それでもいいという方のみお進み下さい。
「…………はあ」
司令室から東側に少し離れて建てられた艦娘用宿舎のとある一室にて、一人の少女が憂鬱そうに大きく溜息を吐いていた。
その端整な横顔はそれだけなら一枚の絵画にも見えるほどだが、今の彼女にはそんなことよりも一つの悩みで頭が一杯だった。手には本を持っているが、上の空なのか一向にページが進む気配がない。
「折角の休日だというのに、朝っぱらから姉上は何をそんなに溜息をついているのだ」
「あ、ごめんなさい武蔵。あまり気にしないで……はあ」
「気にするも何もそうまでされるとこっちまで憂鬱になるのだが」
大和型戦艦一番艦の大和と、その二番艦である武蔵。
この鎮守府でも一、二を争う高い火力と装甲を誇る彼女たちの久々の休日は、主に姉の大和のせいで朝から陰鬱たる気配を漂わせていた。
「なによ、どうせ悩みとは無縁のお気楽武蔵には大和のこの深い悩みなんて理解できないでしょうね!」
「そうでもないさ。姉上のことだ、どうせ提督がなかなか構ってくれないとかそんなところだろう?」
「…………」
「図星か」
あまりにもあっさりと当てられてしまったことにぷるぷると震えていた大和だったが、その後すぐにべしゃっとテーブルに崩れ落ちてしまう。
これが出撃時のあの凛々しい彼女と同一人物だと言うのだから驚きである。
「だってだって! 最近は出撃ばっかりで提督とお話する機会もほとんどないし! 秘書艦業務だって次は何日後になるかすら分からないし!」
「いいじゃないか。出撃で提督の役に立てているのならそれで本望じゃないか」
「戦闘馬鹿の武蔵と一緒にしないで。大和はもっと提督と絆を深めたいんです」
「ならばもっと普段からアピールする必要があるだろう。お昼に誘ったり休日の予定を聞いたり」
「そ、それはだって……大和にも心の準備というものが」
怒っていたと思ったら急に恥じらいだす姉を見て、武蔵は顔を歪めながら心の中で思っていた……超めんどくさいと。
演習や出撃時では頼もしい姉だというのに、提督が絡むと途端にこれである。もしや霧島たちのところも毎回こうなのだろうか。だとしたら彼女たちの苦労に同情せざるを得ない。
「と言っても、提督は執務や艦隊指揮で忙しい身だし、彼の傍には常に誰かしらついているからなあ」
「そこに大和がいないのはなぜかしら?」
「出撃してるからじゃないか?」
「……出撃拒否の嘆願書を出してきます」
「いいから座れ。落ち着いて頭を冷やせ馬鹿姉」
我、天啓を得たりと言った表情ですっと立ち上がる大和を強引に座らせる。
そんなことをしたら提督が丸一日『私の艦隊指揮に何か問題があったのだろうか』と胃を痛めてしまうではないか。
「さっきから大和のことばっかり馬鹿にしてくれてるけど、武蔵の方こそどうなのですか」
「ん? 提督のことか? もちろん好きだぞ。あれほど優秀で我等のことを想ってくれる提督は他にいないからな」
「なっ……だ、駄目です!」
「何が駄目なのだ?」
「そ、それは……と、とにかく駄目です! 提督のこと好きって言うの禁止です!」
なんて我が儘な姉なのだ。この姿を駆逐艦の少女たちが見たら幻滅どころでは済まないのではないか。
武蔵は痛む頭を押さえながら、このままでは折角の休日が姉の世話で終わってしまうと助言を必死で考える。
「そう言えば、提督はあまり女性と接することが得意ではないらしいな」
「え? でも大和が見た感じそこまでおかしな感じはしてませんけど」
「それは我々の命を預かっているんだ。艦隊指揮などでヘマをする人ではないさ、意識的な問題だろう。実際に私が秘書艦のときに後ろから背中に胸を押し当ててみたら面白い反応していたしな」
「……何やってるんですか武蔵」
「じょ、冗談だ。だから主砲は止めてくれ姉上」
「もうっ! でもそれは提督が女性に慣れていないということかしら」
「だろうな。だが逆にそれはチャンスでもある」
「はっ!? つまりそれは提督がまだ大和の魅力に気が付いていないということ!?」
「言い方はアレだが、まあそういうことだ。ちなみに今日の秘書艦である文月が風邪を引いてしまったので提督は今、執務室に一人だぞ」
武蔵が言葉を言い終わるや否や、何かを思いついたかのように大和は衣類が入っている箪笥を開け、次々と服を引っ張り出し始める。
