■1567年 7月30日夜 美濃国
郡上八幡城 遠藤家
遠藤慶隆の元に、2通の書状が届いていた。
1通は美濃三人衆の1人で、遠藤慶隆の舅にあたる安藤守就からである。その内容は遠藤にとって衝撃的な物であった。
長井道利が郡上にいては織田への抗戦が難しい、この状態で織田に攻められては織田に下るしかない、そうするに当たって不都合なので今すぐ【香(こう)】を返してほしい。
といった内容である。香とは、安藤守就の娘で、遠藤慶隆の妻である女の事だ。
(離縁せよと言うのか)
遠藤自身、妻に対して特にこれといった想い入れは無い。とは言え、実によくやってくれている妻である。
安藤が先んじて織田の傘下に入るとなれば、当然敵同士だ。敵方の将の妻が自分の娘では安藤も立場が危うくなると言うのだろう。
(本気で寝返るつもりか? いや、もうすでに誼(よしみ)を通じておるのか?)
遠藤の脳裏で、城下で広まった噂話が繰り返される。
そしてもう1通。それは美濃西保城の主である【不破光治(ふわみつはる)】からであった。
美濃三人衆と並び称される傑物で、不破光治を含めて西美濃四人衆と称される事もある。その不破からの書状の内容は、安藤からの書状の内容を裏付ける物だった。
長井道利が不在の間に織田が兵を挙げれば、美濃三人衆は長井道利不在を口実に織田に寝返るであろう。わざわざ美濃三人衆に寝返る口実を与えるとは解しがたい。今すぐ戻って美濃三人衆に睨みを利かせるべし。
もし、郡上にて石島に敗北を喫するような事態になれば、その一事のみでさえ寝返りの口実になりかねない、くれぐれも慎重に行動しながら、今すぐに帰還してほしい。
不破からの書状を一読した遠藤は、自分達がまんまと敵の策に引っかかった事に気付いた。気付いてすぐ長井を城へ呼び戻したのだが、しばらくたっても長井自身が郡上八幡に到着していない。
昨夜の敗戦の知らせは遠藤にも当然届いている。これ以上戦を長引かせれば、問題は郡上のみならず斎藤家全体にまで及んでしまう事になりかねない。
「遅い……父上殿はまだか!?」
「ハッ! 既に城下に入られておる模様、間もなくご到着なされるかと!」
「ええい、よいわ! こちらからゆく!」
遠藤は城門で長井と遭遇すると、両名からの書状を手渡した。
「こんな暗がりでは文字など読めるか戯け!」
不機嫌な長井は篝火の側に寄り、安藤の書状に目を通す。
「ふん、こやつは信用ならん男よ、呆れて物も言えんわ」
長井は安藤を信用していなかった。
数年前、安藤は美濃斉藤家の主である斉藤竜興を稲葉山城から追い出し、一時的に占拠した事がある。その占拠騒動で活躍したのが、遠藤と同じく安藤の娘婿である【竹中重治(たけなかしげはる)】であり、一般的に竹中半兵衛と呼ばれる人物である。
その時は、斉藤家の重臣や美濃の諸勢力が安藤の行動を非難し、支持を得られなかった安藤は大人しく稲葉山城を返還した。
しかし、一度は主家に対して弓を引いた人物である。生粋の斉藤家臣である長井にしてみれば、安藤など信用に足る人物ではないのだろう。
長井は安藤からの書状を遠藤に付き返すと、不破からの書状に視線を移す。
読みながら、長井は顔色を失った。
「……己の非を認むるは悔しいがの、光治めの言いには一理ある、近日中に戻らねばならんな」
長井は敵を侮っていた事を後悔し始めていた。
遠藤が長井を伴って軍議の席に戻った時、そこには見慣れない人物が加わっていた。
「誰ぞ」
遠藤の問に、その者は深く頭を下げて名乗る。
「ハッ! 別府四郎が手の者、名を藤十郎と申します」
(クソじじいの手の者だと?)
