末原恭子、十八歳。高校三年生。
最後のインハイを終え――残念ながらコクマの選手には選出されず――彼女は進路選択に悩まされていた。正確に言えば、高校生活の半ばからずっと悩んでいた。
今更、麻雀から離れた道を選ぶつもりはなかった。
しかし、プロになれるのは本当にごく僅かな雀士だけだ。恭子はそのことをよく理解していた。身近な人間で言えば、愛宕洋榎。彼女の非凡なる才覚は、十二分にプロの世界で通じるだろう。事実、既にいくつかのチームから打診が来ている。
残念ながら、恭子にそれはない。名門姫松高校を裏方から支えた自負はあるが、全国レベルの選手としては際立った結果を残せなかった。そこが自分の限界だと諦観するのは難しかったが、さりとて現実を覆せるわけでもない。
麻雀そのもので食べて行くことはできない。けれども何かしらの形でずっと付き合っていきたいと、彼女は考えていた。
漠然としながらも、なりたいものはあった。
それは、指導者としての道だった。
敬愛してやまない前監督、とぼけながらも実は有能な現監督。自らの力を十全に引き出せたのも、あの人たちがいたからだと恭子は思う。気付かぬ内に、多くのものを受け取っていた。
プロになれない自分が高校チームの監督を務めるなら、教員として顧問になるしかない。そう考えれば、自然と志望する進路は決まっていた。
当然、姫松のような名門校は望めないだろう。そういう学校は、外部から有能な監督を呼び込むものだ。
しかし、だからこそ恭子はやり甲斐があると考えた。牌に愛された子、魔物と呼ばれた少女たち――彼女たちは、やすやすとその他大勢の雀士の心を折る。諦めさせてしまう。恭子は全国の舞台で身をもって実感した。圧倒的な壁を前に挫けることを、どうして責められようか。
それでも恭子は知っている。
――立ち向かう術はあることを。
――胸に勇気を灯す意義を。
凡人だからこそ、伝えられるものがある。伝えたいものがある。きっと、それらに助けられる者たちがいるはずだ。
「大学に進もうと思てるんです」
麻雀に関わることだ――不承不承ながら、恭子は進路相談の教師だけでなく当時のチーム監督、赤阪郁乃にも相談を持ちかけた。
「麻雀強くて、できたら教育学部に力入れとるところで」
プロを経由しないといっても、目指しているのは監督。実績はないよりあったほうがよっぽど良い。となればインカレで優秀な成績を残すのが常道だ。
「前から自分なりに色々調べてたんですけど、どこが良いのかよく分からんくて」
「せやな~」
恭子が集めてきたパンフレットに一通り目を通してから、郁乃は訊ねてきた。
「なんで関西の大学ばっかなん~?」
「え、それは実家から近いから……」
「確かに女の子はあんまり遠く行くのは良くないかも知れへんけど~。初めから選択肢を減らすんも良くないと思うんよ~」
む、と恭子は唸る。まともな意見だった。
「例えば関東リーグは間違いなく一番レベル高いで~。そういうところで自分を一から鍛え直すんもええんとちゃう~?」
「確かに、関東リーグは一番大学の数も多いですしね」
「それに、末原ちゃんの目標は人にもの教えられる立場やろ~? ずっと同じ場所でおるよりも、新しい場所に飛び出して見聞を広めといたほうがええと思うんよ~。外に出てったって経験と自信は身になるで~。いつかは独り立ちせなあかんねから~」
「……はい」
彼女の言葉は、恭子の胸に突き刺さった。郁乃を相手に、素直に頷いたのは本当に珍しいことだった。
それからも多くの人と相談した結果、恭子が第一志望に選んだのは、東京にある東帝大学だった。
戦乱状態の関東リーグで古くから上位リーグで戦ってきた強豪であり、インカレでの成績も申し分ない。ここのところ成績に翳りが見えるが、好不調の波はどこにでもあるというもの。そもそも学校の名前に乗っかかるのではなく、自分が引っ張り上げるくらいの気概は必要だ。専攻したい学科もあり、申し分なかった。
特待枠では学部を選べない都合上、恭子は一般入試で東帝を受験した。偏差値の高い大学で、元々成績の良い彼女ではあるが相当に勉強した。
合格通知が届いたときには、少し泣きそうになった。
これで麻雀に打ち込める。
真っ直ぐ夢を追いかけられる。
