ああ――――風が吹いている。
最後に交わした言葉を、今でも覚えている。
別れの間際に出てきた言葉は結局、痩せ我慢で、彼女となんとか対等で在ろうとする傷だらけの意地だった。それでも、彼女の前ではずっと頑なに守り続けていた、大切な意地だった。
本当は……。
本当は行かないでくれ、とそう言いたかった。
抱き締めて、縋りついてでも、どんなことをしたって。彼女には俺の隣に居て欲しかった。
そのことが、東風谷早苗という女の子の二柱への愛を、信仰心を汚すものだったとしても。でも、そんなことできるわけが無かった。行くな、なんて言えるわけが無かった。
真にあの少女を想っているならば、その背中を押してやらなければいけない、と自分でも馬鹿だと思うけどそう感じて、あんな言葉を言ってしまった。
俺には引き留めることが出来なかった。
だから、代わりに。
待っていてくれと、必ず追いつくと、約束したのだ。
それでも、ふと考えてしまう時がある。
もし、あの時に抱き付いて、行かないでくれなんて頼んだら、あの少女はこちらに残っていたのだろうか。
分からない。
けど、仮にその結果俺を選んでくれたとして、そうして彼女がこちらに残るのは違う。
それは違うと、そう思う。
そんな風にして傍に居たって、残るのはわだかまりだけだ。そんなものは偽物だ。彼女とだけは妥協をしたくなかった。お互いに大切だと想ったから、だから、その両者が尊いとしているモノを汚してはならない。俺の為にあいつが何かを捨てる必要なんてない。それは逆も然りだろう。
だから、あの選択は正しかったと、信じてる。
あまりにも早く流れる時の中で、こんな俺だから色んなモノを失ったけれど、それでもあの約束だけは忘れてはいない。
あの少女は最後に待っていると言ってくれた、その言葉を頼りに、俺は歩く。
彼女の姿は一向に見えないけど、歩いていれば、探し続けていれば、いずれその場所に辿り着くと信じてる。
実体の無い幻を掴むようなこの約束が、他人から見てどれだけ愚かで、間違っているとしても。
この先にあの少女が待っていると言うのなら。
さあ、行こう。
俺の願いは昔からたった一つで。
それは、東風谷早苗という女の子と一緒に居たいということだけなのだから。
――――時折、夢を見ます。
全ての境界があやふやになったそこでは、幻想と現実の境界さえ曖昧でした。
そんな夢を通して見るのは、ある一人の男の子の旅の景色。
外の世界に残してきてしまった大切な人。
彼は、私と別れてからずっと、愚直なまでにこちらへ来ようと歩き続けていたのです。
どうやって行くのか、どうすれば辿り着けるのかすらも分からない彼の旅路の終着点、それはもう、果てのない砂漠を独りで歩くのと同じ、終わりがないと言っても過言ではありません。
それでも、ただひたすらに歩いて、年月が過ぎるごとに傷ついていく彼を見ていると、抱き締めてあげたくなります。声をかけて、届けてあげたくなります。
私はちゃんと見てます、私はここであなたをずっと待っています、と。
誰が見たって、彼の人生は切ないモノでした。
全ての人に忘れられ、彼自身、本当に在ったのかすら分からなくなっていくモノを追い求める。そんな彼を、その周囲の人たちの何人かは止めようとします。
そんな人は居ないのだと。そんな場所は無いと。
そう言って彼を止める人の中には、彼の親友である少年と、彼と私の共通の友達でもある少女がいました。
そう――――こんな約束を果たそうとしなくても、彼にはもっと色んな人生の歩き方があったのです。
そうなったら私は少し寂しいけれど、彼は優しい人ですから、いずれ素敵な相手を見つけて、その人と生涯を穏やかに歩むことだって出来たでしょう。
こんな、人の居ない荒野を歩くような真似をせずとも彼にはきっと、幾つもの幸せな人生があったのです。
私には、彼以外に外の世界に心残りはもうきっと、ありません。
淋しくはある、懐かしくもある。
でも、全ての人が私の事を忘れた時点で、忘却した彼らと私とは、完全に無関係に各々の人生を歩くのですから。
だから、未だ私との約束に囚われて、交わした約束を果たそうとしてくれている彼だけが、唯一の心残りでした。
会えないまま終わってしまったら悲しいけれど、それでも彼が幸せに生きられる道を辿ってくれたなら。それは一つの結末として、私にとっても納得がいく終わり方なのです。
だから、途中で彼が約束を諦めたって責める気なんて微塵もありませんでした。
まあ、そこで立ち止まるような人なら私だってどれほど気が楽だったか、と追わせておいて酷い奴だって思うかもしれませんが、そんなことを考えてしまいます。
