四月一週
今日は生憎の雨天だ。
せっかく桜が咲いていたのに、これじゃ散ってしまうかもしれない。
そんなことを思いながら俺は雨合羽を着て、いつもの時間――午前五時に部屋を出る。
聖タチバナ学園は俺が住む部屋から十分程歩いた場所にあるので、朝は比較的ゆっくり出来るんだけど、根付いた習慣というものはなかなか変えられなかった。
……でも、もう変える必要も無くなったんだ。
そのことを嬉しく思いながら、俺は一人暮らしをしているアパートの鍵を掛けて、階段をゆっくり降りる。
そして、階段の前でゆっくり屈伸をしたりして下半身を解した。
特に今日は雨。しっかりストレッチしておかないと、怪我をしてしまうかもしれない。
「……よし」
準備運動を終えて、俺は右腕に付けたランニングウォッチのボタンを押す。
ここからいつも利用している公園まで三〇分後に到着するよう、ペースを守って走る。
ジョギングというよりはスローランといった速度で、呼吸を乱さないようにしながら走り出した。
朝のこのスローランは、シニアの時代から変わらない毎朝の日課だ。
こっちに引っ越して来た時も、自然と目的地にぴったりの公園を探してしまう位には、俺の中にしっかりと根付いた癖のようになっている。
「ふっ、ふっ」
呼吸を意識して走りながら、メンタルトレーニングを欠かさない。
メンタルトレーニングと言っても大げさなものではなく、自分が上手くプレイした姿を妄想……もとい思い浮かべながら行う、ポジティブシンキングのようなものだ。
昔は投球のことを考えながら走っていたけど、ショートにコンバートしてからは専らショートの守備のことが多い。
この日課のお陰で、友沢にデッドボールを与えてしまった後も野球に向き合うことができていたんだから、大切な練習の一貫なのだろう。
「ふぅ、よし、到着」
公園に到着して、ランニングウォッチを止めて、中に入る。
そして、公園の中にある桜並木を見上げた。
雨の中で、桜が咲いている。
――凄く、綺麗だ。
早起きは三文の得ってね。こんな風景を見られるなら、起きたかいがあったってものだ。
それじゃ休憩も終わらせて、そろそろ家に戻って学校に行く準備をしようかな。
思い、右腕の時計に視線をやった所で、
「あれ? パワプロくんじゃないッスか」
聞き慣れた声が聞こえて、俺は振り返る。
「ほ、ほむらちゃん?」
「おはようッス、パワプロくん。もしかしてランニングッスか?」
そこには、昨日俺の背中を押してくれた、ツインテールの女の子が居た。
昨日とは違い、聖タチバナの制服に身を包みつつも野球帽を被ったままのほむらちゃんは、にっこりと俺に笑顔を向けた後、差した傘をくるくると回しながら俺の姿をじろじろ見つめる。
「うん。日課でさ」
「へぇぇ……! 流石ッスね!」
「そんなでも無いって。ただのランニングだし。そういうほむらちゃんも早いね、もう学校に行くの?」
「そうッス! いつご要望会議が有るか分からないッスからね! 待機していつでも出せるようにしとくッス! その為に今日は四時起きッスからね!」
えへん、と胸を張るほむらちゃん。
なるほど、ご要望会議か。確かランダムで行われるってパンフレットに書いてあったような気がする。
……あれ? でも。
「あの、ほむらちゃん」
「なんスか?」
「流石に、生徒会長とかも来ないとご要望会議は行われないんじゃないかな? 生徒会の会員も生徒だし、授業が始まるのは八時だから、早く来るって言っても七時くらいだと思うよ。流石の朝の五時には登校してないし、下手すれば校門も開いてないかもしれない」
「……ッス!?」
ガーン! とほむらちゃんが事実に気付きショックを受ける。
あ、これ本当に気付いてなかったんだ。
なんというか、ほむらちゃんって本当に野球命なんだな。
野球部の設立を認めてもらうために、ご要望会議で俺とほむらちゃん、そしてもう一人の部員の署名が入った用紙を提出しなければならないから、ご要望会議を逃すわけにはいかない。
その為には待機しておかないと! っていう思考だったのだろう。
俺はそんなほむらちゃんの健気さが何だか可愛くて、思わず笑ってしまった。
「あー、酷いッスー! 笑わないで欲しいッスよ~!」
「あはは、ごめんごめん、ほむらちゃんらしいなって思って。……そういえば、制服を着ててもその帽子は外さないんだね」
「これはほむらのトレードマークッスからね! 聖タチバナ野球部の部員で有ることをアピールッスよ!」
「……そういえば、昨日ユニフォームも着てたよね。どうやって手に入れたの?」
「最近はネットオークションというものが出来て、非常に便利な世の中になったッスよ。ヤフ○ク最強ッス」
「へぇ、ユニフォームなんて売ってるんだ」
凄いなヤ○オク。なんでも売ってるんだな。
それは置いといて、確かに野球帽を被ったほむらちゃんは想像出来ない。
まだ会ったばかりだけど、それ位、ほむらちゃんが野球のことを愛しているのは伝わってくる。
「……俺も行こうかな」
「ふぇ?」
「俺も、学校行くよ」
「ほんとッスか!? 良かったッス~! 実は『この後学校で二時間くらい一人で待機しなきゃいけないッスか!?』って思ってたッスよ! パワプロくん、ありがとッス~!」
大げさに俺の手を掴んでぶんぶんと上下に振るほむらちゃん。
その度に傘がガツンガツンと俺に当たって痛いけど――喜んでくれたなら良かった。
「じゃあ、今から急いで家に戻るよ。先に行ってて」
「りょーかいッス!」
俺の言葉に、ほむらちゃんがビシッと敬礼で答える。
苦笑しながら俺はほむらちゃんに軽く手を振って、家に向かって走りだした。
さて、ほむらちゃんが寂しがるかもしれないから急がないと。
☆
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
物凄く早めに学校に着いた俺とほむらちゃんは、プロ野球談義で盛り上がった。
どこが優勝しそうだとか、この選手が調子が良さそうだとか、この技術が凄かったとか、そういう取り止めの無い話をずっとしていたのだ。
そうこうしている内に時間はあっという間に過ぎていき、気づけば雨も止んでいて、生徒たちも出揃い、俺とほむらちゃんの話を聞いて笑っていた。
一人、ほむらちゃんの後ろに座る女子が俺の事をじっと見ていた気がするけど――あれは一体、なんだったんだろう?
