「……きて、起きてよミハル」
声がする。目覚ましで一気に起こされるのとは違い、僕は緩やかに目を覚ます。
まぶたを開けて、目が光に慣れてきたら沖野の顔の輪郭がはっきりした。僕を起こしたのは沖野だったみたいだ。
沖野はどうやって起きたんだろう。
「起きた? まだ頭が起きてないね。顔がぼんやりしてる。ミハルは朝は弱いのかな」
「まあ、普通かな。そう言う早希ちゃんは早起きなんだな。目覚ましの音はしなかったと思うけど」
僕が深く寝過ぎてたのでなければ。
「いつもってわけじゃないよ。今日はデートだから、早く起きたんだよ?」
「ああ……それは。なら僕だけいつまでも寝ぼけてられないな」
言葉どおり、デートではないにしても。沖野は昨日の約束をこうして果たそうとしている。それなら僕だって、それに報いるくらいはする。
「うん。じゃあ、ミハル。ミハルは朝ご飯食べる? パンでいいなら一緒に作るよ。作ってから食べないって言われたら困るから、ミハルが起きるまで待ってたんだよ」
「僕も食べるよ。待たせてごめん。それじゃ、よろしく」
沖野が作ってくれた朝飯は、トーストとイチゴジャム。小エビのサラダと飲み物はグレープフルーツジュース。手がこんでいるように思う。
机を挟んで、向かい合って食べる。
「ミハルってさ、昨日親に泊まるとか連絡した? もし忘れてたなら、今訊いてもどうにもならないんだけどね」
「そのことなら、うちは放任なんだよ。どうせ連絡してもご飯作るのが一人分減るくらいだし。連絡しなくても何となく対応するだろうし」
「そうなんだね。その辺りは家によって違うもんね」
フォークでサラダを突き刺しながら沖野は話している。そして食べられる。
「うちの親なんて、家にいるのが嫌いなくらいなんだと。そのおかげで僕も放任されてるんだけど」
「お母さん?」
「そう。うちは変わってるかもな」
トーストを齧る。対して沖野はそこで食べる手を止めて、僕を見据える。
「それって、家じゃなくてミハルのことが嫌いなんじゃないの」
僕に父親がいないことにこれまでの雑談の折に触れていたからこその一言だった。けど酷い。
でも沖野に悪気があるわけじゃない。思ったことを言ってしまっただけ。まあ配慮はないかもしれない。
グレープフルーツの苦味を口内に感じながら、僕は返す。
「どうなんだろう。聞いたことないから実際は知らないけど、でもそれを言うのは酷いな」
「ごめん。ボクの悪い癖だね」
「謝らないでくれ。僕はまだ嫌われてると決まったわけじゃないし、早希ちゃんに怒ってもないから」
努めて朗らかに言えば、それは沖野にも伝わったようでその後もあれこれ話しながら朝食を終えた。
「じゃ、また後で」
「うん、行ってらっしゃい」
僕は沖野に見送られ、一度自宅に帰る。僕の着替えと、沖野が一度別れてから待ち合わせしたいって希望したからだ。
一人だと二人よりも移動にかかる時間が少ない。家に着いて、適当な服に着替え諸々の用意をしたらすぐにまた家を出る。
「そう言えば、待ち合わせの時間決めてなかったな……」
家を出たところで気付いた。一瞬考えて、早く着き過ぎたなら外で待てばいいだろうと結論付けてまた歩きだす。
やはり一人だと体感時間は長くても実際移動にかかる時間は短く、僕はもう沖野のマンションに着いていた。待ち合わせ時間を決めてなかった僕達だけど、エントランスの暗証番号は聞いていたので中に入れた。
エレベーターに乗ったら沖野の部屋の前に行き、ドアをノックする。声かけはしなくても、ドアスコープから僕が見えるだろう。
すぐにドアが開けられる。そのまま普通に部屋に上がろうとした僕だったが、少し目と意識を奪われることがあった。
「おかえりミハル。さあ、入って」
にこりと笑う沖野にでなく。その着ている服だ。
水色の、フレアスカートの半袖ワンピースに白いエプロンを付けたエプロンドレス。白と黒のストライプのニーソックス。頭には小さくて黒いリボンカチューシャまで付けていた。
