5-1 浮気疑惑、彼にちらつく女の影
五月の連休も明け、一週間。花田煌は夜の新宿に降り立った。夕方から降り出した小雨から頭を傘で守りながら、煌は人混みをかき分け目的地に向かう。福岡もそうであったが、都会という場所はとにかく人が多くて困る。利便性で言えば比べる余地もないが、長野はのどかな土地で息苦しさを感じることもなかった。
かつての故郷に想いを馳せるのは、これからの予定のせいだろうか。いつも笑顔を絶やさない煌は、しかし今日はまた一段と頬が緩む。
指定されたのは、駅から歩いて十分ほどのメキシコ料理店である。やや早めに着きすぎたかとも思ったが、既に彼女たちは店の軒先で待ってくれていた。二つの傘は、高さにはっきりと差があった。
「原村さん、片岡さん!」
「花田先輩――」
「久しぶりだじぇ!」
「すばらですっ」
おおよそ半年ぶりに顔を合わせた後輩二人と、煌は握手を交わし合う。
厳しさと穏やかさを同居させた雰囲気を身に纏うのは、原村和。中学時代から変わらない豊満な体つきはそのままに、大人の色香を漂わせている。幾分か身長も伸びただろうか。
片や全く変化がないように見えるのは、片岡優希。思わず頭を撫でたくなる小ささは、中学時代から健在だ。ただ着ている服は、以前と比べて若干落ち着いたものに変わっていた。和の趣味が中学当時から変わっていない分、こちらには少し驚かされた。
ともかくとして。
原村和と片岡優希。
彼女たち二人は、煌が通っていた長野・高遠原中学麻雀部の後輩である。中学卒業後、煌が九州に引っ越して以来疎遠になったが、インターハイで再会後は交流が復活していた。
今日は彼女たちが大学生になってから初めての、ささやかな同窓会であった。
レストランに入って、優希が真っ先に注文したのはタコス。懐かしい光景に、煌は目を細めた。苦笑する和と合わせて、彼女はエンチラーダを頼んだ。
「それにしても、こうして二人と東京で会えるようになるとは思いませんでしたよ。大変すばらですっ」
「そうですね……。大学に入学してから一ヶ月以上も経ってしまいましたけど。すみません挨拶が遅れて」
「いえいえ、お気になさらず。入学後は何かと忙しかったのでしょう? それに二人とも麻雀部に入ったそうじゃないですか、三橋大の練習は大変でしょう」
「そうだじぇ! もう毎日疲れ果ててるんだじぇ……」
がっくりと肩を落とす優希であったが、タコスが到着した瞬間目を輝かせてかぶりつく。もう、と和は少し憤慨して、
「先輩の前ではしたないですよ、ゆーき」
「まぁまぁ、私は気にしませんから」
「タコスうまー!」
満面の笑みを浮かべる優希を見れば、何もかも許してしまえる。そのくらいには、煌は彼女たちに思い入れがあった。小さいながらも――だからこそか――同じ麻雀部で過ごした仲だ。
「原村さんたちは随分長い付き合いになりましたね。中学の途中から大学までなんて」
「正直ここまでとは思ってませんでした」
「照れ隠ししなくてもいいんだじぇ、のどちゃん」
去年まで高校麻雀界を席巻した清澄高校のトリオ――その内二人が、三橋大に入学した。このニュースは、関東リーグに所属する雀士たちにとって看過できない話であった。元より三橋大は大学麻雀界の名門、一部リーグに十年居座り続ける実力は本物だ。そこに彼女たちが加わったことにより、勢力図は塗り替えられるという予想もなされている。
「麻雀部の調子はどうなんですか?」
「特待で入ったのに私はベンチだじぇ。のどちゃんはレギュラーなのにー」
「三橋で即ベンチ入りでも充分すばらですよ」
「そうですよゆーき。四月の成績がたまたま良かっただけです」
和のほうは、受験組である。色々悩んだ結果、彼女は法曹への道を選んだらしい。しかし同時に、少なくとも大学では麻雀も一線で続ける覚悟だという。高校三年間で一回り成長した彼女たちといつか公式戦で相見えるときがくると思うと――煌はわくわくする。
「特待と言えば」
ふと、思い出したように和が言った。
「須賀くんもうちの大学から推薦が来てたんですよね」
「初耳です」
煌は目を丸くして驚く。いや、彼も男子インターハイで決勝まで残った身。三橋の男子麻雀部も女子に劣らず名門であり、そのような話が来てもおかしくない。
「まさか花田先輩と須賀くんが同じ学校に通うようになるなんて、思いも寄りませんでした。彼は元気にしてますか?」
