「――つまり末原先輩は、そのとき喫茶店でお話しした人が好きなんですね」
恭子が二年前のことを全て語り終えてから、いの一番に切り出してきたのは尭深だった。珍しく彼女の目は好奇心に輝いている。しかし恭子は頬を染めてそっぽを向き、
「す、好きとかそんなんとちゃう」
と、否定した。
「でも、めっちゃ感謝しとる。あの人がおらんかったら、今の麻雀部はもしかしたらなかったかも知れへん。……その点考えたら、一番ええなって思っただけや」
ほお、と感心する声が宥の部屋のあちこちから上がる。
突発的に企画された飲み会の席で、どうしてこんな小っ恥ずかしい過去の話をさせられているのか。恭子は訳が分からなかったが、酔いもあり半ば自棄になっていた。
この場にいる宥を始め、尭深、煌、菫には麻雀部の事情を一通り説明したことはあるが、自分の心情を交えここまで事細かに話すのは初めてだった。一方、怜に対しては何もかも初めてだった。もっとも、彼女の場合は他の誰かから聞かされていたようだったが。
「すばらです! まさか恭子先輩にそんな人がいただなんて、思いも寄りませんでしたよっ」
「そうだね。でも、確かにあのインハイの後から恭子ちゃん凄く元気になってたね」
煌と宥も、実に楽しそうだ。二人とも異性からモテる反面、浮いた話は聞かない。その割には他人の恋愛事には興味津々といった様子で、恭子の眉間に皺が寄る。
「煌ちゃんたちこそ、なんかおもろい話ないん?」
「少なくとも大学に良い人はいませんねっ」
「わ、私は別に、そんな……」
答え方は違うものの、二人から返ってくるのは否定。ただ少し、宥のほうは気になった。何か誤魔化している感じも、した。ここであまり突っ込みすぎると、また面倒になりそうだったので恭子は止めておいた。
代わりに矛先を向けたのは、菫だ。
「人に寂しい奴言っといて、あんたは何もないん?」
「ふん。どうせ親が見合い話を寄越してくるから、面倒になるだけだ」
「辻垣内んとこと同じか。金持ちは大変やな」
「気に入らない相手なら、私も須賀くんに偽の恋人役を頼もうか」
菫が笑いながら言った。冗談であることは明白だった。だがしかし、部屋の空気は一瞬で凍り付く。
「な、なんだ。どうした」
「いえ、なんでもありません……」
狼狽える菫をよそに、尭深はお茶をいれなおす。えらく事務的な対応に、菫は首を傾げた。何か気に障ることでも言ってしまったのかと。だが、回答する者はいなかった。
それがきっかけとなり、恋愛話は打ち切られた。女子会の議題は、いつもの麻雀に。恭子はほっとしながら、話題に追随した。
気が付けば夜も更け、解散の流れとなる。部屋を片付け、恭子は宥の部屋を後にした。
煌は自転車で駆け抜け、菫と尭深は一緒に駅に。
概ね方向は同じと言うこともあり、恭子は怜と肩を並べて帰路に就いていた。閑静な住宅街を、二人はゆっくりと歩く。
「飲み過ぎたんか?」
純粋に心配して訊ねたのは、恭子。女子会の途中から、いやに怜は静かだった。
「ううん」
「それじゃ、どうしたん?」
「……うん」
怜は生返事するばかりで、要領を得ない。随分と妙な様子だった。彼女は決して騒がしいタイプではないが、全くの無口というわけでもない。
「気分悪いなら、どっかで休んでくか」
「ううん。帰ったらきょーちゃんに甘えるから、平気」
若干いらっとしたが、恭子は何も言わない。
その内、怜が住むアパートが見えてきた。
「じゃ、明後日の入れ替え戦は頼むでエース」
「うん」
これにも怜の反応は、乏しい。折角発奮させようと背中を叩いたのに、怜はぼうっと空に浮かぶ月を眺めている。
「ほんま大丈夫なんか?」
「末原さんこそ、きょーちゃんのことは大丈夫なん?」
「またその話か」
ちょっとうんざりしながら、恭子は手をひらひらする。
「別に――」
「一回、きょーちゃんと話したほうがええで」
恭子の声を遮って、怜は言った。
「は、はぁ?」
「末原さんが悩んどるきょーちゃんのこと、なんとなく分かるで」
彼女は平気で、核心部分に触れてくる。恭子は思わず言葉を失った。
「怯えてないで、ちゃんと話したほうがええよ。それだけで、末原さんの悩みは解決するわ。話さないでも分かるなんて、甘えたこと考えたらあかんで」
「……先輩に向かって、偉そうに」
「きょーちゃんを相手にするなら私のほうが先輩や」
怜は微笑んで、
「またな、末原先輩」
恭子の返事も待たずに駆けて行った。はぁ、と恭子は溜息を吐く。
「怯えてる、か……」
