あの日の奇跡と東風谷早苗について   作:ヨウユ

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柊玲奈について 5

 なるべく人が多い時間帯を見計らって電車に乗って、東風谷の家に一番近い駅を降りた頃には既に日は沈んでしまっていた。流石にあの男が人ごみに紛れて同じ電車にまで同乗していたと言う事はないらしい。無人の小さな駅であるだけにここを襲われたらさっきのように逃げ切る手段が無い。

 ここまで来れば東風谷の家までもういくらもない。何事もなければだが、農道を歩いて小山の麓まで行き、そこを登れば守矢神社だ。

 だが、事態はそう甘く運ぶことはなく、街灯もろくになければ俺と柊以外に人も居ない薄い暗闇に包まれた道に一つの人影が現れ、こちらへと歩いてくる。

心臓が一際高く跳ね上がるのが分かった。これが東風谷ならばどれだけ心安らぐことだろうか。だが、そんな儚い希望は、徐々にはっきりとしていく輪郭にあっさりと打ち砕かれる。それは東風谷の身長を優に超えた長身で、改めてよく見ると痩せ気味だ。そして、薄手のコートと帽子を深くかぶった明らかに男の体格であるそれの手元には、俺たちにとっての何よりの凶兆である長い筒。

 ああ、くそったれ。結局こうなるのかよ。

 筒から、流れるように抜き放たれるわ、あまりにも美しく妖しい刀身。月の光に濡れたその白刃は息を吐いてしまうほど美麗だ。あれがこちらへ向かって振るわれると分かっていてなお、その美しさに目を奪われるほどの不思議な魅力がある。

 ああ、確かにあれならば妖怪でさえも斬り捨てることが可能に違いない。そんな確信が抱けるほどに、神秘的な何かが男の手の中にある刀にはあった。

 柊を隠すようにわずかに俺が前に出る。後ろで、柊の息が震えているのが分かった。

 

「少年、その女に誑かされているだけならば逃げなさい。私に人を斬る趣味は無い」

「そんな真っ当なことを言うあんたは猟奇殺人ってわけじゃないな。なんで柊を狙う」

「それは人ではない。妖怪の血の混じった化け物よ。君に理解できるとも思えぬが、妖怪とは人の恐怖を糧とし、喰らうことしか出来ぬ畜生にも劣るゴミクズだ。君が命を投げ出してまでかばう価値は無い」

「違う。他の奴がどうかは知らないけど柊は違う。それに、俺にとっての柊の価値は俺が決める」

「そう思うことこそが、それの術中の内とは考えぬのか。人に紛し、人の同情を買い、隙を突いて人を殺して喰らう。そいつら化け物の常套手段だ。退きなさい」

 

 ふと、柊を見やる。

 わずか不安そうな顔をしている彼女と目が合った。

なんでそんな瞳で俺を見てんだよ。信じろよ、俺は絶対にお前を見捨てたりしない。俺を見捨てなかったお前をこの場で見捨てるなんてするもんか。

だが、おかげで一切の躊躇なく次の言葉が出てきてくれた。

 

「断る」

「血迷ったか、見てくれに騙されるとは憐れな。どかぬならば仕方あるまい。貴様ごと斬り捨てる」

 

 まあ、そうなるだろうな。

 話し合いでどうこうなる段階はとうに過ぎている。向こうに柊を見逃してやる考えは無い。ならば、最初からそんな段階は無かったのだ。だが、俺だけならば見逃すと言うのは奴がそれなりにまともな思考をしていることを証明している。だからこそ厄介だ、狂人ではなく、明確な意思のもとに奴は柊を殺しにきているということなのだから。今聞いた話からすると、奴が殺そうと執着しているのは柊そのものというより、妖怪という種か。

 

「綾崎くん……」

「柊、さがってろ。俺がなんとかする」

 

 後ろで、柊がこくんと頷いたのが見えた。

 恰好付けてみたはいいもののどうすればいい。相手は凶器を持っていて、こちらは丸腰に近い。あるものといえば財布とケータイくらいだ。荷物持ちになるだろうからと身軽で来たのは手痛い。互いに空いた距離は10メートルにも満たない。走って詰めてこられたら、振るわれる刀を何度も避けるなんて自信はない。

