「む、しまった」
普段は目の前にあるべきものが見当たらず、思わず声が漏れてしまう。
時刻は二十時を過ぎようとしており、夕食の即席食品を取り出そうとして在庫が切れていることに今気が付いた。
少し前までならば一か月は在庫の心配をしなくてもよかったのだが、この前加賀に指摘されてからというもの、どこから広まったのか見つかれば即座に回収されてしまうようになってしまった。
おかげであまり在庫を持てず、切らしてしまうことがしばしば起こるようになっていた。
「食堂は……今日は止めておくか」
おそらくこの時間帯は一番忙しく、間宮君たちはさながら戦場のように厨房の中を駆け回っていることだろう。
そんな中私が出向いてしまってはいらぬ気を回させてしまうだけである。ちなみに今日の秘書艦は電だったが、基本的に駆逐艦の子たちの秘書艦業務は十八時までとしている。今頃は第六駆逐隊の仲間と共に夕食を満喫している頃だろう。
「ふむ。今日はあちらにするか」
即席食品も駄目、食堂も駄目となると今の私に思い当たる食事場所は一つしかなかった。
時刻はまだ二十時過ぎと若干早いが、逆にこの時間の方があそこは人が少なく都合が良いかもしれない。
気が付けば、上着を羽織り歩みは司令室の扉へと向かっていた。
どうやら無意識の内に私は彼女の料理に胸を躍らせていたようだ。そんな自分に少し驚きながら、司令室の扉を開け、目的の場所へと歩き始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お待ちしておりました提督」
「急にすまない鳳翔」
「謝らないでください。私としては毎日来て頂いてもいいのですよ」
「それでは私が太ってしまうな」
「あらあら。あ、上着お預かりしますね」
出迎えから今まで、絶えず微笑を崩さず常に癒しの空間を提供してくれる彼女の名は鳳翔。軽空母にあたる艦娘だ。
物腰は柔らかく、誰からの相談も親身になって聞いてくれるその優しさから慕う艦娘は多い。特に駆逐艦の子たちからはよく『お母さん』と呼ばれ間違えられている。
「いつもすまないな」
「それは言わない約束ですよ」
「そうだったか」
「はい」
食事処 鳳翔。それが彼女の営んでいるこの店の名前だ。
半年ほど前鳳翔から相談を受け、開いたこの店は昼は皆の憩いの場として、夜は酒好きの艦娘の御用達の店として現在も多くの者が利用している。
定期的に訪れる大本営からの使いの者は昼は間宮食堂で、帰りはここで一杯やってから帰るのが習慣となっている。
「人手が必要なときはいつでも言ってくれ」
「ありがとうございます。でも今は大丈夫ですよ。ここには可愛らしい優秀なスタッフがいますから」
この規模の店を一人で切り盛りしている彼女はその大変さをおくびにも出さす、テキパキと料理の下処理を進めながらふわりと優しい微笑を向けてくる。そんな彼女を裏で表で支えているのが――
「ていとくさんおしぼりどうぞです」
「おひやもどうぞです」
「ああ。ありがとう妖精君たち」
――店の中をぱたぱたと駆け回る妖精君たちの存在である。
「この子たちには本当に助けてもらっています」
「彼女等にはいつか纏まったお礼をしなければならないな」
「そのしんぱいはごむようですはい」
「すでにいただいてますゆえ」
「? そうなのか?」
「しごとあがりのほうしょうさんのでざーとのあじはまたかくべつ」
「そのためならなんだってできるこころもち」
「ふふ。今日は白玉餡蜜をご用意していますから、頑張りましょうね」
「な、なんとかんびなひびき。なにやらみなぎってまいりました」
「さすがにきぶんがこうようします」
鳳翔の言葉に妖精君たちが光輝いている。
どうやら既に報酬は用意されていたようだ。それにしても鳳翔の白玉餡蜜とは何とも気になってしまうな。頼んだら私にも出してくれるのだろうか。
「それでは提督。本日は何に致しましょう」
「ああそうだな。む……このサバの味噌煮定食というのは」
「あ……それはその」
鳳翔に促され、妖精君から手渡されたお品書きに視線を落とす。その二枚目最後の欄に、他とは違い直接達筆で書かれた文字を見つけ、問いかける。
