風呂に入る、という行為に対して異を唱える者は、この日本と言う国では少数派だ。
夏は暑く、冬は寒い。それはつまり、身体がそれだけ外的環境の変化に晒されている訳であり、土地由来の埃が舞いやすい気候風土も影響してか、日本では一年を通して入浴する事が当たり前となっている。
本来は沐浴の一種である禊の意味で行われていた行為ではある。しかし、科学技術の発達した現代では、身体の清潔を保ち心身共にリフレッシュできる入浴を道楽と捉えて、各地の有名温泉場へと足を延ばす人々も年々増加傾向にあるようだ。
昨今ではサウナや足湯、果てはスチーム風呂や砂風呂なるものまで普及している辺りに、現代人の入浴への関心の度合が窺い知れるだろう。
兎にも角にも、日本は風呂文化が栄えている国と言ってしまっても過言ではない。
そして意外な事にもこの男――提督も風呂の持つ魔力に魅了された人間の一人だったりする。
「…………ふう」
一通りの所作を終え、貸切状態の湯船に浸かり提督は一人静かに溜息を吐いた。口から吐き出された空気と共に一日の疲労が抜けていくようで、瞳を瞑れば少しばかりの微睡が競り上がってくる。
「この程度でこの有様とは……私も若くはないということか」
どう考えても二十代の発言とは思えない呟きを零しながらも、提督は先程までの楽しげな喧騒を思い出し、小さく脱力した。
楽しい時間は過ぎ去るのが早く、旅行とは同時に多大なエネルギーを必要とする。だと言うのに思い浮かぶ彼女達の表情に一切の疲労が見えないのは、上司として嬉しくもあり、呆れる話でもあったのだ。
ちなみに先程、とは大宴会場での夕食の席での一件である。
提督の席を巡って第六駆逐隊と第七駆逐隊が争いの火種を切って落としたのを皮切りに、駆逐艦全員を巻き込んだ”第一回提督争奪大食い大会”が開催されてしまった事が発端だ。
提督としてはどうしてそうなった感満載の流れであったが、眼前の少女達の決意に満ち満ちた表情に気圧され、何を言う事もなく賞品席への着席を余儀なくされてしまった。その折、即座に両隣に腰を下ろしたのが扶桑姉妹だった訳だが、彼女達も案外抜け目がない。
――しかし、壮絶な戦いだったな。
提督の胸に、ある種の感嘆のような感情が湧き上がる。
あの時雨が、あの綾波が、あの秋月が。普段は理知的で穏やかな気質の彼女達までが、汗で張り付く髪を払う事もせず、一心不乱に箸を進める姿に提督は終始ハラハラと心配で胃を痛めていた。
一方で、一人また一人と限界を迎え、倒れていく年少組の少女達を軽巡以降のお姉様方が一人ずつ介抱する姿など、提督が目指す鎮守府の姿が垣間見れ、頬が緩んだりもしたのだが。
どんなに些細でつまらない事でも、提督が絡めば国家事変の如く真剣に取り組む彼女達の気質は良いのか悪いのか。それでも本人達は実に楽しそうなのだから良いのだろう。
「時雨たちがあそこまで本気になるとは……旅行の解放感とは侮れないものだ」
そして、争いの原因である人物がこの有様なのだからどうしようもない。最近では向けられる好意にこそ気が付くようにはなってきた提督ではあるが、全てを親切心や上司への気遣いに分類している辺り、彼の駄目さ加減が窺える。つくづく情の受け取り方が下手な人物だ。
艦娘の想いに提督が気付くのが先か、艦娘の我慢が限界を迎えるのが先か。水面下で壮絶なチキンレースの標的とされている彼の表情は実にのほほんとしている辺り、先は長そうである。
ちなみに大食い大会を制したのは意外な事にも霰だったりする。他が次々と倒れていくのを横目に、ひたすらパクパクと箸を進める姿はある種画一的で、彼女の奮闘に会場はどよめいた。まさかあの霰が、と言った感じである。
普段はあまり目立たない彼女ではあるが、その瞳にはしっかりと闘志の炎が宿っていた。隣でいつの間にか倍以上の料理を笑顔で平らげていた赤城に勝るとも劣らない輝きを放ちながら、霰は静かに勝ち鬨を上げ、倒れた。
結果として夕食を提督と共にする事は叶わなかった霰であったが、介抱に向かった提督の膝の上で実に嬉しそうに横になりつつ、至福のひと時を満喫している姿は、誰が見ても勝者であっただろう。
結局それらも、我慢しきれなくなった夕立が涙目で飛び込んで来るまでの事であったが。
経緯はどうあれ何かに必死になれる事は良い事だ、と孫の成長を喜ぶ爺のような表情で湯に浸かる提督の元に、小さな来訪者が一人、二人、三人――数えきれない。
「ていとくさんていとくさん、ごいっしょよろしいですか?」
頭にタオルを、腰に風呂桶を。まるで下町の銭湯でよく見かけるオヤジのようなスタイルでぞろぞろと入ってくる妖精さん御一行。見る者が見れば、面の皮の厚い、と顔を顰めるやもしれぬ行為に、しかし提督は穏やかな瞳で以て答える。
