あるところに、
男は弱者だった。
客観的な認識でも、主観的な認識でも。
彼は自分の弱さを憎み、自分を踏み躙る強者を憎み……その果てに、"強者が弱者を虐げる世界構造"そのものを憎むようになった。
そして、誰よりも強くなろうとした。
始まりは彼が幼かった頃。
駆紋戒斗の父が心血を注ぎ、身一つで立てた工場があった。
そこに訪れた大企業の強引な買収の提案。父は最初はそれを断固として断った。
しかし父は、
その後詐欺にあい、半身の工場と工場の代金を失った喪失感から、酒に溺れる弱者となり、家族への虐待に走った末、首を吊ってブラブラと揺れていた父の最期。
薬物に走った弱者となり、おかしくなりながら死んでいった母の最期。
幸せだった家庭が壊れていく光景は、戒斗の根幹を構成する柱となった。
金という強さも、大企業の誘惑を跳ね除ける強さも、自分らしさを貫く強さも、喪失を乗り越える強さもなかった両親。
愛した両親の死を、彼は誰かのせいにしようとした。
そして、『弱さのせい』にした。
駆紋戒斗は成長し、20歳となった今も変わらず、世界を歩く。
弱者を虐げるための力だけを求める偽りの強者。
優しさと強さを持つ者を騙し、背中から撃つ卑怯者。
嘘偽り、圧する強者、強く在ろうとしない弱者。全てが彼の癇に障った。
この世界そのものへの彼の憎悪をかき立てた。
そして、最後の最後の戦い。
駆紋戒斗の前に立ち塞がったのは、
相対する二人の男、駆紋戒斗と葛葉紘汰。
この二人が戦い、勝った方が世界の行く末を決めるという最終決戦。
葛葉紘汰は終わり始める前の世界、人の世界の存続を望んだ。
駆紋戒斗は世界の終わりを、弱者が一方的に虐げられる世界の終わりを望んだ。
数え切れないほどの怪物を互いに引き連れ、葛葉紘汰は駆紋戒斗を見据えながら、語りかける。
「俺はお前だけには負けない。お前を倒し、証明してみせる」
葛葉紘汰はベルトを装着。その瞳には、弱者を虐げない強さが宿っている。
「ただの力だけじゃない……本当の強さを!」
オレンジのデザインが刻まれた錠前を取り出し、葛葉紘汰は胸の前に掲げた。
「それでいい」
同じようにベルトを取り出す駆紋戒斗。
他の誰でもなく、他の何でもなく。
葛葉紘汰という男が、最後の相手であったことに、運命とやらに感謝しながら。
「貴様こそ、俺の運命を決めるに相応しい」
ベルトを装着し、バナナのデザインが刻まれた錠前を同じく掲げる戒斗。
それをベルトに据えれば、ベルトが変身のプロセスを開始した。
《 バナナ! ロック・オン! 》
「うおおおおおおッ!」
《 オレンジ! ロック・オン! 》
そんなカイトに応えるように、紘汰もまた錠前をベルトに据え、変身プロセスを開始。
喉が張り裂けんばかりに、吠えた。
「おおおおおおおッ!」
戒斗もまた、負けじと吠える。
それは何の意味もない、男同士の意地の張り合い。
『この男にだけは負けられない』という男同士の意志表示。
《 オレンジアームズ! 花道 オン ステージ! 》
《 バナナアームズ! Knight of Spear! 》
葛葉紘汰と駆紋戒斗。
二人は、何度も共闘してとても敵わないような強敵と戦ってきた。
それと同じくらい、互いに意見が合わず、本気でぶつかり合いながら互いに刃を向けてきた。
その果ての、最後の戦い。
「葛葉ぁぁぁぁぁっ!」
「戒斗ぉぉぉぉぉっ!」
どちらが勝ってもおかしくはなかった。
何が勝敗を分けたのか、勝った方には理解できなかった。
だが負けた方には、不思議と理解ができていた。
最後に立つは葛葉紘汰で、倒れ伏すのは駆紋戒斗。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
負けた者には、負けたことに相応の理由が存在する。
駆紋戒斗は、葛葉紘汰が自分に勝った理由を理解し……自分が結局、"本当に強い者"に『変身』できなかったことを自覚しながら、冷たくなっていく自分の体を認識する。
そして、冷めていく体の上に落ちる、雫の存在を感じ取る。
「……何故……泣く?」
駆紋戒斗は分からなかった。
何故、葛葉紘汰が泣いているのか。
何故、自分なんかのために泣いているのか。
何故、敵である自分のために、涙を流すことが出来るのか。
「泣いていい――だ。そ――俺の弱さ――しても――」
薄れていく意識の中で、戒斗に届く紘汰の声がかすれていく。
駆紋戒斗の胸の中に、最後に残ったものは賞賛だった。
『弱さ』というものを憎むことしか出来なかった戒斗。
そんな彼には、自分を打ち倒した紘汰の強さが、他人のために泣ける紘汰の強さが、自分の弱さを他人にさらけ出せる紘汰の強さが、ひたすらに眩しかった。
自分のために泣いてくれた、その男への感謝が、心の奥に絶えなかった。
「俺は……泣きながら進む」
死にかけた体で、せめて最後の一言をと、戒斗は最後の力を振り絞ろうとする。
ただ一言、駆紋戒斗にとっての最大の賞賛を葛葉紘汰にと、口を開いた。
「お前は、本当に強い」
それが彼の、最後の記憶。
意識が闇に飲まれていく感覚に、これが死か、と駆紋戒斗は全てを受け入れた。
まどろみの中、戒斗はふと瞼を上げる。
雲一つない青空が目に映り、戒斗は気怠い体を起こした。
「……?」
ここが天国とやらか、と戒斗は思う。
「いや、俺がそんな上等な場所に行けるはずがない」
しかし即座に否定する。
戒斗には、自分は善人でないという認識があった。
そもそも彼は天国に行きたいとも思ったことも、善行を重ねてきた覚えもない。
立ち上がって辺りを見回そうとする戒斗だが、体に力が入らず、膝をついてしまう。
(っ、体に、力が……)
理由は分からないが、大きな脱力感と空腹感があった。
体にエネルギーが行き渡っていない感覚。
どうしたものか、と戒斗は頭を悩ませる。