っと、いけない。やっと長い昼食休憩なんだ。もしかしたら、この時間にご要望会議が有るかもしれない。
「パワプロくん」
「……うん」
ほむらちゃんもそう思っているのだろう。
授業が鳴るなり席から立ち上がったほむらちゃんは、俺の机の方へと歩いてくる。
彼女は俺の前で立ち止まると、
「やっぱり今年の優勝はカイザースだと思うッスよ!」
「えっ、そっち!?」
「そっちってどっちッスかっ。重要なことッスよ! ほむら的にはパワフルズも捨てがたいッスけど……」
「いや、ほむらちゃん、もしかしたらこの時間にご要望会議が有るかもしれないよ? 長い昼食休憩だし」
「……あ、なるほどッス! それなら早くお昼ごはんを食べなきゃじゃないッスか!」
ほむらちゃんが慌てて弁当箱を取りに自分の机に戻る。
騒がしいけど、彼女を見ていると凄く楽しい。
まるでシニアの時、一緒に野球をやっていた矢部くんみたいだ。
ほむらちゃんは弁当箱を取り出すと、俺の方を向いて「こっちへ来いッス」、と手招きをした。
「一緒に食べるッスよ!」
「ん。分かった」
俺も自作の弁当箱を持って、ほむらちゃんの席の前に移動した。
「パワプロくんはそこに座るッスよ!」
ほむらちゃんが俺の立つ横の席を指す。
そこはえっと、確か女子の机だったような気がするけど、大丈夫なのかな?
一応許可を取れるなら取っておこう。後で「パワプロが座ってたよ。最悪だよね~」なんて言われたら、割と立ち直れないし。
きょろきょろと辺りを見回す。
っと……居た、あの子だ。
「ごめんほむらちゃん、机使ってる人に許可を取ってくるよ」
「了解ッス! じゃあ、ほむらはもう一人の野球部員を昼食に誘うッスよ!」
「それは楽しみだ。それじゃ、お願いしてくるよ」
ほむらちゃんから目を離して、俺は黒板の前に立つ、メガネを掛けた赤毛のロングヘアーの女の子の方に近寄っていく。
髪の毛がくるん、と渦のように巻いているのが面白い。女の子の髪の毛を見て面白い、っていうのは凄く失礼な感想だけど。
確か名前は……あ、そうそう。
「えっと、三条院さん」
「え? はい? パワプロくんですわよね」
「あ、覚えててくれたんだ?」
「当然ですわ。クラスメートですもの。それで、何の用ですの?」
「あ、うん。机と椅子借りていいかな。友達とご飯食べようと思って」
「そんなことをわざわざ聞きに来たんですの? 変わってますわね……」
「だって、知らない男子が勝手に自分の椅子に座ってたら嫌じゃない?」
「……貴方、気配り屋さんなのですわね。ええ、構いませんですわ」
マンガのお嬢様のような喋り方をする三条院さんは、俺に柔和な笑顔を浮かべて、快く俺の申し出を快諾してくれた。
「ありがとう。三条院さん」
「どういたしましてですわ」
お礼を言って三条院さんの机を借りる。
ほむらちゃんは俺が三条院さんに断っている間にもう一人の野球部員を連れてきてくれていた。
「……ほむら、彼がそうなのか?」
「そうッス! 我らが野球部の創始者の三人の一人、パワプロくんッスよ!」
そのもう一人の野球部員は、先程俺がほむらちゃんと熱い野球談義をしている時に俺じっと見つめていた、藍色の髪の毛の女の子だった。
――美人だ。
第一印象はそれだった。
無表情に近い、クールな表情も彼女の美しさを引き立てているかのよう。
にも関わらず、髪の毛をまとめている赤いリボンが幼い印象を与えてきて、彼女が少女であることを示しているみたいだ。
「……何をぼーっと見ている?」
「い、いや、綺麗な子だなと思って」
「なー!」
あ、無表情がいきなり崩れた。
俺の褒め言葉に顔を真っ赤にした後、彼女はきっと俺を見つめてくる。
「しょ、初対面の女性にいきなりそんなことを言うな! 恥ずかしくなるだろうっ!」
「ご、ごめんっ」
「ま、全く……、……こちらもびっくりしたぞ……まさかあいつに似ているなと思っていた奴が、三人目だったとは……」
「? な、何か言った?」
「言っていない。ほむら、さっさと食事を摂るぞ。いつご要望会議が来ても反応出来るようにしておかなければ」
「その前に、自己紹介ッスよ!」
「あ、そうだね」
「む。確かにそうだな」