「ああ、勿論良いとも。存分に日頃の疲れを癒してくれ」
「ありがたや、ありがたや」
「しつれいしますです」
「かたじけなし」
律儀に提督に頭を下げてから、一人また一人と湯船に浸かっては、ほにゃらと表情を崩して溜息を一つ。
足が底に届かない事を見越してか、持参した浮き輪を巧みに使いながら脱力する姿は実に用意周到で意味不明だ。ちなみに全員可愛らしい水着姿である辺り、提督の心身への配慮は忘れていない模様。
他の鎮守府では分からないが、ここの妖精さんは一々仕草が人間臭くて憎めない。どこを探したら旅行先の温泉で嬉々として酒盛りを始める妖精さんが居ると言うのだろうか。
ともあれ、貸切だからこそできる浴場での贅沢である。公共の場であれば諌めているだろう提督も今回ばかりは苦笑で済ませている。
「ていとくさんにもおさしあげです」
「む? いいのか?」
「ていとくさんにのんでいただけるのならほんもうですゆえ」
「そうか。では頂こう」
どこからかぬるうっと出てきた一升瓶。妖精さんの背丈の二倍はありそうなそれを器用に傾けながら、中身が注がれた塗り盃を受け取り、提督はこくりと嚥下する。
「うまいな」
「おくちにあってよかったです」
鼻孔を擽る独特の香りも然ることながら、口内から喉を刺激する酒本来の味わいに提督は久々に酒の美味しさを感じたような気がした。彼自身、立場上普段は嗜好品の類を控えているが、本来酒には滅法強く、休みの日には、隼鷹や千歳に連れられて鳳翔の店などで飲むこともしばしば見受けられる。
その度に彼女達は秘蔵の一品と称して値の張る酒を一本持ち寄って来るのだが、今味わった酒はそのどれにも勝るとも劣らない一品であるかのように感じられた。
「とても質の良い酒のようだが、銘は何と言うのだ?」
「”妖精のたれ”ですが?」
「……なるほど」
何が”なるほど”なのか。
酒なのにたれとはこれ如何に、と提督は思考の渦に吞まれかけるのを頭を振って踏み止まる。そもそも妖精さんとは人知を超えたスケールを擁する不可思議的存在だ。例えネーミングセンスが遥か未来を走っていたとしても、きっとそれは彼女達の中では常識的範疇に過ぎないのだろう。きっとそうに違いない。
「ささ、もういっぱいどうぞです」
「ああ、すまないな」
今日はやけに積極的な妖精さんに促され注がれた酒を、今度は一度舌で転がしてから喉を通らせる。
先程とは違いストレートに喉へと通さないため刺激こそ抑え目だが、その分鼻孔へと抜ける爽やかな香りに思わず頬が緩む。同じ種類の酒でも、飲み方一つで感じ方が変わってくるのだから面白い。
気が付けば、提督の肩や頭の上で居心地良さそうに妖精さんも酒を嗜んでいる。一部既に出来上がっている妖精さんが隣の妖精さんにねっとりと絡んでは嫌がられている姿など、似なくて良い所まで人間そっくりだ。
夕食に引き続き賑やかになりつつある雰囲気の中、提督はよい機会であると、改めて日頃の礼を彼女達に述べた。
「私達が今日までやってこれたのも、単に君達の支えがあってこそだ。本当に感謝している。ひいては何か要望があれば言ってくれ。可能な限り叶えられるように手配しよう」
「ていとくさんはかみさまですか?」
「もはやそのおきもちだけでわれわれはじゅうぶんですはい」
「われわれもしょくにんとしてのほこりがありますゆえ」
小さくてもそこは職人気質の何某かに触れるのか、提督の提案にきっぱりと断りを入れる妖精さん一同。彼女達にとって鎮守府を支える事は当然であり、そこに対価を求めるのは本意とする所ではないのかもしれない。
普段あまりに彼女たちが甘味に目がないので、最近艦娘の間で妖精さんの正体は実は大福――ほっぺが大福のように柔らかいから――の化身なのではないかと言った噂が信憑性を増していた。
が、今の妖精さん達のシブイ職人としてのニヒルな表情と台詞を見れば、最早噂の真偽など確かめるまでもない事案だ――
「そうか。もし要望が多ければ、間宮君、伊良湖君の二人と間宮食堂で妖精君達用の甘味メニューを作ろうかと相談していたんだが」
『われわれもいまちょうどそれをていあんしようとしていたところですはい』
――と思ったがやっぱり大福の化身かもしれない。
一瞬で先刻の自分たちの言葉を無かった事にして、瞳を輝かせながら涎を垂らす妖精さんに流石の提督も動揺を禁じ得ないのか頬を掻いている。
昔一度、木曾が間宮製の新作デザートの残りであった特製プリンを開発前の妖精さんに渡した事があった。提督が依頼した資材数は丁度艦載機四機分。当時の秘書艦は着任したての瑞鳳だったこともあり、練習がてら零戦が一機できれば御の字だろうと提督は考えていた。