「どうかしたのかい?」
そんな彼にかかる声。
「どうしたもこうした……も……!?」
声がした方を睨みつけながら、戒斗はここがどこか問おうとした。
そして「これは夢だ」と確信する。
次に「そうでなくても異世界かどこかだ」とファンタジーに考える。
瞠目し、口を半開きにしたまま、戒斗は声をかけて来た相手を凝視した。
何しろその相手は、顔がパンで出来ていたのである。
「ぼく、『アンパンマン』! 君の名前は?」
「……く、駆紋戒斗だ」
戒斗が夢か現か疑うのも無理はない。
しかし目の前の存在の顔から漂うはっきりとした焼きたてのパンの香りが、逆にこれが現実なのか夢なのか、彼に疑わせるのだ。
しかし彼の思考の混乱とは裏腹に、彼の体の方は単純で、脱力感と空腹感から腹を鳴らしてしまうのだった。
「あ、お腹が減ってるんだね。どうぞ、ぼくの顔をお食べ」
「!?」
戒斗の中の非現実感が更に膨れ上がる。
なんと、アンパンマンと名乗った目の前のパンが、自分の顔を引きちぎって差し出してきたのである。それも、笑顔で。
戒斗がその顔の一部を受け取ってしまったのは、彼がそれほどまでに混乱していたということなのだろう。
手渡されたアンパンマンの顔の一部をじっと見て停止している戒斗を見て、アンパンマンは不思議そうに首を傾げている。
「? 食べないの?」
「……あ、ああ、いただこう」
アンパンマンの笑顔があんまりにも純粋だったものだから、戒斗は今更「食べられない」などと断ることができなくなってしまっていた。
戒斗はかつて、戦極凌馬という男の前でヘルヘイムの果実と呼ばれる果実――口にすればほぼ確実に死ぬ果実――を口にした時のことを思い出す。
あるいはその時と同じくらいの覚悟をもって、目の前の人型のパンが差し出した、その顔の一部を口にした。
「どうかな? カイトくん」
「……腹は膨れたな」
(美味いのが逆に腹が立つな……)
戒斗は味の感想を言いはしなかったが、味そのものは絶品だった。
体だけでなく心まで満たされるような暖かい味で、体に力が漲ってくる。
……一番近いものがあるとしたら、幼少期に食べた家族の手料理だと思い、戒斗はそんな自分を自嘲しながら鼻を鳴らした。
「アンパンマンと言ったな。貴様、ここはどこだ」
「ここかい? ここはジャムおじさんのパン工場の近くだよ」
「そういうことを聞いているのではない。例えば、近い国はどこだ」
「国? おかしの国や、アリンコの国のことかな?」
「……」
夢なのか、異世界なのか。なんだろうか、その国の名は。
自分が聞き間違えをしていないという確信があるからこそ、戒斗は空を仰ぐ。
これが夢だとしても、異世界だとしても、そこにある空は変わらず青かった。
「もしかして、どんぶりまんトリオのように旅をしている人なのかな?」
「……。まあ似たようなものだ」
「よかったら、一緒に町に行かないかい?
子供達の遊び相手が足りていなくて、困ってたんだ」
「町、か。人の居る場所に案内するというのなら、俺にはその程度容易いことだ」
不可思議な現実感の無さ。
その正体が何かも分からず、戒斗はとりあえず町を目指すことにした。
見知らぬ土地ではまず町、次に駅を目指すのは鉄則である。
幸い案内人が居る。迷う心配はなさそうだ。
「それじゃ、行こうか!」
「!?」
アンパンマンは突然戒斗を背後から持ち上げ、空に飛び立った。
すました顔でアンパンマンの申し出を受けた戒斗の顔が、唐突な飛行体験によって一瞬誰にも見せたことのないような表情に歪む。
その顔を誰にも見られなかったことが、駆紋戒斗の幸運だった。
なんでそうなったのか、説明するとややこしい。
どうしてこうなった、と駆紋戒斗が嘆いていることだけは確定だ。
よかったああなって、とそんな彼をアンパンマンが見守っている。
駆紋戒斗は子供達の前で、最高に格好いいダンスを披露していた。
「はっ!」
おお、と子供達と歓声を上げる。
子供達とは言っても、人間ではなく人型のカバやウサギとでも言うべき者達である。
人によっては悲鳴を上げるかもしれない異形。
……なのだが、おそらく大抵の人は可愛らしさに抱きしめたくなるであろう外見だった。
モンスター、あるいはインベスと言うにはあまりに可愛らしすぎる。
そして子供達が歓声を上げるほどに、駆紋戒斗のダンスは見事だった。
かつて彼は、ダンスチームのリーダーを務めていた経験がある。
そんな彼からすれば、衆目を集めることなど造作も無い。
アンパンマンの子供と遊んで欲しいという願いは、アンパンマンの予想を遥かに超えた形で、戒斗の手によって叶えられていた。
(……俺は何をやっているんだ)
戒斗はアンパンマンに街まで案内させた後、そのまま姿を消すつもりだった。
この世界がどういうものなのか、調べることが先決だと判断していたからである。
しかし、戒斗の予想は大いに外れ、アンパンマンが町に近付くだけで町の子供達が大勢集まって来て、着地をする頃には完全に囲まれてしまっていた。
彼はアンパンマンの人気を甘く見ていたのである。
そうしてなんやかんやで、アンパンマンは彼が何かをやってくれるよと、子供達に紹介。
戒斗はくだらん、と言ってその場を立ち去ろうとするが。
「なにもできないんだー」
「つまんなーい」
「なにかやってよー」
子供達の無自覚な煽りに戒斗は顔をしかめ、少しだけ乗り気になった。
「いいだろう。貴様らに、駆紋戒斗の存在を刻み付けてやる」
無愛想で周囲を遠ざける性格から誤解されがちだが、戒斗は意外と子供相手の面倒見はいい。
子供が木に登って降りられなくなっているのを見れば、忙しくても子供のために足を止めて何かをしてやろうとするくらいには、子供という"弱者にも強者にもなっていない者"に優しい男だ。
煽られても、頼まれても、彼はこうしていたに違いない。