「元気も元気ですよ、この間もリーグ戦の相手の分析を恭子先輩とやってくれまして、どんぴしゃでした! おかげさまでリーグ開幕から二連勝! 大変すばらです!」
「京太郎も中々やるようになったじぇ。私たちが鍛えてやったおかげだじぇ」
偉そうに胸を張る優希に、意外にも「かも知れませんね」と和が同意する。彼の現在は、やはり彼女たちに鍛えられた結果なのだろう。
「三橋も調子良さそうですね」
「次は聖白女と同じ卓なので、どこまでやれるか不安です」
と言いながらも、和はどこか嬉しそうだ。聖白女は、弘世菫を初めとする王者白糸台の出身者が多い関東リーグ最強校の一角である。一人の雀士として、思うところがあろうのだろう。
「むぅ。のどちゃんだけ打てて羨ましいんだじぇ。私なんかいつも鬼軍曹に怒られてばかりだじぇ」
「それはあの人なりにゆーきに目をかけてるからだと思いますよ」
「あの人?」
「うちのエースです」
「ああ、彼女ですか」
すぐさま煌は理解する。現在の三橋のエースと言えば、彼女しかいない。
和は小首を傾げながら優希に問いかける。
「でも、何だか最近は機嫌良くありませんか?」
「んー、確かにゴールデンウィークに入ってからは優しくなったような…………でもやっぱり鬼軍曹だじぇ!」
最後のタコスを平らげて、優希は怒りに任せるまま追加注文する。もちろんメニューは、タコスである。
「どこの麻雀部も大変なようですね……」
「部員不足の花田先輩のところほどじゃないじぇ!」
「ふふふ、ですが今期からは事情が違いますよ!」
きらん、と煌が目を輝かせる。それだけで二人は察したようだ。
「園城寺さんですね」
「あの人も変わり者だじぇ。でもいきなり活躍してて流石だじぇ」
関東リーグが開幕してからの最大の話題と言えば、間違いなく園城寺怜の復帰であろう。前情報もなしに、東帝大学の選手として関東三部リーグに彼女が現れたときは、会場全体がどよめいた。話を聞きつけたマスコミが、一部リーグの会場から移動してきたくらいだ。
そして見せた打ち回しは、他を全く寄せ付けず。
東帝のエースとして、華々しいデビューを飾ったのだ。
「そう言えば二人は、二年前に長野で会っていたんでしたね」
「はい。あのときは療養生活中だと仰っていましたが――こうして活躍の噂を耳にすると、感慨深いものがありますね」
「ええ、インハイで同じ卓を囲んだ身としても、大変すばらです。それにしても――」
煌は続いて、ある話題を口にしようとした。
麻雀仮面について、である。
しかし彼女は寸前、思いとどまった。
「どうしました? 花田先輩」
「いえ、なんでもありません」
一度、煌は誤魔化すことを選んだ。
麻雀仮面と名乗る狐面の女は、四月にこの近隣に現れた謎の雀士である。彼女は大学生を中心に相手取り、並み居る強者をばったばったと薙ぎ倒した。その正体は一切謎に包まれ、仮面の下の顔は誰も知らない。――ということになっている、少なくとも表向きには。
麻雀仮面の正体は、件の園城寺怜である。この事実は東帝大学麻雀部と、現在は大阪に住む松実玄だけの秘密になっている、はずである。
しかし、和たちは怜と友人同士だ。彼女たちにも話は通じているのだろうか。
食事を進め、しばらくして後、改めてとぼけた様子を振る舞いながら煌は切り出した。
「そういえば、お二人は麻雀仮面の噂を聞いたことがありますか?」
「麻雀仮面というと、先月東京や横浜の雀荘に現れたという、あれですか」
「それですそれです」
和は悩ましげに眉を寄せる。彼女は何やら言い辛そうな雰囲気を醸し出すが、代わりに優希があっけらかんと答えてしまった。
「うちのレギュラーも負けたんだじぇ」
「なんと」
「もう、ゆーき。あまり口外してはいけないと言われたじゃないですか。……ともかく、うちでも正体を探ろうとしていたみたいですよ。私は直接お会いしていませんが。花田先輩は麻雀仮面を追ってるんですか?」
「ああいえ、ちょっと興味があるだけで」
嘘を吐いている様子はない。二人とも本当に知らないようだ。余計なことを言わずに済んだ、と煌はほっと胸を撫で下ろす。
麻雀仮面が残した遺恨は、麻雀仮面本人が考えているよりもずっと大きかった。五月に入りぴたりと姿を現さなくなり、麻雀仮面の正体を探る動きは沈静化に向かわれるかとも思ったが、まだまだその勢いは保たれている。もしも正体が外部に露見すれば、面倒な事態に発展しかねない。煌たちに責任はなくとも、麻雀部自体が一度問題を起こしているため、余計なトラブルは避ける方針でいた。