「それじゃ、まずはほむらから行くッス! 知ってると思うッスけど、ほむらは川星ほむら。甲子園に選手として立つ為、全力を尽くす所存ッス! ポジションはセカンド! 宜しくッス!」
わー、と拍手する俺と、頷く美少女。
「じゃ、続いてひじりんッス!」
「……私か。私は六道聖。ポジションはキャッチャーだ」
「六道聖……? ……聞いたことが有るような」
「そりゃ当然ッス! シニア時代は有名なキャッチャーだったッスよ!」
「……あ、そうだ。おてんばピンキーズの!」
「む……知っているのか」
「練習試合してる所を見たことが合って……そっか、あの時のキャッチャーが六道さんだったんだね」
「まあ、そういうことになるのだろう。次はお前の番だぞ」
じっと六道さんが俺を見つめる。
俺はこほん、と咳払いをして、自己紹介を始めた。
「俺はパワプロ。元ピッチャーだけど、ポジションはショートだよ。宜しくね」
「パワプロか。分かった。宜しく頼む」
「うん」
手を差し出した六道さんの手をしっかりと握って、挨拶を交わす。
六道さんと、ほむらちゃん、そして俺。
この三人で、聖タチバナ学園高校野球部の幕が開けるんだ。
俺と六道さんが握手を終えて手を離した所で、
「さあお昼ご飯ッスよ! これは記念すべきイベントッス! 三献の儀ッスよ!」
「ほむら、それは違うぞ。三献の儀とは結婚の時に、新郎新婦が夫婦になるという契約を結ぶ際の儀式のことで――」
「細かいことはどうでも良いッス! さあお弁当ご開帳ッスよ!」
六道さんのツッコミ兼解説を華麗にスルーして、ほむらちゃんがパカっと可愛らしいピンク色の弁当箱を開く。
中には色とりどりの食べ物が入っていた。
「玉子焼きにミートボールに唐揚げ、プチトマトにマッシュポテトだね」
「オーソドックスッス! 基本こそ最強ッスよ!」
「そうだな」
何よりも、ほむらちゃんのイメージにぴったりの、なんだか女の子らしいお弁当だ。
俺だったら、あの量じゃ全然足りないだろう。
「さあ、次はパワプロくんのお昼ご飯を見せるッス!」
「そう大したものでもないけど」
特に今日はほむらちゃんを待たせちゃいけないと思って、昨日の余り物を入れただけだし。
俺はお弁当箱の蓋を開け、中身を並べる。
「こ、これはッス……!」
「ほう……」
俺のお弁当を見て、二人が声を上げる。
中に入っていたのは、海苔に包まれた大きめのおにぎり三つに、玉子焼き、ハンバーグ、人参とキャベツの野菜炒めに、マヨネーズとごぼうの和物だ。
「炭水化物、タンパク質、野菜に脂質、カロリーは高めだな……バランスが良い」
「まあ、気をつけてるっていうか、半分クセになってるかな。何でもバランス良く食べないと落ち着かなくて」
「ふぉー、なるほどッス! じゃあ、最後はひじりんッスよ」
「私か」
促されて、六道さんがごそごそとカバンを漁る。
そこから出てきたのは、重箱だった。
「「……」」
俺とほむらちゃんが黙って顔を見合わせ、もう一度机に置かれた物を見つめる。
うん、何度見ても重箱だ。間違いない。お正月のおせち料理とかが入ってる奴だ。
「ほむら、これお正月以外で見たことが無かったッス」
「そ、そうなのか? 私は普段からこれを使っていたのだが……」
「た、沢山料理が入りそうだし、良いんじゃないかな?」
「た、確かにそうッスね!」
「うむ」
六道さんが重箱を並べていく。
中からは蒲鉾や黒豆など、おせちに並んでそうなラインナップと共に、可愛らしい小さなおにぎりが入っていた。
中身は和風だけど、確かに女の子っぽいかも。
それに、見た限りバランスも凄く良い。
黒豆なんかは身体に凄く良いって聞くし、中身を見てみれば全然重箱も有りかもって思えてきた。持ち運びがすごく大変そうだけど。
「じゃあ、食べようか」
「そうッスね! いただきまーすッス!」
「いただきます、だ」
三人で手を合わせ、食事を始める。
六道さんはイメージ通り、凄く礼儀正しい子だ。
決して大きな口を開けず、少しずつ口に食べ物を運んで良く噛んで食べながら、頷きつつ味わって食べている。
早く食べなければ、と部活をやっている人は思うかもしれないけど、実は早食いは消化にも悪く、内臓に負担を掛けてしまう。
