金曜日というのは、その響きだけで誰もが幸せになれる日だと、俺は考えている。この日をやりきれば、休みが待っていると思えば、体にも元気が漲るというものだ。そうして、日曜日の国民的アニメの放送時間当たりに、休みが終わるのは早いなー、と憂鬱になるまでがセットだ。まあ、俺くらいになると土曜の夜くらいには、もう休み終わるな、と実感し始める。
そんなわけで、一週間で最も幸せな日は金曜日ではないかと思っている。
そんな金曜の昼休み、今日も今日とて俺は東風谷早苗と屋上にて昼食を共にしていた。
昨日の時点でもすでに、イジメなんか全く気にならない、と言わんかのような姿を昼のこの時間は見せていたが、今日の東風谷は一層、機嫌が良さそうに見えた。
鼻歌を歌うくらいに機嫌が良く、その姿はどんな腐った眼で見ても、まあ可愛らしい。沈んだ東風谷を見るよりはこちらとしても安心できて大変よろしいのだが。
「なんかあったのか?」
東風谷が、鼻歌交じりに食べ終えた弁当を片付けている様子を見ながら、声をかける。
俺も東風谷も、食べながらもごもごと喋るのは好まない性格なせいか、話を始めるのは自分の分の飯を腹に片付けてから、というのが、いつの間にか当然のことになっていた。
まあ、俺はともかく、東風谷のような女子が食べ物を頬に詰めながら喋るというのは、なんというか、女子としてどうなのだろうか、と疑問には思うので、これでいいと思う。
「いえ、クラスの状況が変わったと言いますか……その、綾崎がまた何かやってくれたんでしょう?」
そう言って東風谷の俺を見る目は、過度の期待が込められているような気がして、俺は少し窮屈な思いをする。本当に。
「いや、俺は何もしてないって、ホント」
事実、本当に俺は何もしていない。俺が伊達に、東風谷のイジメを止めてくれ、と頼み込んだわけでもなく、伊達の方から、なんとかする、と提案されたのを、俺はただ聞いていただけだ。
俺の関与したところは、今回の一件には何もない。
力になれなかったことを惜しいとは感じているが。
「まあ、一応は伊達に感謝だな」
言ってから、先に伊達の名前を出すのは失言だったと思う。これでは、含みがありすぎる。なにか裏でやっていたとアピールしているようなものだ。何もしてないのに。
口に出したものをわざわざ訂正するのも変なので、放置するが、少しもやもやする。
それにしても、イジメの原因となった人物に感謝するというのも変な話ではある。一切の主観を交えずに客観的に見れば自作自演にも近い図だからなこれ。
「はい。伊達君がゴミを投げつけようとしていた子を止めてくれて、それが切っ掛けで、他の子からも何かを隠されたり、何かを投げつけられたりっていうのは無くなりました」
でも、と東風谷は続ける。
「やっぱりどこかで伊達君と、綾崎が話をつけてくれたんだと、私は思ってますから」
さっきの失言のせいかもしれないが、そんな、私は分かってるみたいな言い方をされても、反応に困る。東風谷の言うように、本当に俺が何でもできて、東風谷の困っていることを、ものを全て解消してやれるのならそれが俺としても一番だ。
ただ、そうじゃないんだよ。そうはならないんだ。
彼女の中で、一体どんな評価を受けているのか分からない。
けれど、彼女の見ている俺の虚像と、実像である実際の俺との間には随分と差があるように思える。
これまでに俺が実際にしたことと言えば、東風谷を昼ご飯に誘っただけだ。ただ、それだけのことをしただけだ。状況は複雑ではあったが、言ってしまえば、美人の女を冴えない男が食事に誘っただけのこと。こんなこと、世界中の男の誰かが今日もどこかでやっている。
「で、話は変わるんですけど……」
話を切り替えた、東風谷の顔は少し赤いように見える。眼差しは真剣で、今にも泣きつかれるんじゃないだろうかと思わせられる表情。
どうやら東風谷の本題はこちららしい。
言い出すべきか、やはり言わざるべきかといった感じで東風谷は俯き気味に、もじもじとしていて、見ているこちらも何か凄い発言が飛び出すのかと身構えてしまう。
「今日の放課後、ウチに来ませんか?」
「え?」
思わぬ台詞に頭が真っ白になる。
ウチ? 家? 東風谷の家?
