その日あきつ丸は、とある場所の鎮守府へと訪れていた。
もともと陸軍所属だった彼女だが、艦娘としての適性を最大限に生かすため、この度、海軍直属の鎮守府へと派遣される事が直近の会議で決まっていたのだ。
今日はその派遣の候補先である鎮守府視察の日。
「お初にお目にかかります! 陸軍所属艦娘、あきつ丸であります!」
執務室に入るなり、あきつ丸は敬礼と共に、はきはきとした声でそう名乗った。
陸軍内では挨拶は礼儀を踏まえる上での、基本中の基本。もし怠れば、相手によっては礼節が欠けていると見なされ、最悪の場合、懲罰房行きも有り得る。
あきつ丸は背筋を伸ばし、よりいっそう姿勢を正す
ここでいきなり礼を逸するわけにはいかない。
今現在彼女が立っているこの場所は陸軍管轄ではない。だが、同じ軍属である海軍の敷地内、それも目の前に座る挨拶の相手が自分のはるか上――陸軍でいうなれば将校クラス――の立場の者ともなれば、なおの事。
――流石は今話題の将校殿……いや、提督殿。今まで出会ってきたどんな傑物よりも厳しい目つきであります!
目の前に座る人物を見て、ごくりと喉が鳴る。
大柄な体格に、服の上からでもわかる引き締まった肉体。清潔感のある黒髪は短く切り揃えられており、彫の深く整った表情からは全てを見透かされているような厳しい視線を感じる。
此処は陸軍時代の上司であった伊崎中将が薦めてくれた唯一の鎮守府でもある。
昔から陸軍と根の深い海軍相手に派遣など、と断固反対していた伊崎中将が最終的に折れた理由も此処が候補に入っていたからとの事。
あの鬼教官と呼ばれ恐れられた伊崎中将が認める海軍の若き傑物。
まず間違いなく厳しい方に違いない。
「君があきつ丸君か」
「は……ハッ! 自分があきつ丸でありますっ!」
ふいに名を呼ばれ、慌てて返事と共に再度敬礼。
思っていたよりもずっと優しい声音だ。上官にありがちな高慢な雰囲気も見下した様子も全く感じない。
「話は上から聞いている。私が此処の提督の創眞だ。遠路はるばるよく来てくれた、まずは座ってくれたまえ」
「し、失礼するであります」
促され、おっかなびっくり用意された椅子へと腰を下ろす。
てっきりずっと立ったままだと思っていただけに、座り方が妙にギクシャクしてしまう。
執務中だったのか、彼の机の上には何かの束の様なものがいくつも積みあがっているのが見えた。
「もしや提督殿は、執務中だったでありますか?」
「む? いや、これは大丈夫だ、気にしないでくれ。それより長旅で疲れているだろう。大淀、頼む」
「はい」
提督の言葉に、隣で待機していた女性――大淀が盆のようなものに何かを載せて戻ってくる。
湯気の立つ湯飲みに、あずき色の茶菓子か。
どうぞ、と目の前に置かれたそれを見て、あきつ丸は驚愕に目を見開いた。
「こ、これは伝説の間宮羊羹でありますか!?」
「伝説? いや、確かに美味しいが……大淀、間宮君の羊羹は伝説になっているのか?」
「いえ、伝説かどうかは分かりませんが、それは確かに間宮さんお手製の羊羹です」
彼女はさらりと言っているが、あきつ丸にとっては驚嘆の一言だ
間宮羊羹。それはその名の通り艦娘である間宮が作った羊羹だ。
味、品質共に最高級で、一度食べればあまりの美味しさに他の羊羹は食べられなくなると言われている程。しかし同時に、間宮しか作れないので流通が極端に少なく、市場に出たとしてもすぐに海軍関係者が買い占めてしまうため陸軍まで回ってくることはほぼ皆無。
上官に袖の下として送れば頼み事は百発百中、過去には羊羹食べたさに陸軍から海軍に転属したなんて話もあるとかないとか。
とにかく陸軍の人間にとって間宮羊羹は色んな意味で伝説の食べ物なのだ。
買えば、あきつ丸の薄給一か月分はゆうに吹き飛ぶであろう代物。
それが今、目の前に茶請けとしてほいと出されている。
「疲れた体に糖分は良い。気にせず食べてくれ」
「い、いただくであります」
震える手で羊羹を一刺し、口に運ぶ。
あまりの美味しさに続けて一口……また一口。今いるこの場の事も忘れ、あきつ丸は夢中で食べ続ける。
最後に一緒に出された少し熱めのお茶をすすり、ほうっと一息。
「間宮さん特製羊羹のお味はいかがでしたか?」
「……最高でありました」
「それは良かったです」
返事に対して、丁寧に食器を下げる大淀が嬉しそうに笑ってくれた。
あきつ丸はきっと二度と食べられないであろう幸福を噛みしめ――そこではっと我に返り、慌てて提督に向かって深く頭を下げた。
「提督殿! 自分なぞのために貴重な鎮守府寄贈の品を出していただき感謝であります!」
そうだ、貴重な羊羹食べて呆けている場合ではなかった。
そう貴重……貴重?