その問いかけに、鳳翔はどこか期待していながら少し不安であるかのような奇妙な態度を見せる。心なしか体温も上がってるように見えるが大丈夫なのだろうか。
「それはていとくさんせんようめにゅーですはい」
「私専用?」
「はいです。ほうしょうさんのあついおもいがこもったとくべつめにゅーです」
私の鳳翔の体調への心配をよそに何人かの妖精君が呟きかけてくる。
私専用とは一体どういうことだろうか。
「ていとくさんまえにきたときさばのみそにがこうぶつだっていってたです」
「でもそのときはめにゅーになかったです」
「……確かにそうだったな」
以前ここを訪れたときに聞かれた問いかけに、確かにそういったことがあったような記憶はある。
その時はまだ店を開けて間もない頃だったため、お品書きも今よりずいぶん簡素だったように思う。
だが、だからと言ってそう簡単に新メニューとしてお品書きに並べられるほど料理とは簡単ではないはずであるし、なによりも鳳翔が中途半端な料理をお品書きに載せるはずがない。
「それでは、私のためにこのメニューを?」
「ほうしょうさんほぼまいにちしたまちのあさいちにいっていたです」
「みせがおわってからもしさくにしさくをかさねるまいにちでした」
「そうか」
私の何気ない一言のせいで鳳翔に多大な苦労を掛けさせてしまったことに申し訳なく思いながら、同時にそこまで真剣に考えて、向けてくれる優しさに自分は本当に幸せ者なのだなと改めて実感する。
ふと顔を上げると、鳳翔が頬をほのかな桜色に染めながら、少し困ったといったような表情を見せていた。どうやら話を聞かれていたらしい。
「ていとくさん。めにゅーはきまりましたですか?」
妖精君たちのもうわかっていますが、と言いたげな催促に内心嬉しく思いながら対面に立つ鳳翔に今日の夕食の注文をお願いする。
「鳳翔。サバの味噌煮定食を一つ、頼む」
「はい」
腕を捲り静かに対面に立つ鳳翔の微笑は、今までの彼女のどの表情よりも素敵なもののように私には感じられた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いよーっす。鳳翔さん来たよーって提督じゃん! ラッキー!」
「鳳翔さんこんばんわってあら? 提督もお酒を飲みに?」
「邪魔するぞ鳳翔。ん? 提督じゃないかこんな時間に珍しいな」
「飛龍に黙ってきちゃった。あ、ていとく~」
食後に鳳翔が出してくれたデザートの白玉餡蜜に舌鼓をうっていると、入口の方から何やら賑やかな声が聞こえてくる。
どうやら今日も彼女たちはここに一日の疲れを癒しに来たようだ。
「相も変わらず君たちは賑やかだな。隼鷹、千歳、那智と……蒼龍が酒を飲みにくるなんて珍しいな」
「私お酒弱いですけど、みんなでわいわいする雰囲気は好きなんです」
「そんなこと言って提督がここにいるの実は知ってたんじゃないですか? ふふ」
「そ、そんなことないよ! も~千歳さん飲んでないのにからかわないで!」
「隼鷹、あなた今月はもう手持ちがないって言ってたじゃないですか」
「いやーだから今日は軽くで我慢しようと思ったんだけどさ。来たら提督がいるからホント今日はついてたよ」
「提督にたかる気満々だな貴様は」
彼女たちの訪れで店内の雰囲気が一気に居酒屋へと変貌していく。これも、ここ食事処鳳翔の一つの顔である。
カウンター内では妖精さんたちが慌ただしく酒の準備を始めている辺り、彼女たちは今日も盛大に飲むのだろう。
「楽しむのもいいがほどほどにな。それでは私はここで失礼する」
美味い料理と丁寧なおもてなしでつい長居してしまった。彼女たちも来たことだしそろそろ私は帰ることにしよう。もしかしたらこの後も夜食をつまみに来る子がいるかもしれないしな。
そう思い鳳翔に勘定をお願いしよう……としてできなかった。
なぜならどうしてか隼鷹に右肩を、那智には左肩を、千歳には右手を、蒼龍には服の裾をそれぞれ掴まれていたから。
「つれないぜ~提督。ここでそれはないっしょ~」
「四人で飲むのも悪くないが、折角だ付き合え。一度貴様と飲んでみたかったしな」
「提督、私がお酌しますから、ね?」
「私も提督と飲んでみたいな~」
「ぬ……むう」