遠藤が言葉を発する前に、長井が怒気を発した。
「おのれ! 斬られる覚悟は出来ておろうな!?」
長井は藤十郎ににじり寄りながら刀に手をかける。
「無論! ご不要とあらばお斬りくだされ!」
藤十郎は勇ましく声を発すると、遠藤に向って言葉を並べた。
「本日の夕刻より、石島軍には商人や遊女屋が入り込み宴が開かれております」
そこまで聞いた長井は小さく舌打ちすると。
「知っておるわ忌々しい」
吐き捨てるように藤十郎に言葉を浴びせると、自分の感情を押し殺しながら腰を下ろした。
遠藤は藤十郎をじっと見つめている。この男の真意を探ろうとしていたが、それ自体が無駄な行為であろうと気付く。この男の言う事が嘘であろうと真であろうと、本人は真であると疑わずに話すのであろうから、例え嘘であっても差は出ない。
「話せ」
遠藤はこれから話される事が【嘘である】事を前提に、藤十郎の話を聞く事にした。
「ハッ! 宴の折り、姉小路頼綱殿がお倒れになられました」
「なんじゃと!?」
嘘だと決めて聞いていたが、話の大きさについ身を乗り出してしまった遠藤は、これが嘘ではなく真である場合の利点に憑りつかれ始めていた。
「詳しく申せ! 容態は!?」
「ハッ! さほど悪くは無いという噂ではありますが、我が主が見舞った所、どう見ても立てる状態ではないとの事」
「そうか……別府殿はどうされるつもりじゃ」
この使者の本来の目的は、恐らくこの次に話されるだろうと遠藤は理解できている。
「ハッ! 姉小路軍は明日の夕刻まで陣を張り、明後日には桜洞に向けて帰還を開始するとの事、そうなれば石島に戦う力はなく、我が主が石島を討ち取り、その首を郡上八幡に献上に上がるとの事でございます!」
(これが本当だとすれば、この戦はあと2日で蹴りが付く)
長井が郡上に来てからまだ3日である。織田が動く前に勝負を付けてしまえば、誰彼に咎められることも無いのだ。
何かを思案し始めた遠藤に変わり、長井が使者に返事を返した。
「相、分かった、戻られよ」
「ハッ! これにて!」
使者がその場を去ると、長井はすぐに部下を呼びつけた。
「荘助の奴が上手くやったのかもしれん、確かめよ」
「ハッ」
その会話に、遠藤が目を丸くして驚いていた。
「父上殿!?」
「ふん、ただでは転ばぬわい、商人共の中に我が手の者を紛れ込ませただけよ」
顎に手を当てながらそう言う老人の目は、未だ消えない闘志が光り輝いていた。
■1567年 7月31日昼 美濃国
吉田川東岸 石島軍
朝になると、陣は静かな焦りに包まれていた。その影響もあり、伊藤さんに促されたお勝ちゃんは身なりを整えると、早々に他の子達と共に村に連れ戻されてしまった。
本当は昼餉くらいまでゆっくり過ごしたかったのだが、ここが戦場であり、尚且つ俺達は重大なピンチに遭遇しているのだ。
「くそう……油断した」
昼餉も手に付かない様子の金田さんが、本当に悔しそうにしている。別に金田さんは悪くない、しいて言うならば、油断したのは頼綱さんと伊藤さんだろう。どうやら敵のスパイと思われる人物が、頼綱さんに毒の入った酒を届けたらしいのだ。
異変に気付いた伊藤さんがそのスパイを見破り、頼綱さんの部下の方が逃げようとしたスパイを斬り殺したらしいのだが、その時には頼綱さんはもう倒れていたとか。
この事実はすぐに伏せられ、その場にいた人間には硬く口止めが言い渡されたそうだが、そんな閉口令など行渡るわけがない。
噂は直に味方中に知れ渡ってしまった。
「具合悪そうでしたね、頼綱様」
つーくんが頼綱さんを心配している。
先程、俺達は自綱さんのお見舞いに行ってきたのだが、自綱さんは起き上がる事も出来ず、声を出すのも辛そうな状態だった。
「問題は姉小路軍の士気が駄々堕ちって事だな」
金田さんが悔しそうに地図を睨みつけている。俺達が築いた防衛陣は広く、姉小路軍抜きでは到底守りきれる陣ではない。
そうなると、俺達の兵と別所さんの兵だけでこの付城を守る事になるわけだが、急ごしらえの、斜面に柵を立てただけの防御施設など、そう長く持ちこたえられる物ではない。
「別府さんの動向も気になりますね」
俺の不安は別府さんだ。
あの人はどうも信用できない気がしてならない。
