妖精の尻尾は王国に数ある魔導士ギルドの中でも最大規模を誇る。それを一番わかりやすく証明している物はこのリクエストボードに並んだ依頼の数だろう。大手のギルドにはその規模に比例した数の依頼が寄せられるのだが、妖精の尻尾のリクエストボードにはよくもまあこんなに依頼が来るものだと呆れてしまうほどの依頼書が貼り付けられている。
そのリクエストボードの前に立つ少女、クロエは、依頼書の海を前にうんざりした表情を浮かべていた。何でこんなにたくさん依頼が来るのかしら。何でも人に頼めばいいと思っているバカ野郎が多いということなのかしら。チェックする人間の苦労も考えなさいよ。ミラにさんざんやり込められたばかりで虫の居所が最悪なクロエは八つ当たりのように毒づいた。
とても一枚一枚見る気にはなれないわ、とクロエはげんなりした。そもそもクロエはとり急いで仕事を探しているわけではなかった。ボードの前に来たのだってミラに仕事を探しに来たと言ってしまった手前、来ないわけにはいかなかっただけなのだ。
はあ。ミラって何であんなに意地が悪いのかしら。クロエは小さくため息をついてから、さらさらと依頼書を流し見し始めた。そうしてしばらく依頼書の海に視線をさまよわせていたクロエはふと奇妙な魔力を感じて眉をひそめた。何だろう。今、肌にじとっとくる嫌な魔力を感じ気がするのだけど……?
「これかしら?」
クロエは一枚の依頼書に目を止めた。真っ黒な紙に大きく「Read This」と書かれ、その下には古代語か何かだろうか、見慣れない文字の列が並んでいるという実に奇妙な依頼書だった。
「なにこれ?」
さっぱり意味の分からない文字列を前にクロエは思わずそうこぼした。
「この文字の意味を解いてください。解けたら50万ジュエルさしあげます。なかなかいい額じゃない」
クロエはむうと唸った。依頼書に提示されている報酬額はけっこう魅力的だが、残念なことにクロエは古代語に関する知識などこれっぽっちも持ち合わせてはいなかった。これはどうしようもないか……待って。依頼主は何が正解か分からないのよね。だったら適当にでっち上げれば簡単に50万ジュエルもらえるんじゃないかしら――いや、ダメでしょう。そんなの良識ある人間のすることじゃないわ。ちょっと悪いことを考えてしまってクロエはぶんぶんと頭を振った。そうして奇妙な依頼書に気を取られていると
「クロエ。何見てんの」
「え? きゃあっ!?」
突然後ろからがっしりと抱きすくめられて、クロエは思わず悲鳴を上げた。いきなり誰よとクロエはその人物を確認しようとして、やめた。つんとアルコールの匂いがして誰だかわかってしまった。
「カナ。また昼間からお酒飲んでるの?」
クロエは呆れた声を出した。
ウェーブのかかったダークブラウンの長髪と長い睫毛に縁取られた瞳が印象的な美貌に、露出の多い挑発的な服が相まって何かと人目をひく女性――それがクロエに抱き付いて来たカナ・アルべローナという人物だ。けれどカナには容姿や服装といった見た目以上の特徴がある。
『
しかし、昼間から大酒かっくらうなんてどういう神経してるのかしら。私はお酒を飲める齢になっても絶対にこうはなるまいとカナを見る度クロエは堅く心に誓っている。
「酒臭いんだからあんまりひっつかないでほしいのだけど」
クロエはじろりとカナをにらんだ。彼女がこうしてクロエに絡んでくるのはそう珍しいことではない。どういうわけかカナは妖精の尻尾の中でミラの次くらいにクロエによく話しかけてくる人物だった。
「そう言うなって。昔、酒を交わした仲だろ」
「あれはあなたが無理やり飲ませたんでしょう」
クロエは頬を膨らませて文句を言ったが、カナは完全に聞いていなかった。どれどれとクロエが見ていた奇妙な依頼書を読んでいる。カナの態度にクロエはもうっとため息をついた。