しかも、栄養も十分に吸収出来ない為、せっかくバランスの良いメニューにしても意味が無くなってしまうのだ。
だから、六道さんのようにゆっくり落ち着いて行儀良く食べるのは理に適っているし――何よりも美しい。
品がある、とでも言うのだろうか。
食べる姿を美しいと感じるだなんて、思いもよらなかった。
「……何を見ている?」
「ううん。美味しそうだなって」
「……少し食べるか?」
「良いの? それじゃ黒豆貰っても良いかな。俺の弁当箱からも取って行って良いよ」
「ならば、私はそのゴボウのマヨネーズ和えを貰おう」
「あっ、交換ずるいッスよ! ほむらもミートボールあげるから、ハンバーグが欲しいッス!」
「あはは、うん。交換しよう」
三人でお弁当を分けあいながら、ゆっくりと食事をする。
こんなに楽しい昼食は久しぶりだ。
俺が久々に誰かと摂る昼食を楽しんでいた、その時だった。
♪ピンポンパンポン♪
という音の後に、
『今から、今期のご要望会議が開催されます』
スピーカーから、そんな声が響き渡った。
殆ど昼食を摂り終えていたほむらちゃんが、慌てて残りをかっ込み立ち上がる。
「むぐむぐ、ごくんっ。来たッス!」
「うむ。……行こう」
「よーし、いっちょう行ってみよう!」
ほむらちゃんに続き、俺と六道さんも立ち上がる。
弁当箱を片付け、俺達は廊下へと向かった。
っとと、いけない。その前に、
「三条院さん、ありがとう!」
「あ、はい。どういたしましてですわ」
三条院さんにお礼を言って、俺は廊下に出た。
ほむらちゃんと六道さんも着いて来る。
えっと、確か、生徒会室はこの校舎の一階の一番奥だったはずだ。
俺達は無言のまま、生徒会室へ向かう。
一階の廊下に到着すると、そこでは、各部活の代表達であろう人達が屯していた。
「……順番待ち、かな?」
「うむ。そのようだな」
「やっぱりいっぱいッスね……。この量を順番待ちしてたらお昼が終わっちゃうッスよ」
そわそわとほむらちゃんが廊下の奥を見つめながら呟く。
確かにそうだ。順番通りなら、俺達は最後に近い。
昼休みの時間は残り三〇分程。
一組三分で会議が終わったとしても、俺達の順番が回ってくるまでに昼放課は終わってしまうだろう。
「どうするべきかな……」
「むぅ、なんとか順番を譲って貰えないッスかね?」
「難しいと思うよ。新入生が入ってきたばかりだし……」
「うむ。備品等が必要になるから、どの部活も速やかにご要望会議に参加したいだろう」
「むぐぐ、ここはひじりんが可愛くおねだりして強行突破ッス!」
「何故私なのだ!?」
「ひじりんのようなクーデレキャラがメイド服着て『順番、変わってにゃん』っておねだりをすれば、大体の男は転ぶッスよ!」
「くーでれとはなんだ? それに何故メイド服なのだ……私は使用人ではないぞ」
「……ふむ」
ほむらちゃんが言ったように、六道さんがメイド服を着てにゃんにゃんと言っている所を想像してみる。
純白のエプロンドレスに、赤いリボンのコントラストが素晴らしい。
赤らめた頬、上目遣いで「順番変わって欲しいぞ……にゃん」と猫のポーズをしながら言う六道さん……。
なるほど、物凄く可愛い生物が産まれそうだ。
「ほむらちゃん! いけそうだよ!」
「パワプロくんも同意してくれるッスか! それじゃ早速メイド服を準備するッス!」
「なーっ!?」
「善は急げだ! 今直ぐメイド服を準備あ痛ぁっ! 六道さんのローキックがっ、脚に……っ」
「私で変な妄想をするなっ」
六道さんがぷんすかと怒りながら、ぷいっとそっぽを向く。
いたた……ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたいだ。
「でも、実際どうしよう?」
「うーん。本格的に打つ手無しッス」
「私は絶対にメイド服も着ないしおねだりもしないぞ」
「冗談だってば。……でも、困ったなぁ」
俺達がうんうん唸っていると、突然、生徒会の両開きの扉が乱暴に開かれた。
中から出てきたのは、制服を着ている茶髪の女生徒だった。
胸には生徒会のバッジが輝いている。
どうしたんだろう? もしかして、もうご要望会議が終わってしまうのだろうか……?
