園城寺怜は一巡先を見ている。三年前のインターハイで、まことしやかに噂された話だ。異常なまでのリーチ一発、鳴きでツモをズラされても本来ツモるはずだった牌が当たり牌。無名の選手であった園城寺怜が名門校のエースに据えられた所以。
当時尭深は、白糸台に所属する選手として、園城寺怜擁する千里山女子と対戦した。中堅を務めていた尭深が共に卓につくことはなかったが、白糸台のエースであった宮永照が直接対戦している。その際、宮永照は「鏡」を用いて怜の本質を見抜いたはずである。
元チームメイトでありながら、「はず」という類推になったのはその試合の後怜が倒れてしまったためだ。何となく怜の名前を口にするのははばかられ、また彼女がその後公式大会に姿を現さなくなったため、照が見抜いたものを聞く機会はなかった。
故に、後輩として大学に入学してきた怜自身から、尭深はことの真相を聞くこととなった。
「一巡先が見れるって、本当なんですか?」
「うん、そやで」
随分あっけらかんと、彼女は答えてくれた。本当なのか、と尭深は改めて疑問を呈する。
だが、しかし。
この奈良阿知賀合宿――園城寺怜と対局を重ねる度に、尭深は体感する。
「リーチ」
リー棒が、怜の手により卓に突き立てられる。これでもう何度目かも分からない。場に緊張が走る。
鳴かなければいけない。
しかし尭深の手では、止められない。そっと、下家に座る宥の河と表情を窺う。――これだ、と打牌する。
「チー!」
それに、宥が応えてくれる。よし、と顔色一つ変えずに尭深は一安心する。合宿中、怜のリーチ一発率はここまでで100%である。しかし今回はズラすことができた。これでひとまずの脅威は退けられたはず、と考えた矢先、
「ツモ」
怜が、手牌を倒した。全員がはっと、息を呑む。ズラしても、上がられた。
たった一度の出来事。
それでも尭深は察した。高校時代とは、一線を画している。ブランク持ちだのなんだのぼやいていたが、謙遜も良いところだ。二年以上にも渡る療養生活においても、決して麻雀から離れていなかったことが覗える。
むしろ、結びつきはより強固に。
まざまざと、差を意識させられる。
しかし迎えたオーラス、尭深には逆転の一手が訪れる。収穫の時――彼女だけに許された、圧倒的な火力。ここまでの局で捨てた第一打が、配牌となって戻ってくる。
今回のスロットは十一。速度も充分。やってやれないことはない。
――はずだった。
「ツモ」
「……ッ」
たった三巡で、怜がダマテンツモ。速すぎる。勝利を手にしても、怜に驕りの色は見られない。すぐさま次の対局に向けて切り替えていた。
対して尭深は、これで二連続の四着。短期的に見れば、このような結果は珍しくともなんともない。だがそれでも、胸の内に広がる気持ちを彼女は止められない。
煌がいつもの笑顔を浮かべながら対面に座る。抜けていったのは、怜。この辺りで連敗を止めたい、と尭深は盤面に集中する。
なのに、牌は応えてくれない。いや――この一年で勝手知ったる仲となった相手である。尭深の戦術戦略は全て理解されている。それだけではなく、彼女もまた高校時代と比べて飛躍的に雀力が上昇していた。思うように、種を蒔かせてくれない。
オーラスも煌に蹴られ、三着。卓の下で、尭深は握り拳を作る。
「それじゃ、次は尭深ちゃんが抜けて――」
「やります」
「え」
「もう一回だけ、やらせてください」
「……分かったわ」
ローテーションを拒否し、彼女は卓に残った。大きく深呼吸する。尭深は、自分の横顔を見つめる恭子の視線にも気付かなかった。
「よろしくお願いします」
新たに卓に入って来たのは、京太郎。
インターハイ出場者とは言え、後輩である。ここで簡単に負けているようでは、先輩としての面目が立たない。対面には変わらず煌、下家には恭子。いずれも油断できない相手ではあるが、彼女たちにもそろそろ一矢報いなければならないだろう。
それらが気負いだと尭深が気付くのは、対局が終わってからだった。