妖精の尻尾に来てまだそう時間が経っていない頃、悪ふざけしたカナにクロエはお酒を飲まされたことがあった。渡されたグラスの中身を口にした瞬間、胸はかあっと、頭はぼんやり、意識はふわふわ。それ以降の記憶がさっぱりない。
次の日の朝、酒のせいでガンガン痛む頭を押さえながら、カナやその時いっしょにいたミラにお酒を飲んだ後の自分の様子を尋ねてみても、二人ともにやにや笑うばかりでちっとも教えてくれなかった。私は一体どうなっていたというのだろう。知りたいような、知りたくないような……。二人のいやな笑顔を前にしたクロエの心境は複雑なものだった。まったくカナもミラもなんなのかしらね。クロエが心の中でぼやいていると
「古代文字の解読……50万かあ。けっこう額いいじゃん。アンタ、この依頼受けるのかい?」
カナに尋ねられてクロエは首を横に振った。
「いいえ。私は古代文字のことなんてわからないもの」
「ふーん。じゃあ私が受けようかな」
「あら。あなた、こういうの得意だったの?」
カナと言えば魔法のカードを使った占いが特技だと思っていたけれど、そのほかに古代文字に精通していたなんて初耳だ。クロエがちょっと意外な声を出すと、カナはいやいやと否定した。
「でも依頼主だってわからないんだろ? だったら適当にでっち上げればさあ……」
「うぐっ」
カナの発言にクロエは呻いた。
「どうしたんだい?」
「なんでもないわ。ただ自分という人間のレベルの低さに嫌気がさしただけよ」
まさか昼間から大酒を飲むダメ人間と発想が同じだなんてショックだわ! ちょっと落ち込んだクロエにカナは不思議そうに首を傾けた。
「ま、冗談はともかく、こんなのうちのギルドでわかるのはレヴィぐらいじゃないかねえ」
「そうね。でも仮に知識があったとしてもこの依頼は止めといた方がいい気がするわ」
「なんで?」
「わずかだけど依頼書から怪しい魔力を感じた気がしなくもないような気がするような気がするの」
「どっちなんだい。はっきりしないねえ」
「カナは何も感じない?」
「私にはわかんないけど」
「そう? じゃあ気のせいだったかしら」
クロエは首を捻ったが、まあ受ける気もない依頼について考えるなんて時間の無駄よねとそれきり奇妙な依頼書について考えるのを止めてしまった。
★
翌日の昼下がり、クロエはマグノリアの街を一人ぶらぶらしていた。今日はルーシィたちがS級クエストから戻って来る日だけど、あまり早くギルドに行ってしまうとミラに「あら、クロエ。ルーシィのこと待ってるの?」とか言われてからかわれるのが目に見えていたので、適当に時間を潰していたのだ。
けれど街を歩き始めてすぐにクロエは退屈な気分になってしまった。やることがこれっぽちもなかったのだ。マグノリアにはもう一年も住んでいて、街のことなんて隅から隅まで知り尽くしているわけで、今さら街をうろついてみても目新しいものなんて見当らなかった。しかたがないので本屋に入り、さして興味もない雑誌をぺらぺらとめくっていると、私はいったい何をしているのかしらと、クロエは自分のことがばからしくなってきた。
本当のことを言うと、街に出てくる必要なんてなかったのだ。ルーシィとはお隣さんなのだから、彼女が帰って来るのを家で大人しく待っていればよかった。いやいや。そもそもルーシィたちの安否はもうわかっているのだから自分の目でいちいち無事を確認する必要性もない。
それにもかかわらずクロエが外に出てきてしまったのは何となく落ち着かなかったからという自分でもひどく曖昧な理由からだった。本当に私何やってるのかしらねとクロエが首を捻ると、頭の中に「やっぱり心配なんじゃない」と言いながらくすくすと笑うミラの顔が浮かんできて、クロエはピキリと表情を凍らせた。
別に心配じゃないし。あなたは何度同じことを言わせるのかしら。ほら、あれよ。やっぱりルーシィたちを連れ戻すと言う仕事を中途半端にして帰って来てしまったのがいけなかったのよ。私ってまじめだから。
