夢を見ている時、ふと「ああ、これは夢だな」と気がつくことがあるが、今のクロエはまさにその状態だった。クロエは小さな寝室の片隅に立っていて、目の前に置かれたベッドには今よりずっと幼い姿をした自分が寝転んでいた。
幼い自分はそわそわしていた。枕に顔をうずめ、バタ足をするようにベッドを蹴る。時折、顔を上げてちらちらとドアの方に視線を送っているのは誰かを待っているからだろう。
しばらくしてガチャリと寝室のドアが開き一人の少女が入って来た。年の頃は十五、六くらいで綺麗な白髪を腰のあたりまで伸ばしている。
扉の開く音に反応して枕から面を上げた幼い自分は、白髪の少女を視界に入れるとみるみるうちに顔を輝かせた。そんな幼いクロエを見た白髪の少女はくすくすと笑いながらベッドに入りクロエの隣に身を横たえた。そしてクロエと名前を呼んで、幼い自分の頭を優しく撫でた。ベッドの上のクロエはくすぐったそうに、けれど嬉しそうに笑って、白髪の少女に身を寄せる。
それは自分が過ごした日々。夢の形を取った過去の記憶の再現だった。
甘く、温かで、幸せな記憶を前にして、クロエは一生この夢が続けばいいのにと思った。そうしてすぐに何を馬鹿なと唇を堅く引き結ぶ。永遠に続くものなどありはしない。白髪の彼女と過ごした時間だってそうだった。ならこの夢だって――ほらね。もう覚め始めた。視界に少しずつ霞がかかり、幼い自分と白髪の少女の気配が次第に遠ざかっていく。手の届かない場所へ逃げるように夢の世界は消えていき――
「ずいぶんと懐かしい夢を見たわね」
目を覚ましたクロエはぽつりと呟く。体を起こそうとしてふと左腕に温度を感じ、そちらを見ると隣ですやすやとミリアが寝息を立てていた。
どうしてミリアが私の部屋にと小首を傾げたクロエは、そういえばミリアはお願い事をした後そのままここで寝てしまったのだったと、寝起きで今一つ回らない頭の奥から記憶を引っ張り出した。寝静まったミリアを彼女の部屋まで運ぼうかとも思ったが起こしてしまったら可哀そうだからと結局止めにしたのだった。
ミリアはクロエの左腕にぴったり体をひっつけて寝ていた。クロエはどうして自分があんな夢を見たのか、その原因がわかって苦笑した。そしてかつて自分がされたように、たったいま覚めたばかりの夢の跡をなぞるように、ミリアの頭を優しく撫でた。
★
「何か気になることでもあるのかい?」
クロエがロキにそう声をかけられたのは大広間の壁に寄りかかってぼんやりしている時のことだった。大広間にはすでに白いクロスがかけられたテーブルがいくつも並び、調度品も整えられ、立食パーティーの準備がすっかりできあがっていた。数時間後にはパーティーのゲストが来始めることを考えればそれも当たり前のことだった。
クロエは隣の壁に寄り掛かったロキの方を見て言葉を返した。
「あら。どうして?」
「今朝から君の様子が少しおかしいから」
「気のせいじゃないかしら」
「そうかな。知っているかい? キミは気がかりがあるとそのネックレスをいじるんだ」
ロキの言葉にぴたりとクロエは十字架のネックレスをいじる手を止めた。なるほど。ことさらに意識したことはなかったが、指摘されてみればそういう癖がクロエにはあって、実際今もネックレスをいじっていた。
「よく見てるわね」
「そりゃもう。かわいい女の子のことは常に見てるさ」
「それ、相当気持ち悪い発言だって気がついているかしら?」
「もちろん。君に冷たい目で見られたいがために僕の口が勝手に動くのさ」
「その発言もどん引きよ」
「冗談さ」
クロエはロキを軽くにらんだ後、小さくため息をついた。あんまり面白くない冗談だった。
「それで何があったんだい?」
「ちょっとね。昨日ミリアから頼まれごとをされたのよ。あなたはダン卿のことを覚えているかしら?」
「レティシアの想い人だろ?」
「そう。そのダン卿は悪い人だからレティシアに近づかないよう懲らしめてほしいってミリアに頼まれたのよ」
