宥の実家が旅館を経営している話は、尭深も耳にしたことがあった。いつか松実館で合宿できたら良いね、といった冗談交じりの軽い雑談もした覚えがある。
「合宿は――奈良阿知賀、松実館で行います!」
しかしまさかこのタイミングで持ち出されるとは思っておらず、堂々たる恭子の宣言に、尭深は一瞬呆気にとられてしまう。
一瞬の間隙を突いて訊ねたのは、京太郎だった。
「宥先輩の実家って……本気ですか? この時期、部屋とか空いてるんですか?」
「も、もちろん本気や。え、ええっとな」
京太郎の視線から逃れるように、恭子は顔を背けた。それまで滑らかだった口が、途端に詰まる。
すかさずフォローに入ったのが、煌だった。
「残念ながら、須賀くんの言うとおりゴールデンウィークは一年前から予約満杯だそうです。そもそも身内割引を頂いても学生がおいそれと払える額ではないかと」
「ごめんねぇ」
「宥さんが謝るようなことちゃうと思うけど。それならどうするん?」
怜の疑問はもっともだった。苦笑を浮かべたまま、宥が答える。
「みんなには私の部屋と居間に泊まって貰おうと思うの。もう許可はとったから大丈夫だよ。もちろん宿泊費は要らないから」
「ほんま宥ちゃんごめんな。急なお願いになって」
「ううん。元はと言えば私のせいだから。逆にみんなに負担を強いることになって、ごめんなさい」
「かまへんよー。ちょっとした旅行みたいで楽しそうやもん」
既に怜は乗り気だ。ぱらぱらとしおりをめくりながら、気持ちは奈良に向かっている。
はて、と尭深は首を傾げた。全員女子ならそれで問題ないだろうが、この部には男子が一人だけいる。彼を無視するわけにもいかないだろう。尭深はしおりを握る煌に訊ねてみた。
「須賀くんはどうするの?」
「従業員用の仮眠室を一つ開放してくださるそうで。須賀くん、我慢して貰えますか?」
「我慢なんてそんなこと。わざわざありがとうざいます、宥先輩」
「ううん。狭くてあまり使っていない場所だから申し訳ないくらいだよ。代わりと言っては何だけど、露天風呂はみんな使って貰えるから。是非堪能していってね」
おおー、と怜が喜色を露わにする。有名旅館の露天風呂を味わえるのは、尭深にとっても魅力的だった。大学の合宿所は質素なもので、必要最低限の設備しか整っていない。寝床も窮屈で、人の家で雑魚寝するのもあまり変わらないだろう。条件としては悪くない、いやむしろ良いほうだ。
煌が部員全員を見渡し、しおりを開く。
「みなさん、しおりにはちゃんと目を通しておいて下さいね。当初の予定通り、合宿開始は明明後日。東京駅を明後日の夜出発します。集合時刻は夜十時」
「交通手段は……高速バスですか」
「チケットは私が抑えておきました。行きは夜行、帰りは昼行便です。往復で一人8000円弱ですが、部費の補助が出るのでもっと安くなります。お金に困っているなら簡単なバイトを紹介するので、後で相談してください。食事はキッチンを借りて自分たちで作ります。卓は松実館にあるものを使用させて貰えるそうなので、麻雀道具の準備は不要ですね。近くにコンビニとスーパーがあるそうなので細々とした買い物は可能でしょう。ただし各自タブレットだけは忘れないようにしてください。牌譜とリーグ戦で当たる大学をチェックするので。Wi-Fiはただ乗りさせて貰えます」
合宿の注意事項について、てきぱきと煌が説明していく。浮かんできた質問も、大概はしおりが回答してくれた。聞けば昨夜の内に恭子と煌の二人だけで作り上げたという。全く頭が下がる想いであった。
少しだけ、尭深は俯く。胸の内に宿るのは、焦燥感にも似た感情だった。
「それでは皆さん、また今日の練習時間に!」
お昼休憩は無情にも終わりに近づき、その場は解散となる。颯爽と煌は部室を去って行った。バイタリティ溢れる彼女は、あちこち飛び回っているというのに常に元気だ。
一方、共に部室に入ってきた恭子は妙な様子だ。残った弁当をかきこむ京太郎をちらちらと見ては、髪の毛先を弄っている。ふと京太郎が顔を上げ、彼女の視線に気付く。
「末原先輩? どうしました?」
「なんでもあらへん!」
彼が訊ねると、途端に恭子は部室を出て行った。ばたん、と力強く扉は閉められ、京太郎は複雑そうに顔を歪める。一方宥は小首を傾げ、怜は軽く肩を竦めていた。
――状況はまた随分と混迷しているようだ。