「嫌、ですか?」
茫然としていると、東風谷がこちらを下から覗き込むような上目遣いで見てくる。頬を朱に染めて、瞳を潤わせた彼女はどこか色っぽくて、それを見た瞬間に心臓の鼓動が速くなったのか自分でも分かった。
「嫌じゃ、ないけど」
いや、行くよ。喜んで行くけど、それより東風谷サンあなたの容姿でその表情はちょっと思春期の、彼女とか縁のない男子には刺激が強すぎますですことですよ。
もはや心臓が飛び出しそうな勢いである。ついでに俺の頭はもう蕩けてるんじゃないですかね、なんだよ、ますですことですよ、って。
「決まりですね!」
小さく、ぐっとガッツポーズを取る東風谷の顔はにこやかに笑っている。親に褒められて喜んでいる、小さな子供のように無邪気に喜んで、顔を綻ばせる彼女を見ていると、こちらも笑みがこぼれてしまう。
まあ俺の場合はニヤついているというのが近いか。今の顔は他人にはまあ見せられないな。
「じゃあ放課後、一緒に帰りましょう。絶対ですよ、絶対。絶対ですからね」
「そんな念を押さなくても行くって」
「いーや、分かりません。綾崎は約束を守りませんからね」
「はあ? いつ俺が約束破ったんだ?」
そもそもここ三年くらい東風谷との交流が無かったせいで、そんな覚えが全くないんだけど。少し心外である。
「むむ、その様子では覚えてませんね。許しがたきかな、いいでしょう思い出させてあげます」
少しむくれて言う東風谷だったが、本当にさっぱり覚えがない。
自信満々に薀蓄を語る人のように、人差し指をぴん、と立てて喋る東風谷を前にして、一体なんだろうか、と取りあえず聞く態勢に入る。
「そうですね、まず小学二年生の頃、“ずっと一緒”って約束したのに、綾崎の方から離れていきました」
東風谷はとんでもないものをぶつけてきました。それは俺の恥ずかしい記憶です。そう言えばそんなことを言っていた気がする。でも小学生の低学年ってそんなものですし、あのくらいの年頃の約束なんて無効ですよ無効! むしろ時効!
やばい、めちゃくちゃ顔が熱いんですけど。
「それからですね、もごもご」
「悪かった! ごめん、ごめんなさいね、すみませんでした! 俺が悪かったからストップ!」
立てる指が二本になって、なおも過去の約束という名の俺の恥部をドヤ顔で曝そうとする東風谷の、口を押えて止める。ていうか、お前は恥ずかしくないのか東風谷。
流石、天然系お転婆娘の面目躍如というべきか。
最近は、状況も状況でなりを潜めていたが、昔の彼女が変なテンションの波に乗ったときはこんなだった。風のように自由奔放で、暴走した特急列車のように危なっかしい。俺や大勢の人間は彼女に振り回されてばかり。
懐かしんで惜しんではみたが、いざ、その姿に戻りつつある彼女を相手すると、疲れる、非常に。
成長して、おしとやかな女性の一面を見せるようになったと思っていたが、やはり幼い頃の根っこにある部分は変わっていないようだ。
「行くよ。絶対に」
元から行く気であったのに、勘ぐられた上、なんでこんな辱めを受けなければならないのか。
しかし、それを聞いた東風谷は晴れやかに笑って、
「はい!」
と答える。
ああ、思い出した。
散々東風谷に振り回されて、もうついていけないと思わされる俺やその他が、直後の彼女の笑顔を見て許してしまうまでがセットだった。
その笑顔には毎度のことながら、ドキッとさせられる。本当に女と言う生き物はズルい。俺も顔の出来が良かったなら、彼女をこうした仕草で仕返しして、同じ思いをさせてやれるのだろうか。
その後、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る時間に近くになると、東風谷は来た時よりもご機嫌な調子で屋上を去って行った。
俺も、柄にもなく放課後が楽しみで仕方ない。
夕刻、黄金の太陽によって真っ赤に染められた山道、その石段を俺と東風谷は登る。東風谷の家は、この小さな山の頂にある神社であった。参拝客もろくに来ない寂れた雰囲気の神社ではあったが、それも仕方ないだろう。
有名な観光地であれば、観光客などで賑わうのかもしれないが、東風谷の家の神社はそうではなかった。
神様と言うものを本気で信じるものは少なくなり、万物は科学で説明されつつある世の中だ。かつては神や怪異の超越的な力が働いていると言われてきたもの、それを未だに信じている者はいないと言っても過言ではない。
