「それでは留守を頼む」
軍帽の鍔を触りながら、提督はお決まりの言葉を見送り役の大淀へと投げかけた。革製の黒鞄を手に、まだしっくりこないのか最近衣替えした紺色長ジャケットの襟を正している。
今日は半年に一度の本部大会議の日。緊急時を除いて一日ではあるが、提督が鎮守府を朝から夜近くまでまるまる離れる唯一の日だ。
「お任せください。提督もお気をつけて」
「大丈夫任せて! 司令官の無事は私が守るわ!」
「ああ、ありがとう雷」
提督に頭を撫でられ青天井に戦意高揚していく小柄で活発な少女は、本日の秘書艦である雷。本部会議では鎮守府の威信や提督の安全のため補佐として一人艦娘を連れて来る事が通例となっており、雷は今日のため前回の会議が終わった瞬間自分の名前を秘書艦カレンダーに書いたほどの無類の世話好き少女である。
「改めて提督の事よろしくお願いしますね、雷」
「安心して大淀さん! 大船に乗ったつもりでどーんとこの雷に任せてくれていいんだから!」
身体は小さくても内に秘める包容力は戦艦級か。他の鎮守府が威厳のために主力戦艦級を揃える会議では雷みたいな存在はさぞ異質に見えることだろう。控えめに言ってもぺたーんな胸を張りながら、ふんすふんすと鼻をならす雷の見た目は別の観点からの需要はあるにせよ、確かに護衛艦としては疑問が残る存在かもしれない。
しかし大淀は雷が補佐であることに異論など全く無かった。どころかある意味ベストチョイスだとすら思っている節がある。
――とりあえず雷なら提督のご迷惑になるようなことはしないでしょうし、一安心ですね。
大淀は一人内心でほっと息を吐く。
何も補佐艦に求められるのは艦としての物理的強さだけではない。陸路で行く道中、提督の身に危険が及ぶ事は稀であり、むしろ補佐艦に求められるのは鎮守府代表としての意識や、長く堅苦しい会議に参加する提督のストレスを緩和するクッションとしての精神的役割だったりするからだ。
言うなれば精神的落ち着き、つまり何事にも動じない大人の対応が必要なのだ。そしてそれは厄介且つ残念なことに外見に反映してくれないものだったりもする。
どこぞの高速戦艦の長女みたいに提督を臆病者と揶揄した他鎮守府の提督に主砲を向けたり、提督の傍に居すぎて錯乱した宇宙戦艦が半ば強制的に提督を夜の街に引きずり込もうとしたり、酒の匂いに釣られたとあるヒャッハー系軽空母がいつの間にか繁華街に消えて提督が探し回る羽目になったり、真面目すぎる性格と提督に迷惑をかけてはいけないというクソ真面目系駆逐長女に顕著な、過度な責任感による極度の緊張を我慢し続けた結果帰り道にふらりと気絶、最後は提督に抱えられて帰ってきて駆逐艦大戦争勃発なんて大惨事をこれ以上繰り返してはいけない。提督に迷惑、ダメ絶対。
「……本当にお願いしますね、雷」
「お、大淀さん……? なんか表情に悲しい迫力があるんだけど?」
過去の惨劇を思い起こし、つい力が入ってしまったのか雷が若干引いたような表情で言葉を返してくる。いけないいけない、見送る側の自分が動揺してどうする。と大淀はこほんと咳ばらいを一つ。
本当なら大淀本人が同行できれば一番安心感があるのだが、事はそう簡単には終わってはくれない。一度、そんなに心配なら大淀が行けば? という明石の過去のアドバイスを頼りに同行したはいいが、帰ってきたら鎮守府の風紀が著しく乱れに乱れまくっていた事があったのだ。
昼間っから飲んだのかべろべろになった酔っ払いが廊下に転げていたり、提督の半裸姿や風呂上がりの姿などを盗撮した写真を物々交換する闇市が平然と開催されていたり、開発をお願いしていた各種資材がすべて瑞雲になっていたりとそれはそれはとにかく酷かった。
結局どっちにしろ問題は起こるのだ。だったら信頼できる人物が秘書艦の日に本部会議があることを祈って、自分は秘書統括として鎮守府の安寧を守った方が良いと――目の前で土下座するそれぞれの主犯格をハイライトの消えた瞳で見下ろしながら――大淀の決断は早かった。