親友である少年の心配からの忠言と、仲間である少女の仄かな恋心からの制止、それを、やはり彼は振り切って歩いていくのです。
そうして、彼は独りになったのでした。
馬鹿な人です、本当に。
きっと、人並みに幸せな人生を送るのに、揃っていた大切な人たちを自分から手放してしまったのですから。
そこまでして約束を果たそうとする彼を、私は嬉しくも感じますが、同時に悲しくなります。やはり、あの時に無理やりにでも忘れさせてしまっていた方が、彼の為になったのではないかと後悔してしまいます。
以降の彼を、蔑む者は決して居ません、けれど、理解して寄り添って歩いてあげる人も居ませんでした。
それは当然のことです。
彼の歩みは、外の世界の誰もが知らない場所へと向かっていたのですから。その想いを共有する相手など、存在する筈も無かったのでした。
彼は未だあの日のまま、あの狭間に居るのです。身体を外の世界に置きながらも、心は遥か遠い、この幻想郷を追い求めて。
多くの人が彼の元から離れていき、それでもと歩き続けるその姿には、つい、かつての自分と重なってしまいます。
あの時は彼が私を救い出してくれました、なら今度は私が、と思って夢の中で手を伸ばします。
けれど、それは決して届くことはありません。それほどまでに、私と彼は離れた場所に居るのでした。
たったの一人、大切に想う人の力になってあげることすらできない私が神様なんて、嘘みたいです。あまりの無力さに、何で私はこうなんだろうって思ってしまいます。
すぐにでも壊れてしまいそうな彼は、休むことも無くそのまま、独りで歩き続けます。過ぎ去った日々に、在ったかもしれない未来になんて目もくれず、ただ、幻想の世界を目指して。
その一途な在り方には、胸が裂けそうになります。
こちらから干渉して彼を呼び込むことは、おそらくそう難しいことではありません。外の世界では浮いていた私が、その全体のほんの一部でしかなくなってしまう、それだけの力を持った者たちがこちらにはたくさん居るのです。
けれど、彼は言いました。
自分の力で私の元へ行く、と。
それを、その想いを裏切ることが出来ないから、きっと私の胸はこんなにも苦しいのでしょう。
たまらなくなって、ある日ある人に私は問います。
“彼が、自力でこの場所に来ることは可能なんでしょうか?”
それを聞いた幻想郷の賢者は、私にこう答えました。
“そうね、できる、と言ってあげたいけれど、それはほぼ不可能と言っていいでしょう。可能性はあるわ、ゼロじゃないことを可能だと言い切れるなら。しかし、それを為すには本物の奇跡が必要よ。貴女たちが転移する際に外の世界の山に残った、こちらとあちらとの結界の、僅かな歪み。それに侵入するなんていう、触れることも見ることも出来ない、小さな針の穴に自らの手に持った糸を通すような、そんな途方もないことを為すだけの奇跡が”
“……”
“それに、こちらとあちらでは時の流れにズレがあるわ。彼がやろうとしているのは不正にこの世界に立ち入ろうとすることに他ならない。貴女たちのように正式に幻想入りしたわけでも、私が招き入れた訳でもない彼が、この幻想郷の過去未来あらゆる時代の中で、今の貴女が居る此処を引き当てるのがどれだけの業なのか、貴女なら理解しているでしょう、東風谷早苗さん”
“でも……、それでも、私は――――”
彼女は、私に暗に諦めろと、そう言います。私と彼とでは違い過ぎたのだと、そんなことを言うのです。
けど、諦めるなんて有り得ません。
それに、それだけで充分でした。万に一つでも、億に一つでも可能性があるのなら、彼の歩みが無駄でないのなら、私は前を向いて歩き続けなければいけません。
だって、彼の方がきっと辛い思いをしているのですから。
私はこうやって、また彼の旅の軌跡を追って、彼が歩み続けていることを知ることが出来ます。
けれど、彼には、私がまだこうして待ち続けているなんて、確信することはできないのですから。
それはきっと、不安で、恐ろしいことでしょう、もし、自分の辿り着いた場所に、待っている筈の人が居なかったら、試みの全ては無意味になってしまうのですから。
けど、そんな心象の恐れなんて彼は人の前ではおくびにも出しません。
彼はそういう人です。
健気なまでに、私が待っていることを信じて心の支えにして、ただ約束を果たす為だけに過ごす日々。
それが、過酷でないはずが無いです。
そんな彼が歩みを止めないのに、私が立ち止まるわけにはいかないでしょう。
彼が私に追いついてきたときに、胸を張って彼に逢えるように。
ただ、彼の旅路の幸福を祈って、私は今日もこの幻想郷を駆けるのでした。
いずれ、彼がこの場所に辿り着くのだと信じて。