日曜日、時刻は午前九時。立ち並ぶアパートの入居者はほとんどが大学生で、惰眠を貪る者が多いのか、近隣一帯は未だ静けさに包まれている。鳥の鳴き声がいやに大きく聞こえた。
花田煌は、ターゲットの住むアパートから百メートルほど離れたコンビニの前でたむろしていた。朝食代わりのアンパンを食べ終えて、牛乳を一気飲み。エネルギーは充填完了。後はターゲットが動き出してくれるかどうかであったが――
『こちら捜査本部、園城寺。応答せよ』
インカム越しに、呼びかけてくる声があった。
「はいはい、こちら花田です。どうしました、ホシに動きがありましたか」
『ホシはどうやら部屋を出る模様。隣室からの監視はここまでのようや』
「了解。ホシの進行方向を確認できますか」
『窓から覗いてみる』
しばしの間があった。コンビニのゴミ箱に牛乳パックを突っ込み、煌は焦らずに待った。
『こちら捜査本部』
再び、呼びかけてくる声。
『ホシは駅に向けて歩き始めた模様』
「すばらです。では、後のことはお任せ下さい」
『……頼んだで、煌さん』
『よろしくね』
『お願い』
ぶつり、と通信が切られる。煌は一度深呼吸してから、顔を上げた。朝の日射しがとても眩しい。
――果たして鬼が出るか蛇が出るか。
戦々恐々としつつも煌は駆け出す。損な役回りだ、とは思う。だが、心に翳りはない。自ら言い出し、託された仕事。
彼女が思い返すのは、数日前の作戦会議であった。
◇
煌が所属する探偵研究会は、とりわけ定期的な活動内容もない緩いサークルである。サークルボックスに集まって読んだミステリ小説の考察や議論を交わすぐらいで、丸一日誰も姿を表さないのもざらである。
一方で、誰が始めたかも分からない「なんでも屋」な一面も持つサークルだ。会員たちは、東帝大学の学生から寄せられる依頼――主に失せ物探しを請け負っている。探偵っぽい、というだけの理由で。犯罪に関わることは禁止されているが、概ね評判は良い。煌も何度か手伝った機会があった。
その経験もあって、彼女は情報収集能力――とりわけ学内の――にそれなりの自信があった。重要なのは、依頼を通して得られるコネクションだ。また、探偵研究会を名乗ればある程度協力して貰える風潮さえ東帝の中にはあった。
以前、恭子からもたらされた僅かな情報を元に、数多くいる新入生の中から園城寺怜に一晩で辿り着いたのは煌の手腕と活躍があってこその結果だ。他にも彼女には数々の実績があり、他の部員からも信頼厚い女性である。
「取り急ぎ昨日集めた情報をまとめたのが、こちらのレジュメです」
――須賀京太郎に、彼女ができたのではないか。
そのような疑惑が麻雀部内で芽生えた翌々日の早朝、東帝大学麻雀部の女子部員たちは部室に集まっていた。こんなに早くにミーティングを開催されるのは初めてである。ただし、目的は麻雀に関してではない。
議題は、たった一人の男子部員、須賀京太郎の動向についてであった。
煌が配る「第一次須賀くん調査報告書」なる資料に、恭子たちは躊躇いながら手を伸ばした。何だかんだと言いつつも、人のプライベートに足を踏み入れるのに罪悪感があるのだろう。しかし、下手をすれば京太郎が何かしらの事件に巻き込まれており、自分たちにも相談できないという可能性だってある。同期の怜も含めて、皆年長者だ。責任感は、当然ある。
「最初に言っておきますが、大した情報は得られませんでした」
「そうなん?」
「申し訳ありませんが。……一ページ目から、お話ししましょう。まず、須賀くんの高校時代の友人――原村さんや片岡さん、それから宮永さんに連絡をとりました。彼女たちに何か相談がいっていないかと」
「空振りやった、と」
恭子に先を言われ、煌は頷く。
「残念ながら。連絡はちょくちょく取り合っているそうですが、とりわけ気になることもないと。念のため彼女たちの先輩にも確認してもらいましたが、特に変わった連絡は来ていないそうです。原村さんたちは嘘をつけるタイプではありませんし、先輩たちは長野住まい。まず信じて良い情報かと思います」
「……須賀くんが、清澄の人たちにも話していないんだね」
ぽつりと呟くように言ったのは、尭深だった。どこか思うところがあるのか、じっと資料を見つめている。それ以上の言及はなく、煌はこほんと咳払いしてから続けた。
