※設定の齟齬が見つかったため、一旦前回までの五十六話を引き下げました。
修正ののち改めて投稿しますので、申し訳ありませんがしばしお待ちください。
「同志ちっこいの、相談がある」
「……人の部屋に入るときはノックするのが礼儀だって教えられなかったかい?」
久方ぶりの一人での休日、部屋で一人写真を眺めていた響は口をへの字に曲げながら突然の来訪者へと向き直った。
「まあそう、つれない事を言うな。一時的とはいえ、祖国を共にした仲だろう?」
「同志おっきいの、もといガングートさん。そんなに肩をバシバシ叩かれると、痛い」
入ってきたのはガングートだった。
祖国をロシアに置く彼女は過去の艦としての経歴からか響を気に入っている様子で、度々こうして部屋を訪れては響と絡んで帰っていく。響としては穏やかな時間を度々脅かされているのであからさまに渋顔で、普段なら同部屋でいじり甲斐のある暁を差し出して難を逃れたりするのだが、残念ながら現在暁は遠征中だ。
「ふっ! その名はもう古い。今の私はオクチャブリすきゃ……オクチャひゅ……オキュ……ガングートだ!」
「言えてないじゃないか」
最近改装してもらって新しい名前を貰ったらしいが、見事に言えていない。
響もヴェールヌイというもう一つの名前を持っているが、特に気にしておらず周囲には好きに呼んでもらっている。特にガングートの方は新しい名前が長く覚えにくいため、慣れ親しんだ『ガングート』を皆使っているのが現状だ。
まあそんな事はさておいて。
「それで、何の用だい?」
「うむ。だがその前に……おい、いつまでそこに隠れているつもりだ」
ガングートの呼びかけに、扉の端からもう一人の人物が現れる。
淡い金髪を靡かせながら白の軍服を基調に、その上からケープを羽織る少女――グラーフの登場に響は少しだけ瞳を丸くする。
「貴重な休暇の時間にすまない。邪魔をする」
「それはいいけど、珍しいね。二人が一緒にいるなんて」
響の言葉にグラーフはガングートをチラリと見ただけで、ガングートはふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いている。仲が悪いという訳ではないのだろうけど、特別良いという訳でもなさそうだ。
だからこそ、疑問に思う響である。
「そこについては理由が……それは、アトミラールの写真か?」
指摘をされて、響は自分の手元を見る。ベッドの上には先ほどまで眺めていた、彼女秘蔵の司令官アルバムが。
「そうだよ、私の宝物さ。見てみるかい?」
「いいのか?」
「見るだけならね」
言って、グラーフにアルバムを手渡す。横にはいつの間にか寄ってきていたガングートがちらちらとアルバムを覗き込んでいる。宝物だからと言って、独り占めする気はない。もともと暁たちと定期的に鑑賞会をしているし、司令官の良いところを知ってもらえるのは嬉しい事だ。……売ってくれと言われたら、断固として断るところだが。
「……ふむ」
「あ、おい! ページをめくるのが早いぞ!」
時折そんな掛け合いをしながら、黙々とページを捲る同志二人。ガングートの方は見た目通りのリアクションだが、グラーフの方は表情も変わらず、淡々とページを捲っている。元々クールな印象を持つ彼女だけに、いつも通りと言えばいつも通りだ。
が、どこか気になる写真があるのか時折、結んだ綺麗なツインテールがふよんふよんと動いていたりする。
微笑ましい光景だ。紅茶用の湯を沸かしながら、響は鼻歌交じりにカップを戸棚から取り出していく。暁たちが任務で不在のため、静かな休息日になると思ったが、案外そうはなりそうもない。
二人の傍にも盆に載せたカップを置いて、金剛に薦められた紅茶に舌鼓をうつ。
「……優しい味だな」
普段は司令官の事しか考えていないように見えて、実のところ周囲をよく見ている金剛の事だ、茶葉の種類に詳しくも無い響でも飲みやすい物を選んでくれたのかもしれない。
暫くして、アルバムを一通り眺め終えたグラーフが、ふうという――何処か満足そうな――吐息と共に背表紙を閉じ、隣に置かれたカップに口を付けて、余韻に浸るかのように暫く目を瞑る。
その様子に何処か満足しつつ、響はそのままアルバムを服の中に隠して持ち去ろうとする同志おっきいのを無言で捕獲。一息入れた後、本題へと向き直った。