おそらく夏になる頃にはこの流れも沈静化に向かうだろうが、今は大人しくしておくのが一番である。和たちを信用していないわけではないが、三橋の麻雀部でも探る動きがあるならば黙っておくのが無難だろう。
煌はそう判断しながら、心の中で二人の後輩に謝った。
◇
連休が明けてからの東帝大学麻雀部の空気は、実に明るい。リーグ戦が開幕してから二戦、いずれも圧倒的トップで勝利を収めた。新入部員の怜も元来の気質故か、あっという間に部に溶け込んでいる。部長である恭子とのいざこざこそ絶えないものの、じゃれ合いの域を出ていない。
次の試合もまるで負ける気がしない。煌はこの麻雀部に、確かな手応えを感じていた。驕る必要はないが、自信を持って戦いに挑めば良い。
「ロン」
「す、すばらっ?」
「まくったで、煌さん」
――煌自身は、部内ではあまり勝てていないが。
零細麻雀部とは言え、部員全員タレント揃いである。皆、今すぐにでも一部リーグの大学のレギュラーになれる実力は秘めているだろう。先日まで同期の渋谷尭深はスランプに陥っていたようだが、合宿を経て一皮むけたようだ。むしろこれまでの遅れを取り戻すかのように、リーグ戦でも大活躍を見せている。
彼女たちに比べたら、自分がぱっとしないことを煌は自覚している。少数精鋭の部活動であるからこそ、まざまざと差を見せつけられる。
劣等感のようなものを、覚えないわけではない。悔しいとも思う。
けれども。
「なんの。ここからまくりかえしますよ、怜さん」
「……流石やな、煌さん」
そうは簡単に挫けないのが、花田煌である。幼い頃から培った不撓不屈の精神は、誰にも真似できないものだ。
もしかすると、彼女がいなければ――彼女でなければ、部内はまた不協和音が発生していたのかも知れない。問題が頻出していたのかも知れない。他の部員全員にそう思わせるだけのものを、煌は秘めていた。
何もかも絶好調。
恐れるものはなにもない。
東帝大学麻雀部全員が確信している――最中の出来事であった。
「すみません、今日は先に帰らせて貰います」
牌譜の整理を終え、そう言い出したのは唯一人の男子部員、京太郎だった。まだ、練習時間は一時間ほど残っている。彼が練習を早退するなんてこの一ヶ月超の中では初めてであった。
「どうしたんや、気分でも悪いんか」
いの一番に訊ねたのは、恭子だった。京太郎を相手にしたときのぎこちなさは解消されていないものの、異変の際にはそんなことも言っていられないのだろう。部長としての役割を、恭子はきっちりこなしていた。
しかし京太郎の返事は、
「そういうわけじゃないんですけど、すみません。用事を思い出して」
実に曖昧なものだった。らしくない、と言えるほど付き合いが長いわけではないが――煌はかすかな違和感を覚えた。
「用事ってなんやそれ。聞いてないで、きょーちゃん」
口を尖らせて文句を言うのは、怜。
「私の晩ご飯はどうするん?」
「ごめんなさい、適当に何か食べてて下さい」
「えー、きょーちゃんが作ったハンバーグが良いー」
「子供かあんたは」
恭子が怜の頭を軽くはたいてから、
「ま、シーズン中に根詰めすぎるのも良くないしな。須賀もこないだから情報収集ばっかで疲れとるやろ。ええで、今日は帰り」
「ありがとうございます」
鞄を引っ掴むと、さっさと京太郎は部室を出て行った。
成り行きを静かに見守っていた宥が、ぽつりと呟く。
「京太郎くん、最近何だか大変そうだねぇ」
「合宿明けから少し慌ただしくなってみたいですが」
湯飲みを抱えた尭深も心配そうに追随する。
恭子はむぅ、と少し唸って、
「……まぁ、子供やないし困ったことがあったら自分から言うてくるやろ」
「冷たいなぁ、部長さんは」
「園城寺は黙っとき」
再び軽く恭子は怜の頭をはたく。煌は苦笑いを浮かべつつ、次の局に気持ちを切り替える。
この時点ではまだ、煌もとりわけ気にしていなかった。新入生の繁忙期はまだ続いているし、彼も煌と同じく多くのコミュニティと繋がりを持っている。
多少忙しくても、何ら不思議ではない。
――そのはず、であった。
次のリーグ戦も、東帝大学は大勝した。打ち上げでは京太郎も参加し、盛り上がりに盛り上がった。大変すばらな夜だった。