尭深はそっと、誰にも気付かれないような溜息を吐いた。
◇
ゴールデンウィーク初日、土曜日の夜。東京駅の人混みは一向に減る様子は見せず、人の熱気で溢れていた。重たい鞄を細腕で支えながら、尭深は他の部員と落ち合う約束をした八重洲口に向かっていた。
出発前にお風呂に入ってきたため、若干体温が上昇している。移動している内に自然と汗ばんでしまった。改札をくぐり、尭深は一息つく。まだ集合時刻まで充分時間はあった。早く着きすぎた。どこか喫茶店にでも入ろうか、と思っていたら、
「こんばんは、渋谷先輩」
「あ……こんばんは、須賀くん」
後輩の男子が声をかけてきた。高校のときからさらに伸びたという身長はいやに目立つ。
「早いですね」
「須賀くんこそ」
「朝買い物してたらちょっとトラブルに巻き込まれて。夜は絶対に遅れないよう早めに出てきました」
「ふぅん。園城寺さんは一緒じゃないの?」
「今日は宥先輩と遊んでから一緒に来るそうで」
「そうなんだ。……よいしょ」
人の流れが少ない壁際まで移動しようと、尭深は重い鞄の取っ手を掴み直す。そこに、長い手が伸びてきた。途端に尭深の腕にかかる負荷が失われる。
「……須賀くん?」
「あ、すみません、重そうだったのでつい。余計な真似でしたか」
「ううん。手慣れてるなって」
「いやぁ、高校のときはよく荷物持ちしてましたからねー。癖みたいなもんです」
そんな意味で言ったつもりはなかったが、尭深は深く突っ込まず彼に任せることとした。二人で壁に背中を向け並び、他の部員を待つ。
「合宿楽しみですね」
「そうだね」
「俺、阿知賀は一度行ったことあるんですよ、高校の練習試合で。山が綺麗なところなんですよね」
「そうなんだ」
「宥先輩の家は初めてだから、そこも楽しみですね。露天風呂とかも」
「そうだね」
あまり口数の多くない尭深は、しかし悪気はない。喋るときはすぱっと言い切るタイプ、と友人の誠子に評されたこともあるが、普段は自他ともに認める物静かな性格だ。あれこれと話しかけてくれる京太郎にもう少し答えたいと思いつつ、上手く言葉を紡げなかった。されど京太郎は嫌な顔一つしない。
結局彼のおかげで、他の部員が集まるまで間が持たないということはなかった。こういうコミュニケーション能力の高さもまた、彼の武器なのかと尭深は推察する。同時に、警戒レベルを引き上げた。
「――さて、みんな揃ったな」
恭子が部員五名を見回して、しかと頷く。
「バスの中では他のお客様に迷惑をかけんように。消灯後は静かにな。東帝の学生として節度ある行動をとるように。――煌ちゃん、続きお願い」
「任されましたっ」
何故かバスガイドの旗を持った煌が、恭子に代わって部員たちの前に立つ。
「ではまずバスチケットを配布しようと思うのですが――なにぶん急だったので、女性専用シートはとれませんでした。ですが幸い二列シートを三組とれたので、知らない人と隣り合わせということはありません。とりあえずはペアを決めて貰いたく」
「じゃあ私はきょーちゃんと」
「公平にくじびきや」
怜の希望を恭子がばっさり切り捨てる。何かと京太郎にじゃれつこうとする怜と、それを一喝する恭子。この二人の構図も、あっと言う間に定着した。何だかんだと言って、険悪な空気にはなっていない。恭子は若干疲れ気味のようだが、怜は実に楽しげだ。これが大阪人の気質なのだろうか、と尭深が思索していると、
「はい、尭深の番ですよ」
割り箸を握った煌の手が、目の前に差し出された。
「うん」
促されるままに、尭深は一本割り箸を引く。割り箸の先端は、赤いインクで染められていた。周囲を見渡す。恭子と怜が青。煌と宥が緑。残る赤は当然、
「すみません、図体でかい奴が隣で」
「ううん」
京太郎だった。気心の知れた煌がベストだったのは確かだが、知らない男性が隣に来るよりもずっと良い。
「ええなぁ、尭深さん」
怜から羨ましがられ、尭深は「代わりましょうか」と申し出ようかとも思った。しかし怜の背後で恭子が睨みを利かせていたので、叶わなかった。
やがて高速バスが到着し、麻雀部一同はバスに乗り込む。
尭深たちの席は、後部座席寄り、進行方向に向かって右側だった。
「通路側と窓側、どっちにします?」
「それじゃあ、窓側で」
「はい、どうぞ」
促され、先に尭深は席に着く。隣に京太郎が乗り込んできて、少しばかり彼女は身構えた。