まあ、彼が子供の面倒をしょっちゅう見ているかといえば、それもノーと言えるのだが。
そうして一通りダンスを終えると、子供達から拍手と歓声が上がった。
「おにいちゃんすごーい!」
「かっこいいー!」
「ねえ、ねえ、なんでそんなにダンスが上手なの?」
「頂点を取るべく積み重ねたならば、この程度造作もない」
「ちょーてん?」
「一番すごいってことじゃない?」
「わー、いちばんさんなんだ」
「お前達も目指すならば頂点を目指せ。
二番など所詮負け犬の中での一番だ。そんなものに価値はない。
どんな事柄であれ、頂点に立つということは、お前達の強さを証明する手段となる」
それは駆紋戒斗の人生哲学だった。
どんなことであれ、他者の上に立つということは己の強さを証明するということ。
だからこそ彼は力を求め、誰よりも強いということを証明できる頂点を目指す。
昔、戒斗は有名な音楽家が持論を展開して番組に物申し、音楽家のファンが署名を集めてその後に続き、結果的に番組を中止にしたというニュースを見たことがある。
そしてその日の内に、誰にも見向きもされず、不貞腐れて楽器を投げ出していた街頭のミュージシャンを見て、思った。
かの音楽家は強く、このミュージシャンは弱い。
どんな分野であっても強い者と弱い者が存在し、強い者はそれ相応に世界を変える力を持つ。
彼が生きていた世界は、彼の中の強弱論を証明するためにあるかのようだった。
競争社会の中で、駆紋戒斗が強者と認めた人種は二つ。
頂点を目指し、最後に勝ち残った者。
そしてどんなに圧倒的なものに踏み躙られても、それに屈することのない者だ。
何にも屈さず、自分らしさを失わず、強く在ろうとする者こそが彼の考える強者。
しかし、そんな理屈はこの世界の住人にはいまいち通じない。
「でも、みんな頑張ったなら二番だってすごく偉いよ?」
「かけっことかね!」
「ビリッケツでも一生懸命走った子は、えらいんだよ!」
「……」
戒斗は眉間を揉みながら、一度辺りを見回した。
子供達につられ、大人達もなんだなんだと集まり始めている。
皆動物じみた顔であり、それが戒斗の中の非現実感を膨れ上がらせる。
慣れたのか、もうクールな表情を崩すことはなかった。
しかしながらどいつもこいつも見たことがないくらい平和ボケした顔をしていて、戒斗は何を言っても暖簾に腕押し、糠に釘を打っている気分になってしまう。
周囲の全ての存在から暖かい善意を向けられている実感が、そこに何の悪意も混じっていないという確信が、戒斗に居心地の悪さを感じさせているのである。
彼が生きていた世界はこれと正反対とまでは行かないが、もっと殺伐としていて、もっと不条理や理不尽が混ざっていて、もっと残酷だった。
そのせいで、世界と自分が上手く噛み合っていないような気すらしてくる始末。
「お前達は、皆こうなのか。もしや、この世界には……悪人すら居ないのか?」
目眩がするくらいに、善意だけで構成された世界。
戒斗はこの瞬間まで、この世界をそう認識していた。
けれどもそんなことはなく、カバの子供とゾウの子供が顔を見合わせると、その後ろに立っていた大人らしき動物が戒斗に語りかける。
「いえ、悪者は居ますよ」
「なに? どういうこと――」
戒斗が顔には出さず驚き、それを問おうとする。
しかしその声は、横合いから聞こえてきた悲鳴に遮られてしまった。
「きゃああああっ!」
「はっひふっへほー! ドロ爆弾をくらえー!」
戒斗がそちらを向けば、そこには紫色の飛行物体に、それに乗っている黒い誰か。
黒い誰かは紫色のUFOらしき飛行物体を操作し、そこから生えた砲口から泥の塊を周囲に手当たり次第ぶっ放していて、そちらの方から泥まみれになった者達が、戒斗達の方に我先にと逃げて来る。
「た、大変だー! 『ばいきんまん』がきたぞー!」
「おい、そこのヤギ。何が起こっている? あれは何だ?」
「ばいきんまんさ。いたずら好きで、いつもみんなに迷惑をかけてる悪者なんだ」
「……こんな世界であっても居るものなのか。悪というものは」
泣き出す子供達にも構わず泥の爆弾をぶつけ続ける『ばいきんまん』とやらを睨み、駆紋戒斗の眼光が鋭さを増す。
それこそ、子供が泣き出しそうな形相だ。
不機嫌そうにも見える様子で、戒斗はばいきんまんの方へと踏み出す。
しかし、そんな彼に先んじてばいきんまんの前に立ちはだかった者が居た。
「ばいきんまん! 今日という今日は許さないぞ!」
「来たなアンパンマン! 今日こそはけちょんけちょんにしてやるぞ!」
(アンパンマン。そうか、そういうことか)
現れたのはアンパンマン。
空を飛びながらばいきんまんのUFOの前で通せんぼをしている。
すると、町の住民の間から歓声と応援の声が上がり、その顔に次々と希望が宿っていく。
戒斗はその光景に、見覚えがある。
彼が元居た世界の騒乱が終わる少し前の時期、インベスという怪物に襲われた人々が、『ライダー』と呼ばれた者達に助けられた時、ああいう顔を浮かべていたのだ。
(人気者には、相応の理由があるということか)
戒斗は飛び出すのをやめて、少し様子を見ようとする。
「バカなアンパンマンめ。オレさまが頑張って泥を集めてきた意味を教えてやる! そぅれっ!」
「えっ?」
「きゃー!」
「危ない!」
だが、様子を見るまでもなく状況はすぐに動いた。
ばいきんまんはアンパンマンに向けてではなく、町の住人に向けて泥を発射したのだ。
悲鳴を上げる、泥の爆弾を撃たれた女の子。
アンパンマンはその子の前に飛んで行って、とっさに腕で泥を防御するも、泥の爆弾は爆発してアンパンマンを泥だらけにしてしまう。
戒斗の視線の先で、顔が汚れたアンパンマンが力なく膝をついた。
「か、顔が汚れて、ちからがでない……」
「はっはっはっは、はっひふっへほー!