ちなみに代理を任せた明石は工廠で妖精さん達と大神経衰弱大会を開いており、何の全くこれっぽっちも役に立つ事無く大淀に土下座しただけだったことをここに記しておく。
「大淀」
「は、はい!」
そんな思案に耽る大淀に提督の落ち着いた声音が届く。
「実は本営前に最近できた甘味屋があるそうなんだが、大淀は餡子は好きか?」
「はえ? ……あ! いえ、そんなお気を使っていただかずとも」
「嫌いか?」
「あ、いえその……はい……好き、です。とても」
「そうか、分かった」
突然の質問に単語を区切ったような返答しかできない大淀だったが、しかし提督は然して気にせず普段通りの表情で大淀の頭にポンと一度手を置いた後、壁に掛けていた鞄を手に取った。
「では行ってくる」
「行ってくるわ! 鎮守府をよろしくね大淀さん」
そう改めて告げて玄関を出ていく二人を、大淀は少し動悸した胸を落ち着かせながら手を振って見送る。
「司令官、手! 人通りの多いところで逸れちゃわないように手を繋いで行きましょ!」
「道中は車だから逸れる事はないぞ?」
「そう? でも万が一ってこともあるし、繋ぎましょ!」
陽気な雷とそれに答える提督の声。
扉の外から聞こえる二人のそんなやりとりが徐々に遠ざかっていき、やがて消えるのを待ってから、大淀は提督に触れられた頭に右手を添えつつ、どこか気恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻いた。
「……提督に気を使わせてしまうなんて私もまだまだですね」
少しだけ早くなった動悸を落ち着かせようと深呼吸を数回。
その後、改めて気合を入れなおす様に、今日も一日頑張るぞいとばかりに両腕に力を込めてぐっと握りこぶしを形作る。
「なんだか今日は頑張れそうな気がします」
そんな割と致命的なフラグをたてながらも、大淀は軽くなった足取りで鎮守府へと一人、戻っていくのだった。
と、気合を入れたは良いものの、
「大淀さん大変です!」
まあ当然、そう易々と事が運ぶわけもなく。
秘書統括として与えられた部屋で黙々と執務補佐に励んでいた大淀のもとに、心底慌てた様子の吹雪が滑るように飛び込んでくる。
扉をノックする余裕も無い当たり、余程の事と窺える。しかし今日の大淀は普段とは一味違った。いつもなら逸る動悸も提督に鎮守府を任されし今では、今朝の海辺のように穏やかだ。
「まあ吹雪も、少し落ち着いてください。何か問題でも発生しましたか?」
「司令官の洗濯物を守るバリケードが第三段階まで突破されてますっ!!」
途端に大淀の掴む眼鏡の縁の辺りがビシリっと鈍い音を立てる。
「……主犯の顔は割れているんですか?」
「あ、はい。変なマスク着けてますけど、あの服装は間違いなく金剛さんと大和さんです」
「あ、の、二人は毎度毎度同じことをっ! 提督の洗濯物には許可なく決して触れるなとあれほど厳命してるのにっ!」
大淀がその綺麗な黒の長髪を両手でわしわしと掻き毟る。
提督は鎮守府で暮らしているのだから、当然だが洗濯物も出る。タオルやTシャツ、インナーや下着類まで一人の人間として生活しているのだから当然だ。
普段はそれを妖精さんと一部の超厳しい審査をクリアした艦娘が責任をもって洗濯して干して、提督に渡している。以前までは提督が自分で全部やっていたのだが、あまりにも途中でモノが無くなりすぎるので大淀たちが半ば強引にその役目を引き取った。いや、奪い取ったと言った方が正しいか。
だが、それも仕方が無かった。
如何せん当の本人は悪戯好きな風にも困ったものだな、などと消えたタオルやTシャツを前にのほほんと語るものだから、取り放題やり放題だったのだ。
雑貨屋で頑丈な洗濯ばさみを真剣に吟味する提督を見たときは、流石の大淀も提督の頭を叩きそうになったものだ。いや勿論叩いてはいないけれども。
