■1567年 8月4日 美濃国
稲葉山城 織田軍
この日、織田信長の元に1通の書状が届いた。
書状の送り主は、郡上北西の地を治める木越城主【遠藤胤俊】である。
「読んだか」
書状に目を通し終えた信長は、この書状の中身を確認したかどうかを問う。
「ハッ」
問われた丹羽長秀は、一言で返答すると口を閉じた。
この時代の臣下は、主に見せるべき書状かどうかを、大抵の場合は一度目を通して確認している。
それは同時に、臣下の力が強くなれば、届くべき書状さえも届かなくなると言う事であり、稲葉良通から遠藤に宛てた書状が届かなかった理由は正にそこにある。
丹羽長秀の返事を確認すると、信長はその書状を火にかけた。ゆっくりと燃えていく書状を、信長は全て灰になるまで見つめていた。
「誰を向ける」
書状が燃え尽きると、信長は再び丹羽長秀に問う。
この問は、丹羽長秀にとってみれば「意外」な物であった。
(てっきり「捨ておけ」と申されると思うておったがな)
稲葉山城の包囲を完了してから既に3日が過ぎた。しかし、城は未だに落ちる気配がない。
(苛立っておられても不思議は無いのだが……)
その稲葉山攻略に手こずる中、郡上から寄せられた書状に対し、こちらも手を打てと言うのである。
丹羽長秀は少し思案すると、3名の人物が頭に浮かんだ。
「恐れながら、美濃三人衆を向かわせるのがよろしいかと」
信長はその言葉に小さく頷くも、自分の考えている事と少しばかり食い違っている点について訂正せねばならなかった。
「大垣(おおがき)は北勢へ向ける」
「御意」
丹羽長秀は、信長の意向を確認すると、すぐにその準備に取り掛かった。
【大垣】とは大垣城の事であるのと同時に、その大垣城を治める氏家直元の事を指す。
美濃三人衆の中では最大勢力を誇り、美濃の三分の一を治めるとまで噂された人物である。斎藤家が崩壊している今、美濃で動員可能な兵力の大半を、その氏家直元が抱えている事になるのだ。
本陣を出た丹羽長秀は、配下の者を呼び寄せると、氏家を除く美濃三人衆、稲葉良道と安藤守就を呼び付けるように指示を出した。
(金田健二郎……不思議な男よ)
主が欲するその男に、交渉窓口になっている丹羽長秀本人も魅力を感じている。
「申し上げます、稲葉良道様、安藤守就様、参られました!」
部下の報告に小さく頷く。
「応、参ろう」
丹羽長秀も織田信長も、無意識のうちに金田の身を安じていた。
郡上の遠藤胤俊から織田信長に宛てられた書状は、世の流れを読む事の出来ない人物が記した哀れな物であった。
そこには、いかに古くから遠藤氏一族が郡上の権力者であったかが記されており、次いで記されていたのは、遠藤氏が斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興の3代に渡り、郡上の支配を認められている事。
次の美濃国主になる織田信長もそれを認めるべきであり、認めてくれるのであれば相応の働きはするとの事。織田の名を偽った飛騨の軍勢が侵攻してきた事、その軍勢に郡上八幡城の遠藤慶隆は情けない事に降伏しようとした事。
更に、それらを全て打ち負かし、今は自分が郡上全体を支配下に置いている事。斎藤家の重臣、長井道利を討ち取った事。
文章全体から溢れる自信と傲慢さは、織田信長にこの書状の送り主を「討て」と命ずるに至らせた。
その実行に白羽の矢が立った2人は、呼び出された丹羽長秀の陣に到着していた。
「お引き受け致そう、されど郡上へ入るならば関を抑えねばならんな」
元々、遠藤慶隆の身を案じていた稲葉良道は、この命令に些かの不満もなく、今すぐにでも郡上へ走り出したい気持ちであった。稲葉のその言葉に、安藤はこれ幸いと一つの提案を持ちかける。
「ならば、関の抑えは我らが受け持とう、長井殿が居られぬのであれば然程の事はあるまい」
(この期に及んでまだ、娘を助けたくないと言うのか)
稲葉には、自身より年上の安藤の言葉が理解出来ずにいる。
(了見の狭き事よ)
決して頭の悪い男ではない、稲葉は安藤の事をそう思っている。一族郎党の結束も硬く、配下にはあの竹中半兵衛を抱えている、安藤という人物は決して凡人ではない。
「なれば伊賀守(いがのかみ)殿、大谷田から関にかけての一帯はお任せ致す、拙者は直ちに郡上へ向かうとしよう」
「応、なれば儂も向かうとしようか」
この2名が特に異存なく作戦に当たる事を了承した事で、丹羽長秀の役目は一旦終わりを迎える。
「御両名、しかとお頼み申しましたぞ」
丹羽長秀は、この郡上侵攻の成否が今後の両名に大きな影響を及ぼすであろうと睨んでいる。それは同時に、この郡上侵攻を差配した己の今後にも影響してくるはずである。
(こちらも忙しいというのに、難儀な事よ)
稲葉山城攻略でも手柄を立てなければならない、郡上でも信長の納得が得られる結果を出さなければならないのだ。
そして、その【信長の納得を得る】ためには、どうしても必要な人物がいる。
(金田殿、生きておれよ!)
