水崎孝一は、扉を開けはなったまま硬直した。
「久しぶりだな……孝一」
「え、ええ…………」
随分と久しぶりに感じる兄夫婦と、頬を真っ赤に腫らした甥っ子の新。何処か憮然としながらも落ちついている兄がそのまま自宅へと入り、次いで兄嫁は少し困った様な表情を浮かべながら兄の後を追う。
玄関先に残ったのは自分と、何処か安堵した様な面持ちの新だけだった。
「進はまだですか?」
「あ、ああ……それより、どうしたんだ?その顔」
まるで殴打の痕の様に酷い有様の甥っ子の顔を見て引き攣った表情を浮かべていた孝一に、しかしさして気にした様子もなく新は「ああ」と小さく呟いて、
「親父と……元、顧問にそれぞれ手痛いのを喰らいまして」
はは、と乾いた笑みを浮かべながら、しかし何処かさっぱりした様相で新は告げた。
「この二週間程、あっちこっちを駆けずりまわって、色々な事に俺なりにケジメをつけてきたんです。だから……まぁ、これは犯した罪の証であると同時に、一種の勲章なんです」
口調こそ軽いが、果たしてそれがどれだけ想像を絶する過酷な事であるか。
言葉を失っている孝一を尻目に、新もまた靴を脱いでリビングへと向かった。
進がまだ練習から帰ってきていない旨は既に孝一の妻が話したのか、ソファに腰掛けて茶を啜る父親を見、新は向かいのソファに座った。
―――そして、こうやって一つの卓を一緒に囲むのも随分と久しい事なのだという事を思い出して、何処か感慨深いものを感じていた所に、
「…………新」
重々しい声音で、健介が新の名を呼んだ。
「……進は、『どう』だった?」
「―――あいつ、は…………進は、優しい奴だから。ずっと迷っていたんだ。バスケを続けたいっていう欲求と、迷惑をかけちゃいけないっていう意識の間に板挟みになって。誰にも相談出来ずに、ずっと一人で抱え込んでいたと思う」
―――心の何処かで、自分が養子である事への遠慮を感じながら毎日を送っていた義弟(すすむ)の事を、自分は気づいてやれなかった。
自責する様に呟いた新を見て、つと、健介は記憶を思い起こす様に一人の男の名を呟いた。
「…………谷口歩は、気持ちのいい青年だった。自分はバスケしか知らないから、子供と遊ぼうと思うと、自然とバスケに触れさせてしまうんだと、そう話していたよ」
妹の遥がバスケ選手と結婚すると言った時、真っ先に反対したのは父母ではなく、長兄である自分だった。
当時のバスケ界といえば、まだまともな体制すら整っていなかった、凡そ現在のプロとはかけ離れた状態だ。経済学部を進み、世の中に対して冷めた視線を送っていた健介にしてみれば、それはまともな職業であるとは到底思えなかった。
だが、時を経て歩の人となりを知る内、最初は猛反対していた自分も、それぞれに娘の幸せを願う事から難色を示していた両親も、最後には結婚を認める―――つもり、だった。
「そう思い始めていた矢先の事だったよ。彼と、彼を見送る為に一緒に車に乗っていた遥が事故に巻き込まれて、二度と帰らなくなってしまったのは」
それは、新の記憶にもあった。
白い棺の中に眠る一組の男女、そして母の腕に抱かれた、まだ幼すぎる甥っ子。
彼を引き取った頃から、だっただろうか。
それまで相応に理解を示してくれていた父が、自分がバスケを続ける事に難色を示し始めたのは。
「私の中では、あの時からバスケは悲しみと同義だ。お前や進がバスケの道を歩き続ける度、私には『あの』光景が思い起こされてしまう」
「…………けど、あの娘との事に、そんな事は関係ない。それに、進だって……ッ!」
口を開こうとした新は、しかし父の顔を見て踏み止まった。
そこにあったのは、嘗て勘当寸前にまで怒声を張り上げた顔でも、数カ月ぶりの再会の第一声代わりに拳を叩き込んだ時の顔でもなく、
「――――――だが……そろそろ、自分で決断(きめ)させてもいい頃だ」
何処か誇らしく、そして寂しげに笑う顔だった。
◆
電話越しに兄の声を聞いた進は、電話が切れた直後に坂を転げ落ちる勢いで駆けだして居候先である叔父の家へと向かい、息をぜぇぜぇと切らせながらリビングへ転がり込んだ。
余りの登場っぷりに目を見開いた兄や―――本当に久しぶりに見る父と母の姿に、進は息を整えるのも忘れてまるで言葉になっていない何事かを吐き、かっ喰らう様に水を飲みほしたかと思えば親子共々隣の和室に座った。
そこは普段進が寝起きしている場所で、室内には勉強用の小さなテーブルとバスケに関する用具が数点、それに着替えやら何やらが種類別に置かれており、凡そ男子小学生らしい漫画とかゲームの類は一切存在しなかった。
荷物を置き、息を整えた進は着替える事もせずに制服のまま父と向かい合う様に正座し、兄の新は進より少し後ろ、母は父の後ろにそれぞれ座った。
「……少し、背が伸びたか」
