働いて、働いて、働いて。
気付けば、何のために働いているのか分からなくなった。
会社のため、生活のため、という事は分かる。
それ以外の何かが確かにあった筈なのだ。
しかし、それももうワカラナイ。
働いて、働いて、働いて。
会社に言われるまま、上司に言われるまま、嫌われ役と分かっていても人事部の首切り役として働き続けた。
もう自分が何をしているのかワカラナクなって、恨み言や罵声、憎悪や殺意を込められた視線を向けられても何もカンジラレナイ。
そして、そんな日々が続いたある日、ホームから丁度新幹線がやってきた路線へと突き落とされた。
線路のレールから見上げると、そこにはつい先日自分がクビを宣告した元社員が、呆然とした顔をしつつ両手を突き出したままの姿があった。
最後に感じたのは、とてつもなく大きな衝撃ともうこれで終われるという安堵だけだった。
……………
気づいた時、私の目の前には光があった。
ただただ暖かく、大きくて、太陽に似て、しかし異なる光。
何時か何処かで見た様な、正体不明の懐かしさを感じさせる穏やかさ。
『最近の人間は理非も信仰も知らぬと思ったが……。』
気づけば、私は手を合わせていた。
幼い頃、訳も分からず仏壇や寺社でそうしていた様に。
こうする事が自然だと、何故か思い、行動したのだ。
『どうやら、貴様は違うようだ。』
光が収束し、いつの間にか人によく似た形を取っていた。
壮年故の深い知性と穏やかさに筋骨隆々とした肉体という相反する要素を持った何らかの高次の存在が、そこにいた。
『貴様はそこまでの信仰を持っていながら、どうして信仰を忘れていたのだ?』
肉体が無くなった身なので、思念だけでも伝わるだろうかと考えつつ、自分の意見を目の前の尊い方のために纏めてみる。
恐らくですが、私の生きた社会がそういう性質だったからでしょう。
人を資源・歯車・部品として捉え、利益や効率という目に見えるもののみを重視し、報酬以上に使い潰す。
それを当然とし、人を肥やしとして成長していったのが私の暮らす社会でした。
ですが、それは私の時代においてはそう珍しい事ではありませんでした。
私達人間は御身程の力も智慧もない。
更に命の危機はなくとも、したくもない仕事をせねば生きられず、将来への希望も抱けない時代。
故にこんな形でしか生きられず、摩耗し、正気を失い、自らを見失っていたのです。
余りの責務の多さに、心から余裕を、祈りを、信仰を削られていたのです。
『成程な。それでは貴様は涅槃へと至りたいのか?』
至りたいか、と問われれば至りたいです。
しかし、今御身にお伝えした通り、この身は余りに業が深く、信仰すら日々の忙しさにかまけて忘れていた身。
涅槃に至る程の徳を積めなかった、死ねば地獄行きは免れない罪人です。
『ふーむ。なれば、改めて徳を積むが良い。』
? おっしゃりたい事が分かりかねますが…?
『話は逸れるが、人は何を以て信仰すると思うか?』
何を以て……先ず私が生まれた国の様に、暮らしに深く根差す事が大事だと思われます。
我々は自らを無宗教などと思っていますが、我々日本人はこの世のあらゆる神に祈ります。
それが基本的な礼節であり、生活に根差した文化だからです。
どんな神であっても認め、祈り、信仰する人々を尊重し、そして自らも生活の一部として祈るのです。
その上で自分ではどうにもならぬ困難な出来事を前にした時、改めて神に祈りを捧げるのです。
祈らずともどうにかなる問題なら、人は祈らないでしょう。
『ふむ、生活への融合と適度な困難か。』
それと、目に見えぬからと御身は存在しない等と言う者達も一定数存在します。
そういった懐疑的な輩に対して、御身の実在を証明するためにも奇跡や加護が必須だと愚考いたします。
人の科学では説明できない、奇跡としか言いようのないもの。
更に言えばそれが何かを癒し、慈しみ、守るものであれば、貴方様の慈悲と寛大さは誰もが認めるものとなるでしょう。
『成程な。ではお主には一つ、それを証明してもらうとしよう。』
? とおっしゃいますと…
『お主には適度な困難のある世界で、科学では説明の出来ない奇跡を持って、そこで徳を積み直してもらおう。』
よろしいのでしょうか? 私の様な罪深い者がその様な権利を得て。
もっと相応しい、穢れ無く信心深い者がいるのではないでしょうか?