ばさりと乱暴な手つきで雑誌を棚に戻すと、やっぱりギルドに行こうとクロエは出口に足を向けた。ひょっとしたらもうみんな帰って来てるかもしれないし。ミラが絶対からかってくるとも言えないし。
クロエが奇妙な光景に行きあったのは本屋から出てすぐのことだった。街の通りのど真ん中。そこで桜色の髪をした青年がなんじゃこりゃーと叫びながら火を吐いていた。天高く。鮮やかに。火柱が空に向かって伸びている。
「いったい何をやっているのかしら」
クロエは火柱を見上げて呆れた声を出した。その火吹き男はちょうどクロエの顔見知りだった。名前はナツ・ドラグニル。首に巻いたマフラーがトレードマークの青年で、S級クエストに無断で挑んだ大馬鹿野郎である。
彼は火を操る滅竜魔導士だ。だからナツが火を吐くこと自体は実のところそうおかしなことではない。けれどなぜこんな街中でそのような行為に至っているのかは全くの謎だった。何かに燃え移ったらどうするのよ。なんじゃこりゃーじゃないわよ。まったくしかたがないわね。クロエはナツに近づいて
「やめなさい」
頭をばしりと叩いた。いてっと声を上げてナツが火を噴くのを止める。
「あなたはこんなところで何をしているのかしら? 火事になったらどうするのよ」
「おお、火が止まった……ってクロエじゃないか! いいところに。これぞ運命の出会いだね」
「は?」
ナツの言葉にクロエは固まった。えーっと、ナツはこんなセリフを吐くようなタイプだったけ……? いやいや、そんなバカな。クロエの記憶にはナツがこんな軽薄な調子と言葉遣いで話しかけてきた覚えはなかった。これではまるでナツがどこぞのグラサン変態男のようではないか。クロエはナツの様子に言い知れない違和感を覚えながらも、とりあえず言葉を返した。
「こんにちは、ナツ。あなたがここにいるということはルーシィももう帰っているのかしら」
「うん? ああ、ルーシィなら今ギルドに……ってそんな場合じゃないんだ。クロエ!」
ナツがいきなり大声で叫んだのでクロエはびくぅっと身を震わせた。
「な、なによ? いきなりびっくりするじゃない」
「クロエ、聞いてくれ。大変なんだ」
「へ? あ、ちょっと……?」
ナツに突然両肩をがっしり掴まれたかと思うとそのまま後ろに押されてクロエは道際の建物の壁まで追いやられた。とんと背中に堅い壁が当たる。
「あの……」
「何かおかしいんだ」
そうささやくナツの顔はクロエの顔のすぐ近くにあった。近い、近い、ちかーい。おかしいのはあなたの距離感でしょう!? 戸惑いを隠せないクロエだったが、ナツはそんなことお構いなしに言葉を続ける。
「ボクは今燃え盛る炎のような猛りを体の内側に感じている。まるで誰かに恋しているみたいに胸が熱くてしかたがないんだ。もう自分が自分じゃないみたいで、どうにかなりそうだ」
「こ、恋? あの、それってどういう……」
クロエはしどろもどろになった。壁際に追いやられて、手で肩を掴まれて逃げ道をふさがれたところに、このセリフ。これはまさか、もしかして、いわゆる告白というやつでは……。いやいやいやいや。おかしい。おかしいわ。あなた今まで私のこと気にしているようなそぶりなかったじゃない。困惑の極みにあるクロエにナツはまくしたてる。
「クロエ! 頼む。助けてくれ」
「いきなりそんなこといわれても……」
「キミしかいないんだ」
ナツの真剣なまなざしにクロエは思わず息を呑んだ。今まで意識したことなかったけど、こうして見るとナツってけっこう格好いいような……? ふと頭にそんな考えが過ぎったところでもうナツをまともに見ていられなくなり、クロエは顔を背けた。
どくん、どくん。急に心臓の鼓動がうるさくなる。体がぼっと火がついたように熱い。なんなの、これ……? わかんない、わかんない、わかんない。
「ごめんなさい!」
クロエはそう叫ぶと自分の両肩に置かれたナツの手を振り払った。同時に体に魔力を走らせ、頭にぴょこりとウサギの耳を生やす。そしてクロエの突然の行動に驚くナツを置き去りにして、脱兎のごとく逃げ出した。