僕がそのまま玄関で惚けていると、沖野のほうから声をかけてくれる。
「この服が気になる? 今日はまた雨で、おうちデートだから外では着れない服着てみたの。似合ってない?」
片手でスカートの端をつまんで、自分でも珍しそうに視線を落としている。そして僕の様子を窺う。
「似合ってるよ。ただびっくりしただけで。そういう服も着るんだって」
似合ってないなら無責任なことは言えないけれど、そういうこともなく。自分の家でなら、余計に何を着るかは自由だ。
「普段は着ないよ。着てもハロウィンとかくらいかな。そんな服だから、試しに着たかったんだ」
そんな不測の事態がありながらも、いつまでも玄関に立っているわけにもいかないので、僕は部屋に上がった。沖野の靴しか無かった玄関に、僕の靴が並んだ。
ほとんど定位置になった机のそばに腰を落ち着ける。この部屋に馴染んでるんだか浮いてるんだかよく分からない、不思議な格好の沖野を見るともなく見ながら。
「まず何する? そうそう、一応持ってきてみてって言ってたゲームは?」
「持ってきてるよ。ほら、ソフトはある中から適当に持ってきたけれど」
沖野から携帯ゲーム機を持ってくるように言われていた。デートに……沖野が言うデートには、ゲームがいるのかって半信半疑だったけど。デートでゲームが絡むとするなら、パーティゲームかゲーセンだと思うんだけどな。
沖野はパッケージを手に取りためつすがめつしてから、顔をあげる。黒髪がさらりと零れる。
「これしよう。ボク横で見てるからミハルがやって」
はい、と手渡される。手渡されたものの、疑問符は増えるばかりだ。
「僕がするんだな。でも見てるだけで楽しいかな……人によるのか」
「そうそう、楽しみ方は一つじゃないよ」
言われたようにゲームを始める。横から沖野が画面を覗き込む。ゲームが小さいから、覗き込むには近くに寄らないと駄目だ。肩が触れたり、沖野の髪がくすぐったかったりしてゲームに集中するには向いてない状況だった。
「おー」とか「あっ」とか「綺麗だね」とか言ってたり笑ってたり、沖野は沖野で楽しんでいるようなので良かった。僕もときどき説明したりツッコミを入れたり、集中を乱してるのか気を紛らわせてるのかどっちか分からないことをする。
沖野もやってみたいと言い、交代する。覗き込む側から距離を詰めないといけないから、気恥ずかしい。沖野が見ていたときよりもちょっとだけ距離が空いている。
たどたどしい操作ながらも飲み込みは早く、沖野は思うように遊んでいる。その体がときどきゲームに釣られて動く。すると、少し空いた距離を越えてまた肩が触れた。
こんなふわふわした過ごし方でも時間は勝手に過ぎてお昼時。ピザを注文することにした。僕が電話をかける。
まだゲームで遊んでる沖野の背中を見ながら、沖野の分も注文を終えたらピザが届くのを待つだけだ。
「ああぁあー……」
沖野が死んだ。でも少ししたら沖野はまたリトライするみたいだ。
届いたピザを食べて正午を過ぎ、食べている間に決めたので映画を観ることにする。昨日より前に沖野が借りてきたものらしい。
テレビの正面にあるソファに座る。すぐ右に沖野が座っていて、ゲームのときとそんなに距離感が変わっていない。
ポップコーンはないけど、ここで昨日に買っておいたお菓子とジュースが役に立った。その場限りの楽しみじゃなかったってことだ。お菓子とジュースが食べ物と飲み物で良かった。買って満足して終わらないから。
こういうときでもないと、恋愛ものの映画なんて観なかっただろう。でも観るとなったらしっかりと観る。
最初のほうは静かに観ていたが、あるときに沖野が「これ、あんまり面白くないね」と言って、その言葉どおりだれ始めた。僕も同意だった。