それに頼綱さんの様態も気になって仕方がない。
「俺、もう一度……見に行ってきます」
頼綱さんは本陣の裏手に設置された新しい寝所に隔離されているが、俺は比較的自由にお見舞いにいける立場だ。
そこは姉小路軍の方達が厳重に警戒態勢を引いている。
俺が近づくと、中から別府さんが出てきた所だった。
「これは大将殿、昨晩と比べて状況は良くなっておりません、これはどうにも旗色が悪いですな」
別府さんは一言だけを残し、軽く一礼して自身の陣所に戻って行った。
(別府さん、昨日の夜も来てたのか……)
どうしても疑いの目で別府さんを見てしまうが、その背中は老人その物で、頼りなく小さく見えた。
(ま、大丈夫か)
俺は根拠のない安心を持ち、自綱さんの寝所を護衛する屈強なオジサン侍にお辞儀しながら中へと足を踏み入れた。
頼綱さんのために作られたその寝所に入ると、中には伊藤さんがいた。
「失礼します」
俺は一声かけて奥へと入る。
「お、殿、別府さん戻った?」
伊藤さんはかなり小声で俺に話しかけてきた。
(頼綱さん寝てるのかな? 起こしたら悪いしまた後で来た方がいいのかな)
そんな事を考えながら、俺は伊藤さんに「はい、戻りました」と同じく小声で答え、頼綱さんを見る事が出来る位置まで接近した。
その瞬間。
「ぐぅぅう! 難儀な事よ!」
寝ていた頼綱さんが声を上げると、体を起こして辛そうにしている。
「義兄上、起きても大丈夫なのですか?」
俺の心配に、頼綱さんと伊藤さんが小さく笑った。
「すまんな、洋太郎殿、伊藤殿にせっつかれての、無理やり芝居をしておるだけじゃ……しかし寝てばかりでは背中が痛い」
「へ?」
目を丸くしている俺に、頼綱さんは軽く笑いながら声をかけてくれた。
「起きても大丈夫とは面白き事よ、はっはっは♪」
意味が分かっていない俺が頭に「?」を浮かべていると、代わりに伊藤さんが会話を進めてくれた。
「あの様子では別府殿は何か手を打たれたでしょうから、よい時間稼ぎになりそうです」
伊藤さんは言いながら頼綱さんに頭を下げた。
俺にはこのやり取りがさっぱり分からなかったが、とにかく頼綱さんが思ったよりも元気そうでほっとしている。
「敵を欺くにはまず味方からと言うが、正にそのようになっておるな」
頼綱さんは楽しそうに俺を見ている。
(もしかして……芝居って、全部?)
ずいぶんと手の込んだ事をすると思ったが、どうやらスパイが入り込んで毒入りの酒を勧めた所までは本当らしい。
最初からその商人を怪しいと思っていた伊藤さんは、酒を頼綱さんに勧めた所でその商人を問い詰めて看破。慌てて逃げるそのスパイを、頼綱さんの右腕ともいえる矢島さんというオジサン侍が一刀両断にしたそうだ。
そしてその時に、伊藤さんが「倒れてくれ」と頼綱さんを口説き落とし、頼綱さんは倒れてしまった。
もちろん毒入りの酒など飲んでいないわけだが、それを知っているのは伊藤さんと頼綱さんと矢島さん、そして飲ませようとした張本人だけである。
しかしそのスパイ本人が死んでしまっては、頼綱さんが飲んでいない事など誰も想像していない。
「今日はこれだけで乗り切れそうですね」
伊藤さんは満足そうに笑顔を作ると、「少し寝てきます」と告げて頼綱さんの寝所を後にした。
「伊藤殿には誠、感服するばかりじゃ」
頼綱さんは立ち上がって背筋を伸ばし、運ばれてきた昼餉に手を付け始めていた。
「そうですね、本当にその通りです」
俺は頼綱さんに同意しながら、ある欲求に駆られていた。
(戦が終わったら全部教えてもらおう、おさらいを話してもらわないとこっちが成長しないや)
この時代に残ると決めた時の話のように、伊藤さんが考えてきた事を全て教えて貰いたくてうずうずしてきた。
■同年 7月31日夕刻 美濃国
郡上八幡城 遠藤家
郡上八幡城では、細やかな酒席が設けられていた。
「明日の夜になれば石島の首が届くのだ、待っていればよい」
上機嫌で酒を煽る長井に、遠藤も深く頷いていた。昼過ぎに入った情報によると、姉小路頼綱に毒を盛った長井の間者【荘助】は、その場で姉小路軍の者に斬り殺されたらしい。
同時間帯に姉小路軍に出入りしていた商人や遊女屋等、複数の人間に金を握らせて得た情報なので間違いない判断していた。