 だが、ここで背を向けて走ったところで逃げ場所なんて無い。俺たちが唯一頼れる東風谷の家の方面は奴の背中だ。道の幅も広くなく、下手に横を通り抜けようとすれば斬られておしまい。

 クソ、端から終わってんじゃねえか。

 奴もこちらに、自分をどうこうする手段があるとは思っていない。そのせいか刀を構えたその姿にも随分と余裕があるように思える。

 じりじりと距離を詰めてくる奴と、近づいた分だけわずかに後ずさりする俺と柊。息が詰まりそうな緊張状態の中、ふと、奴の柄を握った手に力が籠められるのが分かった。

 来る――――!

 喝っ! という叫び声と共に、奴の全身が躍動した。その動きは稲妻のごとく。当たり前だが、素人がバットやらの長物を振るうのとは訳が違った。上段にまで振りあげられた刀が振り下ろされていくのがあまりにも鮮明に映った。人は、極限の集中状態になると、周囲がスローモーションに見えるなんて話を聞いたことがある。野球なんかでも調子のいい時には縫い目まではっきりと見えたなんて語る選手もいる。ならば、俺にもそういう何かが起こったのだろう。

 こちらに向かって袈裟に振り下ろされる刃、おそらくそれなりの速さで振るわれているのであろう、その刀の波紋までがはっきりと見えるのに、それが自らに向かって来ているのが見えているのに、それが俺の体を切り裂くのだと理解しているのに。

 悔しいかな、俺の硬直した身体は、それを避けるには遠く至らなかった。

――――ああ、終わった。

 コマ送りのように景色が流れるこの世界は、俺が一秒後の自身の終わりを理解するにはあまりにも充分であった。綾崎結鷹にこの一撃を避ける術は無い。

ならば、あとは終わりを待つだけ――――のはずだった。

 しかし。

 突風が全てを吹き飛ばした。

 俺を滅ぼさんと振り下ろされる刃が雷ならば、俺を救ったものは神風だった。

 風と共に運ばれてきた香り。それは、俺にとって身近なものだ。

 目の前には、その匂いの主たる少女が、立っていた。

 風に靡く緑の髪が月光のもとに神秘的に輝き、眼前に凛として東風谷早苗が立ち塞がっていた。

 

「――東風谷」

「大丈夫ですか、結鷹」

 

 お前って奴は本当に。このタイミングで来るとか格好良すぎだろ。

 俺が女なら惚れるぞ今のは。

 

「あ、ああ」

「危ないですから下がっていてください」

 

 東風谷は、奴が居るのであろう方を見据えながらそう言う。一体今何が起きたのか、そんな疑問が湧き、東風谷の向こう側にある奴を見てみると。

 

「なんてことだ。あらゆるものを斬り、怪異を殺すために代々継がれてきた刀がこうも容易く折られるとは。並の霊力をぶつけただけではこんなことはあり得ないのだが。その齢で何者だ?」

 

 言いながら奴は、自らの手元を見ていた。そこにはもはや原型を留めていない刀であったものの柄だけが残っていた。マジかよ。さっきの一瞬で、東風谷があいつの刀をへし折ったっていうのか。

 

「ただの風祝です。厳密には違いますが巫女と思ってくれてかまいません」

「それ程の力を持ちながら、妖怪退治を生業とする者でないと?」

「はい。必要であればそういうのもするつもりですが、少なくとも柊さんにはその必要はありません。私が責任を持つので手を引いてはもらえませんか?」

「商売道具たる刀を折られてタダで引き下がれと言うのか」

「人の大切なものに手を出した罰ですよ」

「なるほど。若いながらに肝が据わっている。そして力もあるとはな。その力はおよそ現代の者とは思えない。妖怪が跋扈していた頃の猛者にも届くだろう」

「今なお残る二柱の神様お墨付きなので」

「く、はは。神ときたか。いや、貴女のような者が居るならば、私が手を下すまでもありません。この一件、貴女に預け、私は手を引きましょう。して、お嬢さん、お名前は」

「東風谷。東風谷早苗です」

「ならば東風谷嬢、気をつけるといい。妖怪なぞ害しかもたらさぬ獣以下の生き物。生かしておいて良いことは一つも無いぞ」

「……」

 