全くその通りだと、恭子は納得する。してしまう。自然と、顎が上がっていた。
怜が見上げていた月は、とても丸く。朧気な輝きは、確かに地上に降り注いでいた。
翌々日に行われた関東二部・三部リーグ入れ替え戦の決着は、速かった。
先鋒・園城寺怜の活躍はリーグ戦以上であった。リーグ戦の結果を研究されているはずだが、彼女はものともしなかった。10万点持ちの団体戦で、二位と七万点の差をつけて次鋒にバトンタッチしたのは、このシーズンの最高記録だった。
次鋒の花田煌も、見事にリードを守り切った。敢えてエースを次鋒に置くという戦略を図ったチームもあったが、抜群の煌の防御力を突破するには至らなかった。
そして、中堅。
決着は、ここで着いた。二部リーグの二チームが、まとめて尭深の手によって飛ばされた。
高校時代のデータから、渋谷尭深は研究されつくされている、はずだった。だがこの日見せた彼女の打ち筋は、あらゆる面でそれらを凌駕した。最後は役満を二局連続で上がり、ゲームセット。
「出番が回ってこなくて、ほっとしたような寂しいような」
「ま、出来すぎやな」
恭子と宥、上級生二人で、苦笑を浮かべ合った。
これで、次のシーズンは二部リーグ。さらにそこで昇格を決めれば来年は一部リーグ。二年前は絶望的だったインカレの参加資格が、見えてきた。
関東春季リーグが全日程を終えたその夜、恭子は自宅のベッドで寝転がっていた。
――もう、リーグ戦を言い訳にできない。
思い浮かべるのは、控え室で怜や尭深とハイタッチを交わす京太郎の姿。枕に頬を埋め、深い溜息を吐く。
スマートフォンの画面には、起動したSNSのアプリ。彼個人を相手にするメッセージウィンドウを開いたまま、指は固まっていた。
「ちゃんと話せ、なんて言われてもな……」
どうすべきか、分からない。何を話して良いのかなんて、さっぱりだ。勢いに任せるよりも、じっくり研究してからとりかかるのが恭子の信条である。だが今は、とっかかりすら見えてこない。
諦めて、スマートフォンの画面を閉じようとしたときだった。
メッセージが、京太郎のほうから飛んできた。
『こんばんは、今大丈夫ですか?』
慌てて恭子はベッドから体を起こす。一つ深呼吸してから、探るようにタッチパネルを操作した。
『大丈夫やけど。何かあったん?』
『明日、部活休みですけど、お暇ありますか?』
『昼からなら、時間作れるけど』
『良かった。あの、この間智葉さんの件で迷惑かけたじゃないですか。その埋め合わせというか、お詫びをしたいんです』
詫びだなんてそんな、と恭子は内心焦る。直接言われていたら激しく狼狽えていただろう。しっかりと恭子は深呼吸してから、返信した。
『別に気にせんでもええで』
『そういうわけにもいかないですから。こないだ一緒に行った美術館、覚えてますか? 末原先輩ああいうの、好きなんでしょう?』
好きと言うより、詳しい振りをして見栄を張っただけなのだが――この場合、勘違いされたままのほうが、良い。そう彼女は判断した。
『うん、好きや』
『今度は俺がチケット貰ったんです。また一緒に行きませんか?』
半ば嘘とはいえ、好きと言ってしまったし、後輩からの誘いを断るのも問題があろう。そう判断し、
『ええで』
と、恭子は反射的に返信した。
返信、してしまった。
『ありがとうございます! じゃあ時間は――』
約束のメッセージが、彼から飛んでくる。恭子はじっくり読み進めながら、はたと気付く。
――これは、デートの誘いという奴ではないだろうか。
瞬間、恭子はスマートフォンを手から零していた。
腹水は盆に返らず、時間を遡ることはできない。今更断る雰囲気は、なかった。彼の文面からは、喜びの感情が伝わってくる。
『明日はよろしくお願いしますっ!』
メッセージはそこで打ち切られ。
恭子は、再び枕に顔を埋める羽目になった。
◇
考えようによっては、チャンスである。元々こちらから距離を詰めるつもりだった。同じ部活に籍を置いている以上、いつかは解決しなければならない問題だ。
しかしもう少し心の準備が欲しい、と思っていたのも事実。デートに着ていく服も、まともに用意できない。
結局は、前回とほとんど同じ格好。
女子力の低さを露呈する形となったが、背に腹は代えられない。待ち合わせ場所も、やはり前回と同じ大学の最寄り駅。
「こんにちは、末原先輩!」
「ん、こ、こんにちは」
やや強張りながら、先に到着していた京太郎と挨拶を交わす。ここで「他の部員も一緒です!」みたいなオチを密かに期待したが、彼は一人だった。
