第壱章.02 取引
光和七年――兗州/陳留/孟徳邸内
壱
「――ではもう一度聞く。お前の名前は?」
「エルンスト・フォン・アドラー」
「生国はどこだ?」
「欧州は大ドイツ国だ」
「……職業と所属は?」
「職業は軍人兼軍事研究員。所属はアーネンエルベ遺跡研究部門東アジア探索部隊。階級は中佐で、探索部隊の副隊長も務めている。それ以前は国の情報部に所属していた」
「……この国に来た目的は?」
「無い。気が付いたらあの場所に居た」
「………どうやってここまで来た?」
「さあな。さっきも言ったが、死んだと思ったらあそこにいた。それだけだ。あの連中とは何の関係もない」
「…………」
荒野での出来事から数時間後、アドラーは金髪の少女・曹孟徳と兵士達に連れられ、彼女が治めているという陳留の街へとやって来ていた。
現在は孟徳が住む屋敷の一室で、青髪の女・夏侯妙才の尋問を受けている真っ最中だ。
彼女達の目的は賊によって盗まれた財宝を取り戻す事であり、犯人によく似た人物があの界隈に出没すると言う情報をもとに捜索活動を行っている所だったらしい。
しかし犯人と思われた三人の男達は、いずれも特徴が似ているだけの別人で、結果として彼女達の捜索は振り出しに戻ってしまう。
手掛かりを失った孟徳が次に目を向けたのは、言うまでもなくアドラーだった。
アドラーは自身の経歴を人工冬眠につく前――
それは複雑怪奇な己の経歴と、電光機関や“転生の法”を始めとした秘密を守る為だったが、同時に国家軍人というハッキリとした身分を示すことで少しでも有利な状況を保ち、相手から情報を得るという二重の意味合いを含んでいた。
淡々と質問に答える傍ら、アドラーは二人の反応や言葉から自分の置かれた状況について考えていた。
質問の内容や会話から推測された二人の知識や常識は、明らかに前時代的なものであり、自分が持つ現代の常識や知識とはおよそ噛み合わないものばかりだった。
おまけに街を始めとした建物も、木造家屋や掘立小屋、立派な物でも石造りの家という有様で、ビルや工場と言った近代的な建築物は一切見当たらない。
それどころか、街の外側を覆う様に作られた巨大な城壁や、その上に取り付けられた防衛設備の数々は、まさしく古代の城郭都市そのものだ。
――どういう理屈でそうなったのかは定かではないが、もしかしたら自分は過去の時代に来てしまったのではないだろうか。
アドラーの脳内では、早くもそんな仮説が出来上がっていた。
馬鹿馬鹿しいという考えは勿論ある。しかしそう考えれば納得できるのだ――いや、そう考えなくては前時代的な街の造りにも、二人の知識にも辻褄が合わない。
(厄介なことになったな……)
困ったようにアドラーが内心で呟いた。
更にこの問題にはもう一つ、大きな疑問が残されている。
それは自分が一体どれくらい過去の時代に来ているのか、ということだ。
「埒があかないわね……」
はぁ、と向かいの席に座っていた孟徳が溜息をついた。同じ質問を繰り返すのは尋問や事情聴取の基本だが、流石に一時間以上も同じ質問を繰り返していては、疲れるのも当然だった。
「……後はこやつの持ち物ですが」
と、一向に捗らない取り調べに嫌気が差したのか、妙才が押収したアドラーの所持品を机の上に並べ始めた。
並べられたのは荒野で拾った拳銃に加え、銃の予備弾倉や懐中時計など、アドラーがゲゼルシャフト基地に向かう際に持ち込んだ小物たちだ。
二人はそれら一つ一つを不思議な物を見るような目で検品していく。
「これらは一体なに? どれも見た事の無い物ばかりだわ」
孟徳が机の上から懐中時計を手に取った。手が触れた拍子に蓋が開き、文字盤の部分が露わになる。
「……これは何かしら? 三本の針のうちの一本だけが、文字の様な部分を回っているけれど?」
彼女の反応に嫌な予感を覚えながらもアドラーは素直に答えた。
「それはただの時計だ」
「時計!? これが!?」
食い入る様に二人が懐中時計を見つめた。その反応たるや尋常ではない。
「……何をそんなに驚いている。時計くらい何処にでもあるだろう」
「馬鹿言わないで!……水時計や日時計なら勿論知ってるけど、こんなに小さくて持ち運べる時計なんて、今まで見たことも聞いたこともないわ。これは貴方が作ったの?」
それを聞いて、アドラーの不安感は益々大きくなった。
「……いや、俺は金で買っただけだ。俺の国では金さえ出せば、その程度の物は誰でも手に入れられる」
「信じられないわね……これだけの物を誰でも手に入れられるなんて……」
孟徳はしばらく神妙な顔で時計を見つめていたが、やがて視線を別の物へと移した。
「なら――これは?」