「それで、二人の相談っていうのはいったいなんだい?」
途端、二人の表情が真剣なものに変貌する。
しかしこうして優雅に紅茶を飲みながら誰かの相談に乗るというのも、暁ではないが何処か大人っぽくて新鮮な気分だ。加えて相手は同世代の駆逐艦ではなく、戦艦、正規空母と押しも押されぬ立派な大人。
思わず響が特に意味も無く足を組んで、優雅っぽいポーズを取ってしまうのも仕方がない。
「ああ、その事についてなんだが」
なおも真剣な表情で言葉を続けるグラーフを、響もカップを揺らしながら静かに待つ。自然と背筋も伸び、胸も張って姿勢も良くなってきている気さえする。
――フフッ、暁、私は今着実に大人への階段を上っているよ。
響は確信する。
今ならどんな相談でも母なる海の如き広い心でもって解決へと導くことができる、と。
「アトミラールに抱かれるためにはどうしたらいい?」
「ブフォッ!?」
そしてそのまま響は盛大にベッドへと背面ダイブを決め込むはめになった。
油断していたところに見事なアッパーカットを喰らった気分だ。手に持っていたカップの中身を零さなかったのは奇跡としか言いようがない。
「急にどうした?」
「持病の発作か?」
響の反応に不思議そうに且つ、怪訝そうに眉を顰めるグラーフとガングート。
それはこっちの台詞だ、というツッコミを飲み込んでなんとか響は二人へと向き直った。
「二人共、気でも触れたのかい?」
「普通に失礼だな。我々は至極真面目に話をしている。でなければわざわざ休日を使ってまで相談に来たりはしない」
不服そうな表情のガングートに、グラーフも無言で頷いている。
ド平日の真昼間から大人二人に至極真面目な表情で、とんでもなく頭のおかしな事を相談されてしまっている。
おかしい、今日は優雅で落ち着いた一日になるはずだったのに。
「迷惑か?」
「いや、迷惑とかいう次元の話じゃないと思うんだけど」
グラーフの真剣な表情に思わず口ごもってしまう。
海外はそういった方面に開放的だと聞いてはいたが、よもやここまでとは。煩悩が服を着て歩いていると噂の大和でも、もう少し言葉を選んでいる。
ちなみにだが、当然響にはそういった経験はない。ただ知識欲が旺盛なだけに、ネットや雑誌などで知識としては知っている程度だ。また、大人のお姉さま方に紛れてR指定の映画を見ていたりと、言うなれば――
『……しまったな。昨日興味本位で開いたサイトの所為で変な想像が』
――そう、彼女は割とむっつりであった。
そんなむっつり響の頭の中に、一つの疑問が浮かび上がる。
「そもそもさ、なんで私に相談を?」
そう言った類の相談ならば、駆逐艦の響以外に適任は大勢いたはずだ。少なくとも響がグラーフ達の立場なら、自分に相談に来たりはしない。
「なんだ、謙遜か?」
「は?」
ガングートの言葉にハテナが飛ぶ。
「ここに来る前に噂で色々と聞いた。この件について響、君が特に経験豊富だと」
「……はあ!?」
続いて発せられたグラーフの一言に、響は思わずすっとんきょうな言葉を上げた。
「け、経験豊富って、そんなわけないだろう!? だいたい相手は誰になるんだい相手はっ!」
「何を言っているんだ同志ちっこいのは。そんなものアトミラールに決まっているだろう」
「……んぁ?」
スコッと入ってはいけない場所に空気が入って、響の口から奇妙な音が零れ落ちる。
みるみるうちに頬が赤くなる響。頬がひくひくと引き攣って、涙目でぱくぱくと口からは意味も無く空気が漏れ出している。
「なんだ、違うのか?」
「違うにきまっている! 私はそんな経験をしたことはまだ一度も無いっ!」
「そうなのか……意外だな」
「意外って!?」
叫びながら、響は一人頭を抱えてしまった。
いつから自分は司令官とそんな関係になったのか。想像するだけでちょっと嬉しいやら恥ずかしいやら、そんな良くわからない感情に瞳をぐるぐるさせる六逐のむっつり担当、響。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、グラーフが更なる追い打ちをかけてくる。
「いやなに、聞いたところでは駆逐艦はほぼアトミラールのそれを経験済みだと言うからな、つい」
…………は?
