ああ――――風が吹いている。
懐かしいものを見た。
輝かしい、眩いほどの夢を見ていた。
おそらく人生の最盛期たる時代を夢に見ていたせいか、いまだ微睡みの中にあるような心地だ。それでも身体はまるで糸に繰られたように立ち上がって、歩くことを再開する。
不思議だ、彼女との記憶、その全てが霞んでいたというのに、今では鮮明に思い出せる。
不思議だ、石の階段を登る脚が、こんなにも軽いだなんて。
不思議だ、疲れ果て、朽ちかけていたはずの体が、心が、こんなにも潤っているのは。
そんな不可思議を体験しながら、何かに導かれるように秋の色彩の豊かな山道を歩いていると、一陣の風が吹いた。
風に吹き付けられて紅葉が舞うのと同時に、肌にまとわりつく、普段とは違った空気のようななにか。
それで気づく。
おそらく、ここは自分の居た元の世界ではないのだろう。
そんな不確かな淡い期待を抱きながら階段の先である上を向いて、この身は次第に確かな意思をもって歩きだす。
空は青く澄んでいて、照り付ける日差しが、少し眩しい。
吸い込む空気は清く、呼吸をするごとに生き返るよう。
歩くほどに、くたびれた身体はかつての若々しさを取り戻していく。
枯葉の敷かれた道を踏み締める毎に体は洗われるようだった。
今までの旅路での歩みを思うと、ここは極楽か。
軽い足取りで山道を登っていると、いつか見た鳥居と、神社の一角が目に入る。
無いはずのものがある。
俺の世界から消えてしまったはずのものが、確かに、ここに。
それで、確信に至る。
ああ、間違いなく辿り着いたのだ。そのことに、思わず涙が零れそうになる。
けれど、まだ早いと、逸り、溢れそうになるのを堪える。
久しぶりに会ったときの顔が、泣き顔では格好がつかない。俺はせめて、彼女の前では格好をつけていなくちゃいけないのだ。
とても懐かさを感じさせられる景色だ。
随分と歩いた、歩いてきた、振り返っても誰も居らず、先は果てが見えなくて、孤独であまりにも永い旅だったように感じる。
人の波に逆らって歩いてきたような人生だった。社会に出て働くようになってからは、特に。
職場の仲間とも日々仕事で行動を共にしながら、その心は別のところにあった。真に友達と言えるような親しい仲の人間は、高校を卒業した時に俺の方から関わりを絶ってしまった。きっとそれを最期に、俺の関心は、あの世界には無くなってしまっていたのだ。
だから、旅の最中に何を失うことになったのかなんて、もう覚えてはいない。現世の多くの人が尊いとして守り続けている何かが、俺にとってはそうでもなかったのだろう。あの日からずっと、俺が大切に想い続けるものはたった一つで、それは他の人には理解のできるはずのないものだったのだから。
山道を登り終えて鳥居の向こうを見ると、いつか見た神社の境内が広がっていた。
視界いっぱいに広がった神社の拝殿の御前。
そこには落ち葉を竹箒で掃く、青と白の珍しい巫女服を着た、懐かしい少女が居た。
ああ――――。
果ての見えなかった旅はようやく終わりを迎えたのだ。
あれから十年経ったはずだというのに、彼女の姿はかつてのままで、昔と全く変わっていない。そんな彼女と朽ちかけた自分とが釣り合うのだろうかと、再会を目前として、改めてそんな疑問が湧く。
だが、元より、彼女と俺とでは釣り合っている筈も無かったと昔を思い出して、その不安を掻き消す。
年甲斐も無く今すぐにでも思いきり名前を呼んで走り出したい衝動をどうにか抑えて、彼女の元へとゆっくりと歩く。今までの歩みを、旅の最期を噛みしめるように。
歩いていて、ふと思う。
おかしい、色々と話したいことがあったはずなのに、いざ目の前にしてみるとどうにも何から喋ったらいいのか分からない。
元気だった? 俺はちょっと大変だったよ、とか、そんなことから話しはじめればいいのだろうか。
あれも違うな、これも違うな、なんてそんなことを考えながら歩いていると、彼女がこちらに気づいた。
彼女は一度、目を大きく見開いて驚いて見せてから、優しげに微笑んで俺が来るのを待つ。その顔を見ることをどれだけ待ち焦がれたことか。
――――やっと追いついた。
ずっと追いかけていた彼女の前に、ようやく立つ。
ああ、この場所はやはり良い。
彼女の傍は、なんでこんなに居心地が良いのだろう。
先ほどまで何を喋ればいいのかも分からなかった筈なのに、彼女と目が合うと、自然と言葉が出てきた。
「待たせたな、早苗」
その声は、驚くほどに若く、本当にかつての自分に戻ったようだ。そして出てきた言葉は、溢れる感情に比べて、おかしなくらいに簡素で短かった。
まるで待ち合わせの時間に少し遅れただけのような、そんな言葉を聞いた彼女の瞳は揺れて、こぼれそうな涙を堪えるように口を噤む。そんな顔がとても可愛い。