★
ナツから逃げ出して街をさまようこと――さまようことどれくらいたったのだろう? わからない。絶賛混乱中のクロエは気がつくとギルドの前まで来ていた。
クロエは門につけられた『FAIRY TAIL』の看板をぼんやりと見上げ、そういえばルーシィはギルドにいるんだったわねと思い出した。さっきナツがそう言っていたわと考えた瞬間、ナツの顔が頭に浮かんで、ぽんっとクロエの顔が真っ赤になる。
ああ、ダメだ。ナツの顔を思い出しただけでこんなのって絶対に私はどうかしている。クロエは呻いた。だって、しかたないじゃない。私だってまだ恋に夢見る十四歳なわけで、当然こういう経験なんてないわけで、この手の感情をどうしていいかなんてわからないわけで。クロエはもうすっかり参り切ったと言う調子でふらふらとギルドの門をくぐった。
「あ、クロエ」
酒場に入ると自分の名前を呼ぶ元気のいい声が飛んできた。声の方を見ると、顔もスタイルもいいのになぜか色気の感じられない残念美人、ルーシィが立っていた。もともとは彼女が無事に帰って来たかを確認するためにやってきたクロエだったが、今のクロエにそんな余裕はなかった。クロエはルーシィに近づくとぽすりと胸の中に飛び込んだ。クロエの突然の行動にルーシィは驚きの声を上げる。
「ちょ、ちょっと、クロエ? いきなりどうしたの?」
「心に安らぎがほしいの」
「えーと?」
「ぎゅっとして。おねがい」
「べ、別にいいけど……」
突然の要請に戸惑いながらもルーシィはクロエの体に手を回した。ルーシィにぎゅっと抱きすくめられたクロエは目を閉じてほうっと息を吐き出した。ああ、あったかい。柔らかい。落ち着く。
「ありがとう」
ルーシィの腕の中にいることしばらくして、ようやく心の安寧を取り戻したクロエは体を離して礼を言った。
「よくわからないけど、もういいの?」
「ええ、もう大丈夫。おかえりなさい。ルーシィ」
「うん、ただいま」
にこっとルーシィが笑う。見たところ特にケガなどもしていないようでクロエはほっとした。
「ところでギルドが騒がしいようだけど何かあったの?」
クロエは首を傾げた。落ち着いて周囲を見回すと、ギルドの様子が常と違っていた。ぎゃあぎゃあとうるさいのはいつものことだけど、誰も笑ってない。ある者は鬼気迫る表情で「体を返せ」と叫び、ある者は「お前誰だよ」と困惑し、またある者はやたら悲壮な顔つきで「よりにもよってこんな奴に」と地面に膝をついている。これは一体……。クロエが尋ねると、ルーシィは途端に慌てて始めた。
「そうだった! 大変なの。みんなが入れ替わって私は戻れたんだけどみんなはそのままで――」
「落ち着いてもらえるかしら。何を言っているのか全然わからないわ」
「チェンジリングの魔法が発動したの。それで大変な騒ぎになってて」
クロエに答えたのはルーシィではなく青色の髪をした小柄な少女だった。少女の名前はレビィ・マクガーデン。文字魔法を使う魔導士で、これといっておかしなところの見当らない妖精の尻尾には珍しい常識人である。
「あら、レビィ。いたのね。ちっちゃくて見えなかったわ」
「ずっといたよ! だいたいクロエの方が小さいでしょ!」
「あら。そうだったかしら」
クロエはわざとらしくすっとぼけた。レビィは自分の背丈が低いことを気にしているようで、クロエはそれをネタにレビィをからかうのがお気に入りだった。レビィの言う通り自分の方が背丈は小さいのだが、昔ならいざ知らず今のクロエは特に自分の身長に関して頓着していなかったので、レビィにあなたの方が低いでしょと言われたところで何もダメージがないのだ。
「それでチェンジリングって?」
