東風谷と昼休みを過ごすようになって、三日目の放課後。
東風谷と一緒に昼飯を食べるのも三回目になっても、案外俺の学校生活は平和なものだったが、3組での東風谷の状況は相変わらずのようだ。
それもどうにかしてやりたかったが、流石に学校に居る間、ずっと一緒に居てやるわけにもいかないし、できない。
はて、どうしたものかと考えていた今日この頃だったが、ついに3組の御大の逆鱗に触れたらしい。
伊達がわざわざ、1組まで来て俺を呼び出しに来た。思ったより早かったとも思うし、案外遅かったなとも思った。
ひと月に二回ほど当番制で訪れる男女二人でやらされる黒板消しや教室の窓の戸締りをする当番だった俺は中田と話しながら作業をしていた。もう一人の当番であるはずの女子の方の、相田は、吹奏楽部の練習があるとか言ってさっさと教室を出て行ってしまったが。
だらだらと駄弁りながら居残っている者や、宿題や自主勉をしている者で、まだ賑やかなくらいな教室に、意外なことに1人で来た伊達に名指しで連れ出されることになり、人気のない屋上へと来ているのであった。
「サッカー部なんだってな。部活はいいのか?」
連れてこられはしたものも、特には話をするわけでも、殴りかかられるわけでもなかった。伊達、彼との無言の空間は、俺にはどうにも居心地が悪く、心底どうでも良い話題を探しあて、俺から声をかける。
「今三年の秋だぞ。夏で部活は引退だろうが」
伊達は、何言ってるんだお前、とそう言いたげな顔をする。
そんな馬鹿を見るような顔しなくても……。
「ああ、そうか。すまん、吹奏楽とかは三年でもまだやってたりするからさ」
やってなかったら相田を恨む。吹奏楽で使っているであろう楽器の口付けるとこぺろぺろ舐めてやる。
うえ、絶対無理。
「……お前さ、あの噂聞いてるか?」
どうでも良い話を切って終えて、本題に入ったのは伊達の方からだった。あの噂とは、十中八九東風谷の告白のことだろう。
「東風谷のことか?」
これで違うなら、途端になんで呼び出されたのか分からなくなる。ちなみに違ったら速攻帰宅する構えである。
「なんだ知ってるのか。言っとくがマジだぞ」
それは伊達なりの忠告のように聞こえた。
「知ってるよ。噂で聞いたのと同じようなことを俺も東風谷に言われたからな」
「それでもまだあいつを?」
「まあ、旧い付き合いだからな」
答えるのに葛藤は無かった。一度は迷ったが、とっくに決意は固めた。問われるまでもない、何があろうとも俺からあいつを嫌うことはしない。
はあ、と伊達はため息をつく。
「俺は……あの言葉を聞いたときに、マジでこいつは無理だと思った。これでも、あんなの聞かされるまでは、気になってたんだ。これまでにも女子から何度か告白されたけど、どれも断ってきた」
意外なことに伊達は一途であったらしい。東風谷に期待などせず他の女子の相手をしていれば、彼の青春は、より彩られていたのかもしれない。
しかし、そんなことを語られたとて俺が心底に溜めているこいつらへの怒りは変わらない。
「だからって、イジメるか普通?」
抑えようとするが、少し声を荒げてしまう。普段は、発散する勇気がないというのもあるが、抑制させているものが伊達との一対一の状況になって溢れそうになる。
おそらく伊達から見た俺の目は、怒って睨んでいるに違いない。
東風谷のイジメの原因の当事者を目の前にして、その理由が逆恨みにも等しいものだとしたら、心中が穏やかなままではいられるはずがなかった。
「その気は無かった、つっても意味ねえか。もうそうなってるわけだしな。同じクラスのサッカー部の仲間は、俺が東風谷のこと気にしてたのを知ってたから、東風谷の方から呼び出された時は全員で妙に盛り上がってよ。で、例のを隠れて見てやがったあいつらにも聞かれてな」
伊達には、彼なりの弁解があるらしい。正直、聞く耳持たず、怒鳴って立ち去ってしまいたいという心持ちだったが、彼の自嘲気味な話し方がそれを実行することを止まらせ、黙って話を聞くことにした。
「あっという間にクラスに広まってあのザマだよ。一回そうなっちまった空気は歯止めが効かなくて、参ったよ。当事者の俺や仲間よりも、クラスメイトの女子や他の男子の方がノリノリでやっていて、どうにもならなかった」
どうやら東風谷のイジメに関して、彼自身は乗り気ではなかったらしい。そんなの俺にはひどい言い訳にしか聞こえなかったし、事実、言い訳でしかないだろう。
右手が少し痛むのを感じて、見やると、気づかぬうちに握り拳を作っていた。
伊達がもし、そんな言い訳をするためだけにここに俺を呼んだのなら、逆に殴りかかってしまうかもしれない。