きっと、高校時代からのライバルと競い合うのだろう。はたまた、まだ見ぬ強敵と相見えるかも知れない。
そのとき恭子は、そんな未来を信じて疑わなかった。期待しすぎれば裏切られるのが世の常だが、躍る心は止められない。誰が止められるというのだろうか。下宿先を決めるときなど、鼻歌が勝手に出てきていた。日用品の買い出しも、丸一日かけた。わくわくしながら、一人で眠る夜を過ごした。
――しかし、けれども、残念ながら。
彼女の夢は、入学を果たした四月の頭から蹴躓いた。
◇
広い部室に男女の区別なく集まったのは、八十名余の東帝大学麻雀部員たちだった。入学と同時、一昨日入部届を出したばかりの恭子もそこにいた。普段ならば打牌の音と論議の喧噪で包まれているであろうこの部屋は、しかし今は通夜のように静まりかえっていた。
座る椅子にあぶれた恭子は、雀卓の傍に立っていた。近くには、同じく新入部員の女子が二人。気まずそうに顔を俯かせ、先程から一言も発さない。腕を組み、平然とした態度をとる恭子も内心穏やかではない。
それは、先輩たちも同じことだった。いや、悲壮感はさらに上だ。これから聞かなければならない話は、どう転んだところで面白くはないのだから。
――重厚な音を立て、観音開きの扉が開かれる。
部員たちは一斉にそちらを仰ぎ見た。座っていた者は立ち上がり、体を強ばらせる。
部室に入ってきたのは一組の男女。それぞれ男子麻雀部と女子麻雀部の部長であった。一縷の望みに期待する視線が彼らに突き刺さる。恭子もまた、そうせざるを得なかった。
しかしながら。
宣告は、どこまでも非情であった。
「――休部。いや、実質的には廃部だ」
前置きはなかった。それで彼は全ての力を使い果たしたかのように、動かなくなる。
言葉を引き継いだのは女子部の部長。
「男子部も、女子部も。大学の決定です」
反応は様々だった。落胆する者、怒る者、へたり込む者、部室を出て行く者、部員同士で諍いを始める者。
誰一人として、困惑し狼狽える新入部員の恭子たちを気にかける者はいなかった。
――事の発端は、恭子が東帝大学に入学する以前にあった。
ここ数年で、東帝の麻雀部は男女共に絶頂期と比較して翳りを見せていた。一部リーグの中では下位に甘んじ、二部リーグ上位校との入れ替え戦をどうにかこうにかしのぐ状況。次から次へと出てくる強豪校に高校生たちは目移りし、有望な新入部員の確保も容易ではなくなる。
結果、入部にあたっては実力とともに素行も精査されていたはずが、段々とおざなりになっていった。悪い噂があろうが、人間関係に問題があろうが、優先されるのはあくまで雀力。そのとき麻雀部に漂っていた閉塞感を打ち破れる人材が、求められた。
それが間違いだったと断言できるのは、全て終わった後だからだろうか。
決して善良とは言えない人間たちが、東帝麻雀部に籍を置いた。彼らは――あるいは彼女たちは、徐々に部内で影響を強めていった。
彼らは皆黒い噂は絶えず、人格にも問題があり部内で多くの軋轢を生み出した。しかし、雀力だけは人一倍あった。リーグ戦を始めとする対外試合でレギュラーを務め、部内では決して主流派ではないものの、東帝の顔となっていった。
部内にも快く思わない人間はいた。しかし、あくまで噂は噂。馬が合わないのは確かだが、結果だけは出す彼らに堂々文句を言える者はいなかった。
そのような原因が絡み合い、結局、外部には気付かれずにひっそりと、そして急速に彼らは悪行を重ねた。
その筋の者を交えた賭け麻雀。
公式試合での八百長疑惑。
恭子が入学した翌日、それら全てが一気に噴出した。
大学麻雀連盟は厳罰を求め、大学側はとかげのしっぽ切り。その他あらゆる意図が絡み合い、結論はすぐに下された。
東帝大学麻雀部は、こうして廃部状態に追い込まれた。
◇
自分の目が節穴だった。
ただ、それだけのこと。
恭子はすぐに割り切った。正確には、割り切るしかなかった。ひととなりも知らない、既に退学した人間を責めても仕方がない。責めたところで、結論は覆らない。どのみち、二度と会うことはないのだから。
大切なのは、ここからどうすべきか。
麻雀を諦めて大学生活をエンジョイしようなど、思いもしなかった。夢のため、インカレを目指すのは当然だった。
麻雀部再建のため、まず恭子は先輩たちに働きかけた。