そう言うと、今度はホルスターから無造作に拳銃を抜き出した。安全装置《セイフティ》はしっかりと作動しているものの、その指は銃のトリガーにかかっている。
「おい! 無闇にそれに触るな!」
彼の制止の声に、孟徳はむっとなった。
「なに? これがどうしたのよ?」
「そいつは拳銃と言って、俺たちの国の武器だ」
「これが武器?」
二人は思い切り眉を顰めた。
「でも刃も付いてないし、番える矢も無い……一体どういう武器なの?」
アドラーはテーブルに置かれている二つの弾倉を顎で指した。
「そいつはこの弾倉の中にある弾を火薬の力で発射する装置だ」
「……だんそう?」
「火薬?」
またも聞いた事が無いという風に二人は首をかしげた。だが逆に驚いたのはアドラーの方だ。
「まさか火薬も知らないのか!?」
「聞いたこともないわね。“火薬”と言う位なのだから、薬の類か何かなのかしら?」
「…………」
この瞬間、アドラーは自分が過去の時代にやってきた事を確信した。
それも懐中時計や拳銃、果ては火薬すら知らないほど過去の時代であった。軽く見積もっても千年以上は前だろう。
衝撃の事実に半ば絶句していると、
「それで、この拳銃とやらはどうやって使うのかしら?」
続けて孟徳がそう訊ねてきた。
もはや答える気もとっくに失せてはいたが、黙っていても始まらないと思い、答えることにした。
「……相手を狙ってその引き金を引きだけだ。まあ今は使えんようにしてあるがな」
「なるほど……」
面白い、という風な顔で孟徳は拳銃をホルスターに戻した。
「まあいいわ。次にこれだけど……」
そう言って次に出されたのは小さな車輪状の装置――電光機関だった。
それはアドラーが装着している埋め込み式の物ではなく、ここに来る以前に“ある人物”から奪った着脱式の試作型で、緊急時の予備として持ち歩いていたものだった。
「これは何? これも武器なの?」
流石の彼もこればかりは返答に窮した。下手に説明して奪い取られたら一大事だが、かと言って処分されても大いに困るからだ。
二人を刺激しないように言葉に気をつけながら、慎重に口を開いた。
「いや、それは所属を表す軍徽章だ。大した物じゃない」
嘘は自分でも驚くほど滑らかに出た。妙才も別段怪しんでいる様子はない。
だが、孟徳の目だけはじっと動かず終始アドラーへと向けられている。まるで獲物を睨む蛇のように。
(見破られたか……?)
アドラーは自分の背中が冷や汗でじっとりと濡れていくのが分かった。
孟徳は無言でしばらくアドラーの顔を見つめていたが、やがて飽きたと言わんばかりに視線を外した。
「まあいいわ。秋蘭、あなたはどう思う?」
「……あまり嘘を言っているという感じはしませんでした。恐らく下手人とは本当に無関係なのではないでしょうか?」
「そうね。私もそう思っていた所よ」
「――いや、俺もよく分かった」
と、突然アドラーが言い出した。
二人には言葉の意図が分からないようだった。
「何がよ?」
孟徳が聞き返すと、アドラーはハッキリとこう言い放った。
「俺は、この時代の人間じゃない」
弐
「お前達の質問やこの街の造りからして、そうではないかと考えていた。そして今の話で確信した。俺は過去の世界に――お前達からすれば、未来の時代からやって来たということだ」
思いもよらぬ言葉に妙才は驚きつつも眉を顰めた。
見れば隣の孟徳も同じような表情をしている。
しかし、その反応も至極当然と言えるだろう。
自分はこの時代の人間ではない――目の前の男はハッキリとそう言い切ったのだ。
誰がそんな馬鹿げた話を信じられようか。
死者が蘇らないのと同じく、時間は決して過去へは戻らない。まして未来から過去の時代に遡る事など、絶対に不可能だ。
「そんな突拍子もない話、私達が信じると思う?」
孟徳の双眸がアドラーを睨めつけた。視線の鋭さからして、彼女がどう思っているかは語るまでも無い。
無論、妙才の考えも同じだった。少なくともそんな夢物語を頭から信じる程、自分も彼女も馬鹿ではない。
「俺の持ち物を見れば分かるだろう。どれもお前達の国はおろか、この世界の技術では二つと造れないものばかりだ」
自分に突き刺さる視線など気にも留めていないのか、アドラーは自信ありげにそう言い返した。
確かに彼の風体や持ち物の異常さについては、説明しきれない部分がある。だが、それだけでそんな飛躍した話を信じろというにはあまりにも無理があった。
と、その時、
「――“天の御遣い”」
声になっているかどうかさえも分からない程の小さな声で、孟徳がそう呟いた。
「……? 何か言ったか?」
よく聞き取れなかったのか、アドラーがそう聞き返す。
「いえ、何でもないわ」
彼女はすぐに首を振って否定したが、隣に居た妙才はその小さな呟きを聞き逃しはしなかった。
(“天の御遣い”!?)