ざまあみろ、アンパンマン! 顔が欠けて力が出ないのに、他のやつなんか庇うからだ!」
(アンパンマンの弱点は顔か。しかし、先程までの力強さが見る影もないな)
どうやら、ばいきんまんの言葉を聞く限り、アンパンマンは顔が欠けたり汚れたりすると力が出なくなってしまうらしい。
戒斗は、アンパンマンの顔の欠けた部分を見た。
彼だけは、アンパンマンの顔のその部分が何故欠けたのか、知っている。
「ひ、ひきょうだぞ、ばいきんまん……」
「オレさま、卑怯なことが大好きだもんねー!」
アンパンマンにあっかんべーしながら、煽りに煽るばいきんまん。
もしも、もしもの話だが。
アンパンマンの顔が欠けていなければ、ばいきんまんには負けなかったかもしれないと思うと。
駆紋戒斗の胸の奥に、強烈な苛立ちが湧き上がる。
自分を助けたせいで卑怯者になぶられるヒーローを見て、駆紋戒斗は表情を歪めた。
「拍子抜けだな。強者ではなく、ただの卑怯者か」
ばいきんまんに声が届かない距離で、卑怯者を
「っ!?」
なのに、その足は止められる。
戒斗が進もうとしたその道に、横合いから巨大なアンパンマンの顔が吹っ飛んできたのだ。
呆気に取られる戒斗だが、それがアンパンマンの顔を模した車であることに気付くと、平常心を取り戻す。
危うく"この世界ではどこにでもアンパンマンの巨大な顔がゴロゴロ転がっているんだ"、という誤った常識を叩き込まれるところであった。
このパンズのファンタジーに呑まれるな、と戒斗は自分自身を叱咤する。
戒斗の前に吹っ飛んできたその車は、上部の蓋のような部分を開き、そこから一人の女性を吐き出してきた。
「こんな時にアンパンマン号のブレーキが壊れてしまうなんて……あいたたた」
「おい、そこの女。俺はこの先のアンパンマンとばいきんまんに用がある。そこをどけ」
「アンパンマン? ……そうだわ、アンパンマンに急いで新しい顔を届けないと!」
「新しい顔、だと?」
戒斗は平常運転で、女性の心配すらしようとしない。
そんな戒斗が目に入っていないかのように、女性は慌てながらアンパンマン号と呼ばれた車両の中に頭を突っ込み、そこから何かを取り出した。
『新しい顔』という、よく考えなくても狂った単語に興味を持った戒斗が彼女の手元を見ると、それはアンパンマンの顔だった。
それも焼きたてのパン特有のいい香りとツヤを兼ね揃えた、できたてホヤホヤとしか言いようのない、見事な出来のアンパンマンの顔。
「おい、それはなんだ」
「アンパンマンの顔よ!
顔が汚れたり濡れたりしたら、新しい顔と変えないといけないの!
でも、新しい顔さえ届けられたなら、アンパンマンはばいきんまんに負けたりしないわ!」
「ほう」
顔を取り替えたら死ぬんじゃないのか、なんて思考が戒斗の中に浮き上がる。
しかし「パンに人間の常識を当てはめてどうなる」という至極真っ当な思考でそれを切り捨て、戒斗はアンパンマン号の向こうを覗く。
そこではいい気になっているばいきんまんが、四方八方手当たり次第に泥を乱射し、まともな逃げ場が見当たらない空間を作り上げていた。
この女性がパンを届けようとしたところで、その途中で必ず汚れてしまうだろう。
そう判断した戒斗は、女性にぶっきらぼうに話しかけた。
「女、お前の名前は?」
「え? 『バタコ』……ってよく見たら、あなた見ない顔ね。旅の人?」
「似たようなものだ。その顔を渡せ」
そしてバタコと名乗った女性が手にしたアンパンマンの顔を見て、手を差し伸べる。
「お前の代わりに、俺が届けてやる」
ばいきんまんは上機嫌だった。
「ぐふふふ、まずは町を泥だらけにしてやるぞー!