かつてと変わらないように見えたが、こうして間近で見ると、前よりは少し大人びたような気もする。そんな印象も、今の涙を堪える表情で台無しではあったが。黙っていれば大人びた落ち着いた雰囲気の女性であるのに、仕草や態度は少し子供っぽい、そんなところも可愛いと思う。まあつまり、どんな表情や些細な仕草でもそれをするのが目の前の女の子であるなら、なんでも美しいし可愛いのだ。
そよ風が吹いて、彼女の綺麗な緑の髪がわずかに靡く。彼女を象徴する、その緑の髪は全ての始まりだった。
時間の流れはあまりにも穏やかで緩やか、二人だけのこの空間は、待ち望んでいた光景だけに、夢の世界のように現実味が無い。
二人の間に吹きつける風は静かで優しく、まるで俺と彼女との再会を祝福しているよう。
撫でるような風の中で、彼女は太陽のように笑って、いつかの日に聞いた言葉をその小さな口は紡いだ。
「遅いです。どれだけ待たせるんですか、結鷹は」
「そう言うなよ、これでもすっ飛ばしてきたんだ」
「そうみたいですね」
くすり、と彼女はくすぐったそうに笑う。
片方は追い続けて、片方は待ち続ける、それを生涯かけて行っても果たされるかどうか分からない、泡沫の夢のような約束。
互いが互いを信じ続けてもなお、為せるかどうかという奇跡。
それがここに果たされたのだ。
きっと、終わり方としては最上だろう。
だけど、と、ふと思い出す。
ああ、そういえばもう一つ、俺は彼女に言わなくちゃいけないことがあったのだった。
それは彼女との再会の約束とは別のものであったが、俺にとっては同じくらい大切なことだった。
別れの時、彼女との約束と共に密かに己自身に誓いとして打ち立てた、ただ一つのこと。
再びまみえたのなら、秘めたままだった自分の気持ちを彼女にちゃんと伝えようと誓ったのであった。
いざ口にしようとするとそれは、照れくさくて、とても言えたものじゃない。世界のどこかの誰かは、当然のように囁き合っていたりするのかもしれないけど、俺にとって、相手に自らの存在を委ねるに等しいこの言葉は本当に特別で、彼女を困らせないためにも最後まで口には出さず秘匿すべきものだった。
けれど、それを伝えるなら、今をおいて他にないだろう。
きっと、ずっと想っていたけれど、最期まで口にすることが出来なかった、たった一つの言葉。
俺の東風谷早苗への気持ちをたった一言であらわしたそれを、今こそ声に出して紡ぐ。
「早苗、お前が好きだ」
唄うように、短く伝える。結局のところ、頭を巡り心に在り続けた彼女への色んな想いはその一言に集約されていて、口に出してしまえば、本当にどこにでもある安っぽい台詞だった。
そう、こんな言葉を伝える為に、十年も歩いてきたのだ。けれど、それを聞いた彼女は顔を紅潮させていて、恥じるように両手を胸の前に持っていくと、はにかみながら確かにこう答えた。
「はい、結鷹。私も……私もあなたが大好きです」
互いへの想いを言葉に乗せて交わした。そうして二人は互いに手を取り合って、大切な者が傍に在ることを確かめ合うように笑い合う。そんな二人の幸先を示すように、幻想郷に優しい豊かな風が吹いたのであった。
これで、少年と少女の奇跡の話はおわり。
もう二人は、どちらかを待ったり追ったりするようなことはない。かつてのようにすれ違いがいながら、傷みを負いながらも、歩み寄っていく必要もきっとない。
なぜなら、互いを遮っていた境界は既に無いのだから。
いや、おそらく、そんなものはもうとっくに無くなっていた。彼がこの幻想の地に足を踏み入れたその瞬間に。
二人が、再会の約束を果たそうとし続けていくうちに。
あるいは。
別れの間際の二人の間にひとつの約束が交わされた、その時から。
これから少年と少女はつないだ手を離さずに、寄り添って生きていく。
互いに愛しいと想った者を隣に感じながら、ずっと。
そうして、忘れ去られたモノが行き着く幻を想う郷にて、彼と彼女の物語は続く。
――――きっと、いつまでも。
長らくお待たせして申し訳ありませんでした。もう覚えている人はいないかもしれませんが、もし首を長ーくして待ってくれていた方がいましたら、その方には感謝と謝罪を。
一段落書き終わった段階で使用していたノートPCが壊れ、もやもやしながらももう一度書き直す気にはなれなかったんですが、この度、ふと思いたってデータのサルベージに成功したので当時出来上がっていたものをそのまま投稿した次第です。
当時は、この後のお話とか、間の話とかいろいろ書こうかと考えていましたが、とりあえずは完結となります。
本当にありがとうございました。