この世界にはアクシズ教と言う宗教がある。
彼らは淡水の女神アクアを祀り、淡水由来の恵みに感謝を捧げ、一般的な他の神を奉じる神官や司祭達と同様に浄化や治癒を得意とする。
女神アクアが伝えたとされる教えの内容も「困ってる人がいたら自分の困らない範囲で助ける・他宗排除の禁止・仕事も大事だが休みも大事・神の言葉の改変禁止・過剰な無駄遣い厳禁」という慎ましいものでしかなく、その社も他のものに比べれば本当にささやかなものだ。
そんなアクシズ教だが、他の宗教関係者からは特別視されている。
というのも、女神アクアが司る権能が淡水、そして淡水による浄化と流転であるからだ。
水とは全ての生命が欠かさず必要とするものであり、その生命を継続させるために必要不可欠な要素の一つだ。
海が全生命の母なら、そこから派生した淡水は陸上に住まう全ての生命を生み出し、育み、見届ける。
水の流転即ち河川は生命の進化と繁栄、文明の発達と密接に関係し、これを欠かせば何者も生きる事能わず。
また、海から発生した雲は雨となって降り、地下水となって潜り、河川として流れ、また海へと戻る事で地上のあらゆる穢れと澱みを洗い流す事で、通り過ぎた後には再び命を芽吹かせる。
つまり、この地上に生きる限り、全ての生命は女神アクアの権能の影響下にあるのだ。
そのため、彼女を祀る神官達は水は当然として、治癒と浄化の力がとても強い。
農村部では雨乞いや豊穣、湧水の儀式を皮切りに、医療面においては浄化と治癒の合わせ技で如何なる傷も癒し、体内の水の流れに干渉する事で多くの病を癒してきた。
そして、最大の特徴が浄化による対アンデッド戦闘である。
アンデッドは正常な生命の流れから外れた穢れであり澱み。
生者の持つ命の輝きに嫉妬し、這い寄って襲い来る彼らは、全ての生命にとって天敵だ。
だが、その穢れと澱みはアクシズ教徒にとって最大の怨敵であり、経験値的な意味では鴨である。
彼らはその優れた浄化の力を活かして、対アンデッド戦闘では他の宗教の神官達よりも引っ張りだこになっている。
この様に極めて強力な権能を持ち、多くの信仰を集める女神アクアと彼女を祀るアクシズ教が別格扱いされるのは当然の帰結だった。
しかし、アクシズ教徒はそれを傘に着て利益を得ようという阿漕な真似はしなかった。
小さな、しかし丁寧に手入れされた社と共に、彼らは今日ものんびりと信仰を守り、程々に仕事をしながら生きている。
と言うのが、表向きのアクシズ教である。
なので、当然裏向きの事情もある。
女神アクア、彼女は神界一の働き者兼苦労神として知られている。
勤勉で、真面目で、慈悲深く、公平である。
他の神々が遊び呆け、時に仕事を投げ出し、立場を考えぬ真似をする中、彼女と一部の真面目な神々は自分の仕事の他に他所の尻拭いや神々が起こした問題への対処に当たっていた。
そんな彼女は長年のブラック業務で学んでいた。
曰く、「基本、問題は起こってから対処するよりも、予防・対策した方が効率が良い」と。
とは言え、彼女は権能によって地上を見守る多くの「目」は持っていたが、しかし、干渉するための手が無かった。
下手な干渉をして、最悪の場合であるが大洪水を起こす訳にもいかない。
そのため、人間界における自身の手足となって働いてくれる者達が必要だった。
そこで自身を信仰する人間達の中から特に熱心な者達を選出し、何がしかの問題が発生及びその予兆が感知された場合、彼らを通じて人を集め、問題に対処させた。
普段貰っている喜捨は神官達の生活費を除けば、こういった非常時や災害時に使用される。
こういった事例が重なるに連れ、次第に選ばれた熱心な神官達はこうした非常時の対応をより効率的に行うために、より指揮系統や役割分担がはっきりした組織として確立していった。
これがアクシズ教の裏の顔である「組織」、この世界で初の本格的な「諜報組織」の始まりだった。
神官・信徒達の中でも特に熱心=宗教的結束で纏まった彼らは、各地の信徒達に隠れながら情報を収集し、問題の予兆と発生を確認すれば魔道具を使用して即座に本部へ伝達し、そこから最適な冒険者の手配や国への通報等へと分かれていく。
アクシズ教の教えは分かり易く、素朴だ。
だからこそ、彼らは世界中から多くの情報を収集・処理・対応できる。
それは最早国家・地域・人種を超えた、超法規的な組織だった。
そんな組織なら必ず腐敗する筈なのだが……所がそうでもなかった。
何せこの組織、偉くなれば偉くなる程にブラック業務が常態化していくのだ。
偉くなれば任せられる仕事が増え、責任が増え、仕事時間が増えていく。
今この瞬間も世界中で起きかけている多くの悲劇の芽を摘み、火消しに奔走するには、どうしても24時間年中無休にならざるを得ないのだ。