人々の信仰の対象は、時代の変遷と共に、八百万の神ではなく、科学へと変わってしまった。
東風谷のいう二柱の神様には、大変生き辛い世になってしまったに違いない。
かく言う俺自身も、初詣の時くらいにしか神社などでお参りをすることはないのだが。
幼い頃はよく、この階段を駆け上ったものだ。子供の体力とは恐ろしいな。学校での体育くらいでしか運動をしない俺は、息が上がってしまっている。右隣の東風谷は、毎日登り降りをしているだけあって、平然としたものだ。
「ぜえ……、もう無理」
「だらしないですねー、ほら、もうすぐそこです」
東風谷に言われて、足元ばかりを見ていた顔をあげると、あと十段ほど登った先で、階段は途切れていて、ここからでも僅かに寂れた神社の一角と鳥居が視界に入る。
「ああ、疲れた」
階段を登り切って、愚痴をこぼしながらも境内を見渡すと、今更ながら、随分広いものだと思う。
神社を囲う様にしている森林と、神木に巻き付けられている注連縄。久々に来て、改めて見渡してみると、名の通っていない神社としては随分と広いのではないかと思う。
広い境内の神社は閑散としていて、それ故か、どことなく寂しげな雰囲気を醸し出している。
だが、やはり、神の奉られる土地なだけあって、その寂れた空気だけでなく、荘厳で神聖な気配を体は感じ取る。
「こっちです」
東風谷は俺の横から飛び出して、拝殿や本殿の右側を通り過ぎて、神社の裏の方へとずんずん進んでいく。東風谷の住居は、山道を上がってきて見える神社の、裏手の方にある。
先にどんどん進む東風谷を小走りで追いかけようとした瞬間、お参りを行う拝殿の途中の道の左手に、何かが居たような気配がして、立ち止まり、気配を感じたほうを注視する。
見るが、何も見えない。
「勘違いか……?」
「何してるんですか、こっちですよー!」
東風谷が手を振ってこちらを呼ぶ。
「ああ、今行くよ!」
後ろから、ありがとう、と聞こえる筈のない誰かの声が聞こえた気がした。振り返りそうになるが、まさかと思いすぐに考えを打ち消す。それに急かす東風谷を待たせるわけにもいくまい。
東風谷の声に応じて、俺は駆け足で東風谷の元へ走った。
東風谷の家にあがると、客間として使っているのであろう畳の部屋に通された。東風谷はお茶とお菓子を持ってくると言って、俺を座布団に腰を落ち着けるのを確認すると、一度部屋を出ていった。
おそらく今頃は台所にいるのだろう。部屋をざっと見渡す。懐かしいものだ、この部屋にはよく覚えがある。小学生の頃、宿題を一緒にやったり、遊んだりしていたのを思い出す。
なんだか少し体が重いのは、階段を登ってきたせいだろうか、我ながら随分とだらしない身体である。
特にやることもなく、部屋を見て昔の思い出に浸っていること数分、東風谷が急須と湯呑みと、煎餅やらお菓子をふんだんに突っ込んだ小さな菓子籠を黒と茶の円いお盆に乗せて持ってきた。
部屋に入ってきて、こちらを見る東風谷の顔は、少し驚いた様子だ。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでも」
言いながら、お盆をテーブルの上に置いてから、東風谷は湯呑にお茶を淹れて、俺の前に置く。
客人をもてなすことなど、そうはないだろうに、東風谷のその動作は日常での慣れを感じさせ、かつて遊びに来ていた時の東風谷の母を連想させる。
「そういえば、お袋さんは?」
いろいろと良くしてもらっていたので、挨拶をしようかと思ったのだが、どこかに出かけているのだろうか。
出来るならば、東風谷の父にも幼い頃はせっかくの休日だというのに騒いで、随分と迷惑をかけてしまったように思うので、一言挨拶をしたかったが、流石にこの時間ではまだ仕事で出払っているだろう。
そんな風に何気なく聞いたつもりだったのだが。
東風谷は硬直し、暫しの間を置いて決意したように口を開いた。
「……両親は、私が中一の時に事故で亡くなりました」
「え? いや、でもお前、そんなこと一言も……」
「そんなこと、わざわざ言い触らしませんよ。学校の一部の先生は事情を知ってますし、クラス内の生徒にだけでも知らせようかって当時の担任の先生は仰ってくださいましたけど、気を遣わせるだけだと思って、止めるようお願いしたんです」