「悪いって、どういう風に?」
「わからないわ」
「わからないのに悪い奴なの?」
「そうらしいわ」
「えっと……ミリアはどうしてダン卿のことを悪い奴だって思ったのかな」
「ダン卿の仕草とか言葉遣いとか表情とか態度とか雰囲気とかから判断したらしいわ。つまりは女の勘よ」
「……」
「女の勘よ」
「いや、聞こえなかったわけじゃないから。それでクロエは頼みごとを引き受けたの?」
「ええ」
クロエが頷くとロキは何とも言えない微妙な表情をした。
「そんな顔しないでもらえるかしら。ミリアは真剣よ。ダン卿はどうにも信用できない。けれど根拠は自分の勘でしかなくて、レティシアやウィリアス卿にめったなことは言えないってわかってる。それで悩んで、どうしたらいいかわからなくて、出会ったばかりの私に頼るしかなかったのよ。そんなの放っておけないじゃない」
「それはそうかもしれないけどさ」
「なによ。なにか文句でも?」
「いいや。ただ君がずいぶんとミリアに肩入れしているようだから気になっただけさ」
「それは――」
クロエは口ごもった。クロエがミリアの頼みごとを引き受けようと思った理由は極めて個人的な感情に由来するもので、クロエは自分のことを話すのがあまり好きではなかった。けれどクロエがミリアに手を貸すとなると、その間の屋敷の警備はロキに任せきりになってしまう。彼に負担をかける以上、理由くらい言っておかないといけないだろう。クロエはしぶしぶ口を開いた。
「私はミリアと同じだからミリアがお姉ちゃんを護ろうと必死な気持ちはよくわかるの。だから力を貸してあげたいの」
「同じ?」
「ええ。私にはちょうどレティシアとミリアくらいの年の差の姉が
クロエの言葉にロキはわずかに眉をひそめる。クロエの微妙な言葉遣いが意味するところにおそらく気がついたのだろう。ロキはそれ以上踏み込んでこなかった。代わりに軽い調子で
「ふうん。わかった。それで僕は何をしたらいい?」
「手伝ってくれるの?」
「当然だろ?」
ロキがあっさりとそう言ったので、クロエはロキに自分の表情が見えないよう少し俯いた。思わず口元が緩んでしまったのだ。
傷、痛み、苦しみ。妖精の尻尾の魔導士は何かを抱えている。クロエもきっと隣にいるロキだって胸の内に秘めた過去がある。だからだろう。妖精の尻尾の魔導士は人の過去に深く踏み込まず、今にそっと寄り添ってくれる。そして必要な時にだけそっと手を差し伸べてくれる。ちょうど今ロキが私にそうしてくれているように。
「ありがとう、ロキ。あなたのそういうところ嫌いじゃないわ」
「惚れた?」
「あーあ。今ので台無しよ」
「そりゃ残念」
おたがいにちょっとふざけ合った二人は顔を見合わせるとくすくす笑い合った。
★
夜になるとパーティーの参加者が次々とお屋敷にやって来た。その中には件のダン卿も交じっていた。ダン卿は彫りの深い面立ちをした背の高い青年でロキとはまたベクトルの違う二枚目だった。彼は今パーティーの参加者と談笑しているが、彼の低く落ち着いた話し方は知性と誠実さを感じさせるもので、優れた容姿と合わせて彼を魅力的な人物に仕立て上げていた。もしあれがミリアの言う通りの悪人だとするのなら大した猫かぶりである。
クロエがダン卿をそれとなく観察しているとふうんと隣で声がした。いつの間にかロキが隣に立っていた。
「あれがダン卿かい? なるほど評判通りの好青年だね、あくまで外面に限ってはだけど」
「まるで内面は違うとでも言いたげね」
クロエがそう言うとロキは肩をすくめた。
「あれは相当の女たらしだね。それもいい女を見たらすぐに行く手の早いタイプ。間違いない」
「根拠は?」
「僕の勘」
「同類だからわかると?」
「ひどいな。僕は女性を傷つけるようなことはしていないつもりだよ」
何股かけているのかわからない女の敵がいけしゃあしゃあとそんなことを言ったので、クロエは呆れてしまった。
「まあ、所詮僕もミリアも勘だから裏が取れたとは言えないけどさ」