「誠に見事な働き、荘助とやらには十分に報いてやらねばなりませんな」
遠藤は長井の杯に酒を注ぎながら、見事に毒を飲ませた荘助を褒め称えた。
「無論じゃ、荘助の息子は侍に取り立て、妻女はしかるべき者に嫁がせてやろう」
時折笑い声が響く酒席に、遠藤の妻である香がやってきたのは、既に日が落ちる頃であった。
「何をしに参ったのだ」
遠藤は、この整い過ぎた顔立ちを持った妻をあまり好きではない。実際にこの酒席を取り仕切っているのは遠藤の侍女であり、遠藤の寵愛を一身に受けている【お玉】という女性である。
それに遠藤は今、妻の姿を見たくなかった。それは長井としても同じ想いでいる。香の父、安藤守就の寄こした書状の内容があまりにも気に食わなかったためだ。
「父上から書状が寄せられたと聞きましたが」
(言うたのは誰じゃ……面倒な)
遠藤は露骨に嫌な顔を浮かべた。
「あれは儂に宛てられた書状、うぬには無関係よ」
「左様で御座いますか、では何故このような書状がわたくしの元に届いておるのでしょうか」
無関係と言い切った夫に対し、香は父から自分宛に寄せられた書状を突き付けた。
「!?」
遠藤は香の手からその手紙を引っ手繰ると、その場で開いて目を落とす。そこには、遠藤に宛てられた手紙の内容とほぼ同じ内容が記されており、さらには「すぐに郡上を発って戻れ」とまで書かれている。
「このような所で酒を飲んでいる場合ですか? 斎藤は滅びるのを指を咥えて見ているおつもりですか!?」
香の言葉に、長井が怒りを見せる。
「斉藤が滅びるだと!? 慶隆の妻と言えども、伊賀守(いがのかみ)の娘とあっては容赦せぬぞ!」
伊賀守とは、この時期に安藤が自称していた官職名である。当時の武将は、実際に朝廷から官位官職に任官されていた者も少なくないが、その大半は「自称」である事が多い。
実際の官職と名乗る官職が合致し始めるのは豊臣政権になる頃であって、この当時はまだ自称の官職名が通称として持ちいられる事が多かった。
「今織田が動けば敵同士、お斬りになるも人質とするもお好きになされませ! ……されど、このような所で酒など煽っているようでは斎藤は間違いなく滅びまする!」
香は頭が良く、そして時折、男勝りな気質を見せる女であった。その事も、遠藤が香を好きではない理由の一つである。
「なんじゃと! おんな! そこになおれ!」
長井が立ち上がり、刀に手をかける。
「父上殿! お留まりくだされ!」
遠藤が長井の前に割って入ると、香を厳しく叱責した。
「そのほう! 女の身でありながら何を口出しするつもりだ! その存念次第では今この場で手打ちとなるのは覚悟の上か!? 下がれ! 今すぐ下がれ!」
特別な感情を抱いていないとは言え、妻は妻である。良くやってくれているのは遠藤も認める所だ。
どんなにお玉を寵愛しようとも、すでに数ヶ月に渡り手も触れず、寝所も共にせずにいる夫に対し、嫌味の一つも言わないこの妻に遠藤なりに感謝はしている。
今この場で長井に斬り殺されてしまうのは快くない。
「下がりませぬ!」
香は下がる所か、一歩前に出ると言葉を続けた。
「何故、織田と石島が通じているとお疑いにならないのですか!? なぜこのような、この八月を目前にした時期に寄せて参ったのかを考えないのですか!」
香から発せられた意外な言葉に、長井は少し冷静になった。口を開く事なく、目を細めて香を睨む。
睨まれた香は、それでも臆す事なく言葉を並べた。
「織田が動く前に戦を決しようとなされているのでしょうが、そもそも石島が織田と申し合わせの上で動いているのであれば、今頃織田は稲葉山に向うておるやもしれません」
それほど難しい話ではなかった。
単純に、織田と石島が時期を申し合わせた上で動いているのだとすれば、長井は完全に陽動に引っかかった事になる。
既に織田の動き出しは決まっており、それに合わせて石島が南下してきたとすれば。
それに釣られて長井が郡上に入ってしまったとすれば、今この瞬間こそまさに、織田が動き出す好機である。
本来であれば、動くといっても準備にある程度の時間を要すのが当然であるのだが、そもそも時期が決まっていたのであればその限りではない。