「それじゃあ、行きましょうか」
「う、うん」
こくりと恭子は頷く。これでは、どちらが年上か分かったものではない。
前は恭子が先頭を歩いたが、今度は京太郎が半歩前を行く。終始恭子は俯いて、京太郎から話しかけられたときのみ反応する。
――あかん。
これでは本当に、怜の言うとおり怯えているだけだ。
しかし、自覚してなお恭子はどうしようもできなかった。周囲からどんな目で見られているかなんて、考えたくもない。
折角入った美術館も、ろくに作品を見る余裕はなかった。徐々に徐々に、彼との距離が離れていく。
ここまで来ると、京太郎に申し訳なくなってくる。ちらりと彼の様子を窺ってみると、しかしそれでも彼は穏やかに笑っていた。
「……須賀」
美術館を出た後、恭子はおずおずと切り出した。
「はい?」
「なんで、うちなんか美術館に誘ったん? こんなうちなんかとやったら、つまらへんやろ」
自分でも酷い物言いだと、自覚する。自覚しながら、止められない。
「園城寺とか、宥ちゃんとか。尭深ちゃんでも、煌ちゃんでも。もっと楽しく、回れたんとちゃうんか。迷惑かけたんは、うちだけやないんやから」
「ん……」
京太郎は、恭子と向かい合い、それから言った。
「他のみんなには、別の形で埋め合わせをします。――でも、末原先輩とは二人きりで話しておきたかったことがあるんです」
「え……?」
「ちょっと距離がありますけど、俺のお気に入りの喫茶店があるんです。そこに行きましょう」
そう言って、ずんずん京太郎は歩き出した。恭子は慌てて彼の後を追う。
一体どこに行くというのだろうか。先輩相手には基本的に従順で逆らわない彼にしては珍しく、強引な態度だった。
辿り着いたのは、こぢんまりとしたビルの一階にある喫茶店。窓際の席は、ついたてで仕切られ半ば個室になっている。
入口の前で、恭子は立ち尽くす。
――見覚えが、あった。
あの夏、恭子は確かにあそこにいた。あそこで、アイスコーヒーを飲んだ。
あそこで、彼と出会った。
「二年前、ふらっと立ち寄ったんですよね」
「えっ?」
京太郎の言葉に、恭子は肩を震わせる。
「自分が情けなくって、凹みまくってて。色んなものから逃げてたんです」
どきどきと、恭子の心臓が痛いほど脈打つ。彼は一体、何を言い出そうとしているのか。微かな予感が、彼女を支配する。
「格好悪いって分かってても、どうしようもなかった。でも、どうして良いか分からなかった。俺は、ずっと項垂れてた。――丁度、そこの席です」
京太郎が指差したのは、窓際の席の、一番端。
やはり恭子は覚えている。二年前の夏、その隣に自分も座っていたことを。
「そこで、俺は出会ったんです。俺の馬鹿みたいな愚痴に、付き合ってくれた人と」
「あ――」
口元を、抑える。感情の奔流が体を駆け巡る。けれども言葉らしい言葉は、一つたりとも浮かび上がってこない。
「その人は、一緒に頑張ろうって言ってくれました」
そう、言った。恭子も――恭子は、言った。
「だから、俺は頑張れた。挫けていた心を、救って貰いました」
少しだけ、恥ずかしそうに京太郎は笑った。彼は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと恭子に訊ねてきた。
「あの……最近末原先輩、俺と距離とってましたよね」
「あ、そ、それはそのっ」
「何となく、理由は分かってます。智葉さんが言っていたことを、気にしてるんですよね」
「……うん」
お前は戦う人間だ。
何度も反芻したその言葉は、まるで重石のようだった。京太郎に誤った道を選ばせたのではないか、と恭子を悩ませた。
けれども、京太郎は。
彼は、はっきりと断言した。
「俺が戦う人間だって言うのなら――そうしてくれたのは、末原先輩です」
胸に広がる気持ちを、何と呼ぶのか恭子は知っている。
「末原先輩がいなければ、俺は立てなかった。とんでもない連中に、立ち向かえなかった。末原先輩みたいに、立ち向かいたいって思ったんです。俺は貴女の姿に、多くのことを教えて貰ったんです。諦めていたら、清澄が好きだって気持ちにもきっと、気付けなかった」
話にとりとめがなく、彼もまた自身の感情を上手く言葉にできていないようだった。しかし恭子はしっかりと耳を傾ける。いつまでも、彼の話を聞いていたかった。
「ずっと、お礼を言いたかった。もっと、色んなことを教えて貰いたかった。だから俺は、東帝を選んだんです。誰かのためじゃない。俺自身のために。俺が、もっと強くなって――それこそ、戦う人間だってことを示すために。……いざ末原先輩に会ったら、恥ずかしくて面と向かって言えなかったんですけどね」