 それは、あの男の心からの警告だったように思えた。だが、そんな心遣いは不要だと、何も言わねど東風谷の佇まいはそう語っていた。その様子を確認したのかどうかは分からないが、男の姿が夜の闇の中に消えていったのを見送ると、東風谷がこちらに振り返るのが分かった。

 無事な俺たちを見て、ほっとする彼女の表情を確認すると同時に、全身の緊張が解けたのか、俺の視界は異常に明滅し、意識が遠のく。

 あ、――――れ。

最後の瞬間に見えたのはこちらへ必死に何かを呼びかける東風谷の顔だった。

 

 

 

 縁側に座って、空を見る。湯につかって火照った体に夜の涼しい風は気持ちが良い。

柊は無事で、俺たちにも怪我はない。結果を見てみれば、今回の件は最大級の成功といっていいだろう。だが、俺には達成感や満足感はとても持てなかった。柊や東風谷が無事だったのは心の底から安堵している。相手は凶器を持っていたのだ。そんな相手から、生き残るだけでなく、追っ払ったのだから凄いことだ。

では、何が引っかかっているかというと、俺だけは何も出来なかったという事実だ。

 結局、東風谷が一人で解決してしまって、ならば、東風谷に全てを一任して、俺はとっとと帰っていれば良かったのではないか。俺が居なくても、いや、居ない方がもっと簡単にこの件は処理できたのではないか。

 いや、そうじゃない。だって、柊は無事だった。なら、それはそれでいいんだ。別に困っている人間を助けるのが全て俺じゃなきゃいけないなんて、ヒーロー願望なんてないわけだし、彼女が助かればいいと思って、実際に助かった。そのことを喜ばしく思う。祝福しよう。それ以上もそれ以下もない。

 だから、俺が本当に引っかかっているのは、柊云々ではなく。

 東風谷と俺の事だ。

 そうだ。結局また、差を感じる結果だけが残った。ただ、東風谷が俺よりもずっと力を持っていて、それを行使して柊を助けた。それだけのことに、理解はしていてもやっぱり俺は引け目や負い目を感じずにはいられない。対等で在ろうとして、隣に立とうとして、それでどれだけ近づいても、いつもあいつの背中を遠く後ろから追いかけているような、そんな気分になる。

 小山の中はこの東風谷の家だけしか灯りがないせいか、空には星が幾つも瞬いていた。夜空に浮かんだ月と星とがあまりにも綺麗で、いつもよりずっと近く感じて、手が届きそうなんて感じて、なんとなく手を伸ばす。

 当たり前だが、上空にかざして握った手は星を掴めるわけも無い。

 ああ、東風谷早苗はあの星とそう変わらない。

 こんなにも身近なのに、なんて、遠い。

「結鷹?」

 ふと、背中から声がかけられた。今、想っていた相手の声が突如として背後から聞こえたせいで、肩が跳ね上がった。

「こ、ここ東風谷か? なんだよビックリしただろ死ぬかと思ったじゃないかバカヤロー」

「そんな驚かなくてもいいじゃないですか。何してたんですか?」

 言いながら、彼女は俺の隣に座り込む。ほのかに香る、いかにも風呂上りというシャンプーの匂いで、心臓が跳ね、わずかに身じろぎして、身体は反射レベルの速度で彼女との間隔をあける。そうして、わずかにあけた距離を、何を思ったのか東風谷は詰めて体を寄せてくる。

「……」

「……」

 もう一度、身体をずらすも、その分だけ東風谷も詰め寄ってくる。互いの距離が離れては近づく度に、良い香りが鼻孔をくすぐり非常に心臓に悪い。ホント、この子こういうのホンットマジでドキドキが止まらないからやめてくれる? あなたの、そのふとした仕草や行動がね、思春期男子を惑わしているという自覚を持っていただけない? 