「でも……無理にでも止めなかったのは正直腹いせもあった」
それは、伊達に芽生えた東風谷への敵愾心。
腹いせ。気になっていた女子からの呼び出し、それに応じて告げられた言葉は、あまりにも期待から外れていた。
神様を信じるか、などという言葉をあまりにも真剣に吐き出す東風谷を想像すると鳥肌が立つと言ったのは中田であった。
では、伊達はどう彼女の言葉を受け取ったのか。
やはり、受け入れることはできなかったのだろう。彼が東風谷に抱いていた好意は削がれ消え失せ、嫌悪と拒絶の気持ちが取って代わったというなら。
その思考は理解できなくはない。
しかし、共感はできない。同情もしない。しようとも思わない。
東風谷早苗が神というものを本気で信仰していること、その部分に関しては、俺は克服した。
「……それだけだ」
伊達は視線を斜め下に落として床を見つめる。
「そうか」
「こんなの、いつもツルんでる連中に言うのも変だし、でも吐き出しときたくてな。東風谷のことを気にかけてる綾崎に言うのが丁度良いと思ったんだ」
東風谷と俺が屋上に向かっている姿は3組の人間の多くに見られているだろう、伊達も例外ではない。
最初みたいに教室の中まで入って行きはしないが、3組の教室の前まで来て、東風谷にそれとなく俺の存在を知らせて、廊下で合流するために、目につかない筈が無かった。
邪魔されるのではという危惧はあったが、案外、昼食に妨害が入らなかったのは、彼が特に手出しをしなかったからなのかもしれない。
「……そうか」
こちらへ顔を向けて、口を開いた伊達の眼光には確かな決意の意思が宿っているように見えた。
「……クラスの東風谷へのイジメは俺らでなんとかしておく」
伊達の様子からして、今この場で思いついた程度の考えではないのだろう。東風谷のイジメに積極的ではなかったとはいえ、庇うこともしなかったのを、腹いせ、と彼は表現した。
だが、同時に東風谷への不憫と罪悪感に近いものを覚えてはいたのだろう。
人間っていうものは不思議なもので、一見、同時に存在しないように思える感情が混ざり合う。
怒りを覚えた対象へ、その怒りを振るうことを是としたのに、一方でその行為を後ろめたく思う気持ち。
そういった感情が、伊達にも働いていたのだ。
「それは助かる。クラスが違う俺じゃそこはどうにもできないし」
それがありがたいことなのか、そもそも原因が向こうにあることを考えたら妥当なのか、判断を下しかねるが、とりあえずは礼を言うべきだろう。
握り拳は解けていて、伊達を殴ろうなんて気は、失せていた。
こいつのことは許せないけど、俺の中では折り合いがついた。伊達の方もこれ以上に東風谷について話すことはないだろうし。
それに、イジメとは別の部分で、おそらく伊達がぶつかった壁は、俺の恐れているものと同質のものだ。東風谷早苗と言う人物と付き合っていくうえで、いずれ目の当たりにする明確な境界。俺が先送りにして見ないようにしているそれを、伊達は早々に発見し、拒絶しただけのこと。
そう思うと、伊達が東風谷を嫌うこと自体は、仕方がないことのようにも感じる。
「それにしても、意外だったな。俺はてっきり伊達が仲間連れて大人数で押しかけてきて袋叩きにしてくるんだろうなって思ってた」
これは結構マジに考えていたことである。ぼこられた挙げ句に、恥ずかしい姿を写真に撮られて、学校中にばら撒かれたくなかったら金寄越せ、と脅されるまで想像した。
「は、はあ!? お前、俺らどんな奴だと思ってんの?」
呆れたような、怒ったような口調で伊達は言う。
まあ、当然の反応ではある。まともに話したこともない奴からそんな印象を抱かれているというのは心外だろう。
「だって、サッカー部ってもうなんかそれだけでチャラそうだし、悪そうじゃん。茶髪だし」
「茶髪カンケーねーしこれは地毛だよ! 偏見もいいとこだぞ……ったく」
少し苛ついた様子の伊達は、後頭部を指でかく。
「まあ、あれだよ。俺は伊達のこと嫌いだけど、悪い奴じゃないと思う」
そもそも、本当に嫌なだけの人間になんて人はついてこないし、多くの仲間が作れるはずもない。東風谷のことをなんとかする、と切り出したあたりからも、そのあたりは察せる。
東風谷がクラスでイジメられるまでに至った原因がすべて伊達にあるとは思わない。けれど、それに大きく関わっている伊達のことは嫌いだ。
だけど、悪い奴じゃあない。
俺の中で決定づけられ、言葉にした伊達への評価は、とても腑に落ちた。
「お前、結構恥ずかしい奴だな」
そう言う伊達の顔は少し頬が赤い気がする。
え、なに、なんなの。照れるようなこと言った?