「それは今から私が確かめるわ」
「オッケー、作戦はわかっているね?」
「……わかってるわよ」
確認するロキに答えるクロエの口調は重かった。ミリアの頼みごとを話した後、クロエはロキとどうやってダン卿の真意を聞き出すかについて話し合った。そうしてとある作戦を立てたわけだが、それはクロエにとって甚だ気乗りしないものだった。
「じゃ、ミッションスタートだ」
「はいはい……」
けれどしかたがない。これもミリアのためだ。クロエは作戦を実行に移すべく大広間を後にした。
★
パーティー会場。世間話に興じる資産家の一団の中にダンの姿はあった。彼は資産家たちの話に混じって楽しげな笑顔を浮かべていたが、本心は真逆だった。人脈を築き上げるために必要なこととはいえ、社交辞令ばかりが飛び交う退屈な会話にダンはうんざりしていた。こんなことをしているぐらいなら女の一人でも抱いていた方がよっぽどいい。ダンは心の内の不満を押し流すようにワインをあおった。
もっともダンにとってウィリアス卿の館で開かれるこのパーティーには人脈を広げる以外の意味があった。ウィリアス卿の娘、レティシアだ。
ダンはレティシアを自分の妻にしたいと考えていた。ウィリアス卿の持つ財産だけでも魅力的なのに、おまけで見目麗しい女がついてくるとなればこれ以上のことはない。そう思ってダンは頻繁に屋敷のパーティーに足を運び、少しずつウィリアス卿に取り入って来た。彼は今ではすっかり自分のことを資産家の好青年だと信じ込んでいる。それはレティシアも同様だ。
レティシアが世間知らずのお嬢様であることはダンにとってプラスだった。人を疑いもせず張り付けた笑顔の仮面にころりと騙される彼女は非常に都合がよかった。会えば会うほど、言葉を交わす回数が増えれば増えるほど、レティシアは自分に夢中になっていった。
あともう少し。それでウィリアス卿の屋敷も土地も金も自分のものになるとダンは確信していた。
「ダン卿、どちらへ?」
退屈な会話から抜け出そうとダンが集団に背を向けると近くにいた男が尋ねてきた。ダンはお手洗いですと答えた。もちろんこの場を離れる口実に過ぎなかったが、あいにくお手洗いへと続く廊下はすぐ傍にあった。言ってしまった以上そちらへ行かないと、嘘がばれてしまう。ミスったなとダンは心の中で舌打ちをした。
まあいい。とりあえず集団から抜け出すことはできたのだから。適当にふりだけして、その後ウィリアス卿にご挨拶に行くとしよう。ダンはそう思いながら廊下へと足を踏み入れ
「きゃあ」
誰かとぶつかった。胸の下あたりに衝撃と冷たさを感じて顔をしかめる。足元を見ると小柄なメイドの少女が倒れていた。
少女はおそらくワインを運んでいるところだったのだろう、ダンの白いシャツに赤紫色の染みができていた。高い服を汚されたことでダンは思わず少女に罵声を浴びせそうになったが、ぐっとこらえた。ここはウィリアス卿の屋敷。騒ぎ立てて自分のイメージを損なってしまってはこれまでの努力が水の泡だ。
ダンは舌打ちして一体どんな間抜けが俺の服を汚したのかと確認しようとした。そして顔を上げた少女を見て、はっと息を呑んだ。
さらりと流れる黒髪。その間から覗く雪のように白い肌。小顔にすっきりと整った目鼻立ち。メイドの少女はまるでよくできた精巧な造形品のようだった。少女は華奢な体つきをしていて、迂闊に触れると壊れてしまいそうな脆さを感じさせることもその印象を強めている。
この屋敷には何度も足を運んでいるが、ダンは少女のことを一度も見たことがなかった。もしこの少女を見たことがあったなら絶対に忘れたりはしないはずだ。ダンにそう確信させるほど少女の容姿は優れていた。
倒れた少女は呆然としていた。長い睫毛に縁取られた目にはうっすらと涙が浮かんでいる。少女がそうなるのはしかたのないことだった。自らの粗相でゲストの服を汚したなどとあっては少女の主人であるウィリアス卿の顔に泥を塗ることになる。