しかし、彼らはほぼ全員が優れた治癒の使い手であり、多少の疲労は自分でどうにかなってしまう。
それが更なる業務のブラック化を招くという悪循環。
そのため、組織は常に人員不足で困っている。
そんな環境で、もし本当に権力を傘に着て横暴に振る舞う者が出た場合……
『貴方は私の信徒に相応しくないわね。』
善行を積まんとする修行者や日々を穏かに暮らす人々にこそ、女神アクアは加護を与える。
しかし、その道から外れた上、悪行を成す者には与えない。
彼女は勤勉で、真面目で、慈悲深く、公平な女神だ。
故にこそ、信徒の堕落を見逃さない。
アクシズ教徒として築き上げた全てを取り上げた後、機密保持の呪いを掛けられた後に、その罪人は放逐される。
そのまま大抵の者はのたれ死ぬ。
しかし、僅かながら改心して返り咲く者や引退して田舎で一神官に戻る者もいたりする。
どんな者達であっても、女神はその権能によってその最後まで見守り、改心の機会を常に与え続けている。
死出の旅路を見届けるまで、彼女は辛抱強く、罪人達を見守るのだ。
そんなこんなで、実は怖いアクシズ教であるが、そんな彼らにあるお告げが齎された。
それは親密なエリス教の神官達からであり、その内容が驚愕の一言だった。
曰く、「女神アクア様が休暇として下界へ降りた」と。
他の神を奉ずる信徒や神官ならいざ知らず、女神エリスは法と秩序、正義を司る善性の存在であり、何より修業時代は女神アクアの下で法と治世を学んだ後輩に当たる。
そんな関係もあって、アクシズ教徒の暗部、通称「組織」は全域に警戒態勢を敷いた。
そこへ、本当に女神が舞い降りてきたのだ。
アクシズ教徒の神官や信徒なら誰もが身に覚えのある神気に、膝をつき五体投地しそうになる。
抑え込まれておられる様だが、熱心なアクシズ教徒である執行部の者達は見ただけで理解できた。
母なる海とは違う、もっと穏やかで身近な、地を濡らす雨の様な、湧き出る清水の様な、流れる川の様な、静かな湖面の様な、その全てである様な大いなる存在感。
あぁ、あの方こそ我らが信仰する女神に他ならない。
どんな目的で降臨してきたのかは最早問わない。
ただあぁして存在して下さるだけで、我らには至福である。
とは言え、彼の女神は休暇中であり、押し掛けるのは迷惑であり無粋だ。
しかし、何かあった時のためにと、彼らは監視と情報収集、もしもの時の支援体制を構築しながら、今暫くは接触する事もなく、見守る事にしたのだった。
なお、通常の信徒では女神アクアの隠蔽は見破れず、会っても単に好感度が高いだけで済む。
しかし、熱烈なアクシズ教徒であり組織の面々はそれを割とあっさり見破った上で好感度が天元突破している事を此処に明記しておく。
……………
アクセル滞在二日目
「さ、今日はクエストをするわよ。」
「応! って言っても蛙退治だけどな。」
アクセルの街の外、そこには依頼を受けた新米冒険者が二人いた。
「事前説明通りなら、体長5m近いって話ですし、油断は禁物だからね。」
「分かってるよ。一応武器とポーションは用意したし、何時でも逃げれる様に閃光弾も買った。」
ジャイアントトードというこの地域一帯で繁殖・活動する下級モンスター。
その退治が今回二人が受けたクエストだ。
アクアはこの街に来た時のフード付ローブと長いスカートのあるドレスのままだが、カズマは旅人の格好に加え、今は初心者向けショートソード、ポーチにはもしもの時の回復ポーション(小)と閃光弾が三つ入っている。
「と、早速来たわね。」
すると、街を出て10分足らずで巨大な蛙が現れた。
ジャイアントトード、肉食よりの雑食な両生類型モンスターだ。
「じゃぁ先に私が行くわね。 『ウォーターカッター』!」
距離にしてまだ50m、その間合いでアクアが魔法を放つ。
本来ならウィザード等が放つ水の中位魔法だが、しかしアクアは10分の1の出力制限があるとは言え淡水の女神である。
人間としての職業の楔程度、容易く踏み越える。
「これで一匹。」
その威力も破格だった。
放たれた水の刃は中位魔法と言うには余りに高い威力と弾速であり、有効射程もまた通常よりも遥かに高い。
ただの一撃で、水の刃は巨大蛙の首を落とし、ずんと重量物が倒れる音と共にその身を仰向けに倒した。
「『ウォーターカッター』三連!」
そして、騒ぎを聞きつけた他の蛙達が三匹やってくるも、透かさず放たれた三枚の水の刃によって同じ道を辿った。
「さ、次はカズマよ。何かあったら支援するから、一度とことんやって荒事に慣れてみて。」
「あ、はい。」
遅れて出てきた比較的小柄な巨大蛙を指差して告げるアクアに対し、今の魔法を使う凛々しいアクアの姿に見惚れていたカズマは辛うじてそう返事をした。
……………
「ぜぇ……ぜぇ……。」