そこで、はたりとあきつ丸の動きが止まる。
軍帽を外して自由になった綺麗な黒髪が、さらさらと頬を凪いでいる。
感じたのは疑問。そして疑念。
果たして、今日初めて挨拶に訪れた小娘などのために、超希少とされている間宮羊羹を出す提督がいるだろうか。それも、他の眉目秀麗な艦娘にではなく色白キョンシーと揶揄される女の魅力の欠片も感じられない自分に、である。
控えめに言ってまあ、有り得ない。
百歩譲って、水一杯が精々。事実として他の鎮守府を訪問した際に、このようにもてなされた事なんて一度も無かった。
胸中に渦巻く疑念への答えが、あきつ丸を焦らせ、心拍を激しく上昇させる。
――ま、まさか、この一連の流れが艦娘としての自分の自制心を試すための試験だったとしたならば……。
瞬間、背中から滝の様な汗が噴き出して止まらない。
やってしまった食べてしまった。馬鹿みたいに何も考えず頂いてしまった。
思い返せば誰も無料とは言っていない。万が一にも金銭を払えと言われても手持ちがない。
――か、かくなる上は身体で払うしかないでありますかっ!?
などと一人思考の宇宙旅行へ旅立つあきつ丸をよそに、提督は、
「ああ、いや、今出した羊羹は昨日の内に私が買った個人のものだから、安心してくれ」
穏やかな顔であきつ丸特攻の爆弾を放り投げた。
とはいえ、提督からすれば此処には間宮本人が居るわけで、羊羹は普通に一般の店と変わらない値段で購入ができる普通のお菓子だと思っている。第一に間宮自身、羊羹は手すきの時に道楽で作っている代物であり、市場に出回っている物はたまたま進物用などで包んだものが何処からか流れているだけで、そもそも一般的な売り物ですらない。
此処では間宮羊羹は普通の美味しい羊羹だ。
そのような真実を知らず、勘違いに勘違いを重ねたあきつ丸の目尻に大粒の涙が溜まっていく。
「えと……という事はあの羊羹はつまり?」
「私の私物だ」
ふらっと、あきつ丸の意識が遠く、それはもう遠くなっていく。
なんという事でしょう、目の前に出された一生に一度食べれるかどうかと噂の超希少(嘘)な間宮羊羹が、鎮守府に寄贈されたものではなく、なんと提督殿が自腹で購入された私物でありました。
それを今日初めて鎮守府を訪れた一介の小娘である自分が、遠慮のえの字も見せずモリモリと食べてしまった。
これが他の鎮守府で、他の提督相手ならばあきつ丸も、もう少し正気を保てていただろう。
しかし此処は陸軍将校である伊崎中将があきつ丸のためにわざわざ推薦文を送り、陸軍と犬猿の仲である海軍本部がやっとこさ認めた鎮守府。そんな現在における海軍の旗手とも取れる場所の提督相手に、開幕から取り返しのつかない――羊羹食べただけ――無礼を働いたともなれば、多少あきつ丸の精神に異常をきたしたとしても無理はない。
気が付けば、あきつ丸は服を脱ぎ始めていた。
――ううぅ……いつしか同期が忘れていったやけに薄い軍の参考書なる本の登場人物の中に、失態に対する誠意を見せるために服を脱いでいた者が居たのであります。
なにがどうなったらそうなるん? と、何処からか龍驤のツッコミが聞こえてきそうである。
まあ当然だ、羊羹食べた対価に身体を差し出す少女など前代未聞すぎる。
しかし悲しきかな、あきつ丸という少女は義に厚く、それでいて少しばかり思い込みの激しい艦娘なのであった。
対して、あきつ丸の動揺と同程度の困惑を隠せない人物が目の前にもう一人。
考えるまでも無く、提督だ。
彼は今、かつてない程に困惑していた。
――少女が幸せそうに羊羹を食べていたと思ったら、急に服を脱ぎだした。
まったくもって理解が追い付かない。
それでもこの状況を放っておくのはどう考えてもマズい、と纏まらない思考を一先ず脇にどけて、提督はあきつ丸へと駆け寄った。
「あ、あきつ丸君? 急にどうした、もしや体調が悪いのか?」
「提督殿……欲に塗れたこの木偶の坊の無礼をどうか許してほしいのであります」
「欲? 無礼? き、君はいったい何を――ぐうっ!?」
衣服を脱ぎ散らかそうとするあきつ丸の腕を抑える手が、急に押し返されて逆に彼女に馬乗りになられる。
よく見れば、あきつ丸の腰回りに鉄の物体が浮いていた――艤装である。
通常、鎮守府所属の艦娘は緊急時などの例外を除いて提督の指示無く艤装を展開することは禁止されている。故に艤装を外している状態での彼女たちの肉体は普通の女性であり、本来であれば力の強い提督が押し返される筈がないのだが――
――提督にとって不幸な事に、彼女はまだ
よって艤装の展開は誰にも禁止されていない。