「これは申し訳ない。ちゃんと前を見ていなかった。ケガはありませんか、お嬢さん」
ダンは人のいい笑顔を張り付け少女の方へ手を差し伸べた。ダンの言葉にメイドの少女は驚いたように固まった。もう少し前に手を出してやると、少女ははっとしてダンの手をおずおずと取った。
ダンはぐいっと引っ張って少女を立ちあがらせた。その際、手をわざと強く引いて自分の方へと引き寄せる。メイドの少女は引かれるまま立ち上がり、そのままよろよろとダンの胸に収まった。
「え?」
何が起きたのかわからないとでも言うような少女の間の抜けた声が聞こえた。そのまま固まること数秒して、少女は弾かれたように身を離した。
「ご、ご、ごめんなさい――じゃなくて、申し訳ありませんでした」
少女は深く頭を下げた。顔は真っ赤に染まっている。自分好みのなんとも初心な反応にダンは仮面の下の口を歪めた。この娘は是非とも
「その様子ならケガはなさそうですね。よかった。グラスも中身がこぼれただけで割れていないようですよ」
「いいえ、そんなことよりもお召し物が」
「ああ、別にかまいませんよ」
「そういうわけにはまいりません。替えのものをすぐご用意いたします。とりあえずこちらへ」
少女はダンを廊下の先に促した。おそらく着替えのため客室にでも案内されるのだろう。人目のない場所に行けて好都合だとダンはほくそ笑んだ。
★
少女に案内されたのは予想通り来客用の個室だった。テーブル、クローゼット、ベッドなど必要最低限の家具が置かれた一人用の部屋だ。ダンは少女が部屋のドアを閉めるのを見るやいなや、彼女の手を強く掴んだ。そして突然の行動に戸惑う少女をダンは力任せにベッドに押し倒した。もちろん少女は抵抗してきたが無駄だった。小柄な少女と成人の男では力が違いすぎる。少女はしばらく暴れたが、諦めるように抵抗を止めた。
「そうだ。そのままおとなしくしているといい。悪いようにはしない」
ダンが囁くと少女は怯えたようにわずかに身じろぎした。ダンは少女の首元のリボンタイを解き、ワンピースのボタンを一つ、二つと外した。少女はかすれた声でやめてくださいと言った。
「ダン卿はレティシアお嬢様に想いを寄せておられるのではないのですか?」
少女から自分の名前が出たことにダンは少し驚いたが、彼女も屋敷で働く使用人だ。雇い主の人間関係にもある程度詳しいのだろう。
「レティシアかい? ああ、確かに彼女は素晴らしい。当人は美しく親は金持ちだ。あんな都合のいい女、そうはいないだろう」
ワンピースの襟を開くとダンは少女がネックレスをしていることに気がついた。黒色の十字架の飾りがついた、それなりに高価そうな品だった。ダンは使用人の少女がそんなものを身に付けていたことに少し違和感を覚えたが、すぐにどうでもいいことだと考えるのを止めた。
ダンは少女の頬に手を置くと絹のように滑らかな肌を撫でた。そのまま少しずつ手を下へ動かす。喉の横を通り、鎖骨からさらに下へと手が伸びようとしたところで少女はいやっと声を上げて、手で胸元をかばった。
「つ、都合がいいとはどういう意味ですか?」
少女が震える声でそう言ったので、ダンは口の端を歪めながら、
「だってそうだろう? 彼女と結婚すれば莫大な財産が手に入る。私はね、自分の欲しいものは何でも手に入れる主義なんだ。もちろん君もね」
そう自分はすべてを手に入れる。金も女も名声も。ダン卿はそれを信じて疑わず、欲望のまま再び少女へと手を伸ばし――凍り付いた。
「バカな……」
思わず口から言葉がこぼれる。少女の雰囲気が豹変していた。少女にはついさきほどまでの怯えた気配など微塵もなく、ただただ軽蔑と殺気の籠った冷たい目をダンに向けていた。外見は何も変わっていないはずなのに、とても先ほどまでの少女と同一人物だとは思えなかった。
「おまえ、一体――」
何者だ、そう口を開きかけたダンの頬に強い衝撃が走った。
★