電光石火の如く軍を発し、一気に稲葉山に向うことが出来るであろう。そして、その稲葉山を守る重臣達の扇の要が、いま郡上にいる長井なのだ。
となれば抵抗は難しい。
美濃三人衆は挙って織田に寝返るであろう。
長井は香の言葉に色を失い、無言で振り返ると部下に向って叫んだ。
「吉田川で陣を張っている兵をすぐに連れ戻せ!」
言うなりドカドカと大きな足音を立てて部屋を出る。
「殿、これが……香の最後の奉公で御座います、お健やかにお過ごしください」
香は遠藤に一礼すると、自身が安藤家から連れてきた侍女達と共に部屋を去ろうとする。
「ま、待て! 北方(きたかた)城に戻るのか!?」
北方城は、香の父である安藤守就の居城である。
「さぁ……戻れるかどうかも怪しい雲行きです、お玉、殿のお側は頼みましたよ」
香は遠藤の傍らで酒の相手をしていたお玉に声をかけると、足早に酒席を後にした。
酒席を後にした長井は僅かな供回りを引き連れ、関への帰路を急いだ。ところが、郡上八幡城を出てしばらく南へ馬を走らせると、謎の兵団に行く手を阻まれて捕われてしまったのである。
「何者じゃ! 儂は長井道利ぞ! 誰の手の者じゃ!」
長井の僅かな供回りは全て討ち取られ、縄を掛けられた長井は無理やりに連行された。
――深夜
最勝寺という寺に移送された長井の目の前に、蝋燭の灯りに照らされた不敵な笑みを浮かべる男がいた。
「おのれは……!?」
老体の長井は既に、その体力を使い果たしたようにグッタリとしていたが、その男を睨む気力はどうにか絞り出せていた。
「ふっ……そう睨むなご老体、斎藤の時代は終わったのよ、これを見よ」
長井の前に開いた形で捨てるように置かれたのは、美濃三人衆の1人、稲葉良通(いなばよしみち)からの書状であった。
長井は後ろ手に縛られていたが、置かれた書状が開かれていたために全文に目を通す事が出来た。書状は稲葉から遠藤に宛てられた物で、遠藤の身を案じて寄せられた物であった。
既に抵抗難しく、織田から安堵の義を賜った美濃三人衆は揃って織田信長の軍門に下る事になったのでお知らせする。郡上で交戦中の石島は織田方の将であるから、これ以上の戦闘をせぬよう強く勧める。
もし石島に被害が及ぶような事があれば、織田信長の怒りを買いかねない。そうなった場合には庇うのは難しいので、お覚悟の上で事に挑まれよ。
たとえ大人しく織田に下ったとしても、郡上の安堵については難しいだろう、既に織田から石島に対して郡上領有を認める約条があるらしい。
ついては、小領はあるが郡上大和の安堵についてはこちらからも願い出る事が出来るので、その覚悟が出来たら知らせてほしい。
現状を包み隠さず記し、その上で遠藤慶隆の身と事後の領有まで心配してくれている温かい書状であった。
しかし稲葉のその心遣いは、書状と共に途中で別の人間に拿捕されており、遠藤に届くことは無かったのだ。
「こ……このような」
長井は絶望していた。
稲葉良通が書状に記した日付は7月30日、つい昨日である。
(儂が郡上に入ったからか!?)
長井は自分の行動が軽率であったと後悔していた。
「そう絶望されるなご老体、その首は我が郎党の肥やしとなる」
ギラりと光るその両目には、底知れぬ欲望がうごめく。
「だまれ下郎! おのれ如きに……この長井道利が討てるものか!」
この言葉は長井が発した最後の言葉であり、最後の意地であった。
「ふん、そのような状況で何をほざくご老体」
刀を抜いた男が一歩、また一歩と長井に近づいてくる。
「斉藤の重臣として名を馳せるも、ここが貴様の死に場所よ」
すでに長井は力なく項垂れ、言葉を発する事は無かった。
「さっきの威勢は何処へ行った? もう諦めたのかよ」
男は刀を振り上げた。
「俺の名を教えてやろう、冥土で存分に言いふらしてくれ」
その言葉に、長井はその男の名を聞いて呪ってやろうという想いになった。
(呪い殺してくれようぞ)
長井が最後の力を振り絞って顔を上げると、その男と目があった。その両目に欲望を滾らせた男はニヤリと笑い、自分の名前を口にした。
「鷲見、弥平治」
その名が、長井の聞いた最後の言葉になり。
直後に首に走った鈍い痛みと。
<ゴトッ>
自分の首から上だけが床に落ちた音が、長井の聞いた最後の音になった。