不安に思っていると、女生徒はこほん、と咳払いをして、
「えー、この中にボールを使い、尚且つマウンド、投手、ホームベースという単語を使用し、更に更にソフトボール以外の運動部を作ろうとしている人達が居らっしゃるのなら、最優先の案件として取り扱うので、入室してくださーい」
明らかに野球の事を示す条件を付けて、入室を促した。
「「「……」」」
俺達は顔を見合わせる。
間違いない。生徒会が俺達野球部の設立を最優先に考えてくれているんだ。
わざわざ野球部を作ろうとしている人達、と言わないのが不思議だけど、これに乗じない手はない。
「はいはーいッス! 野球ッスよ!」
ほむらちゃんがダダダー! と迷うことなく扉へと走る。
それに続いて、俺と六道さんも生徒会室へ向かった。
「ちょ、待ってくれよ! 俺達昼飯も食わずに並んでたんだぜ!」
「そうだそうだー! そんな横暴許されるかー! 生徒会長を出せ~!」
後ろでは並んでいた人たちが不満を隠そうともせず、抗議の声を上げている。
まぁ、当然だよね。何故か知らないけど生徒会が俺達を贔屓したような形になっているんだ。
不満の声が出ない方が不思議だろう。
騒ぐ生徒たちに対し、女生徒は申し訳無さそうにしながら頭をぺこぺこと下げる。
だが、男子生徒達の不満は全く収まる気配はない。
「す、すみませんっ、でもっ、でもぉっ」
「ええい! 受付じゃ話にならない! 生徒会長を――」
出せ、と男子生徒が再び言った所で、
「うるっさーい!! この私の決定に文句が有るってーの!?」
そんな乱暴な口調と共に奥から現れたのは、青色の髪の毛をワンサイドアップに纏めた、碧眼の美少女だった。
思わず息を呑む。
美人というより可愛い、という表現がしっくり来る彼女は、不機嫌を隠そうともせず、がるるーっと唸りながら、部屋に入ろうとしていた俺達の脇を通り、腕を組んで仁王立ちで生徒たちの前に立った。
肩口程までに切りそろえた青色の髪の毛は艷やかで美しい。窓から差し込む陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。
天使のような容貌の彼女は、しかし悪魔のような表情を浮かべ、眉間にシワを寄せて半目を開いて騒いでいた生徒たちを睨みつける。
「私が生徒会長の橘みずきだけど」
「えっ……」
俺は思わず戸惑いの声を上げる。
ほむらちゃんと六道さんは知っていたのか、表情も変えず橘みずきと名乗った彼女を見つめている。
……こ、この子が生徒会長だったのか。
うるさーいっ、なんて言って出てきたから、生徒会長の側近かと思ったけど、どうやら生徒会長直々に表に出てきたらしい。
「なんか文句有る訳?」
「う、そ、それは、だな」
睨みつけられた男子生徒は、蛇に睨まれた蛙のように怯む。
うわぁ、凄い眼力……俺でもビビっちゃいそうだ。
「……あ、明らかに野球を指し示す単語を言って、部の設立を優先させるのは、ちょっと贔屓がすぎるというか」
「なるほどなるほど。でもね、考えてみて欲しいの」
「な、何をですか?」
「裏山に立派な野球部の為のグラウンドを作ったのに、監督が更迭されたタイミングで生徒たちが『何故か全員同時に』退部する、なんて不幸が有って、野球部は廃部になってしまって、グラウンドは使われる事は無くなっちゃったのよ?」
そういう理由で野球部は廃部になったのか。
それにしても、確かに不幸っていうか、不思議だ。監督が居なくなると同時に部員が全員退部するだなんて――まるで、誰かがそうなるように仕組んだみたいだ。
「そのままグラウンドを放置するのは勿体無い。それなら、野球部を最優先で再設立してグラウンドを使って貰った方が良いわよね?」
「た、確かにそうだけど! 俺達だって大切な案件が有るんだっ」
「じゃ、そのままの順番でやってあげても良いけど、私、放課後に用事が有るから、ご要望会議が開けるのはこの放課一杯までなの。昼食抜きでご要望会議開いたのよ。分かる?」
「わ、分かるけど、それがなんだって言うんだ」
「野球部設立は最優先事項だって言ってるでしょ。この放課で設立させるつもりなの。だから、他の案件審議するのもめんどいし時間も無いし全部却下するけど。それでも良いなら順番通りにやってあげるよ」
にっこり、と恐ろしい笑顔を浮かべる橘さん。
な、なんて横暴極まりない言動なんだろう。言っている内容だけを掬い上げれば、決して正しいなんて思えない。
だが、彼女が『それが当然だ』という口調で言えば、本当に彼女の言っていることが正しい事に思えてくる。
これが人の上に立つ素質という奴なのだろうか? 説得力が有るというか有無を言わさぬ迫力が有るというか。
「う、ぐ。わ、分かった……先にやっていい」
「あ、ありがとう」
「ふふん。よろしい。それじゃ、野球部の皆さん、さっさと会議室に入りなさ~い♪」
先程の表情は何処へやら、容姿ぴったりの天使な笑顔を浮かべて、橘さんは俺の背中をぐいぐい押して生徒会室に押しやる。
待合室のようなソファが置いてあった所を通り、更に奥にある扉を開けて中に入ると、そこには、橘さんの肖像画が飾られた、厳かな雰囲気の会議室だった。
奥の机には、金髪でバラを咥えたイケメンの生徒と、小柄な生徒と、筋肉隆々でメガネを掛けた生徒の三人が並んで座っている。
その中央、開いている一つの椅子の場所へ、俺達を生徒会室に押し込んだ生徒会長、橘さんが座った。