恋愛ものと言えば、最低のラインとしてキスがあるわけだけど、その場面になったとき僕は、親と同じ部屋でテレビを見ていたときにそういったシーンが流れたときのような気まずさを感じた。いやそれ以上だ。恥ずかしさまで付いてくるから手に負えない。沖野をそれとなく見てみたけれど、普通だった。身じろぎ一つしない。
沖野から視線を画面に戻し、うわの空になる。女子はこういった展開に耐性があるんだろうか。だとしたら、またしても僕ばっかりが落ち着きをなくしていて決まりが悪い。
映画は観ているだけでどんどんと勝手に話が進んでいくからいい。沖野は寝ていた。右か左かの二択で、僕のほうに寄りかかってきている。すうすうと寝息が聞こえる。僕は電車の中で疲れた隣人が寄りかかってくるシチュエーションを想像した。その想像には不似合いな沖野の服装だけど。
けれど、可愛い寝顔はあまねく嘘寝と聞いた記憶がある。なら寝息はどうなるんだろう。これも、沖野は可愛いを偽っているのか。だとしたら、どうして? そもそも沖野のことを可愛いと思ってしまっていることが問題じゃないだろうか。考えるほど深みに嵌っていく。
気もそぞろに、無心で映画を観終えて沖野を起こす。伏せたまつげが長くて、一切の警戒心がない、でも綺麗な寝顔だった。
くあ、と欠伸を漏らしながら沖野は伸びをする。眠気を振り払ったら、僕を見て言う。
「……ごめんね、寝ちゃってた。ミハルにもたれてたし。重くなかった?」
「全然、おっさんがもたれてくるのに比べたら」
「? なんでおっさん?」
沖野が借りてきた映画は他にもあって、それはホラーみたいだったけれど断った。ホラーでも沖野はつまらないと寝そうな気がする。
二人でそれぞれ好きな本を読むことにした。僕は沖野の漫画を借りて読んで、沖野は小説を読んでいる。さっきの映画では、つまらないと思うものが被っていたから、好きなもの面白く思うものも被るんじゃないかと期待を込めて。そうでなくても、たまには自分の好きなジャンルから出てみるのも良いものだ。
僕はそのままソファで、沖野はラグに寝転がり本を掲げて読んでいる。長い髪がラグに広がっている。すごくラフだ。
読書に集中してしまっていた。時計の針が割と進んでいた。
「夜、何食べようか? 雨もあがってそうだし、どっか食べにいく?」
「それもいいね。今日は1日、家の中だったから。近くのファミレスとか」
沖野が何をどこで食べるか思案しながらそう言った。近くなら雨の心配もあまりしなくていい。
「だけど外に出るならボクは着替えないとね。こんな格好で外には出られないし」
困ったような顔で笑う。
「可愛いからそのままで大丈夫だと思うけど」
可愛い、と言ってしまってから本心が口をついて出たことに気付いたけど、言い直すことはしない。
沖野は驚いたみたいに目を大きくして、嬉しそうな、戸惑ったような、困ったような笑顔を浮かべる。
「でも痛いよ。誤解されちゃう」
「似合ってるのに、文句つけるやつは放っておけばいいよ」
「そんなこと言っても……着てるのはボクなんだよ? 分かってる?」
このまま外に出たことで良くないことがあるとしたら、それは沖野に降りかかるんだってことを言ってるんだろう。それは確かにそうだ。
「そんな駄目かな、そういうもんかな……納得いかないな」
沖野でも、そういう類の人目は気にするのか。気にしないといけないのか。
ため息みたいな言葉が零れた。
その後に一瞬の間があって、その間に沖野は何かを考え、答えを出したようだった。
「ミハルこそ、やけに拘るんだね? 何か理由なんかがあるのかな……ほんとは着てたくないんだけどなぁ」
そこまで言わせちゃったんだし、と沖野は僕の思う沖野らしく、しぶしぶ了承してくれた。
自分自身、何をそこまで拘っているんだって疑問だけど、ほんの短い期間で僕が見てきた沖野は、いつだって自由だったから、だからその沖野までもが縛られる人目を嫌だと思ったのだ。沖野なら、と僕は期待した。期待を押し付けて、期待どおりの反応を返してもらった。それは僕のエゴで、今僕がしていることは、自由じゃなくて自分勝手と呼ぶものだ。