次にカビだらけにして、バイキンだらけにしちゃうもんねー!」
とうとうアンパンマンを倒し、悲願を叶えた。
後は『アンパンマン、新しい顔よ』という声を警戒しながら、泥をずっと撒いていればいい。
普段は間抜けでおっちょこちょいなところも多いばいきんまんだが、今日は一味違うようだ。
顔が泥に濡れてよたよたしているアンパンマンを放置して、町中に泥の雨を降らせようとしている。
「この世界の悪など、こんなものか。理由のない悪意にはほど遠い」
「!」
そんなばいきんまんが、予想以上に近い場所からの声に驚いた。
UFOを反転させ、そちらを見るばいきんまん。
そこにはこの世界には存在しない、自然と姿勢を正させるような、そんな威厳に満ち溢れた……貴族や王のような雰囲気を纏う、そんな男が立っていた。
それでいて、その目は飢えた獣を思わせる。
ばいきんまんが四方八方に泥を振らせている最中であるというのに、その体には泥の飛沫すらも付いてはいない。
ばいきんまんは、その男に向かって大声で問いかけた。
「なんだお前は! アンパンマンの仲間か!」
「仲間? 笑わせるな。アンパンと仲間になる阿呆がどこに居る」
「お、おう……?」
またアンパンマンの仲間が助けに来たのか、とばいきんまんは思っていたために、一言であまりにも切れ味強くばっさり否定されたことで、逆に戸惑ってしまう。
戒斗は戸惑うばいきんまんの視界の中で、背中に隠していたものを取り出し、持ち上げる。
「仲間ではない。だが、味方をする義理はあってな」
「! そ、その顔は!」
「借りを作ったままにしておく趣味はない。一食の借りは返すぞ、アンパンマン!」
そして、手にしたアンパンマンの顔を、ヘタれているアンパンマンに向けて、投げ渡した。
戒斗が投げた顔は一直線にアンパンマンへと飛んで行き、泥まみれになっていた顔にぶつかり吹っ飛ばし、首のない胴体の上にセットされる。
すると、いかなる原理によるものか。
胴体に付いていた泥までもが弾け、顔も体も綺麗なものへと戻っていく。
汚れる前の状態、否、汚れる前よりも元気でエネルギーに満ち溢れた自分へと変わったアンパンマンは飛び上がり、叫ぶ。
「元気100倍! アンパンマン!」
アンパンマン、完全復活であった。
悔しげに唸るばいきんまんは、クールな表情で佇む戒斗に、食って掛かる。
「あー、ズルいぞ! そこのヤツ!」
「卑怯者は貴様だろう。
卑怯な策に頼るのは貴様が弱者だからだ。頼る強さが無いから、そんなものに頼る」
「うるさいうるさいうるさーい!」
戒斗の言葉に短気なばいきんまんは怒り、UFOから生えた泥の砲口を戒斗に向け、発射。
いくつもの泥の爆弾が戒斗に迫る。
しかし、彼はそれら全てを踊るように回避した。
「カイトおにいちゃんかっこいいー!」
「すげー! いっけー!」
「さっきのダンスだー!」
ばいきんまんが来てからの戦いを見守っていた町の住人、子供達から歓声が上がる。
戒斗の脳裏に、いくつもの射撃が蘇る。
葡萄の銃。赤い弓。そして、最後の最後に対決した、葛葉紘汰の武器の雨。
それらと比べれば、泥の砲弾はあまりにもぬるかった。
何の殺意も、敵意も、悪意もなく、込められているのはせいぜいがイタズラ心と短気を起こした子供の怒り……外道や卑怯者をさんざん見てきた戒斗としては、悪者なのにあまりにも純粋すぎるばいきんまんに調子が狂ってしまう。
変な気が起こらない内に、と戒斗はばいきんまんの横合いから接近していた、拳を振り上げるパンに向かって声を上げる。
「行け、アンパンマン!」
戒斗が声を上げ終わるのと、ばいきんまんがアンパンマンの方を向くのと、アンパンマンが振りかぶった拳を突き出すのは、ほぼ同時だった。
「アーンパーンチ!」
炸裂した拳が、ばいきんまんをUFOごと吹っ飛ばす。
「ばーいばーいきーん!」
そこでもまた、戒斗は自分の目を疑った。
殴られたUFOが山の向こうの空まで吹っ飛び、星となったのである。
負け台詞を吐きながら吹っ飛んでいったばいきんまんの声が遠ざかっていく過程、ドップラー効果で微妙に声の質が変わっていく過程が、彼の耳まで疑わせる。
一体何十kmの彼方までぶっ飛ばしたというのだろうか。
この時、アンパンマンは戒斗の中で、確かに『強者』として位置付けられた。
町のいたる所から、アンパンマンへの感謝の声と賞賛の声が上がる。
アンパンマンは皆に手を振りながら、戒斗の前に降り立った。
「ありがとう、助かったよ。カイトくん」
「借りを返しただけだ。貴様と馴れ合うつもりはない」
「それでも、助けられたから『ありがとう』だよ」
「……ふん」
ばいきんまんに襲われた後でも、ばいきんまんへの怒りはあれど、憎しみや怨嗟はない。
アンパンマンに町が汚れた責任を問うことも、守ってくれなかったと責めることもなく、ただ純粋に感謝の言葉を告げる人々。
アンパンマンとばいきんまんの間にすら、憎悪や確執といったものは見られなかった。
それに加え、唯一ここで悪と言われたばいきんまんが、あの有り様だ。
戒斗が居た世界では、もっと民衆というものは自分勝手だった。
被害者というものはもっと身勝手で、誰かのせいにしたがった。
宿命の相手というものは、もっと明確な敵意と殺意をもってぶつかり合っていた。
それが、ここにはない。
夢か現か幻か。
駆紋戒斗は、この世界に感じる非現実感が更に膨らんでいくのを、その心で感じていた。
戒斗はアンパンマンに礼を言われた後、日が暮れ始めていることに気付いた。
今日の宿を探す必要がある、と考え、無ければ木の上ででも寝るか、と一歩を踏み出す。
しかしそこで町の住民に取り囲まれ、もみくちゃにされながら礼を言われるのだった。
駆紋戒斗の周囲には自然と人が集まる。
それは本人が口では冷酷なことを言いつつも、行動の結果として人を助けることが多い、そういう性格だからである。
ある者はそれで彼をダンスチームのリーダーに推薦し、ある者はそれで彼の中に王の器を見て、ある者はそれで弱さと強さと捨てきれない優しさを見た。
町の住民も、アンパンマンを助け、ばいきんまんに立ち向かう彼に感謝の念を抱き、彼の中に何かを見たのだろう。
アンパンマンの感謝に始まり、アンパンマンを助けてくれたことに礼を言ってくるバタコ、ミミ先生と名乗ったウサギ頭にゾウ頭にカバ頭、茶碗頭にすりばち頭といった多種多様な町の住民が戒斗に礼を述べていく。
神経質な人間なら自分を見失いかねない光景だ。
が、戒斗は図太いので特にそういうことはない。
新参の戒斗への物珍しさも相まって、彼を囲み続ける住民から彼を救い出したのは、アンパンマンだった。
空を飛ぶ能力を駆使し、上から戒斗を掴み上げ、皆に別れの挨拶を告げつつ飛び去って行く。
手を振る住民達を置き去りにして、戒斗は不満げに悪態をついた。
「礼は言わんぞ」
「いいよ、このくらい。それより、旅の人なら泊まる場所は決まってないよね?