「ようこそ、生徒会へ。皆、一応自己紹介しときなさい」
「みずきさんがそういうなら、まずはオレからだね。オレは宇津久志。生徒会の書記と人事のことについて担当している。特徴はこの美しさ……フフ、バラが最も良く似合う男というのは、オレのことさ」
「次はボクやね。ボクは原啓太や。生徒会の会計と、部費などの金銭的な交渉を扱っとる。ちっちゃいけど仕事は早いから頼りにしてーな」
「……私は大京均です。生徒会副会長と、対外交渉を担当しています。宜しくお願いします」
「そして、知ってるだろうけど私が生徒会長の橘みずき。全決定権を持ってるよ」
「宜しくッス! ほむらは川星ほむらッスよ! 野球大好きッス!」
名乗った生徒会の面々に臆することなく、ほむらちゃんが自己紹介を返す。
野球、という単語を聞いた瞬間、生徒会の面々の表情が一瞬緩んだ。特に橘さんに至っては満面の笑みを浮かべている。
「……六道聖だ。といっても、私は皆と会ったことが有るが」
「そうなんッスか?」
「うむ。みずきの友達だからな」
「久しぶりだね。聖さん。相変わらず、オレに負けないくらいに美しい」
「宇津、おべっかは好きじゃないぞ」
「おべっかではないのですが……まあ良いでしょう」
「……それで、キミはなんて名前なの?」
橘さんの視線が俺に向く。
俺にも自己紹介を促しているようだ。
相手にして貰っておいて自分はしないっていうのはあり得ない。
俺はコホン、と咳払いをして、自己紹介を始める。
「俺はパワプロ。ほむらちゃんと同じく、野球が大好きで――甲子園優勝を、目指してる」
「可決!」
「えっ!?」
「良いわね甲子園優勝! うんうん、やっぱり目指すべきは頂点よね!」
俺が言った瞬間、びしっと橘さんが俺を指して大声を上げる。
どうやら甲子園優勝という響きが気に入ったらしい橘さんは、机の引き出しを開けると、判子を取り出した。
「野球部の設立を許可しま~す!」
「まだ交渉すらしてないよ!? 気合だー! ってやってないよ!」
「ここで目標はベスト八! とか言ってたら気合を要求してたけど――要らないくらい、気合入ってるでしょ?」
目指してるのが甲子園優勝なんだから、と橘さんが笑みを浮かべる。
それは、確かにそうだ。
野球にもう一度戻る決意をした俺の目標はただ一つ。
全ての、高校球児の頂点。
甲子園優勝。
それを目指して全力を尽くす。そう決めたんだ。今更気合を入れる入れないの話じゃない。
いつでも全力で、いつでも気合全開。そうじゃないと甲子園優勝だなんてこと、出来るはずもない。
「――うん。橘さんの言う通りだ。俺はいつでも全力で挑むだけだよ」
「……良い目。流石パワプロくんね」
「え?」
「なんでもなーい。さ、早く届け出を出して。判子押すから」
「はいッス!」
橘さんに言われて、ほむらちゃんが書類を提出する。
橘さんはそれを受け取ると、ぽんぽん、と判子を押した。
「野球部の活動を認めます。ついでにグラウンドの使用許可も出しておいたから」
「ありがとうッス! 恩に着るッスよ! みずきちゃん!」
「……みずき……」
何か言いたそうに、六道さんが口を開く。
それを遮るように、橘さんが「そうだ!」と声を上げた。
「後は備品と部員が必要ね。ボールとミゾットスポーツ製の練習機材も手配しておかないと。大京くん! 原くん! 宇津くん!」
橘さんに名前を呼ばれて大京くんと原くんと宇津くんが頷き、書類を出す。
「了解です。みずきさん、準備は出来てます」
「任せといてや。こっちも準備ばっちりやで!」
「オレも完璧だよ」
「うむうむ。それじゃ、その書類を野球部に見せてあげなさい」
橘さんに言われて、三人が俺とほむらちゃん、六道さんの前にその書類を置いた。
なんだろう、と不思議に思いながら、その書類に目を通す。
「えぇと、我々野球部は、以下の備品導入をご要望会議において依頼するって書いてあるッス。……うわっ!?」
「ど、どうしたんだ? ほむら」
「こ、これを見るッスよ!」
書類に目を通していたほむらちゃんが、慌てて俺と六道さんの前に用紙を見せる。
そこには、俺達が導入を依頼することになっている備品の名称が、ツラツラと書き連ねられていた。
『ミゾットマッスラー』『ミゾット的当てセット』『トラック用タイヤ』『ミゾット変化球ボール』『マッサージチェア』『ミゾット打撃マシン』などなど、上げていけばキリがないほどの機材の名前が書いてある。
それも、どれもこれもがプロが使うような最高級品だ。
「こ、これって……」
「部長の名前書く欄が有るでしょ? 下の方に」
「あ、有るッスね」
「そこに名前を書いて提出ね。そっちの書類はボールのセット。とりあえず二〇ダース用意しといたけど、足りないなら今度のご要望会議の時に言ってくれれば可決するから」
「可決決定!? っていうか、この備品も……!?」
「あったりまえでしょ。その為に用意して貰っといたんだから」
驚きのあまり、反応が出来ないほむらちゃんと六道さん。
橘さんは野球部が設立されるのを見越して、この書類を用意してたのか。
六道さんと知り合いな事と良い、もしかして橘さんは野球部に何らかの思い入れが有るのかもしれない。
「最後に、今部員は三人よね。試合に出るには、監督と部員が必要」
「そ、そうッスね。それが一番大事ッス」
「うむ。……! もしかして」
何か心当たりが有ったのか、六道さんの顔が期待に満ち溢れたものになる。
