の師弟関係。気まぐれで師匠を行っている青年、どうにか弟子にしてもらっている紫。二人の関係はこれ以上ないと言っていいくらいギリギリのバランスで保たれている。ならば、この別れは妥当、と言ったところだろう。
そうして別れを済ませた紫は自分の創ったスキマに入り、山から外の世界へと旅立った。それを超然と見送った青年は指をパチン、と軽快に鳴らす。指を鳴らした音が大気に響いた瞬間に青年は山の頂上から、洞窟内へと転移した。洞窟の最奥に転移した青年は、緩やかに眼を閉じていく。彼は睡眠を必要としない、彼が眠るのは単に時間を潰すために過ぎないのだ。つまり、何年だろうと何百年だろうが眠り続けることが可能。己以外に誰もいない真っ暗な洞窟で青年は静かに眠りについた。
本人はそれなりに永い眠りに入ろうと思っていたのだが、しばらくして、またもや己を起こしにかかる者たちが現れることになる。それが青年の新たな名前を付けられることに繋がるのだが、今の青年はそんなことを知るはずもない。
お久し振りです。投稿が遅いこの小説を読んでいただき読者の皆様には感謝の念でいっぱいです。
さて、実は今回の更新で発表したいことが二つあります。
一つは友人にアンリ・マユの外見イメージには、フェアリーテイルのウェンディがいいのではとの意見を頂きました。読者の方々も、そのように想像しながら読んでいただければ嬉しいです。
二つ目ににアジ=ダカーハこと、ザッハークの東方編で名乗る名前を次回、書きたいと思います。その名前はいったい何なのか、是非とも想像してみてください。
名前といっても、オリジナル名ではなく元ネタがあります。龍関係で漢字の名前を書けば簡単に当たってしまいますがね。