「あ、え、いや、それはなんの冗談だい?」
「冗談などではない。この件についてはちゃんと本人たちから言質を取っている」
な、え……おう。
言葉が上手く言語化できない。一体何がどうなって……自分以外の駆逐艦は既に司令官と? え、嘘。いやだ。
混乱する響。
そこに無慈悲にもとどめを刺す同志でっかいの。
「そういえば今日は、他のちっこいのは任務か?」
「……遠征だよ」
「そうか、それは残念だな」
「……何故?」
「それは貴様達、いや、違ったんだったな。同志ちっこいのを除いた他の三人は特に経験豊富だと聞いたからな。ついでに話を聞きたかったんだが、いやはや残念だ」
――嘘だ。
あの純真無垢だと思っていた暁が電が雷が……いや雷ならちょっとありえそうか。
電なんて普段は『はわわー! なのです!』なんてほわほわふわふわしていると思ってたのに、裏ではこっそり司令官の司令官を司令官していたなんて……ふぐう。
曖昧な知識と相まって響は目の前が真っ暗になる。
なにより自分一人だけが、という思いが胸をジクジクと痛めつけてくる。
「…………」
気が付けば、響の綺麗な瑠璃色の瞳からぽろぽろと滴が零れていた。
そのまま倒れる様にベッドに蹲ってしまう。完全にイジケモード突入だ。
「まあそんなに気にするな同志ちっこいの」
「……どうせ私は無様に踊る哀れな不死鳥」
「話によると軽巡にも経験済みなのが多いらしいな」
「……司令官の節操なし!」
「理由は分からないが、重巡以上はほぼ経験が無く皆不満がっているそうだ」
「……司令官のロリコン!」
ベッドにうつ伏せになったまま、ふごふごと響は文句を言っている。ここまで来ると流石に違和感に気が付きそうなものだが、絶賛イジケ中の響にそんな余裕があるはずもない。
「そうは言うが、響は私たちと違って駆逐艦だ。これから先でも、いくらでもチャンスがあるだろう」
――グラーフは冷静に言うが、チャンスがあっても恥ずかしくて活かせる気がしない。
「そうだな。過去には12人同時という前例があるだけに、希望はあるだろうな」
――希望? 絶望の間違いでは? というか、司令官の身体は大丈夫なのか? 干からびてない?
「どちらかというと中にいるよりも外にいる時の方が可能性は高いとの事だ。やはり積極的に行くべきなのだろうな」
もはや言葉も無い。響はただの屍のようだ。
「一番確率が高いのはやはり遠征任務なのだろうが、我々では非効率すぎて参加できないのが口惜しいところだ」
――なるほど遠征後の火照った身体を開放的な野外で……って、ん? 遠征?