そんな彼女に、橘さんは何故か寂しそうに見える笑顔を浮かべた。
「当たり、つけといたから」
「え? どういうことッスか?」
「突然野球部の廃部が決まって別の部活に入ろうとしているみたいだけど、聖タチバナ高校がスポーツ校だってことで来てた野球経験者達が結構居るの。その生徒たちを宇津くんが説得して連れてきてくれるわ。本当なら部員の数が足りないってご要望会議で掛けあって貰ってから動くんだけど、早く九人揃えないといけないしね。監督も……家族にツテが有ったから、」
「みずきちゃんは天使ッス……!」
「そうよー、もっと私を崇めなさい!」
「はは~っ、ッス~!」
淀みなく言う橘さんにほむらちゃんが頭を垂れる。
六道さんは、満足気に頷く橘さんをじっと見つめ、ぼそりと呟く。
「……みずきは……?」
「……っ」
「みずきは、入部しないのか?」
その一言で、和気あいあいとしていた生徒会の空気が、凍りついた。
原くんや宇津くん、大京くんは辛そうな表情を浮かべて目をそらし、橘さんは引きつった笑顔を浮かべる。
でも、俺には見えた。
橘さんがぎゅっと、拳を握りしめたのが。
「昨日言ったでしょ、聖。私は、野球をすることは、出来ないの」
「……納得出来ない……」
諭すような口調の橘さんに、六道さんが食って掛かる。
「約束したではないかっ。私と一緒に甲子園に行くとっ」
「……お願い、聖……」
「ウソを吐くのか、みずきもっ」
「ちがっ……わ、私は」
「――お前も鈴本も私を置いて離れていく……っ、それなら、私も野球なんてっ」
「聖! それだけは言っちゃいけない言葉でしょ!!」
「っ」
橘さんの怒号のような声に、六道さんが身体を竦ませる。
はぁはぁ、と呼吸を荒げながら、橘さんが自らを落ち着かせようと深呼吸をする。
「……約束を破って、ゴメン。でも、それだけは言わないで。……今までの聖が、嘘になっちゃうよ」
「……すまない……つい、心にも無いことを言ってしまった。だが、納得出来ないのは本当だ。野球が出来ないのは分かった。でも、何故だ? その理由を知りたい……」
「……それは……」
「六道さん」
橘さんが言い淀み、俯いたタイミングで、俺は六道さんにストップを掛ける。
ほむらちゃんはおろおろと橘さんと六道さんの顔を交互に見つめていた。
これ以上、ここで口論させる訳にはいかない。
六道さんのためにも橘さんのためにも、ここで話を止める。
こんな精神状態で真っ当な話が出来るはずがないんだ。
特に六道さんは、明らかに冷静さを失っている。
“私も野球なんて”。
その言葉の後に続いたであろう言葉は、きっと中学二年の時の俺と同じ、自分に嘘を吐く、橘さんの言う通り絶対に言ってはいけない言葉だったはずだ。
だから、このまま話は続けさせない。
「なんだ、パワプロ」
「ん、書類にほら、部長のサインが終わったから、提出しようと思って」
「な、何?」
「俺の名前で書いちゃったけど、良かったかな?」
「ぁ……い、意義無しッス! ほむら、パワプロくんにキャプテンをやって貰いたいって思ってたッスよ!」
「そう言って貰えると嬉しいかな」
「ま、待てっ、私はてっきり、ほむらがキャプテンだと思っていたぞ。私はお前を認めていない。勝手に決めるな。それと、邪魔をしないでくれ。これは私と、みずきの問題だ!」
「はい、橘さん」
「ぁ……ありがとう、確かに受理したわ」
俺が差し出した俺の名前が記入された三枚の書類を受け取って、橘さんが許可の判子を押す。
俺はそれを確認して二人へと振り返った。
「さ、行こう。後がつかえてるしね。……もう行って大丈夫だよね?」
「う、うん。書いて欲しい書類はもう無いわ。備品も部員も直ぐ準備させるから」
「ありがとう、橘さん。二人共、行こう」
橘さんに笑みを浮かべながらお礼を言って、ほむらちゃんと六道さんに退室を促す。
六道さんは橘さんとの話を邪魔した俺に反発するかのように、俺を睨んでいた。
「ほ、ほら、行くッスよ、ひじりん」
「……うむ」
不承不承と言った感情を隠そうともせず、六道さんはほむらちゃんと退室していった。
俺はその二人の背中を見つめた後、橘さんの様子をちらりと見る。
橘さんは唇を噛み締め、拳を握りしめながら俯いていた。
俺には、橘さんと六道さんの間に何が有ったかは分からない。
分かるのは、六道さんと橘さんと鈴本という人の間に『一緒に甲子園に行く』という約束が有って、その約束を守ろうとしているのは六道さんだけということ。
そして、橘さんは何らかの理由が有って野球が出来ない状態だということくらいだ。
だから、一人だけ約束を守ろうと頑張っている六道さんは、約束を守ろうともせず、その理由も話してくれない橘さんに対して怒りと失望を抱いているんだろう。
そして。
まだ俺が居るにも関わらず、あんな表情を浮かべてしまうくらいに――橘さんは六道さんとの約束を守れないことと野球を出来ないことを、辛く思っている。
野球をやりたいけど、出来ない。
それは、どれだけ辛いことだろう。
俯く橘さんの姿が病室に居た友沢と被って、俺の心を激しく乱す。
友沢も、俺のせいで野球が出来なくなった。
誰よりも野球に真摯で野球を愛していたあいつは、もう野球が出来ない。
……放っておけない。
野球をしたくても出来ない人を目の前にして、その人を友沢と重ねて見てしまっておいて放っておくなんてこと、他でもない俺に、出来る筈がない。
「――橘さん」
「……な、何?」
だから。
「俺、キミが欲しい」