バスの中は狭く、思っていたよりも距離が近い。部室で一緒にお弁当を食べるときも、彼の前に座るのは宥と相場が決まっていた。怜が現れてからは、彼女が彼の隣を支配していた。彼と尭深が初めて知り合ったのは高校生のときだが、付き合い自体は浅い。ここまで傍に寄った経験はなかった。
バスが走り出す。車中の空気はまだ明るい。細々とした声だが、あちこちで会話が飛び交っている。
「末原先輩と」
何とはなしに、尭深は目の前の座席を真っ直ぐ見つめながら、京太郎に訊ねてみた。
「末原先輩と、何かあったの?」
「えっ」
「須賀くんと話すとき末原先輩の様子が、なんだかおかしいから」
うーん、と京太郎は僅かに唸り、
「この間麻雀仮面と――怜さんと戦って、次に会った日から確かにあんな感じですけど。よく分からないんですよね、何だか急に変わっちゃって」
「変なことを話しちゃったとか?」
「世間話程度ですよ。俺が東帝に入った理由とか、そのくらい」
「それは関係ないね」
「ですよね」
二人の間に沈黙が落ちる。周囲のささやかなはずの会話が、やけにうるさく聞こえた。
尭深が黙っていると、今度は京太郎から話しかけてきた。
「渋谷先輩は、どうして東帝に?」
「農学部があって、学力に見合ってて、家から近かったから」
さらりと尭深は答える。一年前、入学した当初に飽きるほど口にした台詞だ。嘘は一つもない。正直な彼女の志望動機である。
「麻雀は関係なかったんですね」
これもまた、度々訊かれた経験がある。尭深は高校女子麻雀界でも最強と謳われる白糸台で、二年間レギュラーを張り続けた。全国的にも有名な選手である。
「大学では勉強に集中しようと思ってたから」
「それじゃあどうして麻雀部に?」
「最初は末原先輩に助っ人を頼まれて」
目を細めて、尭深は当時を思い出す。――彼女の強い意志と、瞳に宿った光。押し切られる形で、尭深は頷いていた。
「そのままいつの間にか、正式な部員になっていたの」
「はは。流石末原先輩、と言うべきでしょうか」
そうだね、と尭深は首肯する。
同時に、バスは新宿駅に到着した。新たな乗客が乗り込み、バスは奈良に向けて出発する。間もなく消灯時間が訪れ、バスの中に静寂の帳が落ちた。尭深は眼鏡を外し、目を閉じる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
京太郎と交わした会話は、そこまでだった。
暗闇の中、今一度昨年のことを思い返す。決して乗り気ではなかった。麻雀は好きだったが、仕事にするつもりも、できるつもりもなかった。インカレを目指すような部活動に身を置く予定はなかったというのに、結局居着いてしまった。
一度上昇した体温が下がってくると、途端に眠気が襲ってきた。思考は止まり、うつらうつらとしてしまう。揺れるバスの中、座ったままでは寝心地も何もなく、一度目が冴えてしまえばおそらく眠れなくなるだろう。このまま尭深は抗わずに睡魔に身を委ねる。
◇
柔らかくも固い感触を頭頂部に感じながら、尭深はゆっくりと目を開けた。低い視力と寝起きでまとまらない頭のせいで、すぐには自分がどこにいるのか分からなかった。がたん、と体を座席ごと揺らされて、ようやくバスに乗っていたことを思い出す。
それでも尭深はしばらくその体勢のままでいた。頭を何かに預けて、右手は何かを握りしめ、ぼうっとしていた。
周囲から聞こえてくるのは、寝息ばかり。閉められたカーテンの隙間からは、薄い日光が漏れ出ている。
光が目に入り込み、ゆっくりと意識が覚醒し始める。
ふと、彼女は気付く。
頭を預けた先は、隣で眠る京太郎の肩だった。握っていたのは、彼の指先。
「――ッ?」
心臓が飛び跳ねて、尭深は彼から離れる。びっくりするどころではなかった。自慢ではないが、男の子の手に触れたのは初めてだ。動揺するなというほうが無理だ。
胸元を押さえて尭深は落ち着きを取り戻そうとする。そうしている内に、
「……おはようございます」
京太郎が、目を覚ました。
「おはよう」
できる限り平然と、尭深は目の前の座席に目線を集中させて挨拶に応じた。
「よく眠れた?」
「こういうの、慣れてるんで大丈夫です。渋谷先輩はどうですか」
「問題ないよ」
大ありであったが、そういうことにしておく。
