東風谷早苗という少女が居た。彼女とはじめて会話を交わしたのは、小学校の低学年の時だった。なんというか、彼女は少し変わっていて、その年頃の女の子が熱中するようなものよりも、男の子が憧れるような仮面ライダーやら戦隊ヒーローやらロボットアニメに夢中になるような子だった。
そんなんだから、男子の輪の中にも当然のように入ってきて、楽しそうに今週の話はどうだったとか、格好良かったとか、よく、そうやって場を盛り上げていた。
明るく話題にも富んでいて、容姿も整っていた彼女は、男子にも女子にも好かれて、彼女が右を向けば、みんなが右を向くような、クラスの中心でアイドル的な存在だった。
かくいう俺自身も、最初に彼女と話をして、仲良くなっていったきっかけは、そういうところからだったような気がする。
話すうちに、特に気が合った俺と彼女は、よく一緒にいて、遊んだし、どんな人数のグループで活動するときでも、彼女と俺の二人は同じグループで、行動を共にしていた。
ただ、高学年にもなって、異性を意識する年頃になると、学校の中では、そういうのを茶化す輩というのは出てくるもので、そういった存在のせいか、単純にお互いに異性というものを意識し始めてきていていたのか、気づけば、行動を共にすることはなくなっていき、最終学年でクラスが変わるとともに顔を合わせることもなくなった。
そうして同じ中学に進学しながらも、特に会って話すこともなく、顔も名前も知らない他人と同じように、関わることもないまま、時は過ぎる――筈だった。
「おい結鷹(ゆたか)、聞いたか? 今日、3組の東風谷さんが同じ3組の伊達を呼び出したらしいぞ! 『話があります』って感じで」
昼休み、昼食の弁当を机の上に広げていると、そんな声を上げながら、ビッグニュースだと言わんばかりに同じクラスの中田丈が駆け寄ってきて、俺の机の前に飛び出した。
「へー」
東風谷早苗と言えば、この学校じゃ有名人だ。美人であるということで、男子からの人気は高く、女子でだれだれがいいと思う? みたいな話題では名前が上がる率はナンバーワンと言ってもいいだろう。
まあ、そうでなくとも東風谷早苗のことは知っている。なにせ古い友人ではある、進行形の友人ではないが。
「へー、じゃねーよ! 東風谷だぞ、こ・ち・や。あいつすげー可愛いのに、誰かと付き合ってるとかそんな噂ひとっつも無かったじゃん!? これ告白だよなー、きっと」
そう言いながら、中田はコンビニ袋からがさがさと3つほどの菓子パンと、ペットボトルのお茶を取り出す。
「じゃん、綾鷹だぜー“綾鷹”」
「その呼び方はやめい」
明らかに小馬鹿にしたその顔の頭頂部に、軽くチョップをする。
あで、と言いながらも中田は予想通りのリアクションが返ってきたのが嬉しいのか、顔は笑みを浮かべている。
今の綾鷹とはお茶の綾鷹と、俺の名前、”綾”崎結”鷹”の略の綾鷹をかけて、ネタにしてきているのである。正直やめてほしいが、ただ飲まれるだけの飲料を責めるわけにもいかず、このあだ名はなくなりそうにない。広めたのはもちろん、目の前の男で、一時はクラスメイト全員が綾鷹を持ってくるという謎の流行が起きた程だ。結構売り上げに貢献しているんじゃないだろうか。
今は落ち着きを見せているが、中田をはじめとして、クラスの男子はおろか、女子すら時折、思い出したように、綾鷹を買ってきて俺のことを呼ぶのだ。
そういえば、確かに不思議と東風谷が誰かと付き合っているという話は聞かなかったな、今まで。
「容姿が良いと大変だな。告白するってだけで別のクラスにまで話題にされて」
3組と言えば、サッカー部の顧問が担任で、故意なのか偶然なのか、サッカー部の男子のほとんどが3組に所属しているとよく聞く。
中学最後の年のクラス替えということもあって、そんな権限があるのかは知らないがその担任が気を利かせたのかもしれない。
あと、偏見かもしれないが、サッカー部っていうのは全員が全員とは言わないが、顔がそこそこ良いのが揃っているイメージが俺の中では出来上がっている。
ついでに素行悪い率が高いのもサッカー部、次いで野球部である。ま、偏見だけどね。
「まあ、話題になるのはイケメンや美女の運命よな、ふつーの奴がふつーの奴と付き合うなんて話は身内以外には何も面白くないわけで。てか、伊達っていえばサッカー部のエースだぜ!? しかもチャラそうな感じのイケメン。やっぱ男は、ちょっと悪い感じの奴の方がモテるのかね?」