時はパーティー開始の二時間ほど前に遡る。大広間から部屋に移動したクロエとロキは宿泊用にとあてがわれた部屋で作戦を練っていた。
「問題はどうやってダン卿と二人きりになるかよね。できれば人の目につかない個室がいいわ」
「二人きりになってどうする気だい?」
「そんなの決まっているでしょう。適当にボコって事実を吐かせるわ」
何を当たり前のことをとクロエが呆れ交じりにロキを見ると、ロキはロキでクロエに呆れた視線を向けていた。
「ちょっと待ちなよ。まだ彼がクロだって決まったわけじゃないだろ。シロだったら大変だよ」
「心配性ね。いいわ。そのときは私の魔法でダン卿から尋問の記憶を消去するから。それでいいでしょう?」
「へえ、そんな魔法が使えるのかい?」
「簡単よ。記憶を失くすまで蹴り飛ばすの」
「クロエ。それは魔法じゃないから」
ロキから想像以上に冷たい反応が返って来たのでクロエはたじろいだ。
「う、うるさいわね。言ってみただけよ。なによ。ロキはミリアのこと信じてあげないわけ?」
「そう言われても……」
「だいたい男女が個室で二人きりなのよ。身の危険を感じた女性に男が蹴り飛ばされたって文句は言えないわ」
「僕は今まさに君と個室で二人きりなわけだけど……あれ? 何か寒気が……」
途端にロキが真っ青な顔になる。クロエは憤慨した。
「失礼なこと言わないでもらえる? 相談相手を蹴り飛ばすなんて非常識なことしないわ」
「本当に?」
「本当よ。とにかくダン卿と部屋で二人きりになれさえすれば後は私が何とかするから。あなたに知恵を絞ってほしいのはどうやってそこまで持って行くかってことよ」
「それならいい考えがある」
「本当?」
「任せてよ。ちょっと待ってて」
そう言うとロキは部屋から出て行った。しばらくして戻って来たロキはこれを使うんだと言ってクロエの前にあるものを差し出した。それは黒のワンピースとフリルのついた白のエプロンがセットになったエプロンドレスで、どこからどう見てもメイド服だった。クロエは途端に顔を引きつらせる。
「……これはなにかしら?」
「このお屋敷のメイド服だよ」
「見ればわかるわよ」
「作戦はこうさ。これを着て屋敷の給仕に化けた君がワインを持ってダン卿にぶつかる。そうして着替えを用意するとか言って個室に案内すれば――ほら、完璧だ」
「い・や・よ」
クロエは苛立ち交じりに拒否した。メイド服を着ろ? 冗談じゃない。本職の人間が着れば制服でも、クロエが着ればただのコスプレだ。
「どうして? 冷静に考えて、なかなかいい作戦だろ」
「本音は?」
「美少女のメイド姿を見れる!」
「死になさい」
間髪入れずクロエはロキの顔面目がけて蹴りを放った。それは一般人なら反応すらできない速度の一撃だったのだが、しかし流石というべきかロキはがっちり腕でガードしていた。防がれてなお力任せに顔面へと迫るクロエの足とそれを押し返すロキの腕がせめぎ合う。
「お、おかしいな。さっきクロエは僕のことは蹴らないって言ってなかったけ」
「事情が変わったのよ。そんなことよりあなたはどうして抵抗しているのかしら。愉快な人間オブジェになるせっかくのチャンスでしょう?」
「ははっ、冗談きついな」
「そうかしら? 置物になればあなたのイケメンとやらがさぞ活躍することでしょうよ」
「その割に顔面狙いじゃないか。ところでクロエ」
「何よ?」
「スカートでハイキックは止めた方がいいんじゃないかな? 見えてるよ」
「見えてるって――」
何がと言おうとしてその意味に気がついたクロエは慌てて足を下ろしてスカートを押さえる。
「変態っ!」
「今のは不可抗力だよ。だいたいクロエは反対しているけれど他にいい考えでもあるのかい?」
うっとクロエは言葉に詰まる。認めたくはないがロキの提示した案は手軽に実行できるそれなりに良い策ではあった。メイド服だってお屋敷で使われている物だけあってちゃんとしたものだし、そう考えればそこまで恥ずかしいことも――いや、恥ずかしいわよ!