とにかくそうして厳重に管理される事になった提督のお洗濯物だが、定期的にこうして不埒な輩が我慢の限界とばかりに手を出してくる。
その中でも金剛と大和は常習犯だった。無駄に毎回変装紛いの小細工をして来る事が余計に腹が立つ。
思い出し憤慨という器用な真似をする大淀だが、大きく息を吐いて怒りを静かに体外へと放出する。
「あの、すぐに止めに行かなくていいんですかっ!?」
「ああ、いやそれは大丈夫ですよ。もしかしたら四段階目までは破られるかもしれないけど、五段階目は破る事は絶対に不可能だから」
大淀の言葉に吹雪が可愛らしくこてんと首を傾げる。
というのも提督の洗濯物の周囲には幾多もの防壁が張り巡らされている。夕張と明石の合作の侵入者捕獲センサーや装置をはじめ、甘味に買収された妖精さんのスクラムバリケードなどなど。普通の者であれば最初の防壁で捕まるか諦めて引き返している。
だが金剛と大和のような常習犯ともなると小癪にも慣れと迸る欲望でそれを乗り越えてくることもある。今回は無駄に調子も良いみたいだし、もしかしたら四段階目の妖精さんまで突破されるかもしれない。
だが五段階目では文字通り鬼神が其処を守っている。
「その五段階目って……」
「鳳翔さんと神通が守ってると言えば納得してもらえるでしょうか」
大淀の言葉に吹雪の喉がひゅっと鳴る。
彼女が今名前を上げた艦娘は普段はおっとりして優しくて、控えめに言っても護衛役が似合う者達ではない。だがそれはあくまで普段の話である。
吹雪は知っている。その二人は本当にとても優しく穏やかだが、同時に絶対に怒らせてはいけない艦娘筆頭だと。特に提督の事となると大和や金剛とは別の意味で引き金がスッカスカに軽い二人。
「もしかしてお二人は」
「ええそうです。洗濯物を管理する役目を提督から引き継ぐ時、直接あの人から『頼む』と言われたのがあのお二人なんですよ」
ああ、それは無理だと吹雪は思った。
あの二人ならば、例えその時地球の裏側にいても駆け付けて提督との約束を守り抜くだろう。あくまで比喩表現だが、あながち有り得なくはないと思えてしまうほど、あの二人の提督への信頼はそれほどに固い。固すぎて時折提督の元に馳せ参じる時、まるで瞬間移動してません? と、そんな錯覚を覚えるほどだ。
提督と艦娘の絆の深さに身体能力上昇の因果関係があるとはいえ、あの二人の上昇幅はぶち壊れている。赤城や加賀、川内や那珂が絶対に怒らせてはいけない人だと常々言っている意味が良く分かるというものだ。
そんな二人の逆鱗に――いくら提督の衣類やタオルという非常に魅力的なお宝が待っているとはいえ――自ら触れに行く金剛と大和はある意味で勇者かもしれないと吹雪は思った。
ちなみに緊急時を除いて、提督の許可なく鎮守府の敷地内で艤装を展開して喧嘩するのは当然厳禁である。なので必然的に生身での攻防になるわけだが、なおの事戦艦組に勝てる要素が見当たらない。
まあそもそもそこの部分の取り決めを破っては提督の艦娘という誇りそのものを失う事になるのだから、絶対に誰も破る事は無いのだけれど。
「吹雪、申し訳ないのですがボロボロになって帰ってくる二人の首にかける反省用の板を用意しといてくれませんか」
「ア、ハイ」
大淀の配慮のはの字も無い発言に、吹雪の喉から乾いた返事だけがぽろりと零れる。
秘書統括って大変なんだなと、窓の外を遠い目で眺めながら反省文の文字は何にしようかなどと益体も無いことを考えてしまう真面目な吹雪であった。
その後も、わざとかと思うほどの問題が次々と大淀を襲った。
予想通りこってり絞られて連行されてきた金剛と大和に説教をかましている隙に、漣を筆頭に徒党を組んだたわけ者どもが提督の私室の侵入を試みたり、提督の好みは尻か胸かで明石の酒保で長門と武蔵が肉体乱闘を始めたり、日向が今日の開発用資材を全て瑞雲にしたり。
夕方に入っては提督の不在に急に寂しさを爆発させた海防艦たちを間宮たちお艦組と必死であやしたり演習で提督君人形が賭けられているとタレコミが入ってその真偽の確認に奔走したりなどなど。