まさかの事態に鳳翔に助けを求めるも『少しだけ付き合ってあげて下さい』と苦笑交じりにやんわりと断られてしまった。
明日も執務があるのだが仕方ない。これも一つの対人会話能力の向上のためと考えておこう。
「少しだけでよいのなら」
「よっしゃ! そうこなくっちゃな」
「貴様ならそう言うと思っていた。さあ今日は飲もう」
「ふふ。なんだか楽しくなってきちゃいました」
「やった~」
私が交じったら楽しめるものも楽しめなくなってしまうのではという不安はあるが、この子たちも明日はそれぞれに仕事がある。流石に無茶はしないだろう。
この時の私はそんなことをぼんやりと考えていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「らかららんかいもいってふらろ~。らいじょぶらってひっく」
「つまりだ、貴様になら羽黒をっておい聞いているのか」
「うふふふふ。提督の身体逞しくって素敵です」
「提督こっち向いてくれないとやだあ!」
「ぬ……ぬ……むう」
甘かった。
彼女たちの酒癖はある程度は理解していたつもりでいたが、あまりのハイペースに止めるタイミングを完全に見失ってしまった。
周りを見れば、転がっている酒瓶を鳳翔と妖精君がせっせと片付けてくれている。すまない。
「そ、蒼龍君。君はあまりお酒が強くないのだろう。そろそろ帰って休んだ方がいいのでは」
「やだやだやだあ! 今日は提督と一緒にいる!」
「あらあら、子供はそろそろ寝る時間かしら? さ、提督もう一杯どうぞ」
「ふへへへへ~」
「だからだな、羽黒は本当に愛いやつでだな」
酒とはこんなにも人格を変えてしまうのか、普段冷静で気遣いのできる優しい千歳や蒼龍が相当酔っているのかやけに絡んでくる。同時に着ている衣服が乱れてきているため視線のやり場に非常に困ってしまう。
那智に限ってはひたすらに妹の羽黒のことを褒め、なぜか勧めてくる、私自身羽黒の良いところは十分理解しているつもりなのだが。隼鷹は……まあ普段とあまり変わらない。
「鳳翔。すまないがお冷を一杯もらえないか」
「どうぞ提督。申し訳ありません。こんなことになるなんて」
「いや鳳翔が悪いわけではない。途中で止められなかった私の落ち度だ」
横では妖精君たちがやれやれといった仕草で片づけを始めていた。考えたくはないが、まさか彼女たちはここに来るたびにこのようなことになっているのではないだろうな。
もしそうならば鳳翔のためにも少し制限を掛ける必要があるかもしれない。
「蒼龍、水だ。飲めるか?」
「提督に飲ませてほしいなあ」
「ぬ? むむ……零さない様にゆっくりと……飲みたまえ」
「んっ……んっ……えへへ」
心なしか言動が幼くなってしまっている蒼龍に水を飲ませる。支えるために腕が色んな所に触れてしまいそうになるのを必死で調整する。酔いが醒めて私に触れられたと知ると不快な気持ちにさせてしまうだろうから。
「提督、そろそろお開きに」
「そうだな」
あまりの状況に鳳翔が解散の提案をしてくれる。流石にこれ以上は明日の執務に響いてしまう恐れがあるため正直助かった。
「のむだけのんでねてるです」
「きょうもあらしのようなのみっぷりでした」
「ていとくさんこうかでりょうもばいぞうですはい」
気が付けば、隼鷹も那智も千歳も蒼龍も安らかな寝息を立てていた。
軽く起きるよう促してみるが誰一人として起きる気配がない。仕方がないので一人ずつ部屋まで背負って送り届けようと鳳翔に提案したら、妖精さんも手伝ってくれるということで私は蒼龍一人を背負って帰ることになった。
「今日は本当にすまなかった鳳翔」
「いえ、確かに騒がしくもありましたが、私も提督に来て頂けて嬉しかったです」
「また近いうちにお邪魔する」
「はい。いつでもお待ちしてます」
次に来るときはもう少し早い時間に来た方がいいかもしれないな。
後ろ手に蒼龍を背負いつつ、元来た道を少しふらつく足取りで歩きながら次に訪れるときのことを考えていた。
思っていた以上に自分自身あの空気を楽しんでいたのかもしれない。
背中では蒼龍が気持ちよさそうに寝息を立てているのが聞こえた。
翌日、もれなく全員が二日酔いに苦しまされたことは言うまでもない。
鳳翔さんは可愛い。