だから、生徒で知ってるのは綾崎だけですね、と東風谷は続ける。
そんなのはあんまりだ。
この齢で両親を亡くしたら、俺はまともで居られる気がしない。東風谷とてそうだっただろう。
学校での神様を信じるかと言う発言、それが、東風谷が両親を失った悲しみで、神様なんてものに頼らずには入れなかった故に、出てきたものだとしたら。東風谷の生活は神と言う存在に密接であったが故に、神に縋ったのだとしたら。
それは、いや……。
「多分、綾崎が考えているようなことは、ないと思います。両親は亡くなりましたけど、天涯孤独の身になったわけでは無かったんです。周囲の人にはそう見えるんでしょうけど……、仕方ないのかもしれません。父と母でさえ、私が二柱の神が見えるというのを子供にしては良くできた作り話だって言って、本気にはしていませんでしたから」
俺の考えを否定した、東風谷の顔には陰りが見える。それは両親を亡くしたことよりも両親すらも自分を解かることが出来なかったことを、憂いているように感じられた。
東風谷のその憂いは、きっと、両親を愛していたからこそ、だ。
彼女の言った通り、ありえない仮定を俺はしていた。しかし、彼女に指摘されずとも心の奥深くでは、“そうではない”と分かっていた。
未だここに来て俺の方から目を逸らそうとは、愚かなことここに極まれりか。
しかし、それを認めてしまえば、彼女と俺の間にある、埋まることのない溝を直視することになると、何より本能が警鐘を鳴らして訴えかけてくる。
今俺たちは、危うい境界線の上に居る。この関係は、俺が本質を見ないという延命処置によって保っているだけで、一時的なものに過ぎない、いずれは破綻するものだ。逆に言えば、一時的には引き延ばせる。しかし、ここで事実を暴けば、すぐにでも破綻するだろう、俺はきっと、ソレに耐えられない。
それでも東風谷は踏み出そうとしている。
止めたい気持ちを抑えて、俺は聞きに徹する。ここでこの話を打ち切ることは可能だが、それをすれば自ら東風谷を拒むことになる。それでは伊達と変わらない。
「言いましたよね、私にはもうずっと、神様が見えているんです」
ああ、知っている。この前、東風谷の口から聞くよりも、中田の口から噂話として聞くより前から、知っている。
小学生の時、東風谷は、俺と二人で彼女の神社や家で遊んでいると、時折、姿の見えない誰かに話をかけていた。当時の俺は、それを幽霊が見えるとか精霊が見えるとか言い出す同い年の子供と同じような感覚で受け止めていた。
いや、受け止めなければいけなかった。
「その神様……神奈子様と諏訪子様のお二人は、私にとって、もう一つの両親でした。だからお父さんとお母さんが居なくなってしまったのは凄く悲しかったけれど、寂しくはなかったんです」
東風谷が微笑んで、机に向かって下っていた視線が、彼女の右斜め前、俺にとっての左斜め前の誰も座っていないはずの座布団に、まるで誰かが座っているかのように向いて、次に、俺の方へ向く。
正確には俺の更に後ろ、背中のあたりに。
少し重かった背中が、ふと軽くなる。まるで、背中に寄り掛かっていた誰かが離れたように。
思わず振り返るが、そこにはやはり誰も居ない。
ああ、終わった。
目を逸らすことは出来ない。
思春期で異性を意識し始めていたから、周りに冷ややかされるのが嫌だったから東風谷の元から離れていったなんて、それらしい言い訳をして、本当に馬鹿らしい。
俺が東風谷から離れた理由なんて、簡単なものである。
いずれ、破綻するだろう関係の、その最後を見ずに済むからに相違ない。だが、関係の終わりが自然消滅的なものだとしたら、互いに痛まなくてすむ。
思春期の羞恥心はそれにもっともらしい理由となった。
イジメを受けている東風谷を放っておけなかったとはいえ、わざわざ彼女の元に戻ってきたあたり、俺は道化もいいところだ。
東風谷は俺の顔を固定して、しっかりと事実を確認させようとしている。本当の東風谷早苗を見せようとしている。これは屋上での会話の続きだ。あんな答えはただやり過ごしただけに過ぎない。それは暗黙の内に、互いに理解している。
だから今、俺自身が最も認めたくなかったモノを、東風谷は俺に認めさせようとしている。伝えようとしている。