「……馬鹿じゃないですか」
すべての問題が片付いたころ、秘書統括用の机の上で大淀の眼鏡はズレにズレていた。窓から見える景色はとっくの昔に真っ暗で、昼間の喧騒が嘘のように鎮守府内は静まり返っている。
今頃一部の大人組は鳳翔の店で一杯やっている事だろう。
「提督はこんな日常を毎日送っていらっしゃるというの……?」
生気を絞りつくされて、出涸らしのように枯れた声音で大淀は机に突っ伏しながら弱弱しく呟いた。
いや、そうではない。当たり前だが今日のような事は提督がいる時は起こらない。だが提督がいる時はいる時で誰かが何かしら別の問題を起こしている気はする。
加えて艦隊指揮と日々の執務に、異性だらけのこの環境。
当然立場が違うのだから比べるべくもないのだが、大淀はふいに込み上げてくる自らの不甲斐なさを奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
あの人の指揮する鎮守府の秘書統括がこんな体たらくでどうするの、と緩む涙腺を太ももを抓って無理やり押さえつける。
時折、戦闘能力の無い自分はあの人の役に立っていないのではと酷く不安になる事がある。明石のような特殊な力も無い自分に果たして価値はあるのかと。
「駄目だなあ、私」
ごんと額を机に投げると、痛みがじんわりと広がっていった。
「……提督、まだかな」
大淀の呟きが、ぽつりと闇に吸い込まれていく。
ふと遠くでからんと何処かの扉が開く音がして、彼女は弾かれたように部屋の外へと駆けだした。
乱れた息と髪を必死で隠して整えて向かった先は鎮守府の玄関先。
そこに彼が居た。丁度帰ってきたところなのか上着を腕に掛けたまま靴を脱ぎ、誰かの気配を感じたのか顔を上げ、
「……む」
「……あ」
そこで彼と目が合った。瞬間、大淀は猛烈に恥ずかしくなった。先ほどまでの自身の思考がぶり返してきて、のぼせたように顔が熱くなる。そんな彼女の様子を提督は少しだけ不思議に思った様子だったが、すぐにいつもの無骨ながら穏やかな表情に戻り、その優しい声音を聞かせてくれる。
「すまない、遅くなった」
「い、いえ、お疲れ様です」
うまく言葉が出てこない。落ち着け落ち着けー、と念仏でも唱えるように内心で繰り返す大淀。
「あ、その、雷は」
「ああ、彼女なら先に休むように言って間宮君のところに向かってもらった。会議が長引いて夕食もとれていなかったからな」
「そうでしたか」
癖のように後ろの首に触れながら、落ち着いた口調で話す提督に大淀の緊張も霧散していく。同時に温かい何かがじんわりと胸いっぱいに広がっていくのを感じて、大淀は無意識の内に口元に笑みを浮かべていた。
つられた様に振り返った提督が、普段あまり他人に見せる事の無い柔らかな表情と共に、
「鎮守府の事、いつもありがとう。大淀」
「……いえ」
今一番欲しかった言葉を不器用な口調で伝えてくれる。
――ああ、やっぱり私もこの人がいないと駄目かもしれない。
先ほどまでの陰鬱とした暗い負の感情を、彼の言葉ひとつひとつが優しく包み込んで溶かしてくれる。これじゃあ他の人の事も強くは言えないなあ、と大淀は内心で苦笑を零した。その表情に憂いの色はもう見えない。
「そうだ。今朝伝えた本営近くの店でおはぎを買ってきたんだが」
「あら、ありがとうございます。では私はお茶を入れますね」
どこか嬉しそうに、いそいそとおはぎの入った袋を取り出す彼の姿に緩んだ表情を隠せない。こんな些細な事で、と我ながら単純な心だと思う。
しかしそれも仕方が無いというものだ。皆にとっての提督がこの人であるように――
「ああ、頼む」
「はいっ!」
――私にとっての提督も、この人だけなのだから。
予想以上に待っていてくれた方が多くて、申し訳ない事に感想返信が間に合っていませんがちゃんとありがたく読ませていただいています。ありがとうございます。