 この様子じゃ何度やっても無駄だと思って、その妙に近い距離から目を逸らすように夜空を見上げて口を開く。

「何にも。ただ、下の方じゃこんなに星は綺麗に見えないからな、眺めてた」

「ここから夜空を見ると、天気のいい日はいつもこんな感じですよ。結鷹さえ良ければいつだって見に来ればいいのに」

「バッカ、よく泊まりに来てたガキの頃じゃあるまいし、こんな日でもなきゃ、こんな遅くまで東風谷の家に居ないっつーの。年を考えろ年を」

「花の女子高生に向かって、お年寄りに言うような言葉は謹んでいただきたいものですね」

「お前な」

 本当、心臓に悪い子ですよ。自分の言っていることの意味を理解してるんだろうか。他の男子なら勘違いして襲っちゃうレベルの発言だぞ。全く、その台詞を聞いたのが俺で良かった。なんて紳士的な切り返しだろうか、流石俺。

「結鷹、ちょっと気になるんですけど」

「どうした?」

「なんでさっき、空に手なんか伸ばしてたんですか?」

 小首をかしげて心底不思議そうに問うその姿はまるで小動物のようだ。というか。

「……見てたのかよ」

「はい、見ちゃいました」

 ……見てたのかよ。恥ずかしさのあまり声と心で復唱しちまったじゃねえか。くっそ、恥ずかしいんですけど。独り感傷に浸っていた姿が実は他人に見られていたとか、黒歴史レベル。

「べっつに。ここじゃ星があんまりにも近くに感じるから、手が届きそうだなって。ただそれだけだよ。まあ見えてはいても、本当は遥か遠くにあるもんだからな、届くはずもないんだけどさ」

「なんか、たまに結鷹ってロマンチックというか乙女みたいなこと言いますよね、もしくは中二病ですね」

「今日はおかしな日だから、おかしなことを考えついちゃったの」

「そうですか」

 ああ。本当におかしな日だ。たまたま高校の合否発表の場でぶつかっただけの女子が実は妖怪の血を引いていて、そいつが今まさに命を狙われているということを知って、そのまま凶器を持った犯人とバトルなんて、実際に体験してなきゃ笑うレベルの現実味の無さだ。

 そんな日だからだろう、柊玲奈と知り合ったからだろう。こんな、改めて東風谷とのことを考えてしまうのは。

「まあ確かに星は遠いですよね、見えているのに、どんなに手を伸ばしても科学が発展しても、私たちではあの星には生涯辿り着けないんですから。でも」

 東風谷は、そこでわずかに間を置いて。

「――――私はここに居ますよ」

 その言葉に、思わず隣を見る。同じように空を見上げているのだとばかり思っていた東風谷は、こちらを見ていた。月明かりに濡れた彼女の顔は、優しげだった。わずかな儚さをもったその表情と言葉に、思わず、息を呑む。俺の思考を、言動に含めてしまったそれを見透かされたような気がして、頭は馬鹿になってなんて返せば分からなくなって、言葉に詰まる。

 心臓の鼓動がやけにうるさい。

 視線を逸らすことを許されてないかのように、東風谷へと視線が吸い込まれる。わずかに上気した顔、こちらを捉えて絶対に放さない瞳。妙に艶やかに見えるふっくらとした唇。それらが、強く東風谷早苗という存在を主張している。

「……そりゃそうだろ。東風谷はそこにいるんだから」

 出てきたのは、こんな言葉だった。答えを避けるかのようなそれでも、東風谷は満足げに頷いてくれた。

「そういえば、柊は?」

「もう寝ちゃいました。柊さん、この頃よく眠れてなかったみたいで」

そらそうか。命狙われて呑気に睡眠取れるほうがおかしい。

「……東風谷はさ」

「はい」

「俺が柊を見捨てるとは思わなかったのか? 今回の一件。俺が我が身可愛さで柊を置いて逃げ出すとは」

 少しだけ気になった。俺には東風谷みたいな力は無い。普通の人間だ。そもそも、俺が柊を嫌う可能性だってあったはずだ。東風谷は、俺に任せるのはリスキーだとは思わなかったのか。

「正直、見積もりが甘かったというのがあります。私自身、油断してました。そのせいで、結鷹にも柊さんにも怖い思いをさせてしまいました。けど、結鷹ならきっと大丈夫だって思ってましたよ。何があってもあなたは絶対に柊さんを見捨てないって」