「ねえ、ロキ。やっぱり駄目よ。この作戦は却下――」
「ミリアのこと助けてあげたいんだろ?」
否定しかけたクロエにロキは口の端を歪めて言った。その一言がとどめだった。クロエはがっくりと肩を落としロキの策を受け入れたのだった。
★
そうしてメイド服に着替えたクロエはダン卿が一人になったところを見計らって、ダン卿へと突撃した。ワインをかけられたにもかかわらず笑顔で自分へ手を差しのばすダン卿を見て案外いい人なんじゃないかしらと思ったのも束の間、事件は起こった。なんと部屋に入った途端に襲われたのだ。ロキいわくダン卿は手が早いタイプらしいがそれにしてもまさか自分のような未成年に手を出すとは思ってもいなかったので、クロエは完全に虚を突かれてしまった。
こいつロリコンだったのかと戦慄するクロエを押さえて馬乗りになったダン卿のクロエを見る眼はもう完全にアウトだった。嫌悪感で皮膚が泡立ち、思わず魔法を使って反撃しそうになったが、クロエはぎりぎりのところでこらえた。ダン卿は悪人。そのミリアの判断が正しかったことは現時点でほぼ確定的だったが、それでも万が一ということもある。はっきり事実確認をしておくべきだった。
そうしてクロエは怯えた少女を演じながら「ダン卿はレティシアお嬢様に想いを寄せておられるのでは?」と水を向けた。するとダン卿はそれはもうあっさりと財産目当てという最低な腹の内を明かしてくれた。
聞くことをすべて聞いたクロエはもう限界とばかりにダン卿の頬を張り飛ばした。渾身の力を込めたビンタは、魔法でもなんでもなかったが相当の威力だったらしく、ダン卿はベッドから派手に転がり落ちて地面に倒れた。
「最低。男って本当に最低よ」
怒りの言葉を吐きながらクロエは立ち上がり衣服の乱れを直した。ちらりと地面に這いつくばったロリコン野郎を見ると、途端に奴の手が自分の肌にふれた感触を思い出して全身に悪寒が走った。最低、最低、最低。クロエは苛立ち交じりに地面をダン、ダン、ダンと踏み鳴らした。
「さあて、遺言はあるかしら?」
ダン卿に向かって問う。我ながら温かみの欠片もない低い声が出たことにクロエは驚いた。おそらくフィオーレ王国で一番心優しいであろう自分にここまで冷たい声を出させるなんてまったくたいした屑野郎である。
本当のところクロエはできるだけ穏便に事を済まそうと思っていた。もしダン卿がミリアの言うような悪人だということが周囲に明らかになればレティシアがショックを受けるだろうと思ったからだ。それは依頼主のミリアも望むところではないだろう。
だからちょろっと事実確認して、ミリアの言うことが本当であればほんの少しだけおはなしをして、平和的に屋敷から手を引いてくれればそれでいいとクロエは思っていたのだ。
けれど今は違う。この男は社会の害悪だ。平和的に? 甘い。ここで息の根を止めておかなければ。今のクロエは使命感に満ち溢れていた。
「遺言? 何言ってぅぐあっ!」
「勝手に口を開くな、このロリコン野郎!」
頬を張られた衝撃からようやく回復し口を開きかけたダン卿をクロエはすかさず蹴り飛ばした。蹴り飛ばしてからそういえば遺言を聞いたのは自分だったと思ったが、まあどうでもいいことだ。それよりダン卿の声を聞くのが不快だった。
「お前、メイドのくせに俺にこんな……ありえないっ……」
「あら、私はメイドじゃないわ」
痛みに呻くダン卿を見下ろしながらクロエは左腕の袖をたくしあげる。露わになったクロエの細い肩に刻まれている紋章を見て、ダン卿は呆然とつぶやいた。
「妖精の尻尾……」
「正解。王国一のギルドの名前だし、もう遺言はそれでいいわね。人生の最期に発した言葉としては上等よ」