『そういった者は既に涅槃へと至っておるのだ。しかし、その手前で足踏みして輪廻を回り続けている者は多い。これはそういった者達への救済措置のテストであり、お主という魂への禊でもある。』
視界が徐々に白く、否、光に包まれていく。
この場所に来た時と同じく、暖かく、穏やかで、懐かしい光に呑まれていく。
『また会おう。擦り切れながらも信仰を捨てなかった魂よ。我らは常に人を見守っている。』
多大な感謝を御身に。
出来るなら、この禊を恙無く果たし、他の魂に救いがありますように。
こうして、私はブラック企業勤め20年の社会人(人事部)から、魔法の実在する世界で少女として生まれ変わった。
……………
帝国の市民の間では祖国防衛戦争と囃し立てられるこの戦争は、既に欧州列強の多くが参加する世界大戦の様相を呈していた。
しかし、それに気づいている者は極少数でしかない。
この世界では第一次世界大戦が発生しておらず、世界大戦の経験が無いからだ。
そのため、列強同士の泥沼の総力戦の経験も当然だが無い。
未だ総力戦というものへの体制が整わないというのは即ち、終わりの見えない戦争という継続する大規模な消費活動へと満足に補給を行えないという事でもある。
「新しい患者には重軽傷別リボンを忘れないで!重篤の者から私の方に!」
「先生、次の人です!」
それは医者も、医薬品も、医療設備も足りないという事でもある。
24時間常に続く地獄のライン戦線。
現在、最も地獄に近い戦場で最も損耗率の高い歩兵並みに酷使されているのが、軍医達だった。
軍隊の構成員だが、基本的に非戦闘員である彼らは前線に出る事はない。
しかし、戦争が激化の一途を辿っている現在、彼らの出番は多過ぎて、あっという間に医療用テントは満員となった。
その上でも一度戦闘が再開すれば増え続けるのだ。
彼らの仕事は決して終わらない。
そのため、ライン戦線では治療が間に合わない者が続出し、これに対して軍上層部は最後方に限るが民間の医者を雇用する事を決定した程だ。
「主よ、この方に慈悲を…治癒/ヒール!」
その中で頭角を現したのが、彼女だった。
元は孤児院出の、ただ国民に義務付けられている魔導士適正検査に引っかかっただけの少女だ。
金髪に碧眼の、田舎の農村出身と言うには整った顔立ちの彼女は思ったよりも聡明で、直ぐに魔導士としての仕事を覚え、その上で特異な資質に開眼した。
それが今まで歴史上極少数の者しか確認されていない、治癒魔法だった。
人体に干渉する術式自体は既に開発されている。
しかし、それは魔導士が自らの肉体の分泌・神経系へと干渉するものが殆どだ。
主に近接戦闘時の痛み止めや脳内麻薬の分泌が使用されるが、中には任務前に過剰な飲食・飲酒をしていた時に意図的な嘔吐を行うための術式すら存在する。
しかし、彼女は稀有な才能の持ち主だった。
治癒魔法、それを他者に施す事が出来る程の資質。
本人の高い魔力量、何でも学ぼうとする勤勉さと向上心、そして信仰に支えられた揺るがぬ精神。
彼女が軍で注目されるのは当然の事だった。
それこそ前線にいるのに前に出る事はなく、本人的には一人でも多くの命を救うため、軍部としては兵士達の士気高揚と民間への宣伝のため、彼女は今日も人命を救うために力を尽くす。
「治癒/ヒール、治癒/ヒール!」
「おぉ、あの傷口があっと言う間に…。」
「ありがてぇありがてぇ…。」
魔力光と共に、重傷だった兵士の傷が塞がっていく。
その様子を見ていた兵士達はまるで彼女が女神であるかの様に手を合わせ、感謝と信仰を捧げる。
「治っても流れた血が戻った訳ではありません!直ぐにベッドに寝かせて!次の人は!?」
「この方です。」
連れられてきたのは、腹から腸を垂らした歴戦の軍曹だった。
「オレはいぃ…助からんっ……他の、奴を…!」
「高位治癒/ハイヒール!」
しかし、彼女は頑なに人々を癒し続ける。
その暖かな光を浴びると、先程まで死人半歩手前だった軍曹の顔色は戻り、垂れていた腸は綺麗になってから腹の中へとするすると戻っていった。
「おいおいマジかよ…。」
「命は粗末にしないでください!さぁ次の人!」
この世の地獄たるライン戦線。
そこには一人の聖女が信仰のままに人を癒す。
それが多くの兵達に知られるようになるのは、時間の問題だった。
『彼女は予想以上の成果を上げてくれていますな。』
『うむ。戦いではなく慈悲を感じさせる癒しの力か。』
『当初はそれだけでよいのかとも思ったが…。』
『こうしてみると、やはり子羊らの意を汲むのは良い手であった。』
『彼女自身の信仰もそうですが、彼女に感化された者達からの信仰も素晴らしい。』
『世が世なら祀り上げられ、我らの中に列席されていたやも知れませんな。』
『とは言え、乱発しては意味が薄れる。』
『左様。人選は慎重にせねばなりますまい。』