けれど、それを認めてしまえば、俺はお前から……。
「私には、神奈子様と諏訪子様が居たから。だから、綾崎が思っている程、私は不幸じゃありません。もう一度言います。私には神様が見えます。それを綾崎が“本当に”信じてくれるなら、私はこれ以上ないくらい幸せです」
華のように美しい彼女の笑顔は、今にも散ってしまいそうで、儚い。許されるならば、今すぐ抱きしめてあげたいほどに。
ああ、もう、認めるしかない。
そもそも、口には出さずとも、東風谷が大勢の人とは違うと感じていたのは、他の誰でもない俺自身だ、その時点で、気づいていないなんていうのは言い訳としても苦しい。
端的に言う。
東風谷早苗は特別だ。
だからこの世界の誰もが彼女のことを理解出来ない、俺もその一人であるし、血のつながりを持った東風谷の両親でさえもそうだった。
東風谷は、それでも自分というものを理解してもらうことを諦めきれなかったのだろう。
だから意地として、多くの者に神を信じてもらう手段として、学校でも人気者の伊達を、悪く言えば利用しようとしたのだ。
一つの学校程度の規模の人数の信仰が、どれほどの効果を発揮するかは知るところではないが、信仰を取り戻し、二柱の神が全盛期程の力を取り戻せば、東風谷に見えている二柱を他人が見ることも可能だったのだろう。
そこまではいかなくとも、いずれ消えてしまうかもしれないという二柱の神の消失を食い止めることに大きく働くことになり、そのことは彼女の理解してもらうという未来にも繋がる。
でも、無理であった。最後の足掻きだったその行動は失敗し空回りして、逆に周りからは疎まれ、虐げられることになった。
それだけの痛みを知って、理解者を得ようとすれば傷つくことを経験して、なんで。
なんで、――彼女は俺にそれを信じて欲しいと願うのだろうか。
東風谷早苗はこの世界において孤独だ。彼女以外誰も見ることのできないただ二柱の神のみが彼女の唯二人の理解者だ。しかし、それは人ではない。
彼女は特異で、故にこの世界で多くの人々に受け入れられることはない。上っ面の彼女は好かれようとも、彼女の裡にあるそれを受け入れることは、同じ特異性を持つものにしかできない。
俺は、東風谷早苗にとっては前者の人間だ。俺には彼女が見えるものが見えない。同じものを見て聞いて感じることが出来ないのなら、心の裡を共有することはできず、必ずそこには齟齬が生まれる。
故に真に相容れることはない。
その隔たりは、特別である人間を東風谷一人しか知らない俺よりも、俺のように平凡な多くの人間を見てきた東風谷自身が実感し、理解している筈だ。
俺にとって東風谷のような特殊な力を持った人間は、東風谷以外に知らないが、東風谷にとっての俺は、どこにでも居る有象無象の中の一人の、ただの人間に過ぎないのだから。
思えば、子供の頃からずっと東風谷は、俺には、自分の異常性を気づかせようとしていた気がする。
幼い時の彼女は、たくさんの人と居るときは、自分の家である神社の境内でも、神様のことなんて口にしなかった、しかし、二人きりの時にはそれを隠さなかったように思う。
東風谷早苗は綾崎結鷹に理解者であることを望んでいる。上辺だけでない異常たる彼女のその本性の理解者であることを、だ。
しかし、俺はどうすればいい。肯定の言葉だけで真に納得できるのなら、屋上でこの話は始末がついていたはず。
だが、東風谷はそれでは納得がいかない、俺だってだ。だから俺はこんなにも辛いのだし、彼女はこの話をまた持ち出した。
東風谷が異常であることに気付いたとて、互いに見えている世界、住んでいる世界が違うというなら起きるのはすれ違いだけだ。
ならば、互いに上辺だけを見て気づかぬふりをした方が楽ではないか。
だから、俺はずっと耳を塞いできた。
傍に居ようとすれば、触れ合おうとすれば、お互いが傷つく。
だからこそ、見ないふりをしてきたというのに。
だというのに、結局は分かり合えないというのに、俺ではお前の理解者足りえるわけがないのに、なんで、なんで早苗は――。
様々な思考が脳内を駆け巡る。時間としては数秒も無かっただろう。
結果として、今まで目を逸らし続けてきた、東風谷早苗と綾崎結鷹との間にある、あまりにも大きな境界をここにきて突き付けられ、まざまざと見せつけられることになり、体が脱力して、諦めかけた、まさにその時だった。