「でも、エプロンとカチューシャは取るからね。そこは譲れない最低ラインだよ。このワンピースだけでも、相当無理してるんだからね」
気持ち頬を膨らませて、沖野が抗議してくる。当然だ。分かり切っていたことなので僕は謝る。
「困らせてごめん。何て言うんだろう……ごめん、早希ちゃん」
「べつに。こういうのも、後で思い出したら楽しい思い出になってるかもしれないしね。たまにはミハルに振り回されてあげるよ。その代わり、食べに行く時間は遅めね」
どんなときでもあくまで前向きな沖野を、僕は眩しく見ていた。
そこからまた読書に戻って時間を潰し、空腹をお菓子で紛らわせながらこの格好の沖野と外に出やすい時間帯になるまで待った。
玄関で、沖野はその服に合ったヒールじゃなくて、黒のスニーカーを選んで履いた。
マンションを出たら、左に曲がって道なりにファミレスに向かう。沖野の変わった服は、意外と夜道に合っていた。
ファミレスとコンビニは夜でも明るい。入り口のドアを開けると、チャイムが鳴った。
ちょうどレジから会計を終えた、二十代の男三人組が僕達の横を通り過ぎる。ある程度予想はしていたことだったけど、三人組は口々に好きなことを言い残していく。
「おい見たか、今の子可愛い」
「なんだお前、ああいうのが趣味だったんかよ可愛いけど」
「彼氏の趣味か? 可哀想に、大変だな」
「なー、彼女いないお前には分からないよな」
「うるせぇな」
残された僕達は困ったものだ。沖野なんて、顔を赤くして下を向いてスカートを握りしめてる。せめてもの救いは、彼氏発言で僕にも火の粉が降りかかったことだ。それすら同時に沖野にダメージを与えてしまっているけれど。何だ、誰も救われてないじゃないか。
席に案内してもらい、向かい合って腰かける。僕はハンバーグプレートで、沖野はステーキプレートを頼んだ。
「もう夜も遅いけど、そんなの気にしないで肉食べるんだな、早希ちゃんは」
「ボク太らないから。それに肉好きだし、食べたいもの食べないと」
二人とも注文したものが運ばれてきたら会話をしながら食べ始める。
その中で、今日のことを尋ねる。
「あのさ、今日のこれ、デートだけど……こんなんで良かった?」
沖野相手だから、今日1日のこんなん呼ばわりも遠慮はしない。沖野はふっと笑って、当たり前みたいに言う。
「一緒にいれれば、それだけで楽しいよ」
それだけ言ったら、沖野は食べることに集中し始めた。なので僕もハンバーグを食べながら、一緒に沖野の言葉の意味も咀嚼する。
食べ終わった。けれど食べ終わったのはハンバーグとステーキだけなので僕は聞いてみる。
「何かデザートは?」
「食べないよ」
「食べないんだ」
「食べたら太るから食べない」
「……食べても太らないってさっき言ってたのにか?」
思わず指摘した。言うことがころころ変わるのは誰にとっても珍しいことじゃないけどな。
「それは普通に食べたらね。余計に食べたら、太るに決まってる」
「そりゃそうだ。余計に食べないなら太ることもないだろうな」
沖野の家に帰ってきた。風呂の待ち時間にも、自分が風呂に入ることにも慣れてきて、自分の家ほどじゃないにしても十分寛げるようになっていた。
でも、あれ? 僕は何で今日も沖野の家に泊まっているんだ?
忘れていた疑問が首をもたげる。けれど、すぐにそれより重たい眠気が疑問を打ち消した。家でいても、ずっと何かをしていたら疲れはする。
沖野も欠伸をする。見ていたらその欠伸が僕にもうつった。
このまま寝てしまいそうだ。まあ、それでもいいか。明日の朝も、早くに起こされそうだしな。
音が遠く、意識が沈んでいく。
また明日、明日は外に遊びに出かけることになるんだろうか。そこまで考えて、僕は本格的に眠くなる。
平和だった。僕の考えは平和過ぎて、明日あんなことになるなんて––––––考えもしていなかった。