改めて妙才は目の前に座る正体不明の男を見た。
確かにこの男が噂にある、“天の御遣い”だとするならば、異様な風体にも、摩訶不思議な持ち物の数々にも合点がいく。
だが、なぜ噂や迷信の類を一番に嫌う筈の彼女が真っ先にその言葉を口にしたのか?
妙才はそこが腑に落ちなかった。
(もしかすると、華琳様はこの男が現れることを予め知っていたのか?)
だとしたら一体いつ何処で?
脳裏に沸く疑問を胸の内に押しやりながら、妙才は二人の会話に再び耳を傾けた。
「仮に貴方が未来からやってきた人間だとしたら、どうしてすぐ元の時代に帰らないの? そんな技術があるなら、早く戻ったらいいじゃない」
「フン。自力で戻れるのなら、言われなくともとっくにやっている」
「つまり貴方がここに来たのはまったくの偶然であって、決して意図したものではない――という訳ね」
「そう言うことだ」
苦々しい顔でアドラーが首肯した。
時間を自由に行き来できる程の技術を持った時代から来たのなれば、孟徳の言うように今ここにいる理由は何処にも無い。おそらく本当なのだろう。
だとしたら何故、そしてどうやって、彼はここにやって来たのだろうか?
ますます混乱する妙才を尻目に、アドラーが今度はこう言い放った。
「それより孟徳。お前に一つ面白い提案があるんだが」
「提案?」
思わぬ言葉に二人は咄嗟に身構えた。
「簡単な話だ。今の俺には住む場所も無ければ安全や身分の保証も無い。だからお前にそれを保障してもらいたい」
「仮にそうすることで、私に一体何の見返りが?」
「さっきも言ったが、俺は未来の世界からやってきた軍人だ。当然、未来の技術や知識もある程度知っている。そいつを使えば、お前が世界を牛耳ることもできるだろう」
彼の提案とはすなわち取引だった。自分の持っている未来の知識と引き替えに、安全と身分を保証しろと言うのだ。
確かに彼の持っているであろう未知の技術は魅力的だ。正確に時刻を知ることができる装置を国民全員が持つことができれば、それだけで世界は大きく変わり、未来の兵器を造ることが出来れば、彼の言うように世界を手にすることも夢では無い。
「どうだ? 悪い話ではあるまい。お前は損する事なく莫大な見返りが手に入り、俺はひとまず安全を手に入れられる。互いに損のない取引だと思うが?」
「……貴方が私たちを裏切らないという保証は?」
「保障はない――が、それはお互い様だろう? 教えるだけ教えてお前達が俺を殺す事だって十分あり得る。まあ、乗り気じゃないなら仕方がない。別の所に売り込みに行くだけだ。短い間だったが世話になったな」
そう言うとアドラーは椅子から立ち上がり、部屋を出ようと扉の方へと歩いていく。
「お、おい待て――」
慌てて立ち上がった妙才を孟徳が遮った。
「好きにすればいいわ。ただ、貴方の身の上話を信じてくれる希有な人間が、この世界に一体どれくらい居るのかしらね?」
アドラーがぴたりと歩みを止めた。畳みかけるように孟徳がその背中に言葉を叩きつける。
「未来から来た? 大ドイツ国の軍人? 片腹痛いわ。そんな夢物語と何ら変わらない話の、一体何処に確証があるというの? 確かに貴方の持ち物や服装には説明できない部分がいくつかある。でもそれだけで貴方が未来の時代からやってきた人間だと、どうして信じられる? せいぜい気狂い扱いされて殺されるのが関の山ね」
「その時は別の方法を考えるだけだ。わざわざお前に心配してもらう必要はない」
「そこまで言うなら、無理に引き留めたりはしないわ。ただ、こちらの提示する条件をいくつか飲むというのなら――その取引、乗ってあげなくもないけど?」
「ほう?」
出口から戻ってきた再びアドラーが椅子に腰を下ろした。