決して、彼らは尭深だけを潰そうと協調しているわけではない。自分の力が、足りていないのだ。要所を押さえようとする彼らを、はね除けられない。
序盤に差をつけられ、
「ポン!」
種を蒔こうと安易に字牌を切れば逃げ切りの特急券を与えてしまう。京太郎と卓を囲むようになって、まだ一月。人数が少ない部故に対局する機会が多いと言っても、研究され対応されるまで早すぎる。さらにその精度は上がる一方。まるでこれは――
――末原先輩、みたい。
そう言えば、と尭深は思い出す。同じような感想を抱いたと、宥が述懐していた。
怜や自分のように、目立つ能力があるわけでもない。相手を見極め、対策を立て技巧で対抗する。口で言うのは簡単だが、実行するのは容易ではない。
彼を、心のどこかで侮っていた。昨今男子のレベルは女子よりも低くなっていると言われているが、個人個人はその限りではない。強いプレイヤーは、結局どういう条件であれ強いのだ。
「ツモや」
「あー、やられちゃいましたね」
「もう一歩だったのに」
「ま、こんなもんやな」
オーラスのスロットもぼろぼろで、良いところ一つなく尭深はラスを引く。避けられたはずの振り込みも、数多くあった。反省と後悔しか残っていない。
ここで、合宿は一区切りつく。
そろそろ夕食の時間であった。
「さて、まずは食材の買い出しやけど――」
恭子の指は、尭深に向けられる。
「尭深ちゃん、行ってくれる?」
「私ですか」
「そ。一応、罰ゲームや」
「……分かりました」
何の罰ゲームかまでは、はっきり言わないものの。こういうところは、恭子も容赦がない。昔は後輩のおでこに落書きしていたというのだから、これでも軽いほうと思うべきか。
「場所、分かる?」
「はい」
宥から地図を受け取る。その傍ら、恭子がそっと耳打ちしてきた。
「外の空気、吸ってき」
「……はい」
頷く他、ない。
部屋を出て行こうとすると、
「須賀くんは荷物持ちですね! 女の子一人で行かせちゃだめですよ!」
「あ、はいっ」
煌が京太郎の背中を押してきた。断る理由も見つからず、尭深は彼と肩を並べて、松実家を出発する。
元々口数が少ない尭深である。
連敗に連敗を重ねた現状、愛想良く振る舞える自信は彼女になかった。先輩として恥ずかしい、と思いながらも黙ったまま歩く。自然と同居した町並みは東京とまるで違い、同じ日本とは思えない。川のせせらぎの穏やかさとは裏腹に、尭深の胸中は強く波打っていた。
それでも京太郎は、気にする素振り一つ見せずに朗らかに話しかけてきてくれる。
「晩ご飯のメニュー、どうします? 今日は昼食会のメンバー全員で作れますからね、凝ったものもいけますよ」
「あまり時間をかけると練習時間が短くなるから」
「そ、そうですね」
なのに、尭深は素っ気ない返事をしてしまう。それに、合宿が求めているのは練習効率だけではない。生活を共にして、結束力を高める目的もある。目指すインカレは団体戦、足並みを揃えられないチームから落ちていく。
小さな溜息を吐き、
「……ごめんね」
「どうして渋谷先輩が謝るんですか」
「今のは、八つ当たりだから」
足を止め、尭深は山間に沈もうとする夕陽を眺める。澄んだ空気を通る残光は美しく、心を奪われそうになった。
「愚痴なら聞きますよ」
京太郎は尭深の数歩後ろで立ち止まり、そう言った。僅かな間、尭深は躊躇った。後輩にそのような役目を押し付けても良いのか。情けない。情けないが、今更でもある。既に彼を侮って、痛い目を見た後。
「……伸び悩んでいる気がするの」
ぽつりと、尭深は呟くように言った。
「高校のときは、誠子ちゃん……同じチームの同級生とそう変わらない実力だと思ってたんだけど、最近負け続けていて。でもそれは、誠子ちゃんが強くなったからだと思う」
尭深は自分の掌を見つめながら、続ける。