「それから、学内の須賀くんの友人に聞き込み調査をしました」
「そんなことやったらうちらが調べてることばれるんとちゃう?」
「こういうとき頼りになる人脈はそこそこあります」
煌ちゃん怖いだの、あんまりあったかくないだの、畏怖の呟きがあちこちから聞こえてきたが煌は無視した。
「須賀くんに彼女はいないのか、最近できたのか――と訊ねたところ、皆口を揃えて『園城寺さんが彼女じゃないの?』と言ったそうです」
「分かっとるやん」
怜が嬉しそうに微笑むが、隣に座る恭子は深く溜息を吐く。
「デマに踊らされてるんは可哀想やけど……少なくとも、須賀は同級生にも隙は見せとらへんのか」
「いえ、そういうわけでもありません」
次のページをめくるように、煌は部員を促した。
「……最近、急に付き合いが悪くなった?」
宥が読み上げた一文に、煌は首肯する。
「ほとんどのご学友がそう答えました。時期は、ゴールデンウィークが明けて少ししてから。つまり、リーグが開幕してからですね」
「部活を休みがちになった時期と一致しとるな」
「はい。ご学友たちは麻雀部が忙しいと解釈していたようですが、そうではないと私たちは知っています」
「園城寺の、学外が怪しいという推測は濃厚ちゅうわけか」
「その通りです」
となると、調べる範囲が広すぎる。一番濃厚な清澄関連が早々に切り捨てられた以上、とっかかりが見当たらない。
――こうなれば直接京太郎に訊いてみるのが良いのではないか。
おそらく一度は思いつき、しかし誰もそれを言い出さない。
残念ながら、はぐらかされたり、誤魔化されたりするであろうことは明白である。加えて「貴方を疑っています」と自分から言い出すようなものだ。疑念を悟られるには早すぎるし、何より心情的に言い辛い。
さらに言えば、京太郎の口から直接「彼女ができた」と聞くのも嫌なのだろう。何も言われなくとも、煌は察していた。
では煌が訊ねれば良い。それもまた正論ではあるが、煌はそうはしなかった。
理由は――勘、である。
彼は大事な何かを隠している。下手に訊ねればより態度は頑なになり、その隠した何かを知る機会は失われてしまう。そしておそらくその何かは、自分たちにとっても重要なことなのだ――そんな気がしてならないのだ。
「どうしたら良いのかな」
眉をハの字にした尭深に訊ねられると、煌も弱る。一年間付き合ってきて、ほとんど初めて見せた彼女の望みに煌も応えたかった。
「全くの手詰まりというわけではありません」
「何か案があるん?」
一瞬溜を作ってから、煌は答えた。
「須賀くんを尾行し、彼女と思しき人物を確認します」
一斉に息を呑む音が、聞こえた。皆、色々言わんとするところがあるだろう。だが煌は、機先を制して言った。
「ただ恋人ができただけなら、私たちにも正直に報告しているでしょう。しかし彼はそうしていない。それに須賀くんの性格から言って、彼女ができたからと言って急に部活動を放棄するわけがない。何よりここのところの彼の態度は明らかにおかしい。……皆さん、そう思っているからこそこうして彼を心配しているんでしょう?」
言い訳染みているのは確かだ。おそらく彼女たちには、他に含むところがあるだろう。
だが同時に、京太郎を慮る気持ちも本物である。
誰にも話せないようなトラブルに巻き込まれていたのなら、助けたい。お節介だと言われようともだ。少なくとも煌はそのつもりだったし、ここに集まった者たち全員そうであるはずだ。待つだけ待って、手遅れになるのはどうあっても許せない。
結局、反駁の声はどこからも上がらなかった。各々顔を見合わせ、頷き合う。
「責任はうちがとる」
立ち上がり、毅然と言い放ったのは部長の恭子だった。
「須賀のしっぽ、掴まえるで」
かくして。
須賀京太郎追跡作戦は、ここに幕を開けた。
◇
リーグ戦の合間に設定された完全休養日は、恭子の手によって急遽生み出されたものであった。目的は、当然京太郎を泳がせるためである。宥と怜は二人で買い物に、煌と尭深は他サークルに参加、恭子は旧友と会う――という架空の予定を入れ、少なくとも部内では京太郎を孤立させた。
思い通りに動いてくれるかは分からなかったが、この朝ひとまず京太郎は家を出た。