そこまで聞いてようやく、響の心に疑念のようなモヤっとした何かが湧き上がる。
なにやら自分はとんでもない勘違いをしているようなそんな、確信めいた何かが。それを確かめるために響はベッドから起き上がり、二人の前に向き直った。
「念のため聞くけどさ、二人は司令官に抱いてもらいたいんだよね?」
「そうだが?」
「それってつまりどういう意味?」
本来ならば、最初に聞いておくべきではあった。
そのまま声を合わせて、二人は答える。
『意味も何も、言葉通りハグと同じ意味だが?』
その言葉を聞いて響はニッコリと、それはもうニッコリと笑顔を張り付けた表情を二人に向ける。
遅れて、世界を揺るがす地鳴りのような『урааааааааа!!』が鎮守府中を駆け巡った。
「任務終わりの司令官のご褒美のハグが気になって来ただけ……?」
二人との間にあった誤解を解いた後、改めて詳しく説明を聞いた響はひと際大きな溜め息を吐いて、背中からベッドへと倒れ込んだ。
なんてややこしい。最初からそう言ってくれていればこんな苦労はしなかったのに。
「だからさっきからそう言っているだろう。今日の同志ちっこいのは変な奴だな」
「うるさいな。日本語にはいろんな意味があるんだよ。それにそれなら私だって経験がある」
「…………」
「貴様はいつまでアトミラールの写真を見ているんだ」
「これは……焼き増しとかはできるのか?」
よっぽど気に入った写真があったのか、グラーフがそんな事を聞いてくる。
このままではまた話が逸れそうだったので、特別に焼き増しの約束をしてから――ちゃっかりガングートも選んでいた――話題を本筋へと戻す事にする。
「まあ、目的は分かったよ。でも、理由はなんなのさ。二人の事だから、純粋に司令官にハグしてほしいわけじゃないんだろう?」
常識人の二人の事だ、金剛や大和のようにただ羨ましいからと駄々をこねている筈もない。
何か合理的な、響には理解し得ない複雑な理由がある。そう考えて、ふとグラーフと目が合うと、ふいにプイッと顔を逸らされた。むむ?
「うむ、理由は主に二つある。同志ちっこいの、貴様、アトミラールに抱かれる時、何か感じた事はないか?」
「ハラショー、最高だね」
「…………っ!」
「待て、なぜ貴様が立ち上がる。違う、そうじゃなくもう少し具体的に」
「身体がふわふわして、なんだかとても良い匂いがするんだ」
「…………っっ!!」
「いいから貴様は座ってろ! いや、確かに興味はそそられるが……まさか、本人には自覚がないのか?」
何やら一人思案顔のガングート。
彼女が何を言おうとしているのかが、響には分からない。
響は今一度、思い返してみる。
ガングートは司令官に触れた時に何かを感じなかったかと言った。
それはつまり司令官にハグされる前と後、触れられる前後で、感覚的な違いが無かったかという事だ。
司令官のハグは心地が良い。優しく、時には強く抱きしめられる事で帰ってきたという安心感を得られるし、自分の居場所を、帰るべき場所を強く感じる事が出来る。
どんなに辛い航路だったとしても、司令官に触れて、頭を撫でてもらえる事で自然と疲れも……疲れ?
「……そういえば、司令官にハグしてもらった後は、不思議と疲れが消えているような」
「やっぱりな。本人たちは気付いていないかもしれないが、アトミラールに迎えてもらった艦娘はだいたいが戦意高揚状態――この国の言葉ではキラ付けだったか? とにかくキラキラが迸っていた」
「その後の任務結果にも、少なからず影響が出ていると、大淀も言っていた」
ガングートとグラーフの言葉に、響は感心と共に驚いていた。
皆が楽しみにしていた司令官のハグに、そんな効果があったとは。
いや、確かに以前、遠征後に一緒に補給に向かっていた雷が、優しい心を持ちながら激しい怒りに目覚めた戦闘民族の如く輝いていた事があったが、そういう事なのか。
「個人差はあるだろうが、な」
「驚いたな。他の鎮守府でもそんな事はあるのかい?」
「詳しくは分からん。だが少なくとも、以前私が居た場所ではそんな事例は無かった」
「私のところも同じだ。ただ、古来より艦と指揮官は深い結びつきにある。過去にはアトミラールと固い信頼で結ばれた艦娘が、より高い次元の加護を受けたという逸話も残っている」
「……そうなのか」
なんだか難しい話になってきた。
でも、悪い気は全然しなかった。どころか、響はとても嬉しかった。
だってそれは、司令官との絆の証なのだから。
「一つ目の理由は分かったよ。それで、二つ目は?」
艦娘に対する好影響、それだけで二人が興味を持つ事は十分理解できる。
ならば二つ目は?