気が付けばあきつ丸の衣服は乱れに乱れ、提督の腕は逆に彼女の胸へ向けて引っ張られるという、まさにどうしてこうなった感満載な、ある意味提督にとっての
「提督殿! 後生であります! 後生であります!」
「な、何に謝罪しているのかは分からない……がっ、私は何も怒っていない……からっ、腕を引くのを止めて……くれ……ないかっ」
「何故でありますか!? 自分の胸は柔らかくてマシュマロみたいだともっぱら同性の友人に好評でありますよ!?」
「そこは……いまっ……関係ないと……思うのだがっ」
どちらも必死だ。
敢えて言うならば、艤装の展開が一部とはいえ、艦娘の力にギリギリながらも抵抗し続けている提督を褒めるべきなのだろうが。
「提督殿の貴重な羊羹を浅ましく貪って食べた自分の罪を……どうか、どうかこの身体で許してほしいのであります!」
「あの羊羹っ……はっ……千五百円……だっ」
もはやあきつ丸は聞いていない。
その後も一進一退の攻防の中、結局、食器を洗い終えて戻ってきた大淀に提督が助けられるまで、あきつ丸の恥ずかしい勘違い行動は続いたのだった。
「間宮さんの羊羹を希少な品だと思って、その対価を身体で……ぶふっ」
「は、反省してるであります! ありますから、これ以上笑わないでほしいであります!」
「す、すいません。でも……はー、おかし」
くすくすと笑う大淀と、頬を染めながら膨れるあきつ丸。
二人は現在、執務室の隣の控室であきつ丸の今日の案内係を待っているところだ。
結局あの後の話は、落ち着いたあきつ丸が二人から事の真相を聞かされ、誠心誠意土下座で謝り倒した事で一先ずの終息を得た。もっとも提督は困惑こそすれ、怒ってなどいなかったのだが、そこはあきつ丸の気持ちの問題だ。ちなみにその後、提督は何事も無かったかのように執務作業に戻っていた。流石のメンタルである。
手持無沙汰なので何か話をと思うあきつ丸だったが、大淀とは初対面という事で共通の話題も無く、結果として思い出されるのは先程の最大級の失態ばかり。
どよんと落ち込むあきつ丸に、どこからか戻ってきた大淀がマグカップを手渡してくる。
「ハーブティーです。落ち着きますよ。あ、もちろん無料サービスです」
「うう……重ね重ね申し訳ないであります」
お礼を伝えて、マグカップを手に取る。
手のひらを通じて感じる温かさが心地よく、口を付けると、ふわりと鼻孔を抜けていく爽やかなハーブの香りが落ち込んだ心を癒してくれる。
やっとの事落ち着いたあきつ丸は、申し訳なさそうに右手で頬をぽりぽりと掻いた。
「……提督殿にとんだご迷惑をお掛けしてしまったであります」
「大丈夫ですよ。提督はあの程度で怒るような方ではありませんから」
「あの程度、でありますか」
自分で言うのもなんだが、アレは相当破廉恥な行為だったような気がしないでもない。
「提督は人気者ですからね。似たような事はこの鎮守府では日常茶飯事ですよ」
「それにしては、提督殿に頑なに抵抗されたような」
「あの人はそういう人なんです。だからみんな苦労してるんです」
表情に影を落としながらフフフ……と笑う大淀が妙に物悲しい。
が、すぐにこほんと咳を鳴らしてそれはさておき、と大淀は真剣な表情で人差し指を立てた。
「でもまあ、今回はうちの提督だったから大事には至らなかったですけど、駄目ですよあきつ丸さん。年頃の女性がよく知りもしない男性に安易に身体を触らせるのは感心しません」
「今後、気を付けるでありますよ。でも提督殿に手を握られた時は、不思議と不快感は無かったであります。むしろ何処か心地よさのようなものを感じたような……」
「……あの人の手からは艦娘を駄目にする何かが出ていますので」
苦笑しながらの大淀の冗談ともとれる言葉に、あきつ丸も合わせて笑う。
だが、心の奥底で、あきつ丸はその言葉の意味を冗談とは捉えていなかった。
初対面の男性に容易に身体を触れさせない、なんて事は世の女性の常識だ。いくらあきつ丸と言えど、それくらいは流石に心得ている。
此処の提督は女性にだらしない視線を送る人ではなく、むしろどちらかというと女性が苦手そうだった。それを踏まえた上で、それでもあきつ丸は最初からずっと彼との距離を一定に保つ事を忘れてはいなかった。
人は見た目だけでは測れない。そうでなくとも自分は艦娘で女の立場、見知らぬ上官への対応ぐらい、あきつ丸は経験則から嫌という程理解できている。
だというのに、だ。
あきつ丸は、先ほど提督に触れられた腕をさする。
――あの時の自分は、出会って間もない提督殿に触れてほしい……とまではいかなくとも、触れられても良いと思えるほどには、彼に心を開いていたでありますか……?