主の望みを叶えたいのか、己の身を案じてなのか、それとも丹羽長秀自身が金田の無事を祈っているのか。
本人にも分からずにいた。
■1567年 8月4日夕刻 飛騨国
大原村 石島屋敷
「殿、薬湯(やくとう)の刻限で御座います」
陽が差し出してくれた薬湯は、ハッキリ言って不味い。
受け取った薬湯を我慢して一気に飲み干すと、直に横になり、薄い布団を頭からかぶる。
今、俺に出来る事は何もないのだ。
正直に言えば、拗ねているだけなのかもしれない。この絶望に近い結果を受け入れて、前向きな活動に全力を注げる程、俺は立派な人間じゃない。
元々、なんで俺が当主なんかをしているのだろうか。
(やりたいなんて言った覚えはない)
伊藤さんがそうなるように事を運んだ、それだけだ。誰とも話したくないし、何もしたくない。
傷は確かに痛いが、そんな事はどうでもよく、俺はどうしても納得がいかないのだ。
(なんで……伊藤さん、なんでだよ)
そんな事を思って涙を流してばかりいる。もう、二日目だ。
俺達はボコボコにやられてしまったようだ。
先月末、ここを出る時は600人もいた頼綱さんの兵は、大原に到着した時は僅かに100名程度だったそうだ。
その後で遅れて到着する人達もいたようだが、未だに150名に届かないらしい。
負傷していた金田さんは、その負傷をもろともせず、逃げる味方を鼓舞しながら走りぬいた。運ばれていく俺の側で、常に後ろを気にしながら、一人でも多く逃げられるように踏ん張ってくれたらしい。
今日の朝、桜洞に戻る直前の頼綱さんがやって来て、金田さんをべた褒めしていた。それ以外にも、敵の情報とかいろいろと報告を受けたのだが、全く頭に残らなかった。
もう、全てが嫌なのだ。
(つーくん……伊藤さん……)
悔しい、とにかく悔しかった。
自分の非力さが。
何もできない自分が恨めしい。
もし、つーくんと伊藤さんが無事に戻ってきてくれるのであれば、俺は何でもやる。立派な当主になれと言われれば、絶対になってみせる。
でも。
2人が戻らないなら、もう何もしたくない。
(こんな時代……嫌だよ……)
何度も何度も同じ感情しか沸いてこない。
もう、嫌なんだ。
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「どんな選択でも、自分を信じて選ぶ事! 頼むよ石島くん!」
(無理だよ伊藤さん……自分を信じるなんて無理だよ)
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……
「じゃ、死んだつもりで行きますか!」
(何言ってんだよ優理……もう来てるだろこっちに)
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……
<グスン グスン>
あれ?
泣いてる?
誰? 優理?
そうだよな……
そりゃそうだよ、俺だって泣いてるのに……
<ドカドカドカドカ>
すごい足音だな、知ってるよ……
襖を開けて米を投げてくるんだろ?
……
…………
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「殿! 殿!」
(煩いなぁ……陽はどこいったんだろう)
「殿、お目覚めください! 殿!」
(ん……夢?)
「殿!」
目を開けると、そこには綱義くんがいた。
「あ、ああ、ゴメン、寝てたや」
体中痛いが、そんなのたぶん、皆同じだ。
「お休みの所、申し訳ございません! お急ぎ村へ!」
そう言って俺の腕を掴むと、持ち上げるようにして起き上がらせた。俺の身体の状況を知らない綱義くんではない。
何故そんなに急がせるのだろうか。
もたもたしている俺に、綱義くんが怒鳴り気味で声をかけた。
「お急ぎ下さい!」
とにかく右肩と左の太ももが痛い。歩けるかどうか微妙だった。
「そんなそんな、とりあえず何があったのか教えてくれない?」
俺は興奮気味の綱義くんを宥めながら、状況次第では無理やりにでも動くべきかもしれないと、少しだけ覚悟を決めた。
その時、廊下からドタバタと走る音が聞こえてきた。
(ああ、さっき夢の中で聞こえたのはこの音か?)