「なんで」

「だって、あなたはどんなに捻くれてみせても、結局、義理や人情、その善性を捨てきれない人ですから」

 そんなことを愛おしそうな表情で東風谷は言う。その表情が妙に色っぽく見えたせいで、俺の顔が、急に熱を帯びるのが分かった。

「なに言ってんだよ。俺がそんな大層な人間なわけないだろ。その証拠に友達なんざ中田くらいしかいないしな。義理人情なんざ俺からかけ離れた言葉だ」

 照れくささのあまり、必死になって否定する。動かす口がどこかぎこちない。第三者から見れば、今の俺はひどく見っともないに違いない。

「そうなんですよね、結鷹は。むしろ普段はそういうものを鼻で笑うくせに、いざって時にはそういう感情に強く動かされる。人の目につく枝はねじ曲がってるのに、根は真っ直ぐなんです。おかしな人ですよ、本当に」

「……」

「きっと、あんまりにも真っ直ぐだから、目につく部分は周りに曲げられてしまったんですね」

 彼女が目を細めて、どこか遠い場所を見る。きっと、昔のことを思い出しているのだろう。

「私は結鷹のそういうところ、好きですよ」

 他の人は何で気づかないんですかねえ、なんて独りで言っている彼女を横目に、直前の言葉に反応して、ほぼ無意識に口が動いた。

「俺も――――」

 お前の事が――――、その先を言おうとして、飲み込んだ。

「……なんて。おかしな日だから、普段は言わないようなことを言ってみました」

 そう言って、お茶を濁すように、照れくさそうに舌を出して笑う東風谷に、しかし、やはり見透かされているような気分になる。それでも、今の続きを言わなくて良かった、何を血迷ってんだ俺は。それを言ったら引けなくなる。なにかが致命的に壊れてしまうというのに。

「お前なあ……」

 満天の星がきらめく空を二人で見つめながら、おそらく、それぞれ頭の中では別の事を考えていた。

 隣に座る東風谷の気配は、いつもよりずっとしおらしい。星を見上げて、想いを馳せるなかで、彼女の頬を薄く、一度だけ伝ったものの正体を、その理由を、俺は聞けない。きっと、彼女にとっても聞かれたくないものだろう。

 人と人との関係はいつか終わりが来る。どちらかが死ぬまで友人として関係が続く相手も居れば、ふと、会うことがなくなり関係が途絶えることもある。そして、おそらく、東風谷と俺の関係は前者のようになることはないと、ずっと感じている。

そして、その終わりの間際に、俺に出来ることは一つもないのだろう。

 この一瞬を大事にしよう。時間はあまりにも膨大にあるせいで、勘違いしそうになるけれど、それでもちゃんと消費されている。塵も積もれば山となるというが、逆を言えば山も少しずつ削られればいずれ塵となるのだ。気づけば何もかもを手放している、なんてごめんだ。

 隣で、東風谷の息遣いを感じる。本来、交われるはずの無い道がこうして交差している、この幸せはいつまで続くのだろう。

 ふと、一際強く輝く星が目についた。

 半ば確信に近い予感が俺の心に穴を穿ち、その虚が俺の不安をかきたてる。

 永くは続かない、と。

 遠くてもいい。せめて、あの星のように見えるところにさえ居てくれれば、俺はそれで充分なのに。

きっと――、彼女は流れ星のように、いずれ俺の世界から消えていってしまうのだろう。

 

 

 

 後日談。

 あんなことがあったのに、普通に学校に来ていて、授業を受けて、過ぎていく時間は本当にいつも通りの日常で、あれは夢だったのではないかと思う。

 そんな現実か夢かも分からない、浮足立ったような感覚のまま四つの授業が終わってしまった。東風谷は今日も例の教室に行っているのだろう。呼び出されるまでもなく、教室を出て、あの空き教室に向かう。

 パンと飲み物を机に並べて、適当な席に座って東風谷を待っていると、がらら、と扉が開かれた。音の方を見やると、意外な人物が居た。

「……柊か」

 東風谷かと思った。

「こんにちは。残念だったわね、東風谷さんじゃなくて」

「ぶ、そんなこと一言も言って無くない?」

 なんなのこいつ。エスパーかなんかにでも目覚めたの。人の心勝手に読むのやめてくれる?

