Ex-1 夜空の下で
東帝大学麻雀部部員、須賀京太郎は、大学に進学して以来最大の葛藤に悩まされていた。いや、もしかすると人生最大かも知れない。
住宅街の夜道を歩く彼の隣には、二つ年上の先輩がいた。
名前を、松実宥。
物静かでおっとりとした、お嬢様然とした女子の先輩。一緒にいるだけで、こちらまで心が暖かくなる。同時に、体温も物理的に上昇するが。
彼女の足取りは非常に怪しく、覚束ない。重心は明らかに傾き始め、京太郎の肩にどんどん寄りかかる状態になっていた。マフラーで半分隠れた顔は紅潮し、目元はとろんと眠たそうに垂れている。完全に無警戒で、京太郎との距離は縮まるばかり。
――お酒の力って怖い。
大学に入学したてで、京太郎は酒を飲める年齢ではないが、歓迎会という名の飲み会には何度も参加していた。その度に散々酔っ払う先輩や同期の姿を見てきた。しかしまさか、宥までこんなに酔いつぶれるとは思いもしなかった。
何だかんだで、宥が男子である自分としっかり距離をとっていることは京太郎も知っていた。まだまだ付き合いも浅いので、それは仕方ない。
だが今の状況はどうだ。ついに距離はゼロ、肩と肩がぴったりとくっついてしまっている。さらには掌も取られてしまった。繋がれた手を一瞥し、それから「えへへ」と笑う宥を直視できず、京太郎はそっぽを向いてしまう。
「京太郎くんの手、おっきくてあったかーい」
「そ、そうですか?」
「そうだよぉ」
さらには無警戒に腕が組まれ、ふくよかな感触はどうしても伝わってきてしまう。その正体を深く考えないようにしなければ、理性が飛びそうだった。
彼女がここまで深酒してしまったのには理由がある。
実妹、松実玄との仲違いだ。兄弟のいない京太郎にはイマイチぴんと来ないが、姉妹には姉妹の譲れない理由があるのだろう。今回の場合、玄の勘違いではあるものの、その一端を担ってしまったのが京太郎にとって不幸な出来事だった。
「宥先輩」
「なぁに?」
「明日、玄さんともう一回話してみたらどうですか。話をややこしくした俺が言うのもなんですけど」
触れる手から伝わってくるのは、微かな動揺。京太郎はたたみ掛けるように言った。
「一晩経ったらお互い頭も冷えて、ちゃんと話し合えると思いますよ」
「……うん、そうだね」
宥がしっかり頷いて、京太郎はほっとする。
「私ね、もっとしっかりしたお姉ちゃんになりたいんだ。麻雀のこと以外でも、もっと玄ちゃんから頼られるお姉ちゃんに。だから私が玄ちゃんに頼ってばかりじゃいられないって思って、東京に来たんだ」
宥の語る決意は、どこか自分と似ていて。それでいて、もっと上等だった。
「玄ちゃんはずっと待ってたから……私のこともきっと待ってくれるって甘えてた……」
「はい」
「姉妹なんだからそういうわけにもいかないよね……謝らないと……」
「きっと、許してくれますよ」
「うん……ありがとう、京太郎くん……」
「ゆ、宥先輩?」
宥の足が止まる。さらに体重がかけられ、京太郎は慌てふためいた。
――もしやこれは、そういう意味なのではないだろうか。
京太郎がそう考えるのも、無理なきことだった。最早宥が完全に無防備なのは間違いない。アルコール臭にまじって、主張されるは女性の香り。ぴったりとくっついた体。男子であれば、誰でもそこに考えが至るのは当然であった。
送り狼になっちゃ駄目だよ、という別れ際に残された注意がなければ京太郎も危うかったかも知れない。
加えて実際のところは、
「あの、宥先輩……?」
「んー……」