――長い旅程を終え、一同はバスを降りる。電車に乗り換え、ようやく辿り着いたのは阿知賀の町。
東京と違って、建物の背が低く空が広い。朝から降り注ぐ陽光が気持ちよく、尭深の足は自然と軽やかになった。
「こっちだよー」
先導するのは、当然宥。その後ろに恭子と煌。さらに京太郎が続き、彼の隣にはぴったりと怜が寄り添う。尭深は最後尾だった。京太郎たちが入ってくる前から、ここが彼女の定位置である。
「おおー」
「でかっ」
写真で見る以上に、松実館は大きかった。尭深も思わず感嘆の声を漏らす。門構えは立派であり、年月を感じさせる。
「入るのは裏口からだけどね」
宥の案内で、松実館――否、松実家の居間に集合する。その前に、部員全員で宥の家族に挨拶して回っておいた。
しかし、見当たらない人間が一人。とても重要な人物だ。
「玄さんはどうしたんですか?」
京太郎が訊ねる。元々、東帝大学麻雀部が阿知賀を訪れるきっかけを作ったのは宥の妹、松実玄である。彼女の要求により、宥は阿知賀に帰ってきたのだ。だというのに呼び戻した本人が姿を見せないとは、どういうことか。
悲しげに肩を落としながら、宥は答えた。
「玄ちゃんは玄ちゃんで麻雀部の合宿があるの忘れてたって……」
「あー、竜華や泉がそんなこと言うてたなぁ」
「ごめんね。だけど、少しくらいならこっちで合流できるみたいだから」
「何はともあれ宥先輩が久しぶりにご家族に会えたのならすばらです!」
「ありがとう煌ちゃん、おとーさんには怒られ気味だったので反省してます……」
沈む宥の肩を叩き、恭子は部員たちの顔を見回して告げた。
「さて。旅の疲れもあるやろうから、予定通りお昼までひとまず休憩や。ご飯食べてから練習開始。用もなしに旅館のほうには行かへんこと、松実家の皆さんとお客さんに迷惑をかけへんこと。ちゃんと守ってな」
「あ、でも露天風呂は使えるから」
「ん。それでは解散!」
と宣言されながらも、全員一斉にお風呂へ向かっていた。バスの中は蒸し暑くて汗をかき、すぐにでも体を清めたい気分だった。
――固くなった体を湯船で解し、尭深は青空を見上げる。吐息が生まれ出でた。朝のピーク時間を超えたのか、さほど他に客はいない。広々とした風呂場を思う存分使えた。
「きょーちゃんだけ仲間外れみたいで可哀想やなあ」
ぼやきながら隣にやってきたのは、怜だった。染み一つない肌は、どことなくお嬢様という単語を思い浮かばせる。ごく自然に、彼女は尭深の隣に腰を下ろした。ちゃぷん、と音を立て水面が揺れる。
結わえた髪をいじりつつ、怜はさらにぼやく。
「髪伸ばすとこういうとき面倒やな。手入れも手間かかる一方やし」
「……なら、どうして伸ばしてるんですか?」
「きょーちゃん、髪長いほうが好みやもん」
怜は平然と答え、尭深は言葉を詰まらせる。こんなにもストレートな物言いをされるとは、思いも寄らなかった。何も言えないでいると、怜はさらに付け加える。
「後、おっぱい好きや。せやから部内やと宥さんと尭深さんは強敵やな」
「強敵と言われても……」
敵になるつもりはさらさらない。そう釘を刺そうとして――できなかった。こちらを見つめる怜の視線が、鋭いものに変化していた。
「冗談はともかく」
彼女はうっすらと微笑み、
「この合宿で、強敵の尭深さんと一杯打てるんは楽しみやな」
と、言った。
「……期待に添えるかは分かりませんが、精一杯頑張ります」
「高校のときの成績を考えれば、私のほうが挑戦者や。白糸台が誇った超高火力プレイヤーの名は伊達やないやろ」
持ち上げられても、尭深は嬉しくともなんともなかった。そんなものは全て過去の栄光だ。今の実力とは関係がない。そう、今の実力とは。
「昼からよろしくなー」
一方的に言い残し、怜は宥たちの傍へと移動してゆく。恭子にからかいじゃれつく怜の姿に、尭深は不安しか生まれてこない。怜が思うような対局を演じられるかどうか、自信がなかった。
人一倍、尭深は露天風呂に居座る。思い浮かぶのは、ここのところの対局の成績ばかり。誠子に連敗を重ねている現状。
昼を過ぎ、あらかじめ用意しておいたお弁当を食べ終えて。
日が暮れるまで、尭深たちは卓を囲んだ。何度も何度も、牌をつもりは切って捨て、鎬を削り合った。
――しかし、けれども。
尭深は怜の後塵を拝し続けた。
その日終ぞ、彼女に勝つことはできなかった。
次回:4-3 夕焼けの君