よかったら、うちに泊まったらどうかな? ジャムおじさんのパン工場の、個室なんだけど」
そうして戒斗は、アンパンマンの提案に乗り、彼の拠点に連れられて行った。
"ジャムおじさんのパン工場"と呼ばれたその場所で、戒斗はアンパンマンの家族と出会う。
アンパンマンの生みの親、パン作り名人の『ジャムおじさん』。
ペットというわけではないらしい名犬『チーズ』。
そして町で出会ったバタコという女性、合わせて二人と一匹。
アンパンマンも合わせれば二人と一匹と一個か、なんて戒斗は考える。
「ここに泊まりたいのかい? いいとも、ゆっくりしておいき」
「私としては大歓迎よ」
「ワン!」
アンパンマンの戒斗を泊めたいという願いを、パン工場であるジャムおじさんは快く承諾する。
戒斗に好感を持つバタコも快諾、チーズも笑顔で一声吠えた。
バタコは事前に面識があったとはいえ、ジャムおじさんの即答気味の快諾という、心優しい対応には戒斗も少々戸惑っている様子だ。
彼の経験上、この手の人間は騙されるためだけに居るような善意だけのバカか、懐の大きい大物か、いい人を装った悪人というパターンが多い。
ちなみに、彼の知る限り後者になればなるほど数が多かった。
しかしながら戒斗の勘は、ジャムおじさんは前者の方に近いと告げている。
これがまた、戒斗の居心地を悪くさせるのだ。
アンパンマンが分けてくれた顔のこともそう。
町の住民の感謝もそう。
パン工場に快く泊めてくれたこの流れもそう。
理由のない悪意のある世界に居た戒斗からすれば、理由のない悪意がどこにも見当たらず、理由のない善意に満ちているこの世界をどうにも居心地が悪く感じてしまう。
なのに、なのにだ。
以前居た世界に感じていた憎しみを、この世界には感じない。
それが戒斗の胸の奥に、今まで感じたことのない感情を湧き上がらせるのだ。
「戒斗くん、夕日でも見ない?」
することもなかった戒斗は、アンパンマンに促されるままにパン工場の屋根の上に上がる。
アンパンマンが勧めるだけあり、そこから見える夕日は美しかった。
中世を舞台にした絵物語の中の貴族、
戒斗は屋根の上に立ち、アンパンマンは座り、互いではなく夕日を見つめたまま、口を開く。
「アンパンマン。貴様は甘い」
「? アンパンだからね」
「そういうことを言っているのではない!」
どこまでものんきなアンパンマンに、戒斗の声は自然と苛立たしげになってしまう。
「もっと冷たく、冷酷になれ。
あのばいきんまんとやらが二度と貴様に歯向かう気が起きないほどに、徹底的にな」
「冷たく、って……ぼくは焼き立てのパンだもの。難しいよ」
「生温いと言っている!」
アンパンマンの心根の甘さが、暖かさが、戒斗は気に食わない。
嫌悪感も、憎悪もない。ただ気に喰わないのだ。
お前はもっと利己的になるべきだと、彼はそう思ってしまう。
「貴様が唯一絶対の強者として君臨すればいい。
他の強者を全て傘下に置き、支配すれば、貴様の望む平和な世界を維持することも容易だ。
最も強い者が頂点に立ち、悪と卑劣を許さないルールを敷けばいい。
アンパンマン。貴様は強者でありながら、頂点に立つ選択を放棄している」
圧倒的なものに踏み躙られようとも屈さず、大きな力を持ち、弱者を虐げることもなく、されど冷酷になりきれない甘さのせいで割を食う。
そんな、かつて戒斗が認めた一人の男が、アンパンマンと重なってしまう。
「あの男のようにな」
彼の中で『葛葉紘汰』と、アンパンマンが重なってしまう。
「貴様ほどの強者が生温い対応を繰り返すから、ばいきんまんとやらは何度も来る。
悪辣な強者も、唾棄すべき卑怯者も、言ったところで聞くわけがない。
奴らは自分のためだけに、貴様がかけた優しさを裏切る。力で排除するべき存在だ」
優しく強い者は、力で卑怯者を排除できない。
駆紋戒斗は、葛葉紘汰の傍に居た一人の卑怯者を、ずっと見ていた。
人を倒せど殺そうとしない、怪物の親玉とすらまずは話しあおうとする葛葉紘汰という男を、ずっと見ていた。
だからだろうか。
彼の言葉はアンパンマンに向けられたものであると同時に、彼自身にも自覚がないまま、葛葉紘汰という男に向けられたものでもあった。
彼が生きていた世界では、誰もが強くなる度に優しさを忘れていった。
強さを持ちながら、優しいままで居ようとした者から居なくなっていった。
強く優しい者が君臨し、強者が弱者を虐げることを禁じていたならば、あんな世界にはならなかったはず。駆紋戒斗は、そう信じているのだ。
「貴様も弱者を守る強者を気取るなら、この場所からばいきんまんを排除するべきだ」
だから彼は全ての人類を排除し、世界を壊し、新たな世界を作ろうとしたのだから。
彼が望んだ世界は、葛葉紘汰も、アンパンマンも、善意を裏切られることのない世界だ。
誰かを虐げるためだけの力を誰も求めない、新しく強い命だけが満ちる世界。弱者も卑怯者も居ない理想郷。それを求める心は、今も彼の中にある。
ゆえに、ばいきんまんを強者として力で排除しろ、と戒斗は言う。
しかしアンパンマンは首を縦には振らず、首を傾げて唸ってしまう。
「……うーん」
「何を躊躇う」
「ごめんね。ばいきんまんは悪者だけど……
ぼくはできれば、ばいきんまんとも仲良くしたいんだ」
「……!」
戒斗の脳裏に、叫ぶ葛葉紘汰の姿が蘇る。
―――守りたいという祈り、見捨てないという誓い……それが俺の全てだ……!