「部内でも、同じ。一年前は煌ちゃんに負けてなかったはずなのに、ここのところどんどん勝てなくなってきたの。末原先輩や松実先輩も同じ。周りは強くなって、私のことは理解されて、でも私は対応できていない」
一度に、こんなにも長く喋るのは久しぶりだった。お茶が欲しい、と彼女は思った。そう言えばさっきの対局も途中から、お茶をいれるのも忘れていた。集中していたと言えば聞こえは良いが、そんな上等なものではない。焦燥ばかりが募っていた。
「どうしてこんなにも差がついたのか、分からなかったけど……園城寺さんを見て――園城寺さんと打って、分かったかも知れない」
最初は、環境のせいだと言い訳しようとした。誠子のいる聖白女は関東一部リーグの大学で、頂点を究めんと日々鎬を削っている。学内だけでもレギュラー争いは熾烈を極め、高校で言えば白糸台のようなものだろう。
片や自分は三部リーグの弱小麻雀部。昨年度まではもっと下のリーグでしか戦っていなかった。それこそ収穫の時を使わずとも倒せる相手ばかり――侮るつもりはないが、事実そうであった。強者と戦うことこそが、上達への道。それは間違いない。
けれども、同じ部の恭子も宥も煌も違う。ちゃんと強くなっている。実戦から離れていたはずの怜も、実力に磨きをかけていた。
彼女たちと、自分の何が違うのか。
考えてみれば、答えはすぐに出た。
「私とは、みんな心構えが違う」
「心構え……ですか」
「うん。昨日話したよね、私が入部した理由。ただの助っ人で入って、そのまま居着いただけだって」
そんな自分と、他のみんなは違う。
恭子は、麻雀を通した先にある夢のために。
宥は、強くなろうとする確固たる意思のもとに。
煌は、何度挫けても立ち上がる不撓不屈の精神をもって。
怜は、遙か高みにある目標に恐れず立ち向かわんとして。
いずれも、自分が持ち得ないもの。持とうとも思わなかったもの。
「――みんな、自分で決めたことを元に頑張ってる。そんな人たちと自分を比べるのも、おこがましいのかも知れないね」
溜息だけは、吐かないように口を閉じる。
尭深は一拍の間を置いて、背中を京太郎に向けたまま訊ねた。
「きっと、須賀くんもそんな動機があったんだろうね」
「えっ」
「だから麻雀を始めてたった二年でインターハイにも出場できたのかな」
しばらく京太郎から返答はなかった。「あー」だとか、「うー」だとか、妙な唸り声ばかりが聞こえてくる。首だけ振り返ってみると、彼は頬を掻いて明後日の方向を向いていた。
「どうしたの?」
「いや……確かに強くなりたいって、咲たちに――高校のときの仲間に負けたくないって思って練習するようになったのは確かです。でも、そもそもなんで強くなりたかったのかって動機は、深く考えて来なかったと思います」
一度京太郎は言葉を切り、やや間を空けてから、言った。
「で、今考えてみたら、そんな上等な話じゃないって言うか、目を逸らしていたっていうか」
「……どういう意味?」
「あー、そうですねー」
苦笑を浮かべながら、彼は言葉を探しているようだった。辛抱強く尭深が待っていると、ようやく京太郎は答えてくれた。
「ほら、俺、高校のときも女子ばっかの麻雀部だったんですよ。今と同じで」
「ああ……そう言えばそんなことも言ってたね」
「で、元々入部した動機なんて、和に憧れたってくらいです。不純で、それこそ渋谷先輩の入部理由とは比べものにならないですよ」
飾らない言葉は、嘘を吐いていないことを示していた。尭深はしっかりと、彼の話に耳を傾ける。
「でもですね、やっぱり負け続ける男って格好悪いと思うんですよ。部内でも部外でも。あいつらそういうの気にしないタイプですけど、俺個人としては納得いかなかったんだと思います、今から考えると。つまり格好つけたかったんです、女の子に」
男の子の心理は、尭深には分からない。そういうものだと言われれば飲み込むしかないだろうが、理解はできなかった。
――けれども。
「要するに」
京太郎が、尭深の前に出る。今度は彼が、尭深に背中を見せた。