クロエが改めて尋ねると、ルーシィとレビィがかわるがわる状況を説明し始めた。いわく、チェンジリングとは人の心を交換する魔法の呪文らしく(Aさんの体にBさんの心が入って、代わりにBさんの体にAさんの心が入ってといった具合だ)、ナツが依頼書に書いてあった呪文を読み上げたことで魔法が発動。その場にいた妖精の尻尾のメンバーの心が入れ替わってしまったらしい。
「依頼書って?」
「これなんだけど……」
レビィが差し出した依頼書を見てクロエはあらと眉をひそめた。それはクロエが昨日奇妙な魔力を感じたような気がした依頼書だった。
「私とグレイはレビィちゃんのおかげでなんとか元に戻れたんだけど。みんなはまだで」
「どんどん入れ替わりが広がっていてもう私の手には負えないの」
ルーシィとレビィはすっかり弱り切った表情で言った。無理もないとクロエはため息をついた。まったく心を交換する魔法とはナツもまた厄介なものを発動させてくれたものである。S級クエストに無断で行ったことといい、ナツという人間は騒ぎしか起こさないわね。さっきのいきなりの告白もそうだし……いや、待てよ。
「もしかしてナツも誰かと入れ替わっているのかしら?」
クロエがおそるおそる尋ねると、ルーシィは事もなげに頷いて
「ナツはロキと入れ替わっちゃって」
ルーシィのその言葉を聞いた瞬間、クロエはぴきりと表情を固まらせた。ナツがロキと入れ替わっているだと……? 途端にクロエの頭の中で先ほどの出来事のつじつまが合い始める。
さっきナツは軽薄な口調で妙に距離感が近かったけれど、中身がロキならいつものことだ。「体が熱い」「自分が自分じゃないみたい」は恋とか関係なく単純に炎の滅竜魔導士のナツになったせい。「助けてくれ」は言葉通りのSOS。「キミしかいないんだ」は……紛らわしいのよ、こんちくしょう!
「クロエじゃないか」
背後から呼びかける声が聞こえたのはロキに対するクロエの怒りがピークを迎えたまさにその瞬間だった。この声は……。ぶるぶると怒りに震えながら振り返ると、ナツの姿をしたロキが立っていた。街でクロエと別れた後、ロキはギルドに戻って来ていたらしい。
「さっきはどうしたんだい? 急に走り去ったりして」
ロキが不思議そうにクロエの顔をのぞき込む。その距離は相変わらず近かった。なあに? 私の心を散々乱しておいてそのへらへらした顔は。クロエはぎろりとロキをにらんで
「あなたが――」
「ん?」
「あなたがいつもそんな調子だから勘違いするのよ! ロキのバカっ!」
「ぐはっ!?」
まさに神速。クロエの繰り出した必殺の蹴りを横っ腹に受けたロキは錐揉み回転しながら吹きとんで近くのテーブルに突っ込んだ。ええっとルーシィとレビィが驚きの声をあげる。
「ちょ、ちょっと、クロエ。いきなりどうしたの?」
「なんでもないわ」
「でも――」
「しつこいわね」
クロエはルーシィとレビィにぎろりと剣呑な目を向けた。
「なんでもないったらなんでもないのよ。何よ。あなたたち私に何か文句でもあるの?」
「「ありません」」
二人がぶんぶんとそろって首を横に振る。クロエは「よろしい」と頷いてから「それでこれからどうするかだけど」と話を戻した。
「もしかして何か名案でもあるの?」
「名案ではないけれど、今までの話を総合して、すべきことがわかったわ」
「何?」
ルーシィとレビィが期待に満ちた目をクロエに向ける。対するクロエは自然な調子で
「チェンジリングの効果が自分におよぶ前にここを離れた方がいいってことよ。それじゃ、またね」
「うん、バイバイ、クロエ――って薄情者か!」
さらりと出口に向かおうとしたクロエをルーシィががっちりと抱き留めた。クロエがばたばたと暴れるのを必死に押さえつける。
「はーなーしーて!」
「いーやーよ! 何一人で帰ろうとしてるのよ。こんな状態のギルドをほっとくわけにはいかないわ」
「別にいいじゃない。入れ替わったって頭数は変わらないんだし」
「そういう問題じゃないでしょ!?」
「私まで入れ替わったらどうするのよ! 他人の体で一生を過ごすなんてごめんだわ!」