だが数時間後、どこか挙動不審ながら報告のためにと執務室に入ってきた瑞鳳が抱えているそれを見て提督は思わず自身の目を疑った。
烈風が二機と紫電改二が二機。
初回の開発任務としてはあまりに余剰戦果すぎた結果に、涙目でおろおろする瑞鳳を落ち着かせるために一緒に卵焼きを食べる羽目になった事は今でも鮮烈に提督の記憶に残っている。
なぜ卵焼きだったのかも大きな謎だが、以降はこれと言って驚くべき開発成果が無く安定しているだけに、この一件に関しては未だに謎だらけである。
「とりあえず了解した。他に何かあれば聞いておこう」
「めにゅーのさいしょをかざるのはみたらしだんごがいいかと」
「やつはしこそしこうのいっぴん」
「ぷりんのないかんみやはかんみやにあらず」
「さんめーとるぐらいのぱふぇをおよぎながらたべたし」
欲望と唾液に塗れた妖精さん達の提案を提督は一つ一つ記憶に書き留めていく。彼女達には人間と同じように個性があり、それぞれの好みもまた当然異なる。こうして定期的に言葉を交わし、意見に耳を傾ける事も良好な鎮守府運営を継続するために欠かせない要素なのだ。
だというのに、艦娘達から”妖精さん達に比べて自分達へのコミュニケーションに割く時間が短いのではないか”なる抗議文が毎月提督の元に届いてしまうのだから不憫ではある。ぶっちゃけなんでもいいからもっと構って、という本音が盛大に透けて見え、隠れてすらいない。
「よし。今挙がった案は私から間宮君に伝えておこう」
「なにとぞよしなに」
あらかた意見も出終えた所で、一先ずの方向性を定める。最後まで神妙な面持ちと共に、提督の手に自分の手を合わせる妖精さんの甘味に賭ける想いは相当な物だ。間違いなく開発の時より力が籠っている。
大分酔いが回ってきたのか赤みの指した頬のまま、ゆらゆらと身体を揺らしている妖精さんが何かを思い出したかのように両手を打ち付けた。
「それはそうとていとくさん、れいのさんぷるのけんについてはどうしますですか?」
「…………何の話だったかな」
「だいほんえいからおくられてきたゆびわのさんぷるのけんですが?」
具体的な内容を指摘され、提督は思わず頭の上のタオルで顔を覆ってしまう。
理由は只一つ。前回の大本営での全体会議で一番の焦点となり、数時間を費やしてなお、全国の提督を戦慄させた新たな艦娘強化策。
――ケッコンカッコカリ。
名前を考えた人間は一度、本気で病院に行った方がいいと思ってしまう程に場違いなネーミングを付けられた其れは――しかし提督にとって残念な事に――今後の戦況を左右する上で非常に重要な役割を担っていた。
練度の限界を迎えた艦娘の
唯一の救いは発表こそすれ、今回送られてきた指輪は未だサンプル状態だということか。現在指輪の開発は最終調整の段階で、今回の物の持続効果は一時的なものに過ぎないとの事だ。その分、サンプルに限り練度が上限に達していない艦娘でも装着できる仕組みになっているらしいが。
問題はそんな所ではないだろうと思う提督ではあったが、来月末までに効果についての報告書を大本営に提出しなければならないが故に、一人唸っていると云う状況だ。
「何故よりによって結婚と指輪なのだ……」
「あたらしいでんぽうによれば、じゅうこんもかのう、とのことです」
「……未だかつてない無駄な電報だなそれは」
新たに浮上した悪意すら感じる情報に、提督はどうしたものかと天井を見上げた。
渡す事が嫌な訳ではない。むしろ本心では今すぐにでも渡したいと思っている。そうする事で彼女達が無事に帰還できる可能性が上がるのならそうするべきなのは百よりも承知だ。
しかし同時に、精神的な問題が発生する懸念もあるのだ。いくら戦力向上のためとは言え、いきなり上司からケッコンと称して指輪を渡されれば困惑するのは目に見えている。最悪の場合、精神的トラウマに直結してしまう可能性だって考えられるのだ
あまり深くまで考え過ぎるのも問題だが、かと言っておいそれと簡単に決められる事案でもない。こういう時、自分の決断力の無さと、慎重になりすぎる性格が心底嫌になるな、と提督は瞳を瞑りぽつりとぼやいた。
「――ままならんなあ」
「きぶんてんかんに、ろてんぶろにでもいってみるとよいですが?」
「それもそうだな」
言われるがままに、提督は少しだけのぼせた頭で露天風呂へと続く扉へと歩いていく。
そんな悩める後姿を、妖精さん一行はどこか含みの籠ったニヨニヨとした笑顔で見守っていた。
まるで扉の先で一波乱ありそうな、とそんな楽しげな表情で。
夏の慰安旅行編は後二、三話で終わる予定です。
少し間延びした感があるやもしれませんが、もう少しだけお付き合い下さいますと幸いです。
それではまた次回。