中田曰く、その伊達というのはイケメンらしいが、正直記憶にない。
ちょっと悪そうだからモテるのではなく、イケメンだからモテるんだぞ、とは敢えて訂正しないでおいてやる。
3組の男子連中の印象と言ったら、今年の6月に行われた球技大会の種目のサッカーで無双していたという記憶がほとんどで、個人個人の顔までは覚えるに至っていない。
関係の無い話ではあるが、普段、授業を真面目に受けてない不良もどきが、体育の時ばかりは真剣にやって、適当に手を抜いてる奴を責めたりするのは、学校あるあるだと思う。
元から人の顔を覚えるのが得意でない俺は、同じクラスになった人でも無ければ名前も顔もおぼえていない。
サッカー部と言ったらあいつ、と顔が浮かんでこないということは、どうやら、俺はサッカー部員とは縁がないようだ。
ただ、3組は学校全体の行事――学校祭等では中心となって動くことの多いクラスで、何というか、三年の全5クラスの中では最も力を持ったクラスだという印象はある。
声の大きいだけの連中とも言えるが。行事を盛り上げるのはそういう声の大きい人間たちなので仕方ない。私立でもない中学の行事などたかが知れているというのにご苦労なことである。
「まあ、ぱっとしないのよりは良いんじゃねーの?」
そんな素直な感想を口にしながらも、どうにも、嫌な予感が胸中を巡っている。小学校時代の東風谷のままであるとは限らないが、どうにも引っかかる。彼女はそんなそこら中で話題になるような呼び出し方をして、恋愛ごとで悪目立ちするようなことを好むような性格では無いはずだ。
少々天然が入ってるが、本当に人が嫌がるような迷惑は、かからないよう相手に気は配れる人物だと記憶している。
若干の個人的感情も混ざっているかもしれないが、妙な不安だけが、1日中続き、そのままその日は終わった。
次の日の1限目の授業を終えた休み時間。結局、東風谷と伊達の話はどうなったのだろうかと思っていると、タイムリーなことに中田が、俺の机の前に来て、空いている前の席に背もたれの方を前にして大股を開いて座る。そして、昨日とは違って、少し、小さめの声で周りに聞こえにくいようにして言った。
「なんか、東風谷さん今3組ですげーイジメられてる」
「は?」
その言葉が、一瞬どういう意味だか理解できなかった。
いや、意味は分かった。しかし、何故?
伊達が告白されたとして、振ったからイジメるのか? それは何というか、あんまりではないか。
告白されて断るまでは分かる。伊達というのがイケメンだというのならモテるのだろうし、付き合っている彼女だって居るのかもしれない。だが、そこからイジメというのは、要因と結果が飛躍しすぎてどうにも辻褄が合わない。
「東風谷が告白したんだろ? それで、イジメ? 意味わかんね」
「いや、なんつーか。その、告白は告白だったけど、いわゆる愛の告白じゃなくてさ……」
中田はどうにも気まずそうに後頭部を描きながら、視線を俺の左側へと外して次の言葉を言った。
「“私の仕えてる神様が消えそうなのでどうか信者になってください”って、言ったらしい」
その言葉を、東風谷が言っているのを想像したのか、嫌悪感を露わにして中田は顔を顰める。
対して、俺は言葉を失った。
なんてことを言っているのだ、あいつは。昔のことを思い出す。まだ、東風谷早苗と一緒に遊んだりしていた時期。そこに思い当たるフシはある。
が、そんなことを吹聴したら周りがどんな反応をするか分からない能無しではなかったはずだが。
「やべーよな。宗教勧誘だろこれ、しかも超マジな表情だったらしいぜ。告白されると思って行って、そんなこと言われたら鳥肌立つわ俺」
てか想像で鳥肌立った、と弱った笑みを浮かべて、中田は腕を捲って見せてくる。
やめろよ気持ちわりー。
「あーあ、天は二物を与えずってマジだな。学校一の美少女が、変な宗教に引っかかってるとはね」
冗談のように口にする中田だったが、正直笑えない。笑えないどころか、少し苛ついてる自分がいる。
「で、それがイジメの原因?」
わかりきったことを聞く。
「まあ、それでしょ。あのクラスは伊達のサッカー部の仲間ばっかだからすぐ広まったんだろうし、東風谷さんくらい可愛い子なら女子は元々快くは思ってなかったんじゃね」
女子にとっては案外丁度良い機会だったんじゃね、と中田は言う。