「面白い。参考までにその条件とやらを聞かせて貰おうか」
「まず一つ、貴方が持っている情報や技術を包み隠さずに全て私に提供すること。
二つ、戦闘指揮官として貴方も戦場に立つこと――うちでは指揮官が不足していてね。人材を遊ばせてる余裕は一切無いの。だから貴方にも戦力として参加してもらうわ。
そして三つ、決して私達を裏切らない事――これは絶対よ。この三つを誓うと言うのでならば、貴方を客将として迎え入れ、我が軍での地位と安全を約束するわ。勿論それ相応の待遇も保障するわ」
破格の条件に流石のアドラーも驚き目を剥いた。
「どうする? 乗る乗らないは貴方の自由よ。ただし、これよりもいい条件を提示する場所が他にあるとは思わないことね」
自信たっぷりにそう言い切る華琳だったが、まさにその通りだった。
素性から経歴まで何もかもが意味不明な人間を軍の客将として迎え入れるなど、妙才の今までの記憶どころか、世界を見渡してもあり得ないのではないだろうか。
華琳が出した条件とはまさにそれほどのものだった。
「――いいだろう。だが、それなら俺にも一つだけ条件がある」
「何かしら?」
「俺は元の時代に戻る手がかりを探したい。その為の協力を約束しろ。それが俺の条件だ」
「いいわ。だけど、もしも私たちを裏切るような真似をしたら、頸を刎ねるだけじゃ済まさないわよ?」
「勿論だ」
すっ、とアドラーが孟徳に右手を差し出した。
「……何よ?」
「契約成立の証だ。俺の時代では商談や契約が成立した証として、握手するのが習わしでな」
「なるほど。面白い習わしね。気に入ったわ」
孟徳は差し出された手をしっかりと握り、ここに二人の契約は成立した。
「すぐに貴方の私室と世話役の人間を用意するから、必要な物があるならその世話役の者に言って頂戴。後の事は追って知らせるわ」
「了解した」
「それから、私の客将となった以上、貴方にも私の真名を預けるわ。これから私の事は“孟徳”ではなく“華琳”と呼びなさい。秋蘭、貴女もよ」
「は……」
妙才は少し渋い顔をしたが、君主である彼女の言葉には逆らう理由を彼女は持っていかなかった。
「私の真名は秋蘭だ。姉者……お前が倒した黒髪の女については、また改めて紹介する」
「分かった。俺のことはアドラーでいい。真名というのは俺の国には無い習慣でな。呼ばれ慣れている名前で呼んでもらいたい」
「ならアドラー。今から我らの客将として、存分にその知識と力を発揮なさい。いいわね?」
「御意に(ヤヴォール)」
蛇を思わせる笑みを浮かべながら、アドラーは大仰なまでに頷いてみせた。
参
孟徳改め、華琳との取引を終えたアドラーは、早速用意された自分の私室へと向かっていた。
「まさかこんなに上手くいくとはな……」
抑えられぬ喜びに、自然と笑みが浮かぶ。
未来の知識を餌にひとまずの安全を買う取引のつもりだったが、その成果は彼が予想していた以上のものだった。
「ククク、せいぜい俺を利用するがいい。俺も遠慮なくお前を使わせてもらうぞ、華琳」
そうひとりごちた後、アドラーは華琳がぽつりと呟いた言葉のことを思い出した。
(そういえば、あの“天の御遣い”というのは一体何だ? 秋蘭は何か知っているようだったが……)
華琳が呟いたあの言葉、実は彼にもしっかり聞こえていたのである。
(俺がここに来た事と何か関係があるのか?)
あの言葉を聞いた直後から、秋蘭の様子は明らかに変わっていた。何かしらの情報を持っていると見て間違いない。
(奴らは俺の何かを知っていた。だからこそ、こちらの提案にあそこまであっさりと乗って見せた? いや、そうだとしたら最初に俺を調べた事に説明がつかない。だとしたら一体……?)