はっきりとした返事はなく――すぅすぅと、宥は心地良さそうに寝息を立てていた。京太郎が支えているとは言え、実に器用だ。もしや狸寝入りかとも思ったが、その気配もない。
京太郎は小さな息を零してから、ポケットからスマートフォンを引っ張り出した。
この近辺で、家の場所を知っている、今から女性を連れて押しかけても問題のない相手。選択肢は、たった一つしかない。
コール音は、三つだった。
「もしもし」
『はいはい、愛しの怜ちゃんやでー』
どこまで本気か分からない、平坦な声が受話口の向こうから聞こえてきた。
電話の相手は、園城寺怜。京太郎の二つ年上ではあるが、大学では同期の仲。そしてお隣さんである。
「すみません、今からお邪魔して良いですか?」
『きょーちゃんならいつでもウェルカム言うてるやん』
「今日はその、宥先輩がいるんですよ。かなりお酒飲んじゃったみたいで、帰ってる途中に眠っちゃって。困ってるんです」
本当のところ、おそらく怜はまだ宥と顔を合わせたくないはずだ。例の、麻雀仮面の件がある。けれども、京太郎も困り果てた末での選択だ。彼女しか頼れる人間はいない。
『……きょーちゃん。私の部屋は今、ちょっと不味いと思うで』
「な、なんですか」
返されたのは、思った以上に深刻な声。
『今、私の隣で寝とるん誰やと思う?』
「え、と、怜さんの隣で? 俺の知ってる人ですか」
『知っとるもなにも、今日きょーちゃんも顔合わせた人や』
まさか、と京太郎は頬を引き攣らせる。怜はどこか疲れ切った声で、続けて言った。
『玄ちゃんや』
◇
結局宥は、京太郎のベッドに寝かせる運びとなった。怜以外の女性を自分の部屋に入れるのは初めてで、妙な背徳感を京太郎は覚える。ベッドに横たえた途端、寝苦しそうに宥は呻き、目を背けながら胸元のボタンだけ外した。零れる彼女の吐息が指先にかかり、さらに彼の神経は削れてゆく。書き置きだけ残して、逃げるように京太郎は部屋を後にした。
向かったのは、すぐ右隣の部屋。預けられている合鍵を使い、扉を押す。
「お邪魔します、怜さん」
「おかえり、きょーちゃん」
部屋の奥から、怜が挨拶を返してくる。いつもならぱたぱたと玄関先まで飛び出してくるのに、珍しく動く気配がなかった。
「玄さん、今も寝てますか?」
「ぐっすりや、安心して入って来てもええで」
「はい」
自分の部屋と同じ1LDKの部屋は、しかし調度品から漂う香りまで全て女性のもので、雰囲気は全然違う。それでもこの半月毎日のように出入りしているせいで、すっかり慣れてしまった。
だが、今日のところは見慣れない光景が待ち受けていた。
「……何やってるんですか、怜さん」
リビングのベッドですやすやと眠っている長髪の女性は、宥の妹、松実玄。そこまでは良い。彼女の存在は、事前に聞かされていた。
問題はベッドに腰掛けて、彼女の太股に指を這わせている園城寺怜の存在である。京太郎が突っ込むのも無理はなかった。
「いや、なかなかの太股や思てな。……竜華の傍で鍛えられとるみたいや。まだまだ伸びる逸材やな、これは」
「無駄に真剣な顔で何言ってるんですか」
「なんや、ほんとはきょーちゃんも触りたいくせに」
「人聞きの悪いことは止めて下さいっ」
京太郎が怒っても、怜は何処吹く風だ。高校時代の部活の部長から始まり、年上の女性にはまるで弱いことを京太郎は自覚していたが、怜が相手でも例外ではなかった。
「それにしても、よく玄さん保護できましたね」
松実玄が東帝大学麻雀部を訪れたのは、青天の霹靂だった。姉である宥自身知らされていなかった。さらには喧嘩の果てに部室を飛び出して言ってしまう始末。呆気にとられて、止める暇などなかった。追いかけるにしても、宥が許してくれそうになかった。