「東風谷さんが関わると、あなたは分かりやすいのよ」

「……そうかい」

 何を言っても柊に突かれてボロが出そうなので会話を断ち切る。

改めてみると、特に喋ることが無い。

 柊もそう感じているのか、他に誰も居ない教室に静謐な時間が流れる。廊下の喧噪もどこか遠く、まるで世界から切り離された空間のようだ。

 だが、意外にもこの静けさは心地が良かった。どこの誰とも知らない奴と二人きりにされた時に感じるような気まずさは、彼女に対してはない。彼女もそのように感じているのならほんの少し嬉しいと思う。

 そんなことを考えていると、ふと、柊が口を開いた。

「そういえば、綾崎くんに少し聞きたいことが」

「なんだ?」

「東風谷さんのことどう思っているの?」

「ぶふぅっ! い、いきなりなんだよ!? そういうのってもっと気を遣って聞くもんじゃないの? 親しき仲にも礼儀はあるんだよ!?」

「何を勘違いしているのかは……分かるけど、私が聞きたいのはそっちではなくて、この前の話よ。私と東風谷さんは違うって……」

「そっちかよ」

「だいたい、そんなの丸わかりじゃない」

 柊がぼそっと言った言葉は、それが俺の耳に入る前に咳払いと共に有耶無耶にした。

「まあ、あいつはさ。なんていうか、柊とってより、俺らと違うんだよ。柊も聞いてると思うんだけど、東風谷は中学の時、あいつの特殊な部分のせいで随分苦心して、一時はイジメられてた。普通、一回こういう経験したらさ、もう人間なんて信じられないだろ。他人に線引いちゃいそうなもんなんだけど、なのにさ、不思議なんだけど、東風谷は諦めないんだよ。人ってものの好き嫌い以前の根本的なところで人間って生き物を信じてるっていうか受け入れてるっていうか。俺に対してもそうだったけど、今だってあいつは凝りもせず学校で人に囲まれてるしな。生まれつき、神様なんてものが見えるせいなのかもしんないけど、あいつのそういう部分は超然としてるっていうか、本当に東風谷らしいけど、どうしてあんな風にいられるんだろうな」

 柊がきょとんとした顔をしている。なんだよ、そっちが聞いたんじゃん。

「い、いえ。そこまで熱く語られると思わなかったから。あなたって本当に……まあ今更ね」

 その先を口にしなかったのは柊なりの配慮だったのか。呆れたような表情をしたあとに一度咳払いをすると、彼女は真剣な面持ちに変わった。

「多分だけど、そんな大したものじゃないわよ。私と東風谷さんは色々違うけど決定的に違えたものは一つだけ。彼女があなたが言うように在れたのは、それはきっと――」

 ふと、こちらに眼差しが向けられる。それは優しげで眩しそうで、羨ましそうな、それでいながら見ているこちらの胸が少し痛くなるように寂しげな複雑なものだった。

「ん? なんだよ」

「いいえ、なんでもないわ」

「なんでだよ、そこまで言ってやめるとかめっちゃ気になるだろ」

「これをあなたに言うのはなんだか色々と癪だわ」

 マジかよ癪なのかよ。どこに地雷があるか分かんねーな人間て。何が悪かったのかすら分からない俺のコミュニケーション能力の欠如が凄まじいんだが。

 自分に呆れていると、扉が元気よく開け放たれ、東風谷がやってきた。ばたばたと忙しそうにこちらの席に駆けてくる。それを柊は挨拶しながら微笑ましそうに見ている。

 この場所では、クラスの中じゃ決して溢すことのない笑顔を見せる柊と、誰にでも平等に笑顔を配るようにいつも通りの笑顔を見せる東風谷。夢見心地のような一日だったが、目の前にある二人の笑顔だけがそれを現実なのだと教えてくれる。

「ふあ、眠いな」

 窓の外では桜の花びらが祝福の紙吹雪のように舞っていた。そんな春真っ盛りに、柊玲奈という少女の凍てついた時間はようやく溶け始め、彼女の長い冬が終わったのかも、なんてそんなことを二人の少女の話し声を聞きながら思った。

 

 

 


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