正直そのリアクションは予想していなかった。
「え? なんで?」
はあ、とため息をついて片手を自分の額にあてがう伊達。
「なるほど、変人同士お似合いだぜ東風谷とお前。もういいわ、じゃあな」
伊達は制服のブレザーのポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手を小さく挙げてそう告げると、背を向けてさっさとその場を立ち去った。
「お、おう」
東風谷はまあ、あんなことを言ったのだから、伊達に変人の烙印を押されてしまうのは仕方ないと思う。
しかし、何故俺まで。
少し納得がいかん。
変人同士お似合い……か、それはどうなんだろうか、と先ほどの伊達の言葉には冷めた感想を覚える。
とりあえずは、その気持ちを置いといて、少し思索に耽る。
伊達が宣言通りに動いてくれるとしても、クラスの東風谷の立場が改善されるかどうかは定かではない。
一度、集団の共通認識下で、下の立場である、劣っていると判断された人間の評価、それを正すのは本来なら至難の業だろう。
しかし、クラスでも人気者であるらしい伊達と、その仲間たちが庇うようなら、それを為しえるかもしれないという希望はある。
もとより、昼休みを一緒に過ごしてやるくらいしか俺が東風谷にしてやれることはなく、また思いつかなかったことで、どうしたものかと行き詰っていたが、伊達のおかげで少し荷が下りた。
ああ、そこだけは本当に感謝すべきなのだろう。
東風谷は、伊達が相手でなくとも、いずれ、今みたいな状況になっていただろうから
伊達とその仲間の働きで、東風谷は元通りの人気の女生徒に、とまではいかずとも、クラス内でも普通に過ごせるようにまでなれば僥倖だ。
思考の割に、結局は、取らぬ狸の皮算用もいいところではあるが。
夕暮れ時の屋上は秋のせいか、肌寒い。夕焼けによって真っ赤に照り付けられ、焼かれた屋上の床。地平線に沈まんとしている黄金の夕日の光は目を瞑ってしまうほどに眩しい。
紅蓮のような朱に染まった夕空を見上げる。
夕空を見て覚えるのは郷愁ばかりではない。
かつての記憶よりも、これからのことについて思いを馳せる。過去よりも未来を想うことができるというのは、とても尊いことだと、ぼんやりと思う。
ただ、待っているものは、良い未来ばかりではない。
ぼうっとしていると、辺りがうす暗くなるのを感じた。
日が沈み、朱の空に紫が混じり始めると、あっという間に辺りは暗くなり、屋上の肌寒さは一層増した。
「帰るか」
屋上を出る直前に、もう一度空を見上げる。
東風谷は笑顔を取り戻し、イジメからの解放の見立ても一応は立った。しかし、それは結局のところ、表面上に浮き出た問題を解消したに過ぎない。
東風谷早苗と言う少女の問題の本質は未だ解決はしていないのだ。
それを確かに実感しながら、屋上を去る。
しかし、それに踏み込んでいいものか、俺自身が迷っていた。
より正確には、踏み出すことを俺が恐れていた。