東帝大学麻雀部、奈良阿知賀春季合宿。配られたしおりのタイムスケジュールには、練習試合の文字は書かれていなかった。関西の大学とは元々繋がりが薄く、また一度凋落した東帝では新たに関係を築くのも難しい。大阪出身の恭子は個々のパイプを持つであろうが、あくまで学生レベルの話だ。顧問の許可もなしには正式な練習試合は組めない。
リーグ戦も近い現状では、実戦を重ねておきたいというのが本音である。
故に、清水谷竜華と松実玄の二人がこの合宿を訪れたのは、麻雀部一同にとって僥倖だった。理由はさておき、鴨が葱を背負って現れたとようにしか見えない。
「清水谷さん、久しぶりやなあ」
「ああ、末原さん。お久しぶり」
部長の恭子が、朗らかな笑顔と共に竜華へと声をかける。竜華もまた、怜と再会できたことで機嫌が良いのか、表情は緩みきっている。
大阪南部の姫松。
大阪北部の千里山。
どちらも関西を代表とする高校女子麻雀界の強豪校――そして恭子と竜華のそれぞれの母校であり、当然地理的にも近い関係にある。竜華は部長、恭子も主将ではなかったが参謀役として部を率いる立場にあった。自然と話す機会は多く、最も身近なライバルとして、同時に同じ雀士として彼女たちは良好な友人関係であった。
――という話を、尭深も聞いたことがある。
「怜が迷惑かけてへん?」
「いえいえ。……うん、かけとるわ」
「あ、やっぱり?」
「ほんま困っとるわ」
二人が直接顔を合わせている場面は意外にも初めて見るが、どうやら真実であったようだ。恭子は冗談半分、本気半分と言ったところであろうが、ともかく笑い合う姿に嘘偽りはないだろう。
「今日はまたどうしてこっちに?」
「うちの合宿、昨日で終わりやったから。玄ちゃんが実家帰る言うから、怜に会えると思うてついてきたんや」
「そうなんや」
尭深は見た。恭子の瞳が、「逃がさない」と言わんばかりに光るのを。
「ごめんねおねーちゃん、帰って来いって言っておきながら……」
「ううん、大丈夫だよ。良い機会になったから」
「おねーちゃん……!」
松実姉妹のほうを見れば、こちらは妹が姉にじゃれついていた。すぐには帰らない、という強い意志が垣間見える。
「合宿中やのにお邪魔して悪いなぁ」
「いやいや。折角やし、清水谷さんたちも打ってかへん? 丁度八人になって二卓立てられるしな」
「ええん?」
「お互い練習になるやろ。すぐには公式試合で戦うわけでもないやろうし。損はさせへんわ。玄ちゃんもどうや?」
「やりますっ! 是非とも!」
あっという間に恭子が交渉を終え、竜華たちを卓に加えることに成功する。
「久しぶりに竜華と打ちたいな」
「ええでー、怜。うちももう一回怜と打てるん楽しみにしてたんやから」
「あ、私も園城寺さんと打ちたいですっ」
割って入って来たのは、玄だった。
「この間はコンビ打ちだったし、今度は戦ってみたいのです!」
園城寺怜。
清水谷竜華。
松実玄。
揃った三人は、現在の大学麻雀界でも指折りの打ち手たちだろう。それこそ関東一部リーグ、その上位チームの卓と何ら遜色ない。
二の足を踏むのが、普通なのかも知れない。少なくとも一種のスランプに陥っていた昨日までの自分なら、そうしていた――尭深はそう思う。
だが、彼女は真っ先に前に出た。
「よろしくお願いします」
怜や玄と因縁深い煌よりも早く、四人目に尭深は手を上げた。椅子を引く前に一度だけ、京太郎へ向かって振り返る。彼が頷き、尭深も頷き返した。
場決めの結果、上家に玄、下家に竜華、そして対面に怜となる。
出親となった怜がサイコロを回しながら、
「今日は調子ええんかな、尭深さん」
「はい」
彼女の問いかけに、迷いなく尭深は答える。
「期待に添えられるよう――いいえ、期待を超えて見せます」
「……うん、よろしゅう」
「気合入っとるなー」
「楽しみなのですっ」
一巡先を見る者、園城寺怜。
彼女の能力は、速度と防御を両立させる。加えてリーチ一発による瞬間的な火力も決して低くない。一方でその能力は使う度に体力を消耗するらしく、高校当時は乱発が難しかったという。しかし今の彼女は体力の問題を改善している。弱点の少ない、オールマイティな力と言えよう。