そのがさごそという音を耳だけで聞きながら、武蔵はやっと静かになるなとごろりとベッドに横になり雑誌の続きを読み始める。
隣で姉が何をしているのかに気が付かないまま。
「む? 空いているぞ」
自分の筆を滑らす音以外、静寂に包まれている司令室に三度ノックの音が響く。
今日は訪問予定はなかったはずだが、風邪を引いてしまった文月の様子を誰かが伝えに来てくれたのだろうかと、提督は一度筆を置き扉へと声を掛ける。
「失礼します提督」
「ああ、大和か。どうし――っつ!? や、大和、その恰好は!?」
そうして入ってきた大和の服を見て、提督の表情がビキっと固まる。
そう、大和の、やもすれば下着が見えてしまいそうなシースルーのネグリジェ姿を目の当たりにして。
「た、たまにはこういうのもいいかなと思いまして」
「た、たまには? その服は就寝前に着るものだったように把握しているが」
もしや寝ぼけてしまっているのでは? と極力大和に視線を送らないようにしながら気が気でない提督をよそに大和自身も表情を耳まで真っ赤に染めながらそれでも平静を装おうと必死である。
黙って眺めれば、艦娘に淫らな衣服を強要する変態提督とそれに嬉々として応える変態艦娘の完成である。
「ま、まさかその姿のままでここまで来たのかね?」
「いえ、扉の前まではこれを羽織ってました」
言いながら、手に持ったローブのような上着、恐らくは雨風を防ぐレインコートのようなものを見せてくる大和に提督はほっと安堵の溜息をつく。
もしあのままの姿でここまで彼女が来ていたらと思うと心配とストレスで胃に穴が開きそうになる。
「それで、ど、どうですか提督。この大和の姿、女性らしいと思いませんか?」
「むむむ」
ある意味もっとも女性らしい姿で、どこか期待の眼差しと共にキラキラと瞳から星を飛ばしてくる大和に胃を締め付けられる感覚に苛まれながら、提督は何とか感じていたことを口にする。
「じょ、女性らしいかどうかは分からないが、その服だけで今後自室から出ない様に。駆逐艦の子たちにはその姿は見せられない」
「…………」
ひたすら大和から視線を外しながら、提督は鎮守府の風紀の強化を最優先する。
その言葉を聞いた大和は、無言でさらさらと砂になりながらふらふらと司令室を出て行っていた。
「これは一体どういうことですか武蔵!」
「それはこっちのセリフだ馬鹿姉! この身内の恥さらしが!」
いつの間にか部屋を出て行っていた大和が呆然としながら帰ってきたことに驚き、そのコートの下の姿に更なる衝撃を与えられた武蔵が苦悶の表情を浮かべながら身体を捻っている。
一体どこで何を間違えたらこんな答えに辿り付くのか、武蔵は実の姉に戦闘以外で初めて戦慄を覚えていた。勿論悪い意味で。
「うう~、あんなに恥ずかしい思いしたのにこれじゃただの痴女じゃないですか」
「否定の言葉が見つからないのだが」
「はあ……提督、大和に興味ないのでしょうか」
「あの姿に興味を持ったらそれはそれでマズイだろう」
姉の独り言のような呟きに律儀に答えを返す武蔵の心労をよそに、大和はまたアンニュイな表情をしながらぶつぶつと独り言を呟いている。
「よく考えて見ろ姉上。姉上だって提督がいきなりパーカーにトランクス一丁で部屋を訪れてきたら身構えるだろう?」
「あ、あら? それはそれでアリかもしれませんね」
「無しだよ」
これはもう手遅れかもしれないと天を仰ぎながら、それでも武蔵は姉に付き合うことを止めない。
なんだかんだ言いながらこんな穏やかな休日を姉である大和と過ごすのも嫌いではないのだ。そもそもこの程度でヘタっていては大和の妹など務まらない。
「姉上はもう少し、癒しの雰囲気を身に着けるべきだな」
「……癒し?」
「ああ、提督は日夜この鎮守府の運営に全力を捧げているからな。それを支えてやるためには戦闘としての力に加え、鳳翔や間宮の店のような癒しも大切なのだろう」
「癒し……それです」
「あ、おい姉上! 急にどこへ行くのだ!?」
またしても弾かれたように部屋を飛び出していく大和に武蔵が声を掛けるが、そのまま駆けて行ってしまう。
どこか胸騒ぎのする武蔵は、大和の後を追いかけるように部屋を出て行った。