しかし翌日からまた、京太郎はちょくちょく部活を早退するようになった。時には、まるごと欠席する日もあった。
その度繰り返される言い訳も苦しく、怪しさは拭えない。
彼が何かを抱えているのは、明白だった。しかし京太郎からは何も言い出してこない。恭子が「待ち」の姿勢を見せたため、麻雀部からアクションは起こさなかった。
それがいけなかったのだろうか。
――三部リーグ第四戦。
この日も、東帝大学は勝利をあげた。ただ、これまでと同じように快勝とまではいかなかった。もちろん毎回毎回上手く行くわけではないのが、競技というもの。だが、これまで好調であった麻雀部に歪みが生まれていたのも確かだった。
加えて、この日の打ち上げでは――
京太郎が、欠席であった。
レストランの片隅の席に、麻雀部の五人は集まっていた。各々のグラスには、既に飲料が注がれている。しかし、誰も乾杯の音頭を取ろうとしない。勝ったはずのチームは、どんよりとした空気が漂っていた。
「……皆さん!」
見かねた煌が立ち上がる。
「何はともあれ、今日の勝利を祝いましょう!」
「そ、そうだね」
賛同してくれたのは、宥だけだった。それも、小さな声で。怜は不機嫌そうに机を指で叩いているし、尭深は黙って膝に置いた手を見つめている。
「す、すばらくない……。きょ、恭子先輩……」
恭子に縋り付くような目線を送ると、彼女は盛大に溜息を吐いた。
「……煌ちゃんの言うとおりや。あのアホはほっといてさっさと始めよか」
「ちょお待って」
待ったをかけたのは、怜だった。恭子が眉を潜める。
「どうしたんや、急に」
「言おうか言うまいか迷ってたんやけど……流石にここまできたら見過ごせんと思て。飲み会の前に、言わせて」
要領を得ない怜の物言いに、煌も首を傾げる。
「どうしたんですか、怜さん」
「こないだな、きょーちゃんの部屋行ったんやけど」
怜と京太郎の住まいは隣同士である。頻繁に怜が京太郎の部屋に出入りしているのは既知であったが、恭子はぴくりと肩を震わせた。しかし、彼女は突っ込みを入れず先を促した。
「――知らへん女の髪が落ちててん」
「なっ」
「えっ」
「ええっ」
怜がその言葉を口にした瞬間、あちこちから困惑とも悲痛ともとれる声が上がった。煌は一人、ごくりと唾を飲み込む。
「一応確認しとくけど――この中で最近きょーちゃんの部屋に入った子はおる?」
「い、いやいや一度も入ったことなんかあらへんしっ」
「わ、私は先月に一回だけ……」
「ないです」
「当然ありませんよっ」
皆一斉に否定する。せやろな、と怜はすぐに納得した。
「この部の誰のものでもない髪や。長い黒髪。しかもきょーちゃん最近熱心に掃除してたみたいやから、隠したかったんやろな」
「ま、待って下さい……つまり女の人を連れ込んでいたというわけですか、須賀くんが」
硬直する三人に代わり、煌が疑問を投げかける。怜は、こっくりと頷いた。いつもと同じように表情の変化は少ないのに、内に激情を秘めているのが煌にもすぐに分かった。
「彼女……なんですかね?」
煌が誰へともなく訊ね。
ぴしり、と空気が割れる音がした。失言だったと、煌は慌てて自分の口を閉じる。
恋愛は自由である。ましてや京太郎は大学生、もうほとんど大人に片足を突っ込んでいるのだ。周りがとやかく言うのも野暮というもの。咎める権利を持つ人間は、この場には誰も居ないはず――である。
しかし、それが許される空気ではなかった。
「たぶん、学外の人間や」
滔々と、怜が語る。
「根拠はなんや」
「大学の中は私が睨み利かせとるから。でも、そうなるとどこのどいつか分からへん」
煌はとても嫌な予感がした。この流れはいけない。
「末原部長」
かつてなく真摯な声色で、怜は恭子に話しかける。
「きょーちゃんが部活に出ずに、浮気にかまけてる現状は良くないと思うねん」
「……浮気かどうかはともかく、確かめる必要はあるな。今のままやとモチベに関わるし」
恭子の視線が、煌に向かう。非常に嫌な予感はした。というよりむしろ、確信だった。
「煌ちゃん」
「はい」
「須賀の彼女について、調べてくれん?」
「……了解しましたっ」
目が必死な部長に請われれば――否、部員全員の強い願望を一身に受ければ、煌に断る選択肢はあるはずもなく。
東帝大学麻雀部兼探偵研究会会員、花田煌のあまりすばらではない任務がここに始まった。
次回:5-2 ハンド・イン・ハンド