自分で自分がよく分からない。
確かな事は、罪の意識の贖罪として覚悟した最低限の嫌悪感を彼との触れ合いから全く感じなかった事。だからこそ初対面の異性相手にあそこまで踏み込めたわけでもあるのだが。
あきつ丸は一人、むうと頭を捻る。
惚れた腫れたの話ではない、とは断言できる。事実、あきつ丸は彼という人物を未だ測りかねている段階だ。優しい人なのか、厳しい人なのか。傑物なのか、張りぼてなのか、それらはこれから理解していく先の事。
……いや、違う。これはそんな表面上の感情の上澄みの話ではない。これはもっと根深い、心の奥の奥……まるで潜在意識の最奥部、そう、言うなれば――
「……まるで自分の艦としての部分が、創眞提督殿を求めているかのような――」
「あきつ丸さん? どうかされましたか?」
考え込み過ぎていたのか、大淀に声を掛けられ、あきつ丸は首を振った。
「いえ、なんでもないでありますよ」
きっと全部、気の所為だ。
世の中には不思議な事もあるもんですなー、と持ち前の感性で疑問を棚上げするあきつ丸。
「いやはやしかし、自分も俄然、此処の鎮守府と提督殿に興味が湧いてきたところであります!」
しかしそれはそれでこの鎮守府に視察に来た意味があるというものだ。
と、あきつ丸自身は意欲的な言葉を選んだつもりだったのだが……どうした事か、大淀はその整った顔をくしゃっと歪め、まるで苦虫を噛み潰したような表情と視線をこちらに送ってきていた。
「それは茨の道ですよ?」
「望むところであります! 厳しい訓練には慣れているであります!」
「いえ、そちらは然程では無く、大変なのは提督とお近づきになる事なんですが」
「やはり提督殿は厳しい方なのでありますか?」
「あー、むしろそれとは真逆と言うか……とにかくあきつ丸さん、やりすぎて過激派に刺されないで下さいね」
苦笑しながらの大淀の言葉ではあるが、目が笑っていない事にあきつ丸の背筋がぶるりと震える。
「こ、この鎮守府には敵が潜んでいるでありますか!?」
「刺してくるのは味方です」
「!?」
頬を引きつらせるあきつ丸に、にっこりと笑って食器を引き上る大淀。
これはとんでもない場所に来てしまったかもしれない。
「さて、準備も整ったようですしそろそろ行きましょうか」
「りょ、了解であります」
気が付けば大淀の肩には妖精さんらしき者が一人ちょこんと座っていた。
おそらく連絡係なのだろう。大淀から菓子を貰って頬張る姿がなんとも可愛らしい。
簡単に挨拶を交わして、しかし改めて気を引き締め直す。遊びに来たわけではないのだ、それにこれ以上失態を重ねるわけにはいかない。
ふんすと鼻を鳴らして、あきつ丸は軍帽を被り直す。
「では行きましょう」
促され、あきつ丸も立ち上がる。
彼女はまだ知らない。この鎮守府は気合とかそんなものでなんとかなるような生易しい場所ではない事を。
そんな事は露知らずそのまま大淀の背を追い、あきつ丸は意気揚々と部屋を出て行くのだった。
あけましておめでとうございます。
気が付けば年が明けてました。年月が過ぎるのも早いものですね(遠い目
今年もよろしくお願いします。