「大和、急にいなくなるから心配したぞ。大丈夫か?」
「はい。先程はお見苦しいものをお見せして申し訳ありません」
「いや、見苦しいなどとは決して思っていないが」
本日二度目の大和の再来に少し身構えながらも、普段の落ち着いた彼女の様子に提督は心の中で安堵の溜息を漏らす。
やはり先程のあれは何か彼女なりに意図があってのことだったのだろうと、勝手に一人納得しながら。
「それはそうと提督。連日の提督業務に加え、的確な艦隊指揮、本当にお疲れ様です」
「む、そんな気を使う必要はない。私などよりも君たちのほうがよっぽど過酷な戦いに身を投じているのだ。それを思えばこれくらい訳はない」
「それでも提督は少し働きすぎです。少し床にうつ伏せになってください」
「む?」
どこから取り出したのか、厚めのタオルを床に敷きながら大和が半ば強引に提督をうつ伏せに寝かせる。
その上にまたがり『気を楽にしていて下さいね』と大和が提督の背中を指で押し始める。どうやら大和仕込みのマッサージで提督の日頃の疲れを癒そうという算段のようだ。
「どうですか? 痛くないですか?」
「あ、ああ。丁度いいよ」
「そうですか。ふふ、喜んでいただけて何よりです」
「あまり無理はしなくていい」
「無理などしていませんよ」
指で提督の背中を押し続けているせいか少し息が荒い大和に気を遣いながらも、その気持ちよさに身体の力が抜ける。その様子に気をよくしたのか、大和から伝わる感触が徐々に増えて行っているようにも感じる。
「そ、そろそろいいんじゃないだろうか。十分楽になったよ大和」
「いえ……はあはあ……もう少しほぐさないと……はあはあ……いけません」
「だ、大丈夫かね? 息が上がっているようにも聞こえるが」
「大和は大丈夫です……はあはあ……提督の身体逞しいです……はあはあ……もっともっと」
「や、大和? 大丈夫かね?」
「だ、大丈夫です! 大和は大丈夫――」
「このすっとこどっこい! 早く提督から離れろ!」
「――きゃう」
何やらぶつぶつと呟き始めてしまった大和の顔を横目で覗くと、瞳をぐるぐると回しながら頭から盛大に蒸気を放っている大和が見え、提督の顔に動揺の色が走る。
そのまま混乱しながら密着してくる大和の頭を、突如乱入してきた武蔵がスパコーンと叩いて引き離す。
「すまない提督。姉が迷惑をかけた」
「い、いや構わないが」
「私たちはすぐ帰るから、提督は執務を続けてくれ」
「あ、武蔵。そんなに引っ張らないで」
一体今のはなんだったのだろうか。
怒涛のように捲し立てながら、大和を引きずっていく武蔵に呆然としながら、提督は何気に軽くなった肩を回しながら、執務へと戻って行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「一体何をやっているのだ姉上は全く」
「……ごめんなさい」
「折角提督が信頼して背中を向けてくれたというのに」
「提督の背中を眺めてたら頭が一杯になって……」
「生娘か!」
司令室から自分たちの部屋へ戻ってきた途端、武蔵による大和への説教がマシンガンのように放たれる。
当の大和も自分の行為に反省してか、なぜか正座で縮こまってしまっていた。
「本当にどうして姉上は戦闘ではあんなに冷静で頼りがいがあるのに。提督の前ではああなってしまうのだ」
「本当にごめんなさい」
「あーもういいさ」
怒り疲れた、といったように溜息を一つつきながら大和の隣にどかりと武蔵が座り込む。こんな騒がしい日常も、この鎮守府に来なければ得ることもできなかったのだ。
そう思うと、一気に怒る気力も霧散し、代わりに苦笑が漏れてくる。
「でもこれで分かっただろう。提督は一筋縄ではいかないってことが」
「そうね。焦っても仕方ない、今はこの日常で満足しておきます」
窓の外を流れる雲を眺めながら、二人は同時にふーと息を吐き出す。
「なんだか怒ったら腹が減ったな」
「何か食べに間宮さんのところにいきましょうか。今日は武蔵に迷惑かけたのでお姉ちゃんの奢りです」
「お! それならいつもの倍は食えるな!」
「少しは遠慮しなさい!」
暖かな日光に照らされる昼下がり。超弩級戦艦と呼ばれる二人の少女の休日はゆっくりと時間が過ぎていく。
時折、窓から吹き込んでくる穏やかな風のように。