そう言ってクロエがダン卿を排除すべく頭にウサギの耳を生やしたところで
「はい、ストップ」
突然後ろから誰かに羽交い絞めにされた。その誰かに向かってクロエは剣呑な声を出す。
「なんのつもりよ、ロキ。どこから湧いてきたのよ」
「湧いてきたとはひどいな。ちゃんとドアから入って来たよ」
「屋敷の警備はどうしたのかしら?」
「ちゃんとしてるよ」
「思いっきりさぼってるじゃない。それより邪魔しないで。私はあの最低男を地平の果てまで蹴り飛ばすって決めたの。だから離して」
「それはできないな」
クロエはばたばたと体をねじって暴れたが、体勢が悪い上に体格の差もあるとなればいかんともしがたく、ロキの拘束から逃れることができなかった。一瞬思いっきりロキの足を踏みつけてやろうかとも考えたが、さすがに魔法で脚力を強化した状態でそんなことをするわけにもいかないかと思いとどまった。う~と唸ってクロエは抗議の声を上げる。
「もうっ、いきなり現れて何なのよ。はーなーしーて」
「勘弁してくれよ。クロエが彼を蹴り飛ばしたらお屋敷の壁に穴が開くだろ?」
「そんなことない――こともないけど」
「ほらね。クロエからお屋敷を護っているわけだからちゃんと警備もしてるだろ」
「う、うるさい。穴が開いたらふさげばいいのよ。それか窓。そうよ、開け放した窓から空高く星の彼方まで蹴り飛ばせば問題ないわ。だから離してってば」
「もう。落ち着きなって」
「~~っ!?」
ため息交じりにロキはクロエのうさ耳を掴んだ。途端に全身に快感が走りクロエは悶えるように身を震わせる。
「やあっ……耳はだめ……」
「もう暴れない?」
「うぅ……わかったから……やめて……」
涙目になったクロエがそう言うとロキはぱっと手を離した。解放されたクロエはへなへなとロキに身を預けた。ロキに抱きかかえられるような姿勢になったクロエは、いきなりなんてことしやがるこの野郎とロキの胸を叩いたが、あいにくと力が入らずぽすぽすと情けのない音が鳴るだけだった。
クロエの反撃をすっかり無視したロキがダン卿に話しかける。
「こんばんは、ダン卿。いきなりで悪いけど君に頼みごとがあるんだ。この子のつけているネックレスは音声記録用の魔導具でね。この部屋でのこと他人に知られると困るだろ?」
「なんだとっ……!?」
やんわりとしたロキの脅迫にダン卿は愕然とした。クロエもロキの言葉に驚いていた。クロエのネックレスにそんな機能はないことはロキも知っているはずなのに、ロキがあまりにも自然に嘘をついたからだ。こうやって女も騙すのね。やっぱりロキって性格が捻じ曲がっているわとクロエは呆れかえった。
「君に聞いてほしいことは一つだけだ。今後一切この家に関わるな。ウィリアス卿にもその娘にもだ。そうすれば今日のことを喋ったりはしないと約束しよう。どうかな?」
ロキの要求にダン卿は怒りの表情を浮かべて、けれど逆らうことはできなかった。ぎりぎりと歯ぎしりをしてこちらをにらんだ後、観念したように息を吐き一言だけ「わかった」と呟いた。
★
「クロエ、本当にありがとう」
パーティーから一夜が明け、クロエとロキは予定通り屋敷を去ることになった。お屋敷の門の前でクロエたちはミリアに見送られていた。ウィリアス卿もレティシアも見送りに出てきてくれていたが、わざわざ門のところまでついてきたのはミリアだけだった。
満面の笑顔を浮かべながらお礼を言うミリアからクロエは顔をそむけた。こういうのは苦手だった。
「別にたいしたことしてないわ。私一人でやったわけじゃないし」
頬を少し赤くしたクロエがもごもごとそう言うとミリアは驚いたようにロキの方に顔を向けた。