早い巡目での、怜のテンパイ気配を尭深は感じ取る。リーチはまだかけていないが、いつ仕掛けてきてもおかしくない。オーラスまでの局数が増えれば増えるほど有利になる尭深の能力ではあるが、いきなり怜に連荘させて調子に乗せるのも嫌な流れだ。
「リーチ」
だが、先手を打ったのは竜華だった。
「ツモ!」
「ん」
怜の親を蹴っ飛ばしながら、満貫ツモ。たった一局、しかしこの一局で尭深は肌で感じた。――彼女がこの場で、一番強い。
高校では千里山の大将として怪物たちと戦い、大学でも一年生からレギュラーとして第一線に在り続ける。どんな些細な変化も見逃さない正真正銘の、関西の英雄。
「そう簡単にはやらせへんでー、怜」
「始まったばっかりやん」
尭深の体が震える。恐れではない。武者震いだ。
彼女たちばかりではない。
一切姿を現さないドラ。考える必要もなく、全てのドラは彼女――松実玄の元に集まる。先日の東帝大学での対局でも、その力に翳りはなかった。
いや、今やそれどころではないだろう。
松実玄には、ドラを切れないという決して低くないリスクを抱えていた。少なくとも、高校のときまでは。
それを、全てではないにしろ玄は解消していた。尭深と同学年の彼女は、確かに成長していた。――手本にすべきは、玄。彼女のような大胆な変化が必要なのだ。
「ロン! 12000!」
「……はい」
尭深は彼女に振り込んでしまう。だが、動揺はない。今はあらゆることを試す段階。挑戦する立場。王者白糸台の選手であったことなど忘れ、尭深は戦う。
怜の速度に負けないように。竜華に己の細やかな変化を見抜かれないように。玄の火力に気を払いながら。
「ツモ」
尭深は、連荘を狙う。
まずはスロットを一つでも多く稼ぐ。早々に収穫の時を意識させる。
「ロン」
さらに、もう一回。食いタンのみだが、玄から上がり返す。――プレッシャーを与え続ける。そうすることで、相手の選択を狭めるのだ。
気を付けるべきは、オーラス。できる限り連荘はせず、早々にゲームを終わらせよう。
そんな彼女たちの考えが、伝わってくるようだった。
――そこを、突け。
やれるかどうかなんて、分からない。けれどもやれなければ、いつまで経っても足踏みしたままだ。
誠子にこれ以上負け続けるのは嫌だ。
恭子たちに置いて行かれるのも嫌だ。
自分の気持ちを教えてくれた京太郎に、応えたい。
あらゆる想いが、尭深を支えていた。熱いお茶をすすり、尭深は集中力を高める。
南三局、尭深の親番。
今こそ仕掛けるべき時だった。
「ポン」
鳴いたのは、竜華。ここは確実に尭深の親を蹴り、自分の親番でのオーラスでできる限りの安全を確保しようとしているのだろう。
「チー!」
速攻は止まらない。しかし、尭深に焦りはなかった。
「ポン」
今度鳴いたのは、尭深。西を卓に晒す。さらに、
「ポン――」
次は、東を鳴く。ざわりと場に緊張が走る。異常事態に、全員が気付く。
だが、もう遅い。
尭深は最後の牌を、掴み取る。
「――ツモ」
ツモ牌は、南。雀頭ができあがり、倒した牌の中には北の刻子。
「小四喜っ」
「まだオーラスじゃないですよねっ」
「すばらです! 超すばらー!」
大逆転劇。思わず観戦していた恭子たちから歓声が上がる。
「これって……」
「たまたま、ちゃうな」
してやられた側のはずの怜が、どこか嬉しそうに言う。
「ちゃんと、これまでの第一打が配牌に戻ってきとる」
「いいえ。全部は無理でした」
オーラスのときにのみ発動していた収穫の時。それを、その手前の局で持ってきた。初めての試み、できるかどうかも分からなかったが、挑戦しなければ何事も成せない。早すぎる収穫では蒔いた種全てを実らせることは叶わなかったが、相手の虚をつくのには充分だった。
「凄いです、どうやったんですか?」
「え……」
京太郎に訊ねられ、尭深はしばらく考える素振りを見せ、ううん、と唸ってから、
「……頑張って?」