ああ、おそらくはそうなのだろう。東風谷にとっては不運にも、良くない環境が揃っていたのだろう。繋がりの強いサッカー部員ばかりのクラス、その中心人物であろう伊達への普通では考えられない告白。
クラス内で、東風谷がどんな人間関係を構築していたかは俺の知るところではないが女子からの嫉妬や羨望でだけで済んでいたものは、この機会に多大なる悪意を持った行動へと変貌したのだろう。
クラスの中心たる人物たちから嫌われるということは、他の奴らにとってイジメの許可証を与えられたようなものなのだから。
そして、そんな彼女を助けようとする人間はきっといない。敵に回した相手が、生徒間の中では大きすぎた。スクールカーストの中で、頂上に存在する連中に悪意を持たれてしまったのだから。
はあ、と息をついてから席から立ち上がる。
「お、どうしたん」
「少し、花を摘みに」
「はあ?」
「便所だよ」
「もう授業始まるぞ?」
中田は時計をちらと見やってから、真意を探るようにこちらへ顔を向ける。ただトイレに行くとは思っていないらしい。中学1年から三年の今まで偶然にもずっと同じクラスという付き合いの長さのせいか、こいつは、こういうとき妙に鋭い。
「いいんだよ」
「ふーん」
正直に答える気のない俺の様子を見て、大体を察したのか、中田はそういって興味を失ったように――より正確には、興味を失ったふりをして――自分の席へ戻っていった。
俺はその姿を見送ってから、廊下へ出る。教室を出るときに再度時計を確認したところ、授業が始まるまでに、もう二分もない。だが充分だ。俺のクラスは1組。目的地は当然3組だ。
3組までは教室を一つ跨いだだけで、教室間の距離なんてたかだか数メートルなので、距離としては近い。それと、他クラスの人間との親交があるかということは別であるが。
都合の良いことに、3組の扉は、開けっぱなしで、外からでも中の様子を容易に見ることができた。
通り過ぎるふりをして、中の様子をそれとなく観察する。進行方向は便所だし、ついでに用をたす。そのつもりだった。
廊下から見た教室内の景色は、異様だった。 この小さな教室がこれ程までに下衆で悪辣な空間になりえるのか、とそう思うほどに。
誰も座っていない席の机の上と、椅子の上に、おそらくその席の主である人物の弁当がぐちゃぐちゃにぶちまけられていた。 そして、クラスの誰もが、遠巻きにその惨状を見て、あるいは誰かと話しながら、くすくすと笑っている。
幸か不幸かその席の主は教室内には居ない。だが、その席の主が誰であるかなど、想像するまでもなく察せる。
ただ様子見をして通り過ぎるだけのつもりが、立ち止まっていた。
たった一日でこうも変わるのか。昨日の昼休みから今日の一限目の休み時間とでいくらの時間があったというのか。
教室内の様子に、思わず顔を顰める。
中田はこの景色を見て、ああ言ったのだろうか。それとも人づてに聞いた話だったのだろうか。
もはや思考は止まり、その光景には怒りすら湧いてこない。
ぼんやりと、その醜悪な、教室という箱庭を見ていると、唐突に誰かに肩を叩かれた。
「おい、授業始まってるぞ。このクラスの生徒じゃないだろ、君。自分の教室に戻りなさい」
3組の2限目の科目の担当教員だろう。少し、太めの彼は、むっとした表情でそういった。
「あ、はい。すいません」
はっとして答える。返事を待つまでもないとしたのか、既に彼は3組の教室の中に入ってしまっていた。
そして、同時に少しばかりの安堵を覚える。本人のいない机の上が、本来なるはずのない様を成している。さすがに良識のある先生ならば、どうにか対処してくれるだろう。
そう思って、注意に逆らい教室内をしばし観察する。
だが、その教師はその机上の異常に気付かなかった。否、視線を向け、気づいて尚、ないものとした。気づかぬはずがないのだ、廊下から覗き見るだけでも分かった、その異常に。
板書の前に立ち、教室全体を見回したのなら、気づかぬはずがない。
それでも何の言及もしないということは、暗黙の了解として、それを見なかったことにしたということ。
面倒だから?
生徒に敵意を向けられたくないから?
そうして、放っておく方が楽だから?
疑問は尽きなかったが、はっとして、踵を返して自身の教室に急ぎ足で戻る。
何故か。
その後ろで、教室に居づらくて、どこかに行っていたのであろう、彼女のものらしき足音が聞こえてしまったから。