「あいつらのことが――清澄が好きだったんですよ。きっとそれが、始めの一歩だったんです」
そのシンプルな理由は、尭深の胸にすとんと落ちた。
「どうでも良い奴ら相手なら、俺だって格好つけたいとは思いませんから」
「……そっか。うん」
尭深は何度も頷き、それから言った。
「羨ましいな。そんな風に言える相手がいて」
「えぇー?」
京太郎から返ってきたのは、戸惑いの声。びくりと尭深の肩が震える。京太郎が体ごと振り返り、目線を真っ直ぐ合わせてきた。
「ど、どうしたの」
「どうしたって、何言ってるんですか」
彼は、尭深の言うことがちっとも分からない、という様子で訊ねてくる。
「渋谷先輩は、この麻雀部が好きでしょう?」
「え?」
「だって、いつもみんなの後ろにいて、見守ってくれてるっていうか。振り返ったら、いつも渋谷先輩が微笑んでくれてるじゃないですか」
「……あ」
「だから――好きなんでしょう?」
いつもの、自分の定位置。恭子を先頭に歩いて行くみんなを、尭深は最後尾でずっと見つめていた。
そのときの表情なんて、知らなかった。自覚していなかった。
――きっかけは、助っ人を頼まれただけ。流されて、そのまま残っただけ。自らの意思など、どこにもなかった。
でも、今は違う。残った後、残り続けることを選んだのは、自分だった。
我ながら間が抜けている、と尭深は自嘲する。――好きだなんて単純な感情に、人に指摘されるまで気付かないなんて。
大層な夢も目標も要らない。
「ただ好きだってだけで……良かったんだね」
ちゃんと、頑張る理由が自分にもあった。のめり込む理由が、ここにあった。眼鏡を外し、目元を拭う。
始まりとなる一歩を、踏み出せる気がした。
「ありがとう、須賀くん」
「はいっ」
沈む夕陽に照らされて、彼の笑顔はとても美しく輝いていた。
◇
夜のメニューは、中華でまとめた。食材を買ってきたその足で、尭深はキッチンに向かった。京太郎もまた手伝ってくれて、調理は実にスムーズに進んだ。彼と一緒に作業するのは、楽しかった。時に冗談を交え、笑い合いながら作り上げた料理は、部員たちと松実家全員に好評だった。
夜の練習も充実したものになり、尭深は遅くまで京太郎とリーグ戦で当たる大学の研究を進めた。大学に入ってからここまで麻雀に打ち込んだのは、初めてだったかも知れない――尭深はそう思う。
恭子に促される形で一度眠り、目覚めたのは早朝。
枕が変わって寝付けないということはなかった。むしろぐっすり熟睡したおかげで、寝覚めは良かった。ほどよい疲労感に加え、朝が来るのが待ち遠しかった。すぐにでも打ちたかった。
宥の作った朝食を摂り、松実館の麻雀室に集まる。
「それじゃ、合宿二日目――いや、三日目か。開始です!」
軽いミーティングを終え、恭子の宣言と同時、尭深は卓に着こうとした。試したいことは、いくつもある。
「おじゃましまーす!」
「おねーちゃん! ただいまなのです!」
その足を、止める二つの声があった。
同時に扉を開く音が、室内を切り裂く。
東帝大学麻雀部一同が、一斉に入口へと振り返った。
そこに居たのは、いずれも長い黒髪とふくよかな体つきをした、二人の女性。一方は怜悧な印象を与える目元、もう一方はどちらかと言えば穏やかな空気を纏っている。
けれども二人は共通して、とても明るい笑顔を浮かべていた。
「玄ちゃんっ」
宥が、妹の名を呼ぶ。そう、一人は尭深も先日会ったばかりの松実玄だ。
そしてもう一人は――怜に向かって、駆け寄ってくる。
「ときーっ」
「なんや、竜華か」
「ひどっ。折角会いに来たのに!」
清水谷竜華。かつての怜の、戦友。怜にあしらわれながらも、実に嬉しそうだ。怜もまた、何だかんだと言いながら彼女の傍を離れない。
並び立つのは、二人の竜。
関西一部リーグ最強の西阪大学麻雀部が誇る、新時代のダブルエース――双竜が、東帝大学麻雀部に襲いかかる。
次回:4-4 ミッドナイトティーパーティー