「そ、そうですか」
ともかくとして。
この半荘を制したのは、尭深だった。久しぶりのトップ、そして強者たちを制した達成感を手にし、彼女は微笑みを浮かべる。
「もう一回や!」
「次は私が!」
「俺もやらせてくださいっ」
午前中から、合宿の熱気は一気に上昇する。
あっという間に一日を終え、翌日、実質的な合宿最終日もまた、共に宿泊した竜華と玄が参加した。
かつてないほどに充実した合宿は、尭深に大きな自信を植え付けた。強豪校のエースとも、五分に戦える。心の何処かにあったリーグ開幕への恐怖は、とうに消えていた。
心地よい疲労感を全身で感じながら。
――松実館で過ごす最後の夜が、訪れた。
◇
「打ち上げをします」
言い出したのは、尭深だった。明日の朝出発するバスに備え、早めに寝ようという恭子の提案を蹴る形であった。
「え、えらいやる気やな」
「宴会部長なので……」
麻雀部の会計を務めるにあたり、いつのまにか任命されていた役職である。だが、尭深は意外とこの仕事を気に入っていた。
どこか店に飲みに行く、という案も出されたが、
「宴会部屋が一つ空いてるらしいから」
「飲み物はお安く提供できるのです!」
宥と玄、松実館の好意に甘える形となる。もちろん料理は自分たちで用意しなくてはならなかったが、尭深は率先して調理にとりかかった。隣で手伝ってくれる京太郎と宥の存在が、とても居心地が良くて嬉しい。
交代で露天風呂に入り、浴衣に着替えだだっ広い宴会場に集合する。八人で使うには、とても贅沢だった。
「えー、それでは開始の挨拶は尭深ちゃんで」
「えっ、そ、そういうのは末原先輩のほうが」
「この宴会の主導は尭深ちゃんなんやから」
「……わ、分かりました」
恭子に無理矢理立ち上がらされて、尭深は戸惑う。こういう目立つ立場は、慣れていない。部内だけならともかく、今は玄と竜華もいる。七人の視線が集中して、羞恥から一瞬彼女は俯くが、京太郎と視線がぶつかり勇気付けられた。
「その……まずは松実さんと清水谷さん、ありがとうございました。お二人にこの合宿に参加して貰えて、とても充実したものになりました。きっと次節のリーグ戦は良い結果を出せると思います。――いいえ、出して見せます」
すばら! と囃し立てる声が上がる。大人しい尭深にしては珍しい、力強い宣言だった。
「私の料理では物足りないかも知れませんが、松実先輩と須賀くんが手伝ってくれたのできっと美味しいと思います。……えっと、で、では」
グラスをかかげ、上擦りながらも、
「か、乾杯っ!」
「かんぱーい!」
尭深は音頭を取った。かちゃかちゃとグラスがぶつかり合う音の中、するりと尭深は座布団の上に座り直す。
「お疲れさん」
「あ、はい」
隣の恭子と乾杯を交わす。二十歳組の彼女はアルコールである。お酒に興味がある尭深としてはちょっと羨ましい。それを目聡く感じ取ったのか、
「まだあかんでー、後二ヶ月くらいやろ」
「は、はい」
恭子に釘を刺される。くすりと笑って、彼女は続けて言った。
「悩み、解決したみたいやな」
「あ、は、はい」
「もうちょっと時間かかりそうやったら声かけようと思ってたんやけど、良かったわ。あんまり手ぇかからんのも寂しいもんやけど」
「いえ……」
ちゃんと、見てくれていた。それだけで充分。だから尭深は、彼女が――この麻雀部が、好きなのだ。
「ありがとうございます、末原先輩」
「ま、大事な後輩やからな。料理は美味しいし」
焼き魚に舌鼓を打ち、恭子のお酒は進んでゆく。
成人している宥と竜華もまた、手にするのはアルコール類である。怜だけは今なお服用している薬の関係で、お酒の解禁はもう少し時間がかかるということ。しかし酒の入った人間から緩んだ空気は次々と伝播し、正に宴会という状況ができあがる。
「須賀くん、須賀くん。いつも怜がお世話になってごめんなー」
「い、いえいえ。怜さんには俺も麻雀教えて貰ってますし」
既に顔を赤くした竜華が京太郎の隣につく。お風呂上がりの浴衣姿は同性の尭深から見ても艶めかしく、京太郎は明らかに鼻の下を伸ばしていた。