これ以上の理由など思い浮かばず、こてんと顔を傾げて疑問を浮かべる響に、ガングートは腰に手を当てて憮然とした表情で答えを口にした。
「そんなもの、羨ましいからに決まっているだろう」
ズコー、と――実際には動いてはいないが――響は心の中で盛大に転げた。
作戦会議における重役みたいな顔して何を言ってるんだこの同志おっきいのは。一つ目の理由に対して、二つ目の理由が軽すぎるだろう。
……いや、気持ちは分かる。分かる……が、こうも開けっ広げに言われると、呆れた表情にもなるというものだ。
「なんだその人を小馬鹿にしたような目は。そもそもだ、なぜアトミラールは我々にハグせんのだ? いつもいつも駆逐や軽巡のちっこいのばかり……おまけに全員が全員、幸せそうな顔しおってからに! なんだ? 見せつけているのか? それに対して私はどうだ、一度だけ『期待している』と軽く肩を叩かれたくらいか。いや、あれはあれで悪くは無いが……だいたいだな――」
妙にヒートアップして、ぶつぶつと小言を続ける同志おっきいの。
あ、これは聞かなくていいなと、即座に判断した響は彼女を無視して横で静かに座るグラーフへと向き直った。
「二つ目の理由って、グラーフさんも同じなのかい?」
「まあ、否定は……しない」
相も変わらず、グラーフは短く簡潔な答えを落ち着いた声音にのせてくる。それだけを見れば普段通りだが、今は深いグレーの相貌を少しだけ逸らして、肩に垂れた綺麗な金色の髪の毛先を右手でくるくると弄っている。
自然と、冬の白雪の様な肌もほんのりと赤みがかっているようだ。
「……なぜ笑う」
「ごめん、つい、ね」
少しだけ拗ねたような表情のグラーフが妙に可愛くて、響は謝罪を挟みつつ微苦笑を一つ。
小さく溜息を吐いて、グラーフがその綺麗な深いグレーの相貌をこちらに向けて来る。
「響、私も君に一つ聞きたい事がある。奴も言っていたが……アトミラールは何故我々に触れようとしない? 特に重巡以上の艦娘に顕著だが、駆逐や軽巡には比較的、肉体的接触を許しているのだから女性不信というわけではあるまい。これまでの経緯から彼が我々艦娘の扱いに差を付ける人間でない事も理解している」
りんとした声音と、意志の強い瞳が、今は少しだけ揺れているような、そんな気がした。
「グラーフさんは肉体的接触とか、好きじゃないと思ってたけど」
「不埒な輩の気安い接触は当然好きではない。だがそれも、信頼における、自身の命を預けるに足る人物となると話は別だ。悪意のない接触は、それはつまり相手への期待と信頼、ひいては親愛の証だろう?」
聞きながら、響は内心でうーんと唸る。
グラーフの言っている事は正論だ。それは間違いない。
だが同時に、自分の心の中にあるわだかまりを無自覚に正論で塗り潰しているようにも見える。
ぶっちゃけ不安なのだ。他人と比べて自分が司令官に信頼されていない、期待されていないのではないかと無自覚ながらに考えてしまっている。
おそらく、今までそんな経験が無かったんだろう。
言うなれば武人肌。理論派で常に冷静だが、情に厚く、自他ともに志として常に高いものを求めている。予感ではあるが、今まで本当の意味で信頼できる人物と出会った事がなかったのではないだろうか。
もしかしたら艦時代、ついぞ一度として戦場に出る事が無かった経緯も関係しているのかもしれない。事実として艦時代の働きを誇りに思っている者は少なくない。