スニーキングミッションを担うのは、もちろん煌である。彼女も尾行は初経験であったが、言い出しっぺであるし恭子はともかく他の面子では運動能力に欠ける。やるしかなかった。順調に歩を進める彼と距離を取りながら、しっかりとその後を追う。駅前にまで行けば人波に紛れることもできるだろうが、住宅街は人影が少なく慎重にならざるを得ない。
あまり不自然な格好をするのは望まれなかったが、今回の場合はホシに面が割れている。視界の端に入っても気付かれない程度には変装するべきと煌は判断した。髪を下ろし、眼鏡をかけ、帽子を被る。やや厚着気味の、趣味が異なる衣装は宥に協力して貰った。自分で言うのも何だがぱっと見では分からないだろう、そう煌は思う。
「はてさて、どうなることやら」
予想通り京太郎が向かった先は、駅だった。流石に休日、家族連れやカップル、大学生の集団などで駅前は人で溢れていた。彼は比較的身長が高く、人混みの中でもどこにいるか分かりやすいのが救いである。
改札を通り抜け、丁度やってきた電車に乗り込む。煌は車両を変えて乗り込もうかとも考えたが、車内には充分な数の乗客が乗っており問題ないと判断する。入口だけ別の場所を使って京太郎と同じ車両に乗り込んだ。人陰に隠れながら、煌は京太郎の姿をそっと窺った。
入口付近に立ってスマートフォンの画面に視線を落とす様は、普通の大学生だ。特別気負っている様子もなければ、表情にも変化はない。あのスマートフォンの中を調べることができれば何もかも分かるだろうが――しかし、怜曰くここのところ肌身離さず持ち続けているらしい。これまた怪しい要素の一つだった。
山手線に乗り換え、最終的に京太郎が電車を降りたのは新宿だった。
つい先日、煌も後輩たちと食事をするため訪れた場所だ。ダンジョンか何かと見紛う広さと複雑さを誇る駅の構内、さらには道一杯に詰まった人々。初めてこの駅を訪れた日は目を回す思いであった。出発駅の比ではない。
一人で歩いていても迷いかねないこの駅では、油断すればすぐに彼の姿を失ってしまうだろう。煌は大胆にも距離を詰める。
京太郎自身、新宿駅に慣れておらず何度も行く先を確認して立ち止まる――なんてことはなかった。意外にも、と言っては失礼に当たるかも知れないが、しかし彼はこの春東京に出てきたばかりである。すぐに迷子になってもおかしくない。確かに大きい駅ではあるが、東帝の学生は立地的に好んで使う場所でもないのだ。少なくとも、麻雀部としては一度も降りた経験がない。
だが、京太郎は手慣れている。歩みに迷いがない。既に何度も通った道だと、その足が告げていた。
――密会は、ここでということでしょうか。
頭の中で、疑問が浮かぶ。
京太郎は西口交番前で立ち止まると、手近な壁に背中を預ける。待ち合わせのようだ。彼の斜向かいを陣取り、煌も待つ。
一分、二分と腕時計――変装用に、これまた宥のものを借りた――の長針が進む。やけに時間が長く感じられる。雑踏が遠くに聞こえ、視界は彼の姿以外ピントがずれた光景となる。あまり意識しすぎると気付かれる。そう考え、持参した雑誌に目を落とそうとした。
その瞬間、であった。
「……っ」
京太郎に声をかける女性が、現れた。思わず煌は息を呑む。
ぱっと見の年頃は煌と同じ、二十歳程度。背丈は女子としては平均的、おそらくは160cm前後だろうか。背筋はぴんと伸ばされ、どこか凛とした雰囲気を漂わせている。可愛い系ではなく、美人系。胸は普通。
何より煌の目を引いたのは――
背中ほどまで落ちた、艶のある黒髪である。
心の何処かで期待していた相手は、弘世菫である。部屋に残されていた髪の特徴に合い、この近隣で彼と接点があり、なおかつ顔見知りであるため話が通じる。彼女であればあまり悩まずに済んだだろう。
だが、今現れた彼女はどうだ。
煌は、僅かながらひっかかりを覚える。もしかしたらニアミスした、あるいは写真や動画で見た程度はあるのかも知れない。
だが、外見からすぐに思いつく名前はなかった。雀士として最低限の記憶力を持っているつもりだが、唸っても出てこない。
一旦記憶を探るのは放棄して、煌は密かに彼女の姿をカメラで撮影する。被写体に気付かれないようにシャッターを切る技術くらいは持ち合わせていた。
京太郎と彼女は顔見知りのようで、声は聞き取れないが会話している。まるで恋人のようなやりとりに見えるのは、思い込みからだろうか。