「もしかしてお兄ちゃんも手伝ってくれたの?」
「少しだけね」
「ありがとう。でも……」
ミリアの笑顔が曇る。困ったような様子のミリアにクロエは首をかしげて尋ねた。
「どうしたのかしら?」
「お礼。私、お兄ちゃんが手伝ってくれたって知らなかったからクロエの分しか持ってない……」
ミリアは左手に提げた紙袋を見ながらどうしようと呟いた。するとロキはぽすりとミリアの頭に手を置いて笑った。
「君の笑顔だけで十分さ、お姫さま」
ロキの気障なセリフにぽんとミリアの顔が赤くなる。何やってんのよ。クロエはぎろりとロキをにらんだが、ロキはいつも通りへらへらと笑うばかりだった。ダン卿なんかよりこいつの方がよっぽど地平の果てまで蹴り飛ばさなければならない女の敵なのではないだろうか。
「クロエ。受け取って。お姉さまのこと本当にありがとう」
「どういたしまして、ミリア」
ミリアからお礼の品だという紙袋を受け取ると、クロエとロキは馬車に乗り込んだ。ごとりと音を立てて馬車が動き出す。ミリアは最後に大きな声で「ばいばい。また来てね」と言って手を振ってくれた。
「さあて、思わぬこともあったけど依頼は無事完了だね」
向かいに座るロキが伸びをする。クロエはそういえばと声をかけた。
「あなたレティシアお嬢様の方は良かったの?」
もともとロキはレティシア目当てでこの依頼を引き受けていたはずだ。ダン卿のことを聞いた後もレティシアのことをたぶらかす気満々でいたように見えたのだが、結局ロキは手を出していない。クロエの疑問にロキは肩をすくめた。
「いくら僕でもあんな可愛らしいナイトがいたんじゃ手は出せないよ」
「あら。それは珍しいこともあったものね」
クロエは馬車の窓から小さくなった屋敷の方を一瞥した。ナイトねえ。頭の中でロキの言葉を繰り返す。あれはナイトなんかじゃなくてただのお姉ちゃん大好きっ子だ。今日もまた姉にべったり甘えるに違いない。それはどんなに――そこまで考えてクロエは苦笑した。まったく自分は何を考えているのだか。
「どうかしたのかい?」
「いいえ、何でもないわ」
怪訝な顔のロキにクロエは首を横に振った。これは心の中で留めておくべき事だ。ミリアがうらやましくてしかたがないなんてことは。
「ところでその中身は何なの?」
「さあ? ちょっと見てみようかしら」
ロキに尋ねられてクロエはミリアに渡された紙袋の中を探る。そうして中から出てきたのは黒のワンピースに、フリルがついた白のエプロンとカチューシャ。これは――
「メ、メイド服?」
それは昨夜クロエが来ていたものと同じ、お屋敷のメイド服だった。一体どうしてお礼の品がこれなのだろう。クロエがすっかり困惑していると、ふと向かいから視線を感じた。顔を上げるとロキがにやにやと笑っている。クロエはこの服が誰の差し金かを理解した。
「ロキ、あなたの仕業ね」
「いやあ、今朝ミリアからクロエの好きなもの教えてって頼まれてね。まさか依頼のお礼のことだとは思わなかったな」
白々しくもそう言うロキをクロエはにらみつけた。
「うそつき! だいたい私がいつメイド服好きになったのよ。完全にあなたの趣味じゃない」
「いやいや。可愛いとは思うけど、僕は特にメイド好きってわけじゃないよ? ただ恥ずかしそうにメイド服を着ている君にはなかなかグッとくるものが――」
「死になさい」
「ク、クロエ? 馬車の中で暴れないで、危ない、危ないって――うわあああ!」
ロキの悲鳴が響き渡る。騒がしい二人の魔導士を乗せた馬車はがたがたと左右に大きく揺れながら、彼らのギルド『妖精の尻尾』へ向けて走っていった。