そうでなくとも、ただでさえ艦娘は司令官に影響を受けやすいのだ。艦娘の気位が高ければ高いほど、司令官が優秀であればあるほど、信頼という意味でその影響は顕著に出やすい。
――なんだか身に覚えがありすぎて、変な気分だな。
過去の自分と照らし合わせても、相違ないグラーフの姿に響は思わず苦笑を漏らす。
この鎮守府では避けては通れない疑問と不安と期待の壁にグラーフも今、ぶち当たっている。
それもこれも半分は司令官の生来の気質の所為なのだが、ただでさえ口下手なのにこの女性だらけの居住空間でそこまで気を遣えと言うのも酷な話か。
「そんなに心配しなくても、グラーフさんが司令官に信頼されてないわけじゃないよ」
「だが……だとしたら何故」
「それはグラーフさんが大人の女性だからだよ」
響の言葉に一瞬怪訝そうな顔をして、すぐに真意を汲み取ったのか、グラーフは珍しく慌てたように瞳を瞬かせた。
「な、い、いや待て! 相手はあのアトミラールだぞ!? あの男が私の様な者をそのような目で見るなどありえないだろう!」
「別にグラーフさんの事だけを指して言ってる訳じゃない……」
むうっと膨れる響に『あ、ああ、そうだな。すまない』とどこか気恥ずかしそうに謝るグラーフ。
動揺した時に、髪をくるくる弄るのはどうやら癖のようだ。
「誤解されがちだけど、穏やかで落ち着いてるだけで、司令官だってちゃんと女性に興味を持ってるよ。ただ、鎮守府の長としての立場と人一倍理性が強い事もあって、あんまりそうは見えないけどね」
「だ、だが……」
「勿論、下心的な意味じゃないさ。純粋に常識的な範囲で、司令官はグラーフさん達を大人の女性として見てるから、ハグに抵抗を感じてるんだと思う」
まあ、常識的に考えれば当たり前の話だ。
司令官の中では駆逐、軽巡あたりの艦娘までは異性というよりもまだ子供という感覚なのだろう。だからこそ困惑こそすれ、求められる抱擁に応じている。要は近所の子供の無邪気な要望に苦笑しながら応じる皆のお兄ちゃん的立場か。そもそもの発端は自分であるという負い目もあるかもしれない。
一方で重巡以上ともなると部下や信頼云々以前に、彼女たちの存在は異性を強く感じさせるのだ。ただでさえ凶悪なスタイルな上、アイドル顔負けの美貌を備えている者が云十人居る中で、全員に平等に接しろ――直接的なスキンシップという意味で――というのは流石に無理が過ぎるというもの。
むしろあの性格で、普段からよくTシャツやハンカチが無駄に紛失する状況で、これだけ個々人のスキンシップに応えている事自体に彼女たちはもう少し感謝するべきなのかもしれない。
ともあれ、だ。
「ハグはないかもしれないけど、大人の女性として司令官に一番対等に見て貰ってるのは間違いなくグラーフさん達だよ」
直接口にはしないが、実際、司令官はもっと細かい部分で各々の接し方を考えている。
時には頭にポンと手を置くだけに留めたり、時には行動の代わりに言葉で気持ちを伝えたり。慣れない行為と良識が悩みに繋がってるだけで、帰還を迎える気持ちに偽りはない。
それが分かっているからこそ、響たちも安心して司令官の胸の中に飛び込んでいけるのだ。
「なるほど、得心が行った。そうか……大人の女性か」
口元で何度も呟いて、グラーフはほんの一瞬だけささやかな笑みを浮かべた。
「ダンケ……ありがとう、響。君のおかげで胸のつかえがとれたよ」
「それはなによりだね」
「だが良いのか……その場合、君はまだ子供に見られている、ということになるが」