10分後、何とか巨大蛙を退治したカズマは初めての命のやり取りに疲労困憊だった。
「モンスター退治って、予想以上に疲れる……。」
「そりゃそうよ。命のやり取り、食物連鎖の一つなんだし、楽な訳ないじゃない。」
あっけらかんと告げるアクアに、確かにとカズマも声に出さないが内心で肯定する。
今回は自分の勝ちだったが、それはアクアが後ろで見守ってくれていたからだ。
そうでなければ確実に蛙の胃袋に収まっていた事だろう。
「こりゃ……もっと色々練らないとダメだな。」
ショートソードを選択したのは間違いが無かった。
今のカズマの体力で扱えるのは現状これしかなかったから。
蛙との戦い方に関しては何度か切り付けたり、回避して分かったが、基本的に攻撃方法は舌による捕食と噛み付きだけで、あの巨体を活かした突進とかはしてこない。
移動速度自体は本気で走るカズマとそう変わらないが、小回りに関しては鈍重の一言で、常に横か後ろをキープしておけばほぼ安全で一方的に攻撃できる。
とは言え、武器の威力もそうだが、何より基礎体力が全く足りていない。
「ん? カズマ、あっちを見て。」
「へ、どうしたの?」
アクアは淡水を司り、また全ての地上の生命を見守っている。
その権能によって彼女は通常のあらゆる生命の居場所が分かる。
それ故に高い感知力を持ったアクアだからこそ早期に異変に気付けた。
彼女の指差す方向、そちらから誰かが必死に走ってきた。
「うげっ!?」
但し、10匹を超える蛙を連れて。
「えーと、モンスタートレインって言うんだっけ、あーいうの。」
「どこの誰だあんな馬鹿なことしてるのは!?」
今何とか必死に一匹倒したカズマからすれば、あのたくさんの蛙は死と同義だった。
「アクア、こっから魔法で撃てるか?」
「うーん、逃げてる子達で射線が確保できないわね。」
ここはだだっ広い草原だ。
高所を確保できそうな岩や斜面等は何もないので、このまま魔法を撃てば蛙だけじゃなく逃げてくる者達まで巻き込んでしまうだろう。
「仕方ないわね。あんまり使いたくなかったんだけど……。」
「何かあるのか?」
「えぇ、でも射程が短めだから、もう少し近づかないと。」
幸い、逃げてる者と蛙はもう一分としない内に射程内に入るだろう。
「って、何だありゃ?」
よく見れば、逃げていた者は二人だった。
何かやたら胸元を露出した少女の背中に、つばの広いトンガリ帽子とローブを纏った少女が背負われていた。
「そのまま真っ直ぐ走って!もう少しだから頑張って!」
「…………!」
泣きながら必死に走る少女はアクアの言葉に希望を抱いたのか、落ち始めていた走るスピードが僅かに上昇する。
「くそ、オレも今度遠距離攻撃手段確保しておくべきだな。」
アクアの横でショートソードを構えながら思う。
未だ素人同然とは言え、この状況で役に立てない事をカズマは不甲斐なく思った。
「もう……ダメぇ……!」
そして、少女は何とかアクア達の目の前に着くも、限界だったのか、その場で背中の少女諸共倒れ込んだ。
「いいえ、十分よ。」
それを見たアクアは微笑む。
よくやった、もう大丈夫よ、と安心させるために。
無意識に放ってた神気と傾いていた太陽が後光の様に差している状態で。
「あ……。」
その微笑を見た少女の頬が赤く染まる。
この瞬間、何かとんでもないフラグが立った。
「カズマ、先に言っておくわ。ごめんなさい。」
「え、何か問題が」
アクアの言葉に、カズマが顔を引き攣らせる。
流石に初心者に蛙10匹超はきつい。
「いえ、蛙じゃないわ。ちょっと魔法の余波で後処理が大変になるだけよ。」
「へ?」
カズマが二の句を継ぐ前に、蛙が全て射程内である20m範囲に入った事を確認したアクアは、その初級魔法を発動させた。
「『ボイル/沸騰』!」
単なる清水を出す「ウォーター/水」の魔法とはまた別の最下級の水の魔法。
水を状態変化させるこの魔法は、多くのお湯を必要とする料理や医療面にも役立つ事から、アクシズ教の神官達なら全員習得している割とポピュラーな魔法だ。
それを生物の体内を循環する水分に使用すればどうなるだろうか?
パァン!と蛙の体が風船の様に膨らみ、破裂する。
それが十数回、立て続けに発生する。
一定量の水が完全に気化した場合、その体積は約1700倍にもなる。
蛙達は体内の水分が気化、体積が1700倍にまで増した元水分の水蒸気により、内側から爆散したのだ。
とは言え、それはあくまで内側の変化であり、その体表に関しては殆ど変化はない。
その結果、この場の四人の上に蛙達十数匹分の粘液と皮膚、肉片が降り注ぐ事となった。
「今度から、もう少し離れた状態で使おうか。」
「そうね……。」
蛙の粘液塗れになりながら、二人は反省する事となった。