足音は俺の寝ている部屋の前で止まる。
その方向を見てみると、そこには優理の姿があった。
(優理、大丈夫かな、元気無いんじゃないだろうか)
「来て!」
その優理の声は凛としていて、特に元気が無さそうでもなかった。
(なんだよ……元気じゃんか)
「殿! 西の山間より煙が立ち昇っておるのです!」
何があったのか教えてくれた綱義くんは、相変わらず興奮気味だった。
「ん? それがどうかした?」
正直さっぱり分からない。
「伊藤様やも知れませぬ! 何の煙か確かめに行かねば!」
「んな馬鹿な、伊藤さんが何のために? まぁ止めませんよ、確かめて来て下さい、わかったら教えてくださいね?」
(煙が伊藤さんだなんて、幻想もいいところだよ、大騒ぎしすぎなんだよな)
そんな事を考えた僅か2秒くらいの間に、優理が俺の目の前まで足を進めてきた。
≪ バチッ ≫
俺の顔面は思いっきり右方向に吹っ飛んだ。
その衝撃による耳鳴りが、左耳を占領して何も聞こえない。
「綱義くん行こう! 大丈夫! 綱義くんなら出来る!」
優理の声がする方を、見ることが出来ない。
頬の痛みと、耳鳴りと、右肩の痛みと、左足の痛みと。何より、心の痛みが、俺の身体を硬く、硬く、まるで石像にでもなったかのような重さだった。
「しかし……くっ、畏まりました!」
綱義くんが何かを承知したようだ。
2人が廊下を進み、この部屋を離れていく音がする。
直後に、唯ちゃんの声が聞こえてきた。
「無茶です! 金田さん! 無茶です、やめて下さい!」
「無茶も麦茶もあるか! ここで諦めたらゲームセットなんだよ!」
<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>
歩いているにしては妙な足音がする。
「金田さん! ……美紀ねぇ! 金田さんを止めて!」
唯ちゃんの声には涙が混ざり、最後はもう悲鳴に近かった。
<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>
程なくして、美紀さんの声が聞こえてきた。
「金田さん、そのまま匍匐(ほふく)前進で村まで行く気ですか?」
「そんなん関係ない! 行くったら行く! …んがぁぁぁ!!」
<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>
「しかも片手で匍匐前進じゃなかなか進まないですよ?」
美紀さんは金田さんを説得しているらしい。
「片手が動きゃ十分っしょ! 金田健二、ここで動かなきゃいつ動くって感じなわけ!」
<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>
「ったくもう、ほら」
「み、みきちゃん」
「重っ、この貸は必ず返してもらいますからねっ!」
「おう、すまねぇ!」
(なんだろう……金田さんそんなにしてまで何処に行くんだ?)
流石に気になり始めた俺は、動かない体をどうにか起き上がらせる。
「洋太郎様!」
廊下から陽が顔を出した。
「陽、何があったの?知ってる?」
とにかく、いくらなんでも説明も無しにビンタされて少しだけ腹が立ってきた。
(説明しないのは優理のお家芸かよ)
陽は部屋に入り、起き上がろうとしている俺を助けながら、何が起きてるのかを教えてくれた。
「ただ、西の山間から煙が立ち昇っているのです、それ以外は特に何も」
「それだけ? ほんとにたったそれだけ?」
「はい」
(なんなんだよ)
本当に腹が立ってきた。
陽は心配そうに俺を気遣いながら、言葉を続ける。
「何の煙か分からないそうです、村より西の山々に人は住んでいないそうで」
(人がいないのに煙?)
「山賊なのか、敗残兵が野盗と化しているのか、敵軍なのか」
陽は少し心配そうに言いながら、俺を抱きしめた。
「陽は……洋太郎様が生きて戻られて本当に良かったと思うております」
少し涙ぐみながら、俺からそっと離れる。
「されど、洋太郎様、兄上が桜洞に戻られてから、村は3度も敵兵の襲撃を受けております、どうか今少し、ご奮起ください」
「え?」
初耳だった。
■同年同刻 飛騨国
大原村
「動ける者は仕度を急げ!」
大原綱義の号令に反応出来たのは、大原に駐留している姉小路軍100騎のうち、僅か9騎であった。
姉小路頼綱が桜洞に帰還したのがこの日の昼過ぎの事、それを察知した遠藤胤俊の手勢は、日中から夕方にかけて3度の襲撃を慣行した。
その都度、姉小路軍は大原綱義の指揮の元でそれを迎撃し、どうにかこうにか守りきっている。
とは言え、元は姉小路の兵である。見ず知らずの大原を守る義理など、本来は無いのだ。いくら主の命令とはいえ、命懸けで大原の為に戦う事程、馬鹿馬鹿しい物はないと思い始めている。
石島の援軍など、来るべきではなかったのだ。そんな愚痴が蔓延する程、姉小路軍はその士気を著しく低下させていた。
(……くそっ! これだけか!)