「……まあ、実際子供だしね」
暁よりは大人だけど、と付け足して。
そのまま響はグラーフの方に向き直り、綺麗な蒼色の瞳と共に笑った。
「だから、今のうちに子供の特権で司令官の腕の中の心地よさを堪能しておく事にするよ」
「そうか……それは羨ましいな」
響の年相応な無邪気な笑みに対して、グラーフは大人の麗らかな微笑を返す。
大人は子供に戻れないが、子供はいずれ大人になれるのだ。おっきいのが子供にない大人の魅力を振りまくのなら、せいぜいちっこいのは大人にない子供の特権を存分に振りかざしてやろう。
むふー、とそんな事を考える響と、満足した表情でカップを傾けるグラーフ。
まるで問題は解決した、とお互いの間に漂うアフタヌーンティーの如き雰囲気。後はこの和やかな休日の午後の時間を楽しむだけである――
「ええい騙されん! 私はそんな軟弱でふわふわした理由なんぞに決して騙されんぞ!」
――そんな空気を、存在を忘れかけていた同志おっきいのが見事にぶち壊した。
「そういえば、いたね。同志おっきいの」
「……同志ちっこいの、貴様、私の魂からの慟哭を聞いていなかったと言うのか?」
「ふむ、この焼き菓子はシュトレンのようだが、甘さも控えめで良いな。好みだ」
「……貴様はこの期に及んで私の存在を無かった事にする気か?」
騒がしい空気が、穏やかな日常を上から塗り替えていく。
一人の静かな時間も嫌いではない響だが、姉妹以外の他の誰かとこうして賑やかに過ごす時間も、これはこれで悪くない。うん、悪くない。
「だいたい大人の女だから手を出せんなど、アトミラールも軟弱にも程がある! 男なら出会い頭に胸の一つでも鷲掴むくらいの気概を見せてみろ! 無論私にそんな事をしたら銃殺刑にしてやるがなっ!」
「グラーフさん、今度、金剛さん主催のお茶会に参加してみないかい? このお茶も実は金剛さんがお勧めしてくれた茶葉を使ってるんだ」
「ほう……それは興味深いな。ありがとう、是非とも、参加させてくれ」
「ふ……ふふっ! よろしいならば戦争だ! 今からアトミラールの部屋にいってそのヘタレた性根を叩き直してくれるわ! 行くぞ、私について来い!」
などと訳わからない事を言って、ガングートはずんずんと部屋の扉へと歩いて行く。
その後ろ姿を眺めながら、そういえば今日は丁度秘書艦が執務補佐とは別件で外出中のため、司令官は部屋で一人である事を響は思い出した。
同志おっきいのの戯言は置いといて、丁度、司令官の顔を見たくなってきたところだ。
「グラーフさんはどうする? たぶん司令官、今一人で執務中だけど」
「……あの人は何事も一人で片付けがちだからな、私も行こう」
言葉少なめだが、グラーフの言葉にも艶が乗ったのがすぐに分かった。
髪もなんかふよふよ嬉しそうに揺れてるみたいだし、案外分かりやすい人なのかもしれない。
「じゃ、行こうか」
「ああ」
どちらからともなく立ち上がり、並んで部屋の扉へと手を掛ける。
執務作業を頑張って手伝えば、司令官に褒めてもらえるかもしれない。ついでに頭を撫でて貰えれば、言うこと無しだ。
もしそうなったら、任務帰りの暁たちに存分に自慢話をしてやる事にしよう。
そんな事を楽しそうに考えながら、響はグラーフと共に部屋を出て行った。
本当はこの後提督との絡みまで書こうと思ったけど、長すぎたので泣く泣く断念……。
要望があれば、続きを書く……かもしれない。
グラ子可愛い。ガングートはなんか意図せずポンコツになった(笑