数か月前、幾度となく自分を殴りつけてきた父の第一声は、驚く程に落ちついたものだった。
「その所為か、随分と大人びて見える…………元気そうで、安心したよ」
謝る事も、責める事もない。
そんなモノは今更言葉にする必要もなく、しっかりと伝わっているのだ。
『俺の叶えられなかった未来を!!続けられなかった夢(バスケ)を!!今お前が叶えようとしているんだッ!!!俺は夢を諦めたんじゃねぇ……!!お前の夢を、俺の!俺達(かぞく)の夢にしたんだよッ!!』
『今度こそ俺が守ってやるからッ!!世界中の人間がみんな背を向けたって!!今度は絶対に俺が最後までお前の傍にいてやるからッ!!』
あの時の兄の言葉は、今でも進の中にしっかりと刻みつけられている。
だから何一つ、恐れる事はない―――そう語る様な進の瞳を見て、健介は自然と笑みを零した。
「孝一や新から聞いたよ……お前がウチを出てからの事、転校先での事、それに……試合(バスケ)の事」
「………………」
「私達の知らぬ間に、お前はどんどん先を往くな……進」
「……父、さん。僕……」
―――それから、進はポツリ、ポツリと語り始めた。
それは決して巧みな弁舌でも御大層なスピーチでもなかった。だがその言葉の一つ一つには、進がこれまで進んできた自分の道の、バスケに対する想いの数々が力強く込められていて。その一方で、父である健介の意向に沿いたい、迷惑をかけたくない……それらの感情が多すぎて、進は途中から収集がつかなくなるくらい八方に飛びながら、それでも決して口を止める事はなかった。
「……御免なさい、父さん、母さん」
一区切りつける様に進はそう言って、膝の上に置いた自分の拳をギュッと握り締めた。
「――――――けど、僕は自分の気持ちに嘘をつきたくない。僕は、バスケをしたい。楽しくて、嬉しくて仕方がなくて……ずっとずっと、続けて行きたいんです!」
懇願する様な声で紡がれたそれを、しかし健介はピシャリと遮った。
「そう思っている子はごまんといる。だが、誰もがプロの選手になれるわけじゃない。お前は自分自身に、そんな世界に昇れる様な素養があると思うのか?」
「分かりません……けど!やってみなくちゃ……!」
「よしんばプロになれたとして、そこは実力が全ての世界だ。誰も彼もが一流のスターになれるわけじゃない。華やかな舞台に立てる極一部の選手の裏で、夢破れて消えていく選手は沢山いる。誰も助けてくれない、自分一人の力でやるしかない!『好きだから』という気持ちだけでやっていける様な、甘い世界じゃないんだぞ!」
諭す様な口ぶりの健介に、進はただ小さく頷いて、言った。
「―――例え“僕の父さんがバスケ選手でも”、僕自身がそうなれる保証は、何処にもないよね」
その言葉に、健介も由美も、そして新も言葉を失った。
――――――父さんがバスケ選手だからやりたいんじゃない。
「……それでも、やりたいのか?」
「―――うん」
進は、胸を張って頷いた。
――――――僕自身が、バスケを好きだからやりたいんだ!
『バスケ選手なんて不安定で何の保証もない。そんな君が、妹を幸せに出来るのかね?』
その、底抜けに優しい笑顔を浮かべた男を、健介は知っている。
『……お約束出来ません。けど遥さんの為にもバスケは捨てられません。すみません』
『はぁっ!?このっ、ぬけぬけとッ!!』
『―――生き物は呼吸が出来ないと死んでしまう。僕にとって、バスケとはそういうものなんです』
自分の事を『お義兄(にい)さん』と呼んだ、あの男とよく似た顔だ。
―――嗚呼、歩くん。この子はやはり、君の子だよ。
あんな顔を見せられてしまえば、もう反論の仕様がないではないか。
あれ程幸せそうな、底抜けに優しい笑顔に、太刀打ち出来る道理は何処にもないのだ。
「そう、か…………なら、私からはもう何も言わん」
「父、さん……?」
―――こんな男を、変わらず父親と慕ってくれる、か。
咄嗟に呟いた進の言葉に、健介は咳払いを一つしてから続けた。
「お前の人生は、誰かに決めつけられるものじゃない。自分自身で決める事だ、やるなら徹底的に、最後までやり抜きなさい。但し、泣き事は一切聞かん!中途半端にしようものなら許さんから、そのつもりで―――」
「父さんっ!!」
感極まった様に、健介の言葉を遮って進が抱きついた。
久しぶりに触れる進の身体の成長ぶりに感慨染みたモノを感じながら、しかしこの場には他にも妻とか息子とかの視線があるのだから、と思い直して慌てて進を引っぺがそうと健介はその肩を掴む。
「こら進っ!離れなさい!!」
「クッ、フフッ……アッハハハハ!」
「新!由美!お前達も見てないで……ッ!」
「あらあら、いいじゃない。久しぶりの親子のふれあいなんですもの」
言いながら、由美はすっくと立ち上がった。
自然とその先を追った進と目が合って、由美は柔らかく笑む。
「進……親はね、子供には幸せになってもらいたいの。出来る事なら苦労をさせたくないって、そう思ってしまう生き物なの――――――けどね?本当は子供が元気でいてくれさえすれば、それだけで充分なのよ」
抱きしめてやれる訳ではない。
この腕が、口が、幾度となく傷つけてしまった息子に触れて良い筈がない。
それでも、
「……母、さん」
進は、甘える様に呟いて由美に抱きついた。
その様子を見て健介と新は一足先にリビングへと戻り、叔父夫婦が用意を始めていた夕食の支度を手伝う。
暫くしてリビングに二人が出てきて、随分と大人数で食卓を囲んだその晩。その家から団欒とした声が途切れる事はなかった。
◆
水崎進の朝は早い。
朝方の走り込みとシュート練習の為に毎朝五時半に起きて、六時までに準備体操を含む諸々の準備を終えなければならないからである。兄と毎朝続けてきた習慣が早々抜け落ちる事もなく、早起きの癖ばかり残っていた時期もあったが、最近は再び以前の練習メニューで朝練を開始した事でむしろ必然的要素の一つになったと云える。
とはいえ、今日ばかりはその練習も半ば程で打ち切らざるを得なかったりする。
「えーっと…………よし。忘れ物はなし、っと」
溢れんばかりの情熱の矛先であるバスケをより向上させる為にも、偶にはしっかりと身体をほぐして伸び伸びと遊ぶ事も大事である、とは新の言であり、何よりもこの合宿には夏陽や湊といった慧心学園に来てから出来た『友達』に誘われて行くのだから、進のテンションも自然と右肩上がりの坂道を描いて止まなかった。
「忘れ物はない?」
「うん。昨日もちゃんと確認したし、さっきもしっかり見たから大丈夫」
夏休みに入った直後、進は久しぶりに我が家に戻った。
とはいってもそのまま住める訳ではなく、両親はこの夏休みの間に慧心学園に近い方に引っ越す事を決めていたらしい。
その影響もあってか、自宅だというのに荷物を叔父夫婦の家から持ちこんでそれを合宿に持って行くという何度手間だか分からない手間をかけていたりしているのだが、それでも進の機嫌は実に御機嫌だった。
「ふぁ~……ぁ?進、どっか行くのか?」
「うん。今日から友達の家の別荘で合宿」
「……へぇー…………」
小学生の分際で別荘持ちとかそれどんなブルジョワああ慧心て金持ちの子供が多いんだっけウチの部活の合宿所なんて貧相な建物だってのになんだってんだこれが社会格差ってやつか畜生め、と新が二秒間の間に呟いた内容を知る由もなく、進は靴ひもを結んで荷物を持った。
新だが、後で進が聞いた所驚くべき事に駆け落ちした例の女子小学生と共に従兄の借りているマンションにそのまま転がり込んでいたらしく、先日の顔の腫れの半分はその事で向こうさんと揉めた、との事であった。
だが親の反対を押し切ってロミオとジュリエット染みた大騒動を引き起こしただけあって、その時の元顧問とその娘の口論は最早怒髪天を衝きぬける勢いだった、とは新の弁。
最終的に二人の交際については、新が最後の一線を踏み越えていなかった事や女子生徒がいじめから逃避する為に新に縋っていた等の諸々の事情が考慮されたのか、女子生徒が高校を卒業するまで、新はしっかりと自立するまで、二人の意志が変わらなければ前向きに検討するという確約を取り付けたらしい。
今は両名とも実家に戻り、新はこの夏休みの間に今後の身の振り方を考えるらしい。無論、バスケはこれからもしっかりと続けると語っており、その時に進が喜色に破顔したのは想像に難くない。
「先方さんにご迷惑をかけないようにな」
「はーい」
玄関先まで見送りに来てくれた父親も、以前の伝手を頼りに立ち直りつつある。元々休職扱いだった事もあって仕事先こそ困らないが、復帰してからの信頼回復が大変だ、と苦笑交じりに呟いていたのを進は憶えている。
だがそこに新を責める様子は見られず、家族はそれぞれに自分の事としっかりと向き合って前に進もうとしていた。
そして、夏休み初日。
進は先だっての約束通り、真帆の実家が所有する別荘に遊びに行く所だった。
「気をつけてね」
「何かお土産あったら買ってこいよー……ふぁ~ぁ」
「くれぐれも、迷惑をかけんようにな」
三者三様も良い所だ。
―――だが、こんな風に朝の一時を迎えるのも、本当に懐かしい。
と、考えている間にも時計は出立予定時刻を二分ほど過ぎていた。
少しだけ名残惜しさを感じつつ、進は家の扉を開ける。
満天の青空に輝く夏本番を告げる様な太陽の日差しに、自然と笑みを零しながら――――――
「―――行ってきます!」
水崎進の新しい日常は、始まりを告げた。
Qえ? これで終わり?
Aはい。これで終わり。
という感じで、ファーストシーズン完結でござい!