思ったことを、言おう。
俺の言葉に、ぱちくりと生徒会の四人が目を瞬かせる。
一瞬間を空けて、橘さんの顔が真っ赤になった。
「な、ななななっ、何言ってんの!?」
「俺は、キミがどんなプレイヤーだったのか知らないけど。でも、野球がやりたいってことだけは、分かる」
「――っ。……なんだ、話を中断させてくれたから、キミは踏み込んでこないって思ってたのに。……あのね、何度も言わせないでくれる? 私は――」
「野球が、やりたいんでしょ?」
「……っ」
橘さんは、その言葉を否定しない。
だったら、話は簡単だ。
その気持ちを膨れさせれば良い。
そうすれば、結局戻ってきてしまうんだ。
もう一度白球を握ることを選んだ俺のように、野球の元へ。
「俺達、頑張るよ。橘さんが全力を尽くして援護してくれた野球部で」
「……」
「だから、見ていて欲しい。そして……野球をしたくてしたくてどうしようも無くなったら」
「……どうしようも、無くなったら?」
「――橘さんが野球部のために色々してくれた分、俺も橘さんのために頑張るよ」
笑って踵を返す。
これ以上は時間の無駄だ。さっき自分で言ったように後が控えているし、橘さんも今は考えることが色々有って大変だろうから、結論は変わらないし気持ちも変わらない。
言いたいことは伝える事が出来た。
今はそれで十分だろう。
「失礼しました」
お辞儀をして、廊下に戻る。
廊下ではほむらちゃんと六道さんが待っていてくれた。
「遅いッス。何を話してたんッスか?」
「お礼言ってただけだよ」
「……ふん。私は教室に戻る」
「皆で戻れば良いじゃないッスか」
「パワプロと一緒は嫌だ」
ありゃ、どうやら相当嫌われてしまったらしい。
それもそうか、部外者がいきなりしゃしゃり出てきて話を邪魔をしたんだ。不愉快に思わないわけがない。
六道さんはぷんすかしながら、一人で教室に戻っていく。
「あう、そ、その、ほむらはどうすれば」
「六道さんを優先してあげて。俺は平気だからさ」
「りょ、了解ッス。……あの、ほむらは分かってるッスから、パワプロくんが二人のために話を止めたんだって」
「ありがと。それだけで十分だよ」
「じゃあ、先に戻ってるッスよ! ひじりん、待ってッス~!」
ほむらちゃんが六道さんの後を追いかけて走って行く。
ほむらちゃんがついているなら、六道さんは大丈夫だろう。
……橘さんのお陰で、野球部は順風満帆すぎるスタートを切れそうだ。
明日の放課後からにでもグラウンドは使えるだろうし、部活が楽しみだ。
俺はいよいよ始まる聖タチバナ野球部の活動にわくわくしながら、教室に戻っていったのだった。
☆
放課後に、宇津は部員を集めるため、中学校時代に野球部だった生徒達に声をかけていた。
野球部に戦力になると見込まれた生徒は既に受験時、つまりは入学前からチェック済みであり、是非野球部に入れるべしと、みずきがチェックしてリストにしていたのである。
通称『みずきチェック』のおメガネに適った選手が乗ったそのリストを宛てに、宇津は生徒たちを野球部に勧誘しているのだ。
しかし殆どのメンバーは既に他の部活に入っていたりして、思ったよりも集まりが悪い。
最初から野球部が有れば入部していたんだけど、という返事を何回聞いたことだろう。
最低ノルマは六人ということもあって、宇津は内心、焦っていた。
初期メンバーは三人。つまり、部員が六人集まらなければ試合に出ることすら出来ないからだ。
あれだけ野球を愛しているみずきが、ぐっと歯を食いしばって、多少強引ながらもプレーヤーではなく後方支援に徹している――。
それを間近で見ている宇津は、彼女を心から尊敬し、深く感謝しているのもあって、『何とかして力にならなければ』と、全力を尽くして生徒たちを勧誘しているのだ。
そんな中、一人の生徒が目に入って、宇津は熱心に勧誘を始めた。
彼は『みずきチェック』の中でも、絶対に野球部に引き込むべし、と最重要マーク対象者としてリストに乗っている生徒だったのだ。
概要を説明し終えた宇津に、男子生徒は「なるほど」と頷いた。
「野球部が設立されて今日にでも活動開始、ですか」
「そうだ。そして、部員を増やしたいっていうご要望会議が可決されてね。オレは野球部の部員を集めている、という訳さ」
「なるほど。それはご苦労様ですねぇ」
「キミは、あの名門で、中心選手だったんだろう? 是非その力を貸してくれないか?」
「ほぉ、良く知っていますね? ……なるほど、元野球部を集めているわけですか」
「そういうことだよ」
「……分かりました。ボクも微力ながら協力させていただきますよ。というよりも、元々野球部に入るつもりで、この聖タチバナに進学しましたからね」
「そうか、本当に助かる。これで六人目……初期メンバーの三人を合わせて九人だ」
ノルマが達成できたことに、宇津はほうっと安堵の溜息を吐き出す。
そんな彼を見つめながら男子生徒は目を細めた。
「それでは、どちらに向かえば良いですか?」
「今日はもう遅いし、明日六人をまとめて野球部に紹介するつもりなんだ。明日の放課後、校舎裏のグラウンドに来てくれるかい?」
「分かりました。それでは、明日からお世話になることにしましょう」
「ああ、助かるよ――『蛇島』くん」
名前を呼ばれた男子生徒は、にっこりと柔和な笑みを浮かべる。
その笑顔の下に、その名の通りの蛇のような本性が潜んでいることに、誰も気付いては居なかった。