「一からやり直しましょう」
けれども、返事は全て芳しくなかった。
先輩たちは皆、既にうんざりしていた。悪徳者により様々な意味で麻雀部を荒らされ、周囲からは自分たちも同類とみなされる。低迷期にあった彼らは、麻雀自体への情熱もすっかり消え失せ、恭子の訴えかけに耳を貸さなかった。貰った助言は、一様に「諦めろ」。
共に麻雀部に入った同期たちも、すぐに離れていった。僅か三日足らずの入部期間、事件には全く関わりのない恭子たちもまた、麻雀部員の一人と目されていた。あまりに理不尽な話だが、世間とはそういうものだ。さっさと縁切りし、入部自体なかったことにするのが利口なのは明白だった。
孤立無援になった恭子だったが、ならば、と奮起する。
頼る者がいなくても、自分一人だとしても、彼女は麻雀部を建て直すことを決意した。
署名活動から始まり、大学側とも何度も話し合い、一般大会に参加しては好成績を収めてアピールする。どこまで効果があるか分からなかったが、やるしかなかった。
賛同してくれる部員は中々集まらず、しばらく恭子は孤独な戦いを続けた。
インハイにも出場経験のある松実宥と出会ったのは、偶然であった。彼女もこの大学に進学しているとは、思いも寄らなかった。宥も宥で、麻雀部に入るかどうか悩んでいる間に――中々腰が重い性格なのだ――事が露見してしまった。
全く無関係の宥を巻き込むのも、恭子は気が引けた。しかしながら、宥は協力を申し出てくれた。宥にもまた、思うところがあったのだろう。
二人になったものの、そこからの進展は中々なかった。
大学側は麻雀部の復活に中々首を縦に振らない。周囲の色眼鏡も変えられない。苛立ちと焦燥ばかりが募ってゆく。リーグ戦に復帰できたとしても、ペナルティとして一番下の六部リーグから再スタートだ。一年後期の次節から復帰できなければ、恭子がインカレに出場できる目は消えてしまう。それも、ストレートにリーグ上位まで駆け上がらなければいけないのだが。
今後続く後輩のため、というお題目では自分を誤魔化せなかった。
夏になっても、状況に大きな動きはなかった。
長い大学生の夏期休暇を、恭子は素直に喜べない。
されど、高校の後輩たちはインハイ出場を決め、東京を訪れた。先輩として、応援しないわけにはいかない。
「末原先輩!」
「お久しぶりです!」
手塩にかけて育てた愛宕絹恵と上重漫。
今は名門姫松を牽引する立場となり、恭子が知っている二人よりもずっと立派になっていた。人として、雀士として、確かな成長を遂げていた。
インハイ本戦でも大活躍し、清澄や阿知賀といった新鋭の活躍に押される古豪、という姫松の印象を見事払拭してくれた。そのこと自体、恭子はとても嬉しかった。
一方で、歯に衣着せない物言いをすれば、惨めにもなった。
光り輝く彼女たちとは違い、自分は麻雀をやる場所の確保もままならない。自らを高めるために飛び出したはずが、一歩たりとも前進できていない。何より、後輩を妬ましいと思ってしまった自分自身に、恭子は打ち拉がれた。挫折を味わったのだと、このとき彼女はようやく理解した。
まだ、後輩たちが戦っているというのに。
気が付けば、恭子はインハイ会場近くの喫茶店に入っていた。
両隣をついたてに区切られた窓際の席に座り、ぼうっとアイスコーヒーの水面を見つめる。外から聞こえてくる蝉の鳴き声が、虚しく聞こえた。
からん、と溶けた氷がグラスにぶつかる。
大きな、とても大きな溜息を吐き。
「メゲるわ……」
「メゲるなぁ……」
零した言葉が、重なった。
聞こえてきた男の子の声は、ついたてを挟んだ左隣の席から。はっと、恭子は俯かせていた顔を上げた。隣の彼からも、同じく身動ぎする気配が感じられた。
恭子も彼も顔を合わせるような真似はしなかった。ついたて一枚ではあるが、区切られたプライベート空間。相手の領域に首を突っ込むのは憚られた。
しかし、
「どうしたんですか?」
恭子は彼に、話しかけていた。視線はアイスコーヒーに注がれたまま、少しだけ口元を緩めて。聞こえた彼の声色は、自分の気持ちとよく似ていた。
「そちらこそ、メゲるだなんてどうしたんですか」
「ここのところ、ずっと凹むことばかりなんですよ」
「ああ、俺もです。そろそろぽっきり心が折れそうで」