「ちょっと、クロエ! ルーちゃんも落ち着いて」
クロエがルーシィ、レビィと騒いでいると
「貴様、他人事のように言いおって」
ふと足元から剣呑な声が聞こえた。視線を下に落とすと二本足で立った青い猫がクロエを見上げてメンチを切っていた。
「あら、ハッピー」
クロエはその猫の名を呼んだ。ハッピーとはナツの相棒で、直立二足歩行から人との会話、魔法で翼を生やして空を飛ぶことまでやってのける世にも奇妙な猫である。
「もしかしてあなたも入れ替わっていたりするのかしら?」
クロエが首をかしげると、ルーシィが少し言いづらそうに答えた。
「それ、エルザよ」
「……。ごめんなさい。今なんて?」
「だからハッピーにはエルザが入ってるの」
「へーえ。それはそれは。ずいぶんと可愛らしくなったじゃない」
クロエはひょいとハッピーの体を持ち上げた。こ、こらとエルザが声を上げるが完全に無視をした。
「私、猫って好きなのよねえ。ほら、よしよし」
試しに喉のあたりを撫でてやる。するとエルザはくすぐったそうに身をよじった。
「お、おいっ。やめんか、貴様」
「やあよ。楽しいもの。中に入っているのがエルザだと思うとなおさら愉快だわ」
「ふざけるな、このっ!」
バタバタとエルザが暴れるがハッピーの体では大したこともない。クロエはますます愉快になってエルザを撫でまわした。
「ほーら、よしよしよしよし」
「く、屈辱だ」
「ふふっ。エルザかわいいー。持って帰っちゃダメかしら。私が飼ってあげるけど」
「いいわけないだろう」
「今日の晩御飯は魚にしてあげるわよ。あ、にゃんこ飯の方がいいかしら?」
「いらんわっ!」
「あっ」
エルザは翼の魔法を発動させてクロエの腕から飛びだした。中空へと飛び去ったエルザを見上げたクロエはなんて完璧な飛行なんだと感心してしまった。流石はエルザだわ。もうハッピーの体にすっかり適応されていらっしゃる。他のみんなはともかくエルザはハッピーのままでもたくましく生きていけるに違いない。
ひとしきりエルザをいじめて満足したクロエはさて、と気持ちを切り替える。
「それじゃあ私はこのへんで――」
そう言ってクロエは出口へ歩き出そうとしたが、グイッと腰のあたりを引っ張られて、またも脱走に失敗した。見るとルーシィが服の裾を掴んでいる。ルーシィはクロエの方をジトっとした目で見て
「逃がさないわよ」
「……ルーシィ。あなた案外抜け目ないわね」
「クロエこそ」
クロエとルーシィはふふふと笑い合った。お互いちっとも目は笑ってなかったけど。そばでレビィが「クロエもルーちゃんも怖い」と呟くのが聞こえた。
「はあ……。わかったわよ。こうなったらしかたがないわ。私が何とかしてあげるわよ」
これはどうにも逃げられそうにないらしい。クロエはしぶしぶそう言った。
★★
「私が何とかしてあげるわよ」
クロエの言葉にルーシィは目を見張った。S級クエストから帰って来てほっと一息つく間もなく起こったチェンジリング騒動。文字魔法に造詣の深いレヴィですら匙を投げたこの古代文字魔法の解決をクロエがあまりにもあっさりなんとかすると言ったことにルーシィは驚いてしまった。それは隣に立つレビィも同じだったようだ。
「何とかするって……本当にこの状態を元に戻せるの?」
レビィが思わずという風にクロエに詰め寄った。さっきまで実際にチェンジリングの解決に取り組んでいた彼女だからこそその難しさが分かるのだろう。問いかけるレビィの口調には解決への期待と本当にできるのかという疑念が交じり合っていた。それに対するクロエは軽い調子だった。
「本当のところはやってみないとわからないけれど……たぶん大丈夫よ。なんとかなるわ。マスターマカロフはいるかしら?」
「うん。マスターならあそこに」
クロエに尋ねられたレビィがカウンターの方を指さす。そこに立つのはすらりと綺麗なミラジェーン。言わずと知れた妖精の尻尾の看板娘である。クロエはたっぷり三秒くらいミラの方を見つめた後、いやいやと頭を振った。