西の山から立ち昇る1本の煙、この正体を確かめる為に山に入ろうとしている訳だが、余りにも人数が集まらないので綱義は焦っていた。
(村の者は既に疲れ切っておる)
大原村の面々は、敵の襲来から村を守ってくれた姉小路軍の負傷者を手当てする為、日中からずっと駆けずり回っていた。
中には武器を手に取り戦ってくれた者までいる。
(この人数では……まともな捜索は出来んぞ)
綱義は焦っていたが、それを気にしない人間が2人いた。
「いいよ綱義くん、行こう!」
「うん、がんばれば大丈夫だよきっと!」
綱義は、困り顔を2人に向ける。
「お、お二人とも本当に行くのですか?」
「もちろん!」
「あったりまえ~♪」
止めても無駄であろうと感じた綱義は、その2名が同行する事を渋々許可した。
「煙の正体が敵軍という可能性もあります、危うい場合はお逃げください」
その2名とは、佐川優理と平岡瑠依である。
「うん、走って逃げるから任せて!」
「ぴゅ~って逃げちゃうから気にしないでいいよ!」
綱義が急いで煙の正体を確かめたい理由。佐川優理と平岡瑠依がそれに同行する理由。それは同じである。
「伊藤さんだよきっと、そんな気がする、私達に『来てくれ』って言ってるんだよ」
何の根拠も確証も無い、佐川優理の希望的観測に過ぎないかもしれない、そんな直感である。その佐川優理の直感を信じ、敵が待ち受けているかもしれない山に入ろうとしているのだ。
姉小路軍にしてみれば、そんな馬鹿な話はない。
「急ごう! きっと敵に追われてるんだろうし、あの煙で敵も気付いていると思うんだ!」
佐川優理は、自分の直感に微塵の疑いも抱いていない様子である。
「殿が号令をかけて下さればもう少し動いたのでしょうが、夜になれば煙を見失うやもしれません、行きましょう!」
綱義は悔しい想いでいっぱいながらも、佐川優理の直感を心の底から信じていた。
「ね、ね! いこう? 早くいこう?」
平岡瑠依は、とにかく早く行きたかった。
綱義が右手を高く上げる。
「これより伊藤様の捜索に取り掛かる! 上がっている狼煙目がけて突き進め!」
「応!」
綱義を含めた兵10騎と、優理と瑠依。たった12人の捜索隊は、東の山間から上がる煙を目指して突き進んだ。
既に日は傾き、空をオレンジ色に染めている。
一度山の中に分け入ってしまえば、上がっていた狼煙など見える物ではない。
「こっち!」
佐川優理の右手には、未来の道具が握られていた。
「その道具は方位が分かるのですか!?」
不思議なその道具は、優理の手の中で輝くと、一定の方角に向けて一筋の光の糸を照らし出す。その光の糸は、自分達がどの方向に体を向けようと、一定の方角を指示しているように見てとれる。
「そっ♪ 測量して距離と方角を記録させてあるの、山の中だからある程度の誤差は出ると思うけど、だいたいの場所まではコレで行けるはず!」
綱義には、何を言っているのか理解出来ない部分があったが、今はその言葉を無条件で信じる事にしていた。
「優理先輩! こっちの斜面は無理そう!」
「回り道か……るいちゃん! 北から回ろう!」
瑠依は捜索隊から一定距離を先行しながら、進むべき進路を選択していく。当然、その手には優理と同じく、光の糸を照らし出す道具が握られていた。
「りょうかいっ!」
捜索隊の面々は、ひたすら驚いていた。
優理と瑠依が持っている道具もそうだが、2人の身体能力にただただ驚くばかりである。
(忍びの者?……石島はくのいちを雇うておられるのか!?)
姉小路軍から捜索に参加している者は、だいたいこのような感情を抱いており。
(御二人だけではなかろう、恐らく美紀殿も唯殿も忍び)
綱義も、石島の屋敷にいる不思議な女性達4人が全員、忍びの者であると確信していた。
夕日が地平線に吸い込まれ始め、空は東の方から徐々に暗くなってゆく。
「優理先輩! こっちは下っていけそう! ここからにしよう!」
「おっけーるいちゃん! もうだいぶ近づいてるから周囲に気を付けてね!」
彼等は光の糸に導かれ、この時代の捜索隊としては驚異的な速度で目標に接近していた。