「……!」
あり得ないモノを、幻視した。
二柱の神が、東風谷早苗の両隣に確かに在った。右隣に見える女性は短い紫の髪をしていて、べに色の瞳は蛇のよう。紅の装束を身にまとったその姿は、力がいくら衰えようとも、旧き時代からの神としての威光と風格があった。しかし、東風谷に向けたその顔は、親が愛しい我が子を見守る顔そのもの。
左隣に見える一見幼童にしか見えぬ女性は、輝きの薄い金髪に蛙を模したかのような被り物を乗せ、瞳は黄土色で大きい。表情や形は幼い子供そのものだが、底知れぬ畏怖の感情を覚えるのは、やはり彼女とて過去に力を持った一柱の神であるという証か。その東風谷に向けた笑顔は、彼女と東風谷との親密さを窺わせる。
そして、その二人に見守られ、真ん中でこちらを見て微笑む東風谷早苗は、あまりにも幸せそうにみえた。
俺の目に数瞬ばかり映った三人は、誰がどう見ても幸せな一つの家族であった。
そこには互いの利害なんていう打算はない。ただ、愛に満ち溢れている、あまりにも眩しい、温かな家庭の姿。
ああ、視えるとは言えまい。この景色、この奇跡の世界を。一秒にも満たない僅かな間に見えた世界、それを視えるというのはあまりにも烏滸がましい。
過ぎた今となっては、瞬きをしても、やはり、独り、俺の返事を待つ東風谷しかもう見ることはできない
ただ、あの一つの家族の美しい光景に、気づけば一筋の涙が己の頬を伝っていた。
ああ言うのを、人は奇跡と呼ぶのだろうか。
急に涙を流した俺に、慌てふためく東風谷を見ながら、俺の顔には自然な笑顔が生まれた。出来るのなら、あの家族の一員でありたいと、そんなことを想う。
あまりにも温かい、不思議な光景だった。綾崎結鷹には視ることを許されなかった、東風谷早苗の在る世界。
あれほど恐れていた事実を受け止めたというのに、焦りはない。今までの葛藤など嘘のように心が落ち着いている。
はて、どう話を始めたらいいものか。
東風谷は、神様を信じるか、と俺に向かって再三問うてきた。
ああ、まずは、そこからはっきりと答えてやるべきだ。
答えは得ている。
あの景色を見た瞬間から、答えなど決まっていた。
「なあ、東風谷、俺は……」
「……はい」
雰囲気から察したのか、俺の言葉を待つ東風谷の顔はあまりにも穏やかで、その目は聖母のように優しげだ。彼女を見守る二柱の神と同じく、彼女自身もまた、神のように俺の目には見えた。
「俺は――、早苗のことをもっと知りたい」
お前の信じている神様のこと、お前の持つ特別な力のこと、お前の目にはどんな風にこの世界は映っているのかを。
ああ、なんて単純なことを迷っていたのだろうか。
東風谷は俺に理解者であることを望む、俺もまた、東風谷早苗という少女を理解したいと望んでいる。
ならば、答えなど考える必要すらないではないか。
彼女が見ているものが、見えないぶんだけ寄り添おう、彼女が聞こえるものが聞こえないのなら、聞こえないぶんだけ話し合おう。
きっと、覚悟が決まっていなかったのは俺のほう。彼女が特別であることへの劣等感とすれ違いの恐怖に怯え、踏み出せないでいたのは、俺のほう。
俺は立ち止まっていただけ。東風谷はその間も、前に進みながらずっと俺が追いかけてくるのを待っていた。
傷つくことになってもかまわない、と東風谷はもうずっと長いこと俺を待ち続けていたのだ。
互いに映る世界が違おうと、その痛みを受け入れて、それでもお互いが求め合うことができたのなら。
そうすれば、いつか――その致命的なまでの違いさえも超えられると信じて。
「遅いです、どれだけ待たせるんですか、結鷹は」
東風谷は涙を浮かべながら笑った。その顔はみっともないくらいクシャクシャで、だというのに、これまで見たどの笑顔よりも幸せそうであった。
そうして、今度こそ俺は自信を持って東風谷に向かって歩み寄っていく。結末がどんなものであろうとも、今、共に在れる限りは一緒に居たいと、俺自身が思ったから。
今日は語り明かそう。もう何年も距離を置いていたのだ、たくさん話したいことがある。それはきっと、東風谷も同じだろう。
そうして時間は過ぎていく。
俺の心に、ずっと居座っていた不安は、とっくに消えていた。