調理が始まった。
司令官が腕を捻る度、鉄製の鍋からジュッジュッと小気味良い音が調理場に響き渡る。同時に、食材に含まれていた水気と熱せられた油分が蒸気となって部屋の温度をぐんぐん上げていく。
頬が熱い。
隣から流れて来る熱気を肌で受けながら、敷波は背中にじわりと汗が滲むのを感じる。野菜を洗って皮を剝いているだけでこれだ。直接火と相対している司令官はきっとこの比ではないのだろう。
「むう……少し濃い、か?」
だというのに、司令官は涼し気な表情で料理の味付けに首を捻っていた。器具の稼働確認も含めた試作用の調理が始まってまだ三十分程度だが、随分と慣れた様子である。
――料理はあまり得意じゃないって言ってたけど……。
改めて見てもそんな風には思えない。少なくとも今の司令官はある程度料理の経験がある人の動き方だ。器具の扱いにしろ食材の処理にしろ、一つひとつに迷いがない。
普段の軍服とは違い、エプロン姿というのもあるのだろうか。何処かこう新鮮で……うん、なんかグッとくる。
「どうだ敷波、少しは慣れたか?」
「あ、う、うん」
なんて言ってる場合ではなかった。
手元が止まっている事を終わったと思ったのか、司令官が敷波の横に置いてあったザルの中から皮の剝けたジャガイモを一つ取り出してしげしげと眺め始める。
なんだろう、妙に恥ずかしいな。
「うむ、初めてにしては上手く剝けているな」
「いいよ別に……無理に褒めてくれなくて」
司令官の評価に、敷波は気恥ずかしそうに口を尖らせる。
それもそのはず、ザルの中の食材はどれもデコボコと不揃いで、どう見ても皮と一緒に身までこそげ落ちてしまっていた。当社比約二十パーセントオフ、間宮が見たら一時間は説教されてしまいそうな出来である。
食材の水気を切りながら敷波は一人ぐぬぬと唸る。
侮っていた、皮剥きを。最初に見本として実演してくれた司令官がするすると簡単そうに剝いていたから案外簡単なのかなとか思ってたけどとんでもない。
「人参などの凹凸の少ない食材はともかく、ジャガイモの皮剥きは少しコツがいるからな」
「司令官があんなに簡単そうにやるからだろー……あんなの詐欺だよー」
「敷波も少し練習すればあの程度、すぐにできるようになる」
「嘘だあ! アタシの不器用さを舐めんなよー!」
だって硬いのだ。
おまけに形が真っ直ぐじゃないからピーラーの刃が上手く引っ掛かってくれないし、力の入れ具合がいまいち良く分からない。かと言って力任せに強引にやると身まで一緒に剝いてしまう。
そうこうしている内に、ご覧のあり様だ。我ながら不器用にも程がある。
「私も最初は凄く苦手だった。初めから上手くできる人なんていないし、要は慣れ、だな」
「それって習うより慣れろってやつ?」
「そうだな」
要は練習しろ、とそういう事だろう。
気を取り直して目の前に置かれたナスを手に取りながら、敷波は作業を再開する。さり気なく皮を剥きやすいナスを選んでくれる辺りに司令官の気遣いを感じられて、ちょっとだけ嬉しい。
それにしてもやはりどうしても気になることがある。
「ねえ司令官、一つ聞いてもいい?」
「む、どうした?」
卵をボウルで小気味良く溶いている司令官の動きは相変わらず滑らかだ。そのまま作業の邪魔にならない程度に会話を続けてみる。
「いやさ、さっき料理は得意じゃないって言ってたじゃん。でも、今の司令官見てたらとてもそうは思えなくて……どこかで料理習ってたりしてたのかなーって」
「……ああ」
言うと、司令官は言葉を選ぶように一拍置いた後、何気ない口調で問いに答えてくれた。
「父の友人に食事処を営んでいる人がいてな。馴染みの店とあって軍学校に入るまで良く利用させてもらってたんだが、そこで少しの間、料理を教えてもらえる機会があってな」