半ばストーカーだし、と京太郎は苦虫を潰したような顔で呟く。恭子は首をぶるぶると横に振った。そんなことは、些末な話だった。
京太郎は、続けた。
「後悔はしていません。間違いだとも、思っていません。ここに来られて良かった。東帝の部員になれて良かった。そう、思っています」
「……全く、ほんま、なんでそんな……ほんま、あほやな」
恭子の呟きにも、まとまりはない。どうしようもなかった。
辻垣内智葉が残した言葉など、すっかり吹っ飛んでいた。
初めて会ったその日から、気になって仕方がなかった後輩。その原点が、ここにあった。ここで出会った彼と同じ声、同じ空気。――顔や名前を知らなくても、心が全てを覚えていた。気になって、当たり前だ。
彼はあの日、自分を救ってくれた人なのだ。自分の本当の気持ちを、教えてくれた人なのだ。
その人は、自分の夢の体現者として目の前に現れた。
凡人だからこそ、伝えられるものがある。伝えたいものがある。――それを受け取ってくれた人だった。
――ああ。
これ以上幸福なことが、この世にあるのだろうか。
あるはずがない。恭子は確信を持って言える。
「あんたは、ほんまあれやな」
「な、なんですか」
「あほや、あんたは」
目元を拭いながら、恭子は微笑み言った。
「あほやけど……ありがとう」
「……はい」
恭子はもう、沸き立つこの気持ちに目を背けられなかった。
君がいたから、ここにいる。
君がいたから、諦めずに済んだ。
君がいたから、いつの日か描いた夢を今に繋げた。
彼の目を覗き込む。吸い寄せられてしまう。身長差は大きく、目一杯見上げなければならない。鳴り響く鼓動の音が、うるさかった。
他には何も聞こえない。街中の喧噪はどこかに消えた。視界に映るのは、京太郎の姿だけ。彼もまた、地面に足を縫い付けられたように動かない。頬を染め、恭子の顔をしっかりと見据えていた。
「す、須賀っ」
「は、はいっ?」
名前を呼ぶ声が上擦る。呼ぶだけで、とても大きな力が必要だった。
「うちは、うちはっ」
一度認めてしまうと、もう止められない。暴走列車のように突き進む。全くもって、自分らしくない。
――だからどうした。
ここまで来て、偽る必要がどこにある。躊躇う要素がどこにある。今の自分は茹で蛸状態だろうが、関係ない。
「うちは、あんたのことが――!」
最後の言葉を告げるため、彼へと向かって歩み寄る。
恭子の口が半分開き、そして――
「キョォォォータロォォォォーッ!」
――喜色に塗れた、自分とは全く違う声と共に。
恭子の視界に、一筋の黄金の光が走った。
「うおおおっ!?」
悲鳴を上げたのは、京太郎。完全に虚を衝かれた形でありながら――流石元スポーツマンと言うべきか、横から飛び込んできた「それ」に押し倒されることなく、抱き止めた。
「な、ななななっ」
恭子もまた、突然の闖入者に激しく狼狽する。だが、飛び込んできた「彼女」は恭子に一瞥をくれることなく、京太郎の体を抱き締めた。
「久しぶりだねキョータロー! もー、最低一週間に一度は会おうって言ったじゃんー」
「ちょ、まて、なんでお前がここにいるんだよっ?」
京太郎は、あらん限りの声で彼女の名前を呼ぶ。
「淡っ!」
恭子も知っている彼女は、快活に笑う。
「それはもちろん、愛の力で!」
高校一年のときから変わらないあどけなさと愛らしさ、それでいてどこか鋭い眼光。体の一部は発育したものの、ほっそりとした体格に変わりはない。
今年度プロ麻雀界のスーパールーキーの一人、大星淡。
「私の準備はできたよ、キョータロー!」
「じゅ、準備? 何のだよっ」
「もー、とぼけちゃってー」
彼女は京太郎を見上げ、衆目を浴びながらも、宣言した。満面の笑みで、言い放った。
「結婚しよ、キョータロー!」
京太郎は声も出せずに戸惑って。
恭子の顔面が、蒼白になる。
彼女もまた声を発せず、しかし胸の内で力一杯叫んだ。
――ああああもおおおおおなんやそれええええええっ!
当然、その咆哮が誰かの耳に届くことはなかった。
Ep.6 末原恭子のアンビション おわり
愛縁航路・第一部はこれにておわりです。
(第一部が終わったからといって、何かが変わるかと訊かれれば何も変わりません)
次回以降の予定:
Ep.Ex 夢見る者たちのデイリーライフ
Ep.7 超新星はコメットガール
Ep.Exは第一部の補完エピソード・番外編(短編集)です。基本ラブコメです。