「竜華から連絡あってな。トラブル起きるかも知れへんからよろしく言われてたんや。まぁ、部室から出てきて会えたんはたまたまやけど」
「そういうことですか。……玄さん、ほんとにまるで起きる気配ないですけど、どうしたんですか」
「あんまり女の子の寝顔見つめたらあかんで、きょーちゃん」
「す、すみません」
そこだけは本気で怒られて、京太郎はすぐに玄と怜に背中を向ける。くすりと怜が笑う気配があった。
「さっきまでわんわん泣いてたわ。で、晩ご飯食べたら疲れて寝てもうた。おねーさんのことで大分鬱憤溜まってみたいやけど、それだけやないんとちゃうか。なぁ、きょーちゃん?」
探るように怜が訊ねてくる。京太郎は背を向けたまま、とぼけるように言った。
「別に、宥先輩と喧嘩したってだけで何もないですよ?」
「なんで松実さんの呼び方変わっとるん?」
「う」
墓穴を掘った。些細なことでも聞き逃してくれる人ではなかった。京太郎が何も言えないでいると、怜は小さな溜息を吐いた。
「ま、ええわ。――なぁきょーちゃん。今日はどうするん? きょーちゃんの部屋は松実さんが寝とるんやろ?」
「友達の家に泊めて貰いますよ。さっき連絡したら、一人許可くれた奴いますから」
「うちに泊まっていけばええのに……とは、今日は言えんな。玄ちゃんおるし」
「いつでもそんなこと軽々しく言わないで下さい」
軽々しくなんかないのになー、と怜は、実に軽々しい口調でうそぶく。今度は京太郎が溜息を吐く番だった。
「もう行くん?」
「部屋片付けるから少し待ってくれって言われたんで。後、俺も風呂入って行きたいし」
「じゃ、一緒にうちのお風呂入る?」
「入りません!」
「あんま大きな声出したら玄ちゃん起きるで」
この人は本当にもう、と京太郎は怒りたくなる。しかし、普段の澄まし顔が可憐な微笑を作ると、何も言えなくなってしまうのだ。
それに――こうして元気な姿を見せてくれるだけで、嬉しいのも確かだ。病室暮らしの頃はあれだけ肌は青白かったというのに、今はとても血色が良い。人並みからはやや落ちるが、それでも充分健康体だ。
「どしたん、きょーちゃん。まじまじと見られたら照れるんやけど」
「なんでもないですっ」
強い言葉で言い返すと、怜はくつくつと笑った。それから、
「いつものとこ、行かへん?」
と、脈絡なく提案してきた。
「え、今からですか?」
「うん。まだ時間はあるやろ。ちょっとだけ」
「……分かりました」
怜に請われると、中々断れない。実際のところ、女性に頼まれたら大体京太郎は断れないのだが。
玄を残し、二人は部屋を後にする。昇るのは、階段。住人のみだが、この学生向けマンションは今日日珍しく屋上への出入りが許可されている。二人は最上階を通り過ぎ、鍵付きの鉄扉を押した。
冷たい夜風が頬を撫でる。東京という街においては、実にこぢんまりとした建物だ。見下ろす光景など高が知れて、自然と顎が上がる。
入居してすぐ、怜がこの場所を気に入ったのだ。以来、二人きりで度々ここを訪れていた。
「長野と違って、星があんまり見えないのが残念なんですよね」
「うん、ほんまに長野の夜空は綺麗やったわ。都会育ちやと中々見えんもん」
時折先客がいるのだが、今日は京太郎と怜の二人だけだった。ステップを踏むように怜は屋上の中央に躍り出る。その姿に目を奪われながらも、京太郎も彼女に続いた。
空に浮かぶのは、欠けた月。怜は真っ直ぐにそれを見上げる。そんな彼女に向けて、京太郎は訊ねるかどうか悩んでいたことを、思い切って口にした。
「怜さん」
「どうしたん?」