「何言ってるの。あれはミラじゃない」
クロエはあなた大丈夫とでも言いたげな眼でレビィを見た。普通ならその反応は正しいのだが、今この時に限っては違う。
「いや、あれがマスターマカロフだよ」
「え?」
「だからね、ミラとマスターが入れかわっているの」
「えっ……」
噛み含めるようにレビィに言われて、ようやく正しく現実を認識し始めたらしいクロエは、絶句して完全に固まってしまった。顔にはありありとショックの表情が浮かんでいる。みんなが入れ替わったことはすんなり受け入れたくせに、クロエにとってミラだけは例外らしかった。
「おーい、クロエ。大丈夫?」
ゆさゆさとレビィがクロエの体を揺さぶって、ようやく硬直から立ち直ったクロエは
「即刻、意地でも、チェンジリングを元に戻すわよ」
と重い声で言った。クロエの顔つきはついさっきまでの軽い調子はどこへやら、すっかり真剣なものに変わっていた。がらりと態度を変えたクロエをルーシィはなんだかなあと呆れた眼で見てしまった。
以前ミラがクロエはルーシィに懐いてるとか何とか言っていた気がするけど、クロエのこの様子を見ているとよっぽどミラの方が懐かれているとルーシィは思った。仮に自分がミラの状態だったとして、クロエがここまでやる気になってくれるとはとても思えない。
「クロエってなんだかんだでミラさんのこと好きよね」
「ルーちゃん。それ、クロエに聞こえたらにらまれるよ」
「聞こえてるわよ!」
ぽろりとルーシィの口からこぼれた言葉をしっかり拾い上げたクロエがぎろりとルーシィの方をにらむ。
「いきなり変なことを言わないでもらえるかしら。別に私はミラのことなんてどうでも――」
「あー、はいはい。わかった、わかった」
むきになるクロエをルーシィは適当にあしらった。クロエが素直な性格をしていないことはルーシィもよく知るところだったので、やっぱりミラさんのことが好きなんじゃないとついつい生暖かい目でクロエを見てしまう。それが余計にクロエの気に障ったらしい。クロエはますます目じりを吊り上げてルーシィを見た。
「適当にあしらっていないかしら」
「ないない」
「やっぱり適当でしょう」
「気のせいだって。それでどうやって元に戻すの?」
ルーシィが促すとクロエは「釈然としないのだけれど」と不満げな顔をしたものの、それ以上の追及をしてこなかった。
「クロエ、早く」
「わかってるわ。本当はこれを使う時はマスターの許可がいるのだけど……。まあ非常事態だからいいでしょう、たぶん」
そう言うとクロエは目を閉じて短く息を吐いた。ほんのわずかな所作だったけれど、それだけで空気が変わったのをルーシィは感じた。混乱に満ち満ちて騒がしいギルドの中でクロエの周りの空間だけ、世界から切り取られたように静寂が支配する。
ルーシィも隣にいるレビィもごくりと唾をのんだ。クロエの中で何か異質な魔力が蠢めいていた。冬の夜のように、静かで、冷たくて、澄んだ魔力。
やがてクロエがゆっくりと目を開ける。同時にさあっとクロエを包んでいた静寂がギルド全体に広がった。異質な魔力に気がついた妖精の尻尾の魔導士たちが一斉に口をつぐんだのだ。
「ね、ねえ、クロエ?」
異様な雰囲気に不安になったのかレヴィがクロエに声をかける。するとクロエは微笑して
「目、閉じた方がいいわよ、レビィ。ルーシィもね」
そこから先はほんの一瞬のことだった。隣のレヴィが目を閉じるのを見て、ルーシィも慌てて目を閉じかけた瞬間、ルーシィは一人の真っ白な女の子の姿を見た。クロエが立っていたのと同じ場所に立つ、クロエと全く同じ顔立ちの、けれどクロエとは全然違う白銀の髪と赤紫の瞳をした少女の姿を。直後、少女に驚く間もなく、まばゆい紫の光がギルドに満ちた。ルーシィがあまりの眩しさに目を閉じると、真っ暗になった視界の向こうで先ほどから感じていた異質な魔力がギルドの中を駆け抜けていく気配がした。