「それってもしかして、少し前に赤城さんと加賀さんが連れて行って貰ったって話題になって……」
その後暴動が起きた、と続けようとして敷波は止めた。司令官の良い思い出は良い思い出のまま残しておかなければいけない。嫉妬にまみれて加賀のカレーにとうがらしを仕込むとある部下の話などで塗り潰して良いものではないのだ。まあ全ては瑞鶴を無駄に煽った加賀が元凶なのだが。
「……話題? まあ、二人以外にもその後何人か一緒に行ったが……庄司さんという愛想は悪いが、とても料理に情熱を持っている人がやっている良い店だよ」
「ふーん、そうだったんだ」
「あの人は他人に教えるって柄ではなかったから、半分以上は私が勝手に作業していただけだったが。それでも時折もらえるアドバイスが嬉しくて、あの頃は夢中で鍋を振っていたよ」
「だからこんなに手際がいいんだ」
「レパートリーは増えなかったがな」
そんな風に苦笑する司令官は何処か楽し気で、少し嬉しそうにも見えた。
ここで連れて行ってと言えば、自分も連れて行ってもらえるのだろうか。そんな事を一瞬考えて、敷波はいやいやと頭を振る。それは流石に我儘が過ぎるし、第一、自分と一緒に行ったところで司令官は楽しくないだろう。
少しだけ、というか結構残念だが、まあ仕方がない。
それより今はナスだ。とにかく目の前のナスに集中しなければ――
「そうだな。いい機会だし、近い内に敷波も一緒に行ってみるか?」
「ほえあっ!?」
――握ったナスが高速回転しながら何処かへ飛んで行った。……びっくりして変な声出しちゃった。
「え……いいの?」
「ああ、庄司さんも喜ぶ。気兼ねなく行きたいのなら綾波と二人で行けるよう手配するが」
「ううん、司令官も一緒に……司令官と一緒に行く」
「……では私と敷波と綾波、三人で行くとしよう」
司令官と一緒――その言葉に敷波の頬が緩む。
職業柄、日々忙しい司令官と仕事や任務以外で一緒の時間を過ごせる事は滅多にない。加えて、基本的に艦娘側からの休日の司令官への約束の取り付けは艦娘同盟により禁止されてしまっている。そうしなければならない理由は……まあお察しの通りだ。放っておいたら司令官の休日が休日じゃなくなってしまう。
一時期、一部の艦娘の嘆願書提出による論議の末、当日偶然出会った場合のみお誘い可という緩和政策が取られたが、前日の内に司令室前に夏場のキャンプ会場並みのテントが無数に出没したため即刻取り下げられた。嘆願書提出より僅か三日の事であった。
ちなみに当然司令官には何も知らされていない。
――だって司令官の事だから、絶対お誘い断らなさそうだもんなあ。
司令官の休日は、司令官のためにある。その中には身体を休めてもらう事も当然入っている。
なので艦娘側としては司令官の方から誘ってくれるのをただ祈って待つしかない。問題があるとすれば艦娘のお誘いは断らないのに、自分からは滅多に誘ってくれない司令官の気質だ。最近は少しずつ改善されてきてるみたいだけど、その分こっちの期待感も鰻登りでそろそろ皆の欲望が爆発してしまいそうだと秘書統括の大淀が頭を抱えていたり。
まあそんな現状なんだ。少しぐらい浮かれても全然おかしくはない……きっと、うん。
「日時は追って相談するとしよう。連絡は敷波に入れればいいか?」
「あ、うん。任務以外の時は基本暇してるからいつでも」
とっさに口に出た言葉に司令官は『分かった』と一言口にして、一度火を止め食材を取りに行くために冷凍室へと消えていった。それを確認してから、敷波は『やった』と小さく拳を握りしめた。
「……へへっ!」
自然と笑みが零れる。今日は良い日だ、と鼻歌交じりにそんな単純なことを考えてしまう。そのまま司令官が戻ってくる前に皮剥きを終わらせておこうと姿勢を正し、ふと前を向いたところで――