「まだ麻雀部に来る気はないんですか」
本当は今日、来てくれると思っていた。昨日、部長である末原恭子に、麻雀仮面として負けてなお怜が逃げ出したのはあの場に弘世菫がいたからと京太郎は解釈した。恭子も受け入れる旨の発言をしてくれた。ちゃんと日を改めて、来てくれると思っていたのだ。
「私はそんな安い人間とちゃうからな」
「今日、部室の近くで玄さんと会ったのはたまたまじゃないんでしょう? すぐ近くまで来てたんじゃないんですか」
「そういうとこばっか、すぐ気付くんやから」
怜は、唇を尖らせる。
「そこまで来たなら、入ってくれば良かったのに。何意地張ってるんですか。そもそも麻雀仮面に何の意味があるんですか、そろそろ教えてくれたって良いでしょう」
「嫌や」
ばっさりと切り捨てられ、京太郎は二の句を継げなくなる。その隙に怜は、京太郎の近くまで歩み寄ってきて、上目遣いで彼を見上げた。
「きょーちゃんさん」
「……なんですか」
あ、これやばい、と京太郎はすぐに気付く。自分を「きょーちゃん」ではなく「きょーちゃんさん」と呼ぶときは、大抵怜は機嫌を損ねているのだ。
「確かに私は言ったわ。末原さんに負けたら、自分から麻雀仮面や言い出すって。それで麻雀部入るって」
「で、実際負けたじゃないですか」
「負け方に、納得いってへんもん」
雀士というのは、誰も彼も負けず嫌いだ。強い者こそ、そういうものだ。負けず嫌いだからこそ、強くなると言うもの。
だが今の怜は、我が儘を言う子供みたいだった。全く以て、彼女らしくない。
「何が気に食わないんですか」
「きょーちゃんさんは自分の胸に聞いたみたほうがええんとちゃう?」
「ええー……?」
「ふん」
怜は鼻を鳴らして顔をつんと背ける。京太郎は困惑するばかり。損ねてしまった機嫌をどう取れば良いのか、分からなかった。
しかし、やがて怜はくすりと笑った。
「冗談や冗談」
「なんですかそれ。こっちは気が気でないっていうのに」
「ええやん細かいことは気にせんでも」
屈託なく笑う怜に、今度は京太郎が不機嫌になる。
「俺、もう行きますから」
怜に向かって自室の鍵を放り投げる。彼女は華麗にキャッチした。
「悪いですけど、宥先輩の様子見て上げて下さい。かなり飲んでたみたいなんで」
「はいはい。でも、変な話やな。喧嘩しとる姉妹が、壁一枚挟んで他人の部屋で寝とるなんて」
「姉妹ってのは、どこまで行っても切れない縁ってことですかね」
せやな、と怜は頷き、月を背に笑った。京太郎はどきりとした。降り注ぐ月光はまるで彼女のためだけのスポットライトみたいだった。
「私ときょーちゃんにも、あるんかな?」
「えっ?」
「どこまで行っても、切れない縁」
彼女の言葉はビルの谷間に吸い込まれてゆく。そのくらい、か細く震えた声だった。
京太郎は――誤魔化すように、視線を怜から引き剥がす。
「そうでもなければ、隣同士になってなんかいませんよ」
「それも、そうやな」
瞼を閉じて、怜はしみじみと呟く。それから彼に向かって、優しく言った。
「行ってらっしゃい、きょーちゃん」
「……行ってきます、怜さん」
「なんか新婚夫婦みたいやな」
「夫婦違います!」
顔を赤くして京太郎は駆け出す。どこまでいっても、からかわれるのは苦手だった。
◇ ◇ ◇
一人夜空の下に残された彼女は、改めて月を見上げる。
「次は、負けへんで」
聞く者はいないその決意は、誰に向けられたものなのか。
それはきっと、園城寺怜自身にしか分からない。
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