「うちもうちも。もうやってられへんわ」
愚痴や弱音を吐くことは、間違いだと思っていた。強者たろうと思えば、そんなものは胸の内に仕舞っておかなければならないと。――けれども今、そのたった一言を呟いた瞬間、心が軽くなった。
「……どこのどなたかも知らへんけど。これも何かの縁や、うちの話聞いてくれへん?」
「構いませんよ。俺の話も聞いてくれるなら」
「もちろんそのつもりや」
恭子は、大学に入ってからのことを滔々と語った。顔も名前も知らない相手に――だからこそ、自分の感情も包み隠さず話すことができた。
彼は、静かに聞いてくれた。余計な言葉を挟まずに、三十分近くも、ただただ聞いてくれた。それだけで良かった。それが、良かった。
全てを話し終えたとき、恭子の心は幾分か軽くなっていた。
「君は、どうしたん?」
ついたての向こう側に、訊ねかける。
「……周りのみんなが凄くて、自分が情けなくなったんです」
彼の悩みも、部活のことだった。
同じ学年の選手の中で、一人だけ何も活躍できていない。今年は後輩にも負けている。去年は来年こそと誓った。けれども今やっていることは、一年前の焼き直し。雑用と応援を腐すつもりはないが、目標には届かなかった。
――それでも周囲の人間は容赦なく眩く輝き、嫉妬してしまう。
「あれだけ練習したのに、何もできず足踏みしたまま。来年も、同じことを繰り返してるのかなって思うと、嫌になるんです」
少し、自分に似ていると恭子は思った。
どちらの悩みが深いだとか、事情が厳しいだとかは、比べる意味がない。できる限りの努力は続けてなお、行き詰まっているのは同じなのだから。
「ありがとうございます、聞いて貰ってすっきりしました」
「そんなんうちも同じや。ほんま、ありがとう」
ひとしきり愚痴り合った後、恭子は微笑んだ。きっと、隣の彼も笑ってくれていると思った。
「これから、どうするんですか」
「……せやな。部活動としては諦めて、趣味でやってくってのも一つの手なんかも知れへん。君は、どうなん?」
「迷ってます。もういっそ、マネージャーとして支えるのが一番なのかなとも、思うんです」
でも、と彼は言った。
せやけど、と恭子は言った。
「――やっぱり、諦めたくないんよな?」
「――やっぱり、諦めたくないんですよね?」
再び重なった声は、今度は互いに向けられていて。
恭子は自分の気持ちを、再確認した。そうだ。その通りなのだ。彼は、この短い付き合いで全てを理解してくれていた。あるいは、似た立場だからこそか。
「うち、もっかい頑張るわ」
恭子は言った。
「だから君も頑張ってくれへん? 一緒に、頑張らへん?」
「……――はい」
絞り出すような力強い返事に、恭子は首肯した。分けて貰った勇気を胸に、彼女は立ち上がった。
「うち、行くわ。まだ、後輩の応援せなあかん」
「はい。行ってらっしゃい」
「ありがとう、どこの誰かも知れへんけど――君に会えて、良かったわ」
顔は、合わさないほうが良かった。名前を訊くのも、止めた。情けない話ばかりをしてしまい、名乗るのは随分とハードルが高かった。
要は、格好付けたかったのだ。後に、彼のことが気になるように成って、やっぱりちゃんと訊いておけば良かったと後悔するのだが、そのときの恭子に迷いはなかった。
「縁があったら、また会おか」
その一言だけ残して、恭子はその喫茶店を去った。入って来たときよりも、足取りは随分軽かった。
――共に、頑張ってくれる人がいる。
そう思えば、どんな困難も乗り越えていけそうだった。
「もっかい大学との交渉やって……署名集める範囲も広げて……」
全てを一から練り直す。彼女の努力が実を結ばれるのは、もうじきだった。けれどもこの日諦めていれば、結ばれることはなかっただろう。
「後は――今日からメゲるは、禁止やな」
もしも次に彼と会ったとき、同じ言葉を呟いていては格好がつかない。
拳を振り上げ、恭子はもう一度歩き始めた。彼女のモラトリアムは、まだ始まったばかりだった。
◇
小さくなっていく恭子の背中を、隣にいた金髪の少年はしっかりと見ていた。恭子は最後まで、彼の視線に気付くことはなかった。そのことが良かったのか悪かったのかは、分からない。少なくとも、彼女には。
次回:6-3 君がいたから