「……ぶー、敷波ちゃん楽しそうだね」
「うわあ! びっくりしたー!」
――洗い物を終えた綾波が棚の隙間から不満そうに頬を膨らませてこちらを見ていた。一体いつからそこにいたんだろう。
「な、なんだよー、脅かすなよー。終わったなら声かけてくれよー」
「本当に? 本当に声かけて良かったの?」
「……な、何が言いたいのさ」
「べっつにー」
べーと子供っぽく舌を出しながら隣で一緒に皮を剥き始める綾波。
本当にどこから見られていたのか。いや、別にやましい話をしていた訳ではないのだから気にする必要もないんだけど。
「それで、どんなお話してたの?」
ナスの皮をすいすいと剥きながらの綾波の質問に、敷波はちょっとだけ照れたような憮然とした表情で質問の答えを口にする。
「……今度、司令官がご飯連れて行ってくれるって」
「ほえあっ!?」
綾波の間抜けな声と共に本日二度目のナスの逃避行。なるほどさっきのアタシはこんな顔をしていたのか。
「そ、それはまことの話にございますか?」
「なんか口調が変だよ……まあ、気持ちは分かるけど。司令官がさ、誘ってくれたんだ。ほら前に加賀さんと赤城さんが食堂で話してくれたとこ」
「うわあやったあ! それにしても司令官に誘ってもらえるなんて流石は敷波ちゃんだね!」
「ま、まあね」
綾波に抱き付かれながら、へへんと鼻を鳴らす敷波。
実際のところ単に司令官が気を使ってくれたのと運が良かっただけのような気もするが、わざわざ言う必要もないだろう。誘ってもらえたという結果が大事なのだ、うん。
「えへへ、楽しみだなあ。そうと決まれば敷波ちゃん! 今度のお休み一緒にお洋服買いに行こう!」
「ええ……いいよそんなの。どうせ似合わないし……」
「そうと決まれば早速スケジュール考えないと。ああー楽しみだなあ、司令官と敷波ちゃんと一緒のごっはん~ごっはん~」
この娘もはや聞く耳持たずといった感じである。
若干暴走気味な相方を前に敷波は呆れるように深々とため息を吐いた。
……しかし確かに、綾波の言っている事も分かると言えば分かる。司令官の馴染みの店と言えど、外食は外食だ。一般的なマナーとして、最低限失礼に当たらない服装を整える事は必要になってくる。
「…………まあ、変な格好で行って司令官を困らせるのは嫌だし」
決して何かを期待しての事では無い……けど、服はちょっと見に行ってみよう、かな。
「あれ? 敷波ちゃん、顔が赤いよ? 大丈夫?」
「な、なんでもないから!」
不思議そうに顔を覗き込んでくる綾波に慌てて否定の言葉を挟みつつ、敷波は逸る心臓を抑えるように次のナスへと手を伸ばした。
「ねえ、いい加減元気出してよ不知火」
「……不知火は別にいつも通りですが?」
そんな風に返されて、陽炎は本日何度目かのため息を盛大に吐いた。
隣ではとぼとぼと鎮守府の廊下を歩く死んだ魚のような目をした不知火が一人。先ほど、無人の司令室を出てからここまでずっとこの調子だ。
「あのさ、司令官がいなくて残念だったのは分かるけどいい加減立ち直ってよ。折角の休みなのに不知火が沈んでばっかじゃこっちも楽しめないじゃない」
「……不知火に何か落ち度でも?」
「……こっわ。気落ちした瞳にもともとの眼力も相まって迫力倍増ね。アンタそんなんだから皆に『眼力だけは戦艦級』なんて揶揄われるのよ」
「……ぬい」
思うところがあるのか一瞬険しい表情を顔に浮かべ、しかしすぐに肩を落として項垂れる不知火。彼女のチャームポイントの一つでもある束ねられた後髪も、今は叱られた犬の尻尾のように力無く揺れている。
「……このダメぬいめ」
これはもう暫くは駄目だなと、陽炎は嘆息露に壁にある窓の外へと視線を向けた。
事の発端は陽炎の些細な発言にあった。
――休みで暇だし司令官の部屋にでもいってみる?