「終わったわ」
ぽつりとつぶやくクロエの声が聞こえて、おそるおそるルーシィは目を開ける。すると――
「今の光は何だ――って、おおっ。これは」
「もどってる。もどってるぞ!」
「自分の体に帰って来たー」
ギルドが喜びで溢れかえっていた。
「チェンジリングが解除された……?」
ルーシィは呆けた様にこぼした。何が起きたかさっぱりわからない。目を閉じる前に見た真っ白な少女も消えていて、そこには真っ黒なクロエが立っているだけだった。呆然とするルーシィの横でレビィがうわあと歓声を上げる。
「すごい! ねえ、クロエ何したの?」
「秘密よ。言わないわ」
クロエが悪戯っぽく笑うとレビィは「そんなあ……」と不満げに唇を尖らせた。
「じゃあ私はもう帰るわね」
「え、もう? チェンジリングは終わったのに……」
「急用よ」
ばいばいと手を振ってクロエはギルドを出て行った。止める間もなく去っていくクロエの背中をルーシィとレビィは目を丸くしながら見送った。
「いったいなんなのよ」
「さあ? なんだかわからないことだらけだね」
思わずこぼしたルーシィにレビィが困ったような笑顔を浮かべた。
「いきなり帰るし、さっきのおかしな魔力も。チェンジリングだってあんな一瞬でどうやって解除したんだろう。私、ルーちゃんを元に戻すだけでもすっごく苦労したのに」
「そうね。それにあの女の子も……」
「女の子ってなんのこと?」
ルーシィの言葉にレビィが怪訝な顔をした。
「見てないの? 紫の光がぱっとなる直前なんだけど」
「えっと……。私、クロエに言われてすぐに目を閉じちゃったから……」
「あっ。そっか」
紫の光がギルドに満ちる直前、確かにレビィは目を閉じていた。じゃあ、あの少女の姿を見たのは自分だけなのか。ルーシィはもう一度先ほど見た少女の姿を脳裏に描いた。
クロエとうり二つの少女。顔立ちも、背丈も、華奢な体つきも、なめらかな白い肌も同じ。けれど、きらきらと輝く白銀の髪と純白の服はクロエと正反対で、上から下まで真っ白な少女は唯一、瞳の色だけがわずかに赤みの入った紫色だった。
あれは一体何だったのだろう。普通に考えればあれはクロエだ。光の加減で彼女の黒の髪と瞳と服が違う色に見えただけなのだろうか? それとも私の見間違い? ルーシィがむうっと難しい顔をしていると、レビィが「どうしたの、ルーちゃん」と心配そうにルーシィの顔を見た。ルーシィは慌てて首を振った。
「ううん、なんでもない。とりあえずみんな元に戻っているみたいだからよかった」
「うん。でも、クロエも解除できるんなら最初からさっとやってくれればよかったのになあ」
「確かにそうね」
「あ、ジェットとドロイも元に戻ったみたい」
レビィはぱっと顔を輝かせて彼女のチーム「シャドウ・ギア」のメンバーの方へ駆けていった。それを見たルーシィはそういえばナツとハッピーも無事に戻ったかしらと、自分のチームメイトの姿を確認しようとして――
「ひぃっ――!?」
不意に背後から感じた気配に悲鳴を漏らした。だって背中に感じるそれはびりびりとしていて、明らかに激怒の色を帯びていたから。ルーシィが緊張で固くなった首をぎぎぎと回して、おそるおそる振り向くと、そこに鬼が立っていた。
「ルゥーシィィィ! クロエはどこに行った!」
ものすごい形相のエルザがルーシィの胸ぐらをつかんで叫ぶ。ルーシィはあまりの恐怖で何も答えられず口をパクパクさせた。
ああ、なるほど。クロエがそそくさと立ち去ったのはエルザの報復を恐れてのことだったんだ。確かに納得の理由だけど、私はただのとばっちりじゃない~。ルーシィは半泣きになりながら、クロエに恨みの叫びをあげた。
あと、一話、二話くらいで幽鬼の支配者編に入りたいなあなんて思ったり思わなかったり。
お読みいただきありがとうございました。感想、誤字報告などありましたらよろしくお願いします。