――ともかくとして、まだ焦る段階ではないと煌は自分を落ち着かせる。気付けば、心臓が早鐘を打っていた。かなり不味い現場に出くわして緊張しているのだ。
そう、浮気相手だと決まったわけではない。黒のロングヘアという特徴が一致しただけ。全く別件なのかも知れない。ここで結論付けるのはあまりに短絡的すぎる。
自分に言い聞かせて頭を冷やそうとした矢先。
京太郎に声をかけた女性は、そっと彼に向けて手を伸ばした。京太郎は一瞬躊躇いを見せたが、すぐにその手に応える。――ぎゅっと、掴み取ったのだ。右手と左手が重ねられ、指と指が絡み合う。
俗に言う、恋人繋ぎである。
女性は悪戯っぽく、それでいながら少し嬉しそうに微笑み、京太郎は頬を染めてばつが悪そうにそっぽを向く。
付き合い始めのカップル。
煌の脳内に浮かび上がった単語は、彼女の頬を引き攣らせた。
――全くもって、すばらじゃないっ。
頭の中に浮かび上がるのは、悲しげな部員たちの表情。
二人の姿を写真に収めながら、煌はどうするべきか悩んだ。今恭子たちに報告してしまうか。自分が直接二人に割って入り、事情を聞くか。いくつものパターンが思い浮かぶが、動揺してどれも実行に移せない。
そうこうしている内に、京太郎たちは歩き始めてしまった。慌てて煌は彼らの後を追う。今やれることは結局、より多くの証拠を掴み取ることだけ。判断を下すのは、それからでも遅くない。
京太郎一人の時よりも歩く速度は遅く、煌も速度を緩める。さらに今回は二人分の視界を考慮しなくてはならない。こっちは知らなくても、向こうは知っている可能性だってある。何より彼女は警戒心が強そうだ。細心の注意を、払えるだけ払う。
手を繋いだまま彼らは、駅前の服飾店などを回る。交際の経験は煌にないが、それでも普通のデートに見えた。何も知らなければ、ただのカップルに見えただろう。
あまり時間もかけずウィンドウショップを終えると、京太郎たちは駅を離れ始める。駅前の人混みに紛れられなくなるのは辛いが、追わないわけにもいかない。
しばらく歩き、歩道を行き交う人の数も減ってきた頃。
赤信号の交差点で、二人は立ち止まった。彼らは何やら会話をしている。せめて一部分でも聞き取れないかと、煌はさらに一歩距離を詰めようとした。
その刹那――
首元に、刃を突き付けられた感覚を煌は味わった。
ぴたりと足を止める。否、正確には止められた。僅かな間、京太郎と手を繋ぐ女性がこちらを振り返った――気がした。しかし彼女はすぐに、京太郎との会話に戻っていた。
敢えて煌は隠れようとしなかった。この場面で逃げようものなら、むしろ怪しさのほうが勝ってしまうだろう。
――尾けているのが、バレたのか。
冷や汗が背中を伝う。取り逃がしたくない。気付かれたのか、そうでないのか。どきどきしながら、煌は信号が青に切り替わる瞬間を待った。
結局京太郎たちは、普通に歩き出した。特に慌てた様子も、走り去ろうとする予兆も見られない。ほっと、煌は安堵する。それからすぐに気を引き締め直した。危ないところだったのは、間違いない。後半歩でも近づいていれば、あるいは視線を彼女に向けていれば――結果は想像に難くない。
二人が入っていったのは、公園である。公園の遊具で興じる子供たちと、その親たち。少し離れたベンチに座り、京太郎たちはその光景を眺めていた。やはり会話を聞き取れる距離までは近づけないが、まるで「将来あんな子供が欲しいね」と話しているみたいだと煌は思った。穿ちすぎと自覚しつつも、二人の距離は近く、どうしてもそう見てしまう。
ただ、会話は弾んでいる反面あまり笑顔は見られない。女性のほうは表情の変化に乏しく、京太郎は体全体が強張っているように見受けられる。そのくせ手は繋いだままで、若干のちぐはぐ感があった。その分、ときたま女性が見せる強気な微笑みは印象に残るのだが。
休憩だったのか時間つぶしだったのか、しばらくしてから彼らは時刻を確認し、立ち上がった。煌もまた、カメラを携えたまま動き出す。
――こうなれば、どこへでも着いていきますよ……!
半ば自棄であったが、改めて煌は決意する。
彼らは公園を出て、またもう少しだけ歩いた。向かった先は、一つの大きな建物。その看板を目に収めたとき、煌は大いに戸惑った。
年頃の男女が、共にそこへと入っていく。
「病院……?」
ぽつりと煌の口から零れた単語は、風にさらわれ消え失せた。
次回:5-3 猛る探偵