ばいきんまんをも見捨てないというアンパンマン。
誰も見捨てられないことは、弱さなのか。強さなのか。
だが、戒斗の知る限り、誰も見捨てない者はみな強い者だった。
「そうやって、力の強さや、どっちが優れているかにこだわり過ぎたら……
大切なことを見失ってしまいそうな気がするんだ。ぼくは、それはダメだと思う」
「大切なこととは、なんだ?」
「うーん、上手く言えないんだけど」
アンパンマンは少しだけ考え、自分なりの思いを戒斗に向ける言葉に変える。
「ぼくは何のために生まれたのか。何をして生きていくのか。
何がぼくのしあわせなのか。何をすれば、よろこべるのか。
それを見失ってしまいそうな……そんな気がするんだ」
「―――」
瞠目する戒斗。
「困っている人を助けた時に、心が暖かくなって、その時分かったんだ。
ぼくが何のために生まれてきたのか、何をして生きていくか、何がぼくの幸せかって……
みんなの笑顔を見たぼくの心の中に、よろこびがいっぱいいっぱい生まれたんだ」
息を呑み、視線を夕日からアンパンマンへと向け直し、その横顔を凝視してしまう。
アンパンマンは戒斗の方へ顔を向け、満面の笑みを見せた。
その言葉が心からの本心だと、まるでその笑顔が証明しているかのようだ。
―――お前を倒し、証明してみせる。ただの力だけじゃない……本当の強さを!
最後の戦いの時、駆紋戒斗の宿敵であった葛葉紘汰は、そう言っていた。
駆紋戒斗は、アンパンマンの在り方の中に、葛葉紘汰が証明しようとした『本当の強さ』が垣間見えた気がして、だからこそアンパンマンの言葉を軽んじられない。
葛葉紘汰は、駆紋戒斗に勝利しそれを証明したはずなのだから。
「カイトくんは、何のために生まれて、何のために生きているんだい?」
「……俺は」
その時、否、その日。
戒斗はその問いに答えられなかった。
彼は言葉に詰まった後、屋根より飛び降り、アンパンマンの問いに答えないままパン工場の中に戻って行ってしまう。
夕飯のパンを食べる間も、夜に寝床に案内される時も、戒斗は問いへの答えを返さなかった。
アンパンマンからすれば何気ない、答えてもらわなくても特に気にしない程度の問い。
けれども戒斗にとっては、自らの信念の全てを懸けて負けた直後の男にとっては、自然と自分というものを見直させる問いだった。
夜、戒斗は貸してもらったベッドに寝転がりながら、頭の後ろで手を組み天井を見上げる。
「俺が何のために生まれ、何のために行き、何が幸せで、何が喜びか、か……」
考え、手を掲げ、手の平を見る。
戦いの傷跡が残る手をぎゅっと握り、彼は拳を作り上げた。
その手が握る世界の行く末、勝ち残った者に与えられる力、運命はもうどこにもない。
駆紋戒斗の望んだ世界はもう来ないことを、彼が敗者であることを、他ならぬ彼が一番良く知っている。
その果てに辿り着いたこの不思議な世界。
死の間際に見ている夢の世界か、異世界か。彼にはいまだ確信が持てていなかった。
目を閉じれば、ひとたび眠れば。これが夢であるのなら、覚めるのではないか。
そう思い、戒斗は目を閉じる。
この夢が覚めて欲しいのか、覚めて欲しくないのか、自分の中の気持ちがどちらに向いているのか自覚できないままに。
目が覚める。
戒斗が周囲を見渡せば、そこはあの世でもなく、沢芽市でもなく、ジャムおじさんに貸してもらったパン工場の個室の一つであった。
「夢ではない、か」
何やら外が騒がしい。
戒斗は部屋を出て、工場を出た。
すると遠方の空で戦うアンパンマンとばいきんまん、それを応援するバタコとチーズ、バタコ達から少し離れた後方から彼らを見守るジャムおじさん、といった面々が彼の目に映る。
どうやらこんな朝っぱらからばいきんまんが暴れ、アンパンマンが取り抑える羽目になっているようだ。
「おはよう、カイトくん。よく眠れたかな?」
「寝床を貸してくれたことには感謝する。ジャム」
にこやかに話しかけてくるジャムおじさんに、戒斗は平常運転の返答を返す。
返答は返すが挨拶は返さないのが戒斗らしい。
他人への敬意や礼儀を全く見せようとしない、年上受けがそこまでよくない戒斗と、非常におおらかで寛容なジャムおじさんの相性は悪くないようだ。
「奴は今度は何をやらかしてきたんだ?」
「どうやら、ばいきんまんが誰かの大切なものを取ったらしいんだよ。
パトロールの最中に通りかかったアンパンマンがそれを取り返してくれたんだ。
そこからは二人が飛んでいって、ああなったみたいだね」
「なるほどな。またしても奴の自業自得か」
戒斗のばいきんまんを見る目は冷たい。