朝起きて同部屋の不知火と一緒に顔を洗ってる時に何とはなしに出た言葉。今思えばこのお誘いが全ての元凶のような気がしないでもないが、それは結果論なのでこの際置いておく。
別に何かお誘いするでもなくただちょっと雑談でも、と思っただけなので同盟にも違反しない……と思う。
ただ、問題は司令官が部屋に居なかったことだ。
「まあ、お休みだし居なくてもおかしくはないんだけど」
だが、少し疑問も残る。
司令官は鎮守府を離れる際、基本的に誰かに所在を伝える事を忘れない。休日にしろ急な要請にしろ、必ず誰かに伝えるか、書置きを残していく事が常だ。艦娘側も誰も司令官の居場所を知らないというのは突発的事態に対応できなくなる危険性があるため、当然と言えば当然の対応だ。
しかし今回はそれが無かった。
「司令は何処に行かれたのでしょう」
とぼとぼと歩く不知火の声音にも少しだけ不安の色がうかがえる。
気持ちは分かる。だが、探そうにも当てがない上、ただでさえ窮屈な司令官のプライベートをこれ以上邪魔してしまうのは流石に申し訳ない。
なにより他の誰かが居場所を知っているかもしれないし、そもそも鎮守府の何処かにいる可能性の方が高い、とそう結論付けて陽炎は明るい表情で不知火へと向き直った。
「ま、あの人の事だから問題ないでしょ。ほらいつまでも落ち込んでないで、とりあえず何処か落ち着ける場所で今日の予定を組み直すわよ」
すると、不知火はむっとした表情で、
「さっきから不知火ばかりダメな子扱いされてますが、人がいない今が司令と親密になれる大チャンスなどという甘言で不知火を誘惑してきたのはどこの誰ですか」
「うっ……」
痛いところを指された陽炎の表情が絶妙に歪む。焦ったり緊張したりした時に右手で括った髪の先をくるくると弄り出すのは陽炎のいつもの癖だ。
「やれやれそんなのだから陽炎は司令の前で素直になれないのですよ。去年のバレンタインデーの時だって――」
「う、うっさいわねっ! あんたにだけは言われたくないわよこの司令官専用むっつりスケベ!」
「なっ……!? し、不知火がむっつりだなどと何を根拠にっ……陽炎の方こそ司令のお傍にいるときいつも不用意にべたべたと距離感が近すぎではないですか!?」
「あ、あれは単なるスキンシップだからっ! ってか清掃中に男性用脱衣所でたまたま手に入れた司令官の脱ぎたてほかほか生Tシャツでくんかくんかハスハスする変態むっつり不知火に言われる筋合いは――」
「ああああああああああああああああああああ!」
焚き付けられた火種はお互いの煽りの風を受けて、渦巻くように燃え上がっていく。
どっちもどっち、五十歩百歩、どんぐりの背比べ等々、今の二人を見たら誰もが口を揃えて呆れる状況ではあるが、本人たちは至極真面目に喧嘩しているのだから仕方がない。
そのまま取っ組み合い引っかき合い、一頻り暴れ合った後お互いにプスプスと燃え尽きて鎮守府の廊下にごろりと転がった
「ハア……ハア……止めましょう陽炎。これ以上はお互いの精神が崩壊しかねません」
「ぜえ……ぜえ……そうね。このままじゃ自分の醜い部分を全て目の前に晒されかねないわ」
荒い息も絶え絶えに、休戦協定を結ぶ二人。
身体を動かしたことで頭も冷えたのか、乱れた前髪をかき上げながら陽炎はむくりと上半身を起こした。
「身体動かしたらお腹空いちゃった。不知火は?」
「そうですね、空腹もありますが、まずは何か飲みたい気分です」
「じゃ決まりね。そう言えば今日って食堂空いてるのかしら?」
不知火の返事も漫ろに、二人は衣服についた埃を払いながら立ち上がる。
「ま、行ってみれば分かるわね」
「はい。では早速向かいましょう」
そうお互いに頷き合い、二人は揃って食堂のある方向へと歩き出した。
お久しぶりです。
間が空いてしまっているので既に忘れられてそうですが、まだ読んで下さっている方にはお礼をば。
未だに多くの感想を頂けているようで凄く嬉しいです。
一人ひとり返信ができず申し訳ありません。が、頂いた感想は全部きちんと目を通して今後の参考にさせて頂いています。
もう少し更新ペースを上げれるように頑張ります。
ではまた次話で。