思考の海を彷徨うアドラーだったが、考えてばかりいても仕方がないと思い、ひとまず考えを打ち切った。
「まあいい。まずはこの時代のことを調べる方が先決だ。それに俺の予想が正しければ……ククク。これも死線を越えた者への褒美という奴か?」
意味深な笑みを浮かべながら、アドラーは自分の私室への歩みを強めるのであった。
肆
取引が終わってからずっと、秋蘭は納得がいかなかった。
なぜ華琳はあんな得体の知れない男の提案を簡単に受けたのか。それも客将入りという破格の待遇まで付けている。彼女に考えが無いとは思わないが、少々軽率過ぎるのではないだろうか。
彼女が一体何を考えているのか確かめるべく、秋蘭は華琳の部屋を訪れた。
「華琳様、秋蘭です」
部屋の戸を叩き自分の名を告げると、扉の向こうから主の声が返ってきた。
「秋蘭? どうしたの?」
「華琳様に少々お訊ねしたい事があって参ったのですが、よろしいでしょうか?」
「いいわ。入りなさい」
「はっ。失礼します」
部屋に入ると、華琳は机に向かって書類仕事をしている最中だった。彼女は視線を竹簡から秋蘭へと移すと、手に持っていた筆を硯に置き、竹簡を机の脇に退けた。
「それで、聞きたい事とは一体何かしら?」
「単刀直入に申し上げます。華琳様は何故あのような男と取引を? それにあの時仰っていた“天の御遣い”とは一体どういう意味なのですか?」
華琳は少し驚いたような顔をした。
「……聞こえていたのね」
「はい」
秋蘭が頷くと、華琳はゆっくりと語り始めた。
「出撃の時、私が流星を見たと言ったのを憶えてる?」
「はい。確かに憶えています」
「その流星はね、ちょうど私たちが向かった方角に飛んで行ったのよ。そして未来から来たと言うあの男も、流星が消えた先に現れた。これって単なる偶然だと思う?」
その言葉を聞いた瞬間、秋蘭はまさか、と目を剥いた。
「そ、それでは!?」
「そう。あの男が本当に“天の御遣い”としてやってきたという事もあり得るという事よ。本人にその自覚は無いみたいだけどね」
「…………」
「無論、単なる偶然かもしれない。でもあの男が持っていた物は、紛れもなくこの時代の技術よりも何世代も先の物よ。その技術と知識を一時的な取引で手に入れられるのならば、安い買い物だと思わない?」
なるほど確かにそう言われれば納得がいく。一人の男を引き入れるだけで遙か未来の技術と知識が手に入るのだ。長い目で見ればこれほど美味い取引は他に無い。
が、それでも秋蘭は食い下がった。そうさせるだけの危うさがあの男の中には存在したからだ。
「し、しかし! あの男は明らかに危険です! 何か企んでいるに違いありません!! もしかしたら我らを裏切るような事も!!」
「ええ。十分にあり得るでしょうね。だからこそ、そうならない為の保険はしっかりとかけるつもりよ」
言い聞かせるようにそういうと、華琳は部屋の窓に目を向けた。その向こうには平和に暮らす陳留の街並みが映し出されていた。
「でもこれで、私の覇道は今よりもずっと早く進むわ。大陸を統一する時間も数年は縮むでしょう。ひょっとしたら、私の世代でこの乱れ果てた世界を直す事ができるかもしれない。私はそれに期待しているのよ」
「何を仰います! あのような輩の力など借りずとも、華琳様と我らの力があれば、必ずやより良き時代を作ることができます! その為の我ら姉妹! そのための夏侯家です! もっと我らをご信頼下さい!」
秋蘭の気迫に目を丸くしていた華琳だったが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「秋蘭……ありがとう。でも私は一日でも早くこの乱世を終わらせたいの。それは私の為じゃない、無秩序な世界によってこれから失われようとしている誰かの命の為であり、いつか失われてしまうかもしれない貴女や部下や民の命の為よ。その為にはありとあらゆる手を尽くす。それだけは分かって頂戴」
穏やかな口調ではあったが、ハッキリとした力強い言葉だった。
「……はい」
やはりこの方に尽くして良かった。
秋蘭は心からそう感じた。
従姉妹として幼少の頃からずっと見守ってきたが、その気高さと誰よりも平和を愛する気持ちは、どんな為政者にも劣らない。
宦官の子と周囲から蔑まれ、豪族達から蛇蝎の如く嫌われようとも、決して腐らず、自らの覇道に向けて歩む姿は、まさに王にこそ相応しい。
――この方だけは何があってもお守りしよう。たとえ命を捨てることになろうとも。
秋蘭は改めてそう心に誓った。
「それよりもずっと気になっている事があるの。春蘭は今どこに?」
と華琳が言った。春蘭とはアドラーに斬りかかった黒髪の女の事である。
「街の医者を呼び、部屋で看病させました。恐らくまだ部屋で休んでいると思います」
「ならそこへ行きましょう。あの荒野で何が起こったのかを調べるために」
華琳はそう言うと、秋蘭と共に黒髪の女が居る部屋へと向かった。
陳留という始まりの地に、
意図せずして現れた死神。
それは甘美な言葉で少女を魅了し、誘惑する。
囁きに含まれたそれは大陸を救う薬となるか、死を告げる毒となるか。
次回「客将」
アドラーは外史に現れた毒蛇。