「で、どうなん? 怜はどこまで進んだん?」
「進んでませんってば!」
「照れんでもえーやん」
今照れているのは別の理由だ、と尭深は突っ込みたくなったが、その場に留まる。
代わりに怜が、二人の間に割って入った。
「わっ」
「どうしたんときー」
「久しぶりに膝枕を堪能しとこうと思うてな」
彼女はすかさず竜華の膝に頭を乗せる。これや、と怜は満足気に呟いた。
「きょーちゃんの背中でも味わえん感触やな、やっぱり。あ、でも後できょーちゃんよろしくなー」
「贅沢しすぎです、怜さん」
「ほんまやで、あんま須賀くんに迷惑かけたらあかんでー」
「ええやんちょっとくらい」
あの三人も、妙な関係だ。京太郎と竜華が夫婦で、怜がその子供にも見えてしまう。いずれにせよとても仲が良さそうだ。
気が付けば、尭深は立ち上がっていた。
一度キッチンに戻り、自慢のお茶をいれ、
「どうぞ」
と、彼女たちに向かって手渡していた。
「飲み過ぎは、よくありません」
「せ、せやな」
やや困惑気味に竜華が受け取る。よし、と謎の満足感に浸っていたら、
「尭深、私にもください!」
「私も渋谷さんのお茶飲みたいのです!」
煌たちからもリクエストの声が上がった。まだ料理も残っているのに、と思いながらも尭深はみんなのためにお茶をいれる。多幸感を、彼女は覚えていた。
尭深によって企画された宴会は、夜遅くまで続いた。カフェインのおかげで半端な眠気は退けられ、麻雀論や大学のことで議論が巻き起こる。それはきっと、その場にいた全員にとってとても楽しい時間だったろう。そうであって欲しいと、尭深は京太郎の横顔をうかがい見ながら願っていた。
◇
楽しい時間の反動は、苦しみの時間として返ってくる。少なくとも、アルコールを飲んだ年長組にとっては。
「頭痛い……」
恭子と宥がうんうん唸っている。
「眠い……布団欲しい……」
一方下級生たちも睡眠不足により、苦悶の声を上げていた。
しかし高速バスの出発時刻は容赦なく訪れる。
竜華と玄に別れを告げ、一行は駅に向かった。行きの夜行バスと同じく、とったチケットは二列シートが三組。
「きょーちゃんと……」
「公平に……くじ引きや……」
覇気のない恭子の手から、尭深は割り箸を引く。先端の色は、赤。見回してみれば、同じ色の割り箸を持っていたのは――何の因果か、京太郎だった。抗議が怜から出たが、恭子が退けた。「尭深ちゃんなら心配ないやろ」、と。
人一倍体力はある京太郎だが、昨日はとても働いていた。彼もまた憔悴気味で、目元をこすりながら尭深に話しかけてくる。
「すみません、また俺で」
「……ううん」
問題ないと言おうとして、しかし尭深は少し迷いを見せた。往路とは、何かが違う。何かが変わっていた。
バスに乗り込み、出発してもしばしの間は二人とも起きていた。だが、その内にまず京太郎が船を漕ぎ始める。
「ごめんなさい、ちょっと寝ます……」
「うん」
すぐに彼は、寝息を立て始めた。寝心地は悪かろうが、それよりも眠気が勝ったようだ。
同時に尭深も、そろそろ限界が訪れる。
ちらりと見るのは、彼の肩。一晩頭を預けた場所。
――自分はそうはならないようにしよう。
この合宿前に、決意したこと。面倒な人間関係に巻き込まれないようにと彼女は決めた。その決意は、今もちっとも揺るいでいない。尭深はそう確信している。
何故なら自分は、自分の感情に気付かないほど間が抜けている。この気持ちの正体を、一人では理解できないのだ。
だから「そうなった」かどうかなんて、分からない。分からないのだから――
――こうしても、構わない。
睡魔によってか、無意識か。彼女の論理的な思考は奪われていた。
彼の肩に頭を預け、そっとその指先に手を重ねる。体を包むのは、安心感。眼鏡を外すのも忘れて、そのまま瞼を閉じる。
尭深は東京に着くまで、一度も目を覚まさなかった。
Ep.4 たかみープロデュースミッドナイトティーパーティー おわり
次回:Ep.5 すばら探偵花田女史のケースファイル
5-1 浮気疑惑、彼にちらつく女の影