『卑怯が得意技』と公言してはばからないばいきんまんに、良い印象がないようだ。
「だが、当然だ。卑怯者と知られた卑怯者に居場所はない。
それでも受け入れる者は……最後にバカを見る、度が過ぎた愚者だけだ」
「君は苛烈だね、カイトくん。昨日君と少し話した時も思ったけれど……」
ジャムおじさんは、心で見て、心で聴けば、見えない本当のことが見えてくると、そう教えながらアンパンマンを育ててきた。
アンパンマンは今日もその教えを貫いている。
そしてアンパンマンをそう育ててきたということは、ジャムおじさんもその生き方を実践しているということだ。
「君とばいきんまんは、似ているのかもしれないね」
「――なんだと?」
睨む戒斗。
その鋭い眼光の奥に、ジャムおじさんは何かを見い出している。
「アンパンマンは他人のため。
皆にそうしたいから、と思いながら何かをする。
君とばいきんまんは自分のため。
自分がそうしたいから、と思いながら何かをする。
そのためなら、君らは他人を犠牲にできるだろうからね」
それは確かな事実だった。
行動原理の中心に他人があるか、自分があるか。
アンパンマン、ばいきんまん、駆紋戒斗はそのどちらかであり、過剰なまでに他人か自分を中心に据えている。
戒斗の表情は苦々しく歪んでいるが、自分本位という点に否定の声を上げることはなかった。
「だけど、勿論君とばいきんまんには違う所も多い。
ばいきんまんは卑怯が大好きだけど、君は卑怯が大嫌いだ。
ばいきんまんは嫌われ者だけど、君は人を惹き付ける一面がある。
それに、何より」
だが、ジャムおじさんの続く言葉に怪訝そうな様子に変わる。
ジャムおじさんはあいも変わらず微笑みを浮かべていて、その瞳の色は深い。
「ばいきんまんは悪者だけど、君は悪者ではなさそうだからね」
「―――」
その悠然とした有り様は、本当に戒斗の本質を見抜いているかのようだ。
年の功、若人を導こうとする先人の貫禄をにじませている。
戒斗は隠し切れない動揺を一瞬表情に浮かべてしまったが、すぐに取り繕い、常のクールな表情を浮かべる。
「ジャム、貴様に人を見る目はないな」
「うん?」
「悪か善かで言うならば、俺は間違いなく悪だ」
戒斗は別に、普通の人の判断基準における善悪が分からないわけではない。
ただ、それを自分の判断基準よりも重んじないだけだ。
善悪ではなく強弱で物事を計っているだけだ。
ゆえに彼には、一般常識の基準で悪と呼ばれてもおかしくない人間であるという自覚がある。
「いいや、私は君をいい人だと思うよ。ただ、少し不器用そうだ」
「人の話を聞かんのか貴様らは」
溜め息を吐き、この善人だらけの世界を再認識した戒斗は踵を返す。
ジャムおじさん達に背を向け、パン工場に帰ろうとしているようだ。
そんな彼の耳に、空からばいきんまんとアンパンマンの会話が届き。
「はっひふっへほー!」
「絶対に許さないぞ、ばいきんまん!」
よりにもよってその台詞が、戒斗の耳に聞き慣れたとある男の声を思い出させた。
―――絶対に許さねえ!
その時の戒斗の気持ちを文字にするならば「イラッ」だろうか。
できれば仲良くしたいアンパンマンと、アンパンマンの敵で居続けるばいきんまん。
根幹に自己犠牲があるヒーローと、根幹に自分の欲求があるライバル。
皆にそうしたい、とヒーローは言う。自分がそうしたい、とライバルは言う。
この時、アンパンマンと葛葉紘汰を重ねていた自分に気付いてしまったために、戒斗は先ほど言われた「ばいきんまんと似ている」という指摘がボディーブローのように効いてくる。
アンパンマンとばいきんまんの関係、葛葉紘汰と駆紋戒斗の関係は妙に似ている。
ジャムおじさんの指摘は正鵠を得ていたのだ。
こんなにも短い間に、戒斗の中身を見抜き始めていたジャムおじさん。
人をよく見ていると言うべきか、流石年の功だと言うべきか。
「くだらん」
感傷に浸る柄でもない、と戒斗はパン工場の全容を改めて見渡す。
そして目を見張る。彼は信じられないものを見て、驚愕した。
パン工場の外側、壁の表面を這うように生えるいくつもの植物。
叫ぼうとする口よりも先に、走ろうとした足が先に動く。
初期段階特有の、ツルと実で形成される形状。
一見赤と青にも見える、赤紫と青紫の二色の実。
『それ』に駆け寄った戒斗は、『それ』を手に取り、『それ』の名を叫ぶ。
「『ヘルヘイムの果実』、だと……!?」
悪意なき世界。
善意に満ちた世界。
駆紋戒斗がそう称したアンパンマンの世界に迫る、『理由のない悪意』。
